2019-02-15

ネパール・スタディー・ツアーの報告会を開催

 14日の18時から渋谷のコーププラザの会議室において、昨年11月に開催したネパール・スタディー・ツアーの報告会を開き、里親13人と2人のゲストの計15人で、2時間近く楽しく有意義な時間を持つことができた。
 会費は1人1000円で、近くのスーパーなどからアルコール類などのドリンクと、おにぎりやサンドイッチ、つまみ、みかんなどを購入してきたので、乾杯してから飲み食いしつつの場となった。
 ツアーの参加者7人のうち、会場に来ていた4人が10分ほどの報告をまずさせてもらった。団長としての私は、絶対的な貧困がネパールの里子たちに表れているとして、昨年春からなった里子の1人を紹介した。学校の門に捨てられていた少女を、やむなく学校の女性の用務員さんが引き取り、姉妹として暮らしていた。用務員さんの弟はダウン症で、それだけでも経済的に大変だろうに、さらに見ず知らずの子どもの面倒を見ている。なかなかできることではない。
 昨年夏に自殺した母親のことも、秋に訪ねて事情を聞き報告させてもらった。父親の酒におぼれ暴力をふるったことが主原因で、施設に入った可愛い2人の少女を思いだし、それは切なかった。
 他の3人もそれぞれ印象的な出会いなどを話し、全体としてこれからも継続してネパールの貧しい子どもたちを支援しようとなった。
 それにしてもネパールでは、共産党が第一党になってもこれまでにない汚職が広がって社会は混迷しているし、インフレが進んで物価が高くなり、年間1万1000円の里子支援金が、いつまでもつのか心配である。そんな中でも、物がなくても活き活きと目を輝かせて生きているネパールの子どもたちに学ぶことは少なくない。

2019-02-06

南相馬での「愛とヒューマンのコンサート」

 30日の夜に成田空港から帰宅し、リュックの荷造りを替えて31日の早朝に家を出て、埼玉からの車に乗せてもらい南相馬を目指した。常磐自動車道を北上して原発事故の近くになると、放射線の空間線量を電光表示し、最高は2.70μSv/hもあって緊張する。
 昨年に続く「愛とヒューマンのコンサート」で、今回はアルパの池山由香さんだけでなく、尺八の林真山さんも同行してくれた。このため2日間に5回ものミニ演奏会を、じっくり傍で聴くことができた。
 演奏会場には、「つながって生きていこう 愛とヒューマンのコンサート」と「生演奏は心の酸素」の看板を掲げ、さらには2018年に24歳で亡くなったフルート奏者の夢を託したバラと乙女の顔写真を飾ってある。アルパと尺八による春の海、コーヒールンバ、北の国から、コンドルは飛んでいく、糸など、1時間の演奏を楽しむことができた。アルパと尺八の共演がどうなるか楽しみだった。尺八の低音とアルパの高音がよくマッチし、何回も思わず涙が流れるほど印象深い場となった。
 2日目に訪ねた作業所「はらまちひばり」では、ちょうど誕生日の利用者がいて、アルパと尺八でハッピバースデイ・ツーユーを演奏し、サプライズに本人は驚いていた。また軽やかなリズムに合わせ、男性2人がフロア狭しとヒゲダンスなどを踊ってくれた。
 続く作業所「えんどう豆」ではさらに盛り上がり、利用者の4人の男女が曲に合わせ楽しく舞ってくれたし、後半はお礼として障がい者とスタッフによって手話の歌などを披露してくれた。
 途中で驚くことが起きた。障がい者の男の子が、踊る前に飾ってある乙女の写真に向かい、座ってしばらく合掌してくれたのである
。そのときは亡くなった女性の解説を何もしてなく、どうして気付いたのか不思議であるが、何か写真から感じて両手を合わせたのだろう。
 2人の演奏者にとっては、コンサートホールなどと異なり、目の前で全身で音楽を楽しんでもらい、あらためて自らの音楽の原点を確認することができたようで喜んでいた。
 来年もぜひまた訪問したい。

2019-02-05

ポルトガルの旅

 1月24日から30日まで、格安ツアーを使い妻とポルトガルを駆け足で旅した。かつての15世紀からの大航海時代には、スペインと競争して世界中に船を送った国だが、今はその勢いがまったくない。わずかに当時を思い出させるのは、リスボンにある巨大な「発見のモニュメント」である。モニュメントの手前の広場には世界地図があり、各国を発見して植民地化するなどし、莫大な富をポルトガルに収奪しはじめた年数を描いてあり、日本は種子島にポルトガル人が到着した年であった。それにしても「発見」とは、現地の人をバカにした表現である。発見しなくても元々平和に暮らしていたのに、多くの金銀財宝を略奪し、それが大きな寺院や装飾品になって今に伝わっているのはスペインも同じである。メキシコでは、マゼランを極悪非道人として紹介していたが当然である。
 形は少し異なるが今はドル紙幣になって世界の富をアメリカに集め、その一部を日本が受けて喜んでいる。こうしてみると大航海時代からすでに500年以上もたっているが、収奪する国と収奪される国の存在はずっと続き、人類の歴史は本当に発展してきたのか疑わしい。
 ともあれそんなことも感じながら、昼間は城壁や寺院や樹木などをスケッチし、夜は2ユーロ(260円)もしないワインを毎晩のように楽しんだ。
 写真は散策中に見つけスケッチした巨木。
根がまるで岩のようになっていて驚いた。

2019-01-24

韓国原爆展示館の高橋公純館長を囲んで

 1月23日の午後2時から都内のある会議室にて、来日中の韓国原爆展示館高橋公純館長を囲んで話を聞いた。20人の場所しか予約ができず、各界からの限定した参加者となった。それでも宮城や新潟からも含め、ワーカーズコープ、劇団、ボランティア関係者、ライター、原水協、民団など、反核平和に関心のある多彩な顔ぶれとなった。
 開会の挨拶で呼びかけ人代表として私は、高橋さんとの接点である原爆の灯と被爆ハマユウについて触れた。特に被爆ハマユウについては、まだ葉のある1株を持参して見せ、沖縄や海外にも届けていることを紹介し、「世界中をこの白い花で埋め尽くすのが夢です」と話した。なお持参したハマユウは、新潟から来た方に後の懇親会の場で寄贈させてもらった。
 高橋さんの1時間半の話は、なぜ韓国の被爆者の支援をするようになったのかから始まり、これまでに韓国だけでなく台湾を含めて取り組んできたイベントやモニュメントの話、そして最後に来年の8月6日にソウルで開催予定の被爆者向けの集会についてであった。
 朝鮮出身の被爆者は、広島で5万から7万人と長崎で2万人で、その内4万人が死亡し、2万人が韓国へ帰ったとの説が多い。健康面でも経済面でも苦しんでいる被爆者は多いが、朝鮮動乱で200万人の死者が出たこともあり、韓国で被爆はあまり大きな社会問題となっていない。さらには日本帝国主義に協力して金儲けをしたとして、地域社会から差別されていることも多い。このため被爆者として名乗り出ることを嫌がる人もいて、韓国の被爆者手帳保持者は2300人ほどである。それも平均年齢が85歳ほどになっており、高橋さんが言うには来年が最後の集いになるだろうとのこと。
 引き続き高橋さんと連携し、来年夏のイベントをぜひ成功させたい。
 これから成田空港に向かい、ドバイ経由でポルトガルへ格安ツアーで旅をし、30日夜に帰国の予定。法華経の本と原稿の資料を持参。

2019-01-21

雑草と土壌菌の生命力

 だいぶ寒くなり、今年も両足が痒くなって困っている。それも腰や腕にと広がってきた。もうすぐ70歳になるので仕方がないと、風呂上りに保湿剤を塗っていたが、ある本で体内の細胞でエネルギーをつくるミトコンドリアは、運動・空腹・寒さでより活発化すると知り、それでは冷水をかければ効果があるのではと考えた。そこで正月から風呂上りに、下半身へシャワーで冷水をかけるようにした。もちろん瞬間は凍えるが、その後で不思議なことに体がポカポカして気持ちが良いので続けている。もっとも保湿剤はそのまま使っているが、痒さはそれほど気にならなくなった。
 以前から書斎の机の上に、いつも小さな花を置いて愛でている。昨年10月に庭の菊を掘り起こして飾っていたが、さすがに暮になると花も枯れてしまった。何かの花を買ってきて入れ替えようかとも思ったが、雑草が2本も芽を出し、いつのまにか20cmほどの背丈になったし、さらには菊の小さな芽が伸びてきた。驚くべき生命力である。
 と同時に土の中で植物をサポートしている土壌菌の存在である。目に見えないから土壌菌の価値を認識する人は少ないが、自然農法家が強調するように極めて大事な存在であり、種子と土壌菌の協同で芽や葉や花や実になっている。
 人体も同じである。食べ物から栄養素を吸収していると学校では教えているが、200種類で100兆個ともいわれている腸内細菌が、食べ物と腸との橋渡しをしている。土壌菌や腸内細菌を破壊して、植物や人体の成長は期待できない。土壌菌や腸内細菌も大切にしていきたい。
 

2019-01-06

2019年を迎えて

 慌ただしく過ごしていたら、もう1月6日になった。暮に近くの寺で除夜の鐘を突き、元旦は恒例の断食をしようと昼までは頑張ったが、夕方に娘夫婦や孫たちが美酒を持って遊びに来たのですぐに断念して飲み食いした。もっとも暮からの原稿があり、そんなに飲んでもいられなかった。『たたかいのルポルタージュ第16号』には、福島原発事故による自殺者の「お墓にひなんします」の原稿もあれば、昨年12月に訪ねた沖縄は伊江島の謝花悦子さんからの平和のメッセージも執筆している。
 そうした合間に息抜きで、いくつかの映画をパソコンのユーチューブで観た。教育の大切さを説いた長岡藩の実話「米百俵」(1993年)、戦争直後の広島を舞台に原爆の非人間性を描いた「原爆の子」(1952年)、燃える青春像を描いた「若者たち」(1968年)と「若者の旗」(1970年)などである。今年はもう70歳になる自らの人生に引き付けると、いろいろと考えさせられることがあった。
 昨年94歳で他界された野尻武敏先生からは、「年ゆけば年ゆくごとに去りてゆく 時間の重み増してくる日々」と記した賀状をもらったことがある。痛いほど実感でき、何よりも残された時間を大切にしたい。
 上野の国立博物館で、長谷川等伯の松林図屏風の特別展をしていたので足を運んだ。それまでの中国の水墨画の模写でなく、日本の水墨画として高く評価され国宝にもなっている。松を描いた勢いのある筆運びもさることながら、墨のない広い空間も松林のイメージを高めてくれる。息子を亡くした晩年の等伯が、注文を受け製作したのではなく自らの意思で書きあげている。なおこの絵を理解するには、等伯も大事にしていた法華経を知ることが必要とのこと。悟りは、修行の遙かかなたにあるのでなく、その人の足元にあるとの教えで、色をいっさい使わずに自然の松林を8面屏風に昇華させている。こんなにギリギリまで研ぎ澄まされた作品創りに、私は文字でいつか挑戦してみたい。

2018-12-14

伊江島の謝花悦子さんを訪ねて

 10日の辺野古から本部港に出て、11時発のフェリーで30分かけ伊江島に渡った。ときおり小雨が強い風とともに降ってくなる中で、沖縄本島と伊江島の間の先に東シナ海が広がっている。第二次世界大戦の末期に、鹿児島を飛び立った特攻機の多くがアメリカ軍の艦船に向け散華した場所である。
 伊江島港も改修され、新しい建物が出迎えてくれた。1948年8月のことである。この港から米軍の船で運び出そうとしていた爆弾がさく裂し、実に102人もが死んでいる。近くで泳いでいた子どもたちも巻き込まれたから痛ましい。
 第二次世界大戦時に伊江島には、約3000人の日本兵と同数の民間人で計6000人がいて、米軍は約5000人を殺したとしているからその悲惨さが想像できる。島中が根こそぎ焼き尽くされ、戦後は0からの出発であった。ところが今度は米軍基地に島の6割を銃剣とブルドーザーで奪われ、島民は生きることができず米軍基地反対の闘いに立ち上がる。そのリーダーが阿波根昌鴻(アハゴン ショウコウ 1901-2002)さんで、永年側で支えてきたのが足に重い障がいのあって歩行困難な謝花悦子さん(81歳)である。
 食べ物や日用品がないなかで伊江島生協を阿波根さんは立ち上げ、そこの店長を謝花さんがしていた。やがて生協は経営が厳しくなってやむなく閉めてしまうが、反戦平和資料館としてのヌチドゥタカラの家の自費開設など、2人の功績は大きなものがある。今でも国内はもとより海外からも見学者が続き、謝花さんはその対応に忙しい。
 私は20年ほど前に阿波根昌鴻さんの本を書きたいと島にしばらく滞在して取材を重ね、10万字ほどの原稿を書かせてもらったが残念ながら形にすることはできなかった。その後も何回か島を訪ねていたが、今回は伊江島生協のことを聞いてコープ・ソリューション紙の連載記事にすることが目的であった。庭には以前に持参した被曝ハマユウがしっかり根付き、春には白い花を毎年咲かせていると謝花さんも喜んでいた。
 謝花さんの大切にしているのは命・健康・平和の3つであり、1時間半ほど熱く語ってくれた。別れるときに、「私も齢なので次にいつお会いできるかわかりませんが、西村さんもお元気で」と謝花さんは言って、私の両手をしっかりと握ってくれた。柔らかい手であったが温かかった。
 港の近くにある阿波根昌鴻さんの亀甲墓を訪ねて手を合わせ、16時のフェリーで伊江島を離れた。戦中戦後の日本の
歴史が凝縮した伊江島には、人間らしく今も生きる人間が確かにいる。

 下の服は資料館の入口に展示してある子ども服で、戦争中に日本兵が泣き声をおさえるため母親の抱いている少年を殺したときのもの。