西村一郎活動日誌
2012-04-21
久々の故郷高知
妹英子の長女智香の結婚披露宴があり、久しぶりに4月15日から19日まで故郷の高知へ帰った。15日の日曜日は、竜馬空港からバスで市内へ入り懐かしい日曜市を散策した。手作りの「よもぎ餅」を買い、高知城の下でスケッチをしつつ食べた。
16日に土佐市天崎の親類4軒を、東京からの手土産持参で訪ねる。81歳になる叔父が、最近検査入院したとのこと。驚いたことに検査前は食欲もあり自分で普通に歩いていたそうだが、1週間の検査で食べることができなくなり、寝たきりになってしまっている。いったいどんな検査をしたのだろうか。手足が骨と皮になってやつれた叔父を見て、病気を診て人間を観ない「医師」にムラムラと怒りがわいてきた。
40人ほど集まったメイの披露宴では、乾杯の音頭をとらされて、東北の震災の話に触れつつ、二人の門出に当たり祝いの言葉として、よく言われる「一心同体」は子どもを作るために必要だが、土佐のいごっそうとしては互いの違いを認め合う「二心異体」も大切だと話した。どこまで通じたのか不明。ともあれ二人のこれからに幸多かれ。
2012-03-29
『悲しみを乗りこえて共に歩もう』の3刷りが
宮城県の震災復興において、協同を大切にした取り組みを昨年6月から12月まで現地を訪ねて取材し、1周年に合わせてあわただしく『悲しみを乗りこえて共に歩もうー協同の力で宮城の復興をー』出版させてもらった。前作の『協同っていいかも?』が遅れに遅れて11月となったため、自由になった身とはいえアクロバットのような綱渡りであった。
やっと出版できたと喜んだものの、人名にミスのあることがわかり真っ青。すぐに本人へ電話して謝った。それでも各地での反応は良くて、先週には二刷りの連絡があり、さらには一昨日は三刷りするとのことで驚いた。
やっと出版できたと喜んだものの、人名にミスのあることがわかり真っ青。すぐに本人へ電話して謝った。それでも各地での反応は良くて、先週には二刷りの連絡があり、さらには一昨日は三刷りするとのことで驚いた。
2011-10-25
やっと「協同っていいかも?」を出版
約2年かけて愛知県は南医療生協を足げく訪ね、やっとのことで「協同っていいかも?」(合同出版 定価1400円)の出版にこぎつけることができた。この間に20回は現地を訪ね、100名近い方から面白い話をいくつも聞かせてもらった。ガンの末期で最後のコンサートを開いた方を、看護師や職員がサポートして成功させたこと、高齢の女性の自主性を大切にして認知症が大きく改善したグループホームなどなど、それらにはいくつもの協同の輪がある。
南医療生協の50年は、「協同っていいかも?」と組合員や地域へ常に呼びかけ、それに「協同っていいよ!」と実践で応えてきた歴史でもある。誰かにお願いする要求追求でなく、協同を大切にした要求実現の実践と教訓は、地域社会に貢献する協同組合や生協の1つの確かな道を示していると信じている。
国連が2012年を国際協同組合年と定めたことにより、我が国でも協同組合や生協に関する議論が活発化することだろう。協同組合の原点を問うこの本は、おかげさまで国際協同組合年認定事業に登録させてもらったので、生協運動の普及にもいくらか貢献できることを念じている。
2011-09-25
被災地に育て仙台白菜
津波で被害を受けた田畑は、塩害で作物が育たない。そこで土を入れ替えて、かつ塩分に強い仙台白菜を育てて商品化するプロジェクトが「みやぎ生協」で始まった。名付けて仙台白菜プロジェクト。訪ねた生産地は、宮城県石巻市矢元のある農家。水田と畑の全てで作物を作ることができなくなり、ご主人は市内のガレキの撤去作業でバイトをしている。それでもどうにか農作業をしたいと、この仙台白菜に挑戦した。仙台白菜は、戦前まではよく作っていたようだが、その後は商品化されていない。今回はそうした伝統野菜をJAと生協で復活させ、さらには仙台のある高校の調理科が協力して、漬物でなくケーキなどの新しい商品にチャレンジするというから楽しみである。
順調にいけば11月中旬には収穫することができるそうで、ぜひうまくいって欲しい。
順調にいけば11月中旬には収穫することができるそうで、ぜひうまくいって欲しい。
2度目の気仙沼
7月31日に仙台へ入り、民俗学者で地元学を提唱されている結城登美雄さん宅を訪ね、生産者に寄り添う大切さを教えてもらった。8月1日は、朝「みやぎ生協労組」の赤松委員長の車で石巻に入り、蛇田店の伊藤店長、大和地域代表理事、共同購入石巻支部の斉藤支部長、「こ~ぷのお家」の丹野施設長に会って、震災後の取り組みを聞いた。沿岸部が沈下し、生協の1つの店は満潮時に冠水するので閉店になっている。次回にゆっくりと時間をかけて石巻に入る予定で、翌日の2日早く南三陸町に向かい、志津川漁協とある組合員さんを訪ねて話を聞いた。
夕方に気仙沼に入り、三浦支部長や春日地域代表理事に会って、今回の取材について協力をお願いした。その後6日まで組合員集会室に滞在させてもらい、水産業者、仮設住宅、復旧を目指す会社、避難所、図書館などを訪ねて聞き取りなどをした。5月のときに比べると、ガレキはだいぶ撤去され異臭も少なくなっていたが、それでもまだ復旧にはほど遠い。
それでも嬉しかったのは、街のあちこちに咲くヒマワリの花である。支援者が市民を元気づけようと、ヒマワリの種を贈ってくれたようで、それは街が明るくなっていた。
夕方に気仙沼に入り、三浦支部長や春日地域代表理事に会って、今回の取材について協力をお願いした。その後6日まで組合員集会室に滞在させてもらい、水産業者、仮設住宅、復旧を目指す会社、避難所、図書館などを訪ねて聞き取りなどをした。5月のときに比べると、ガレキはだいぶ撤去され異臭も少なくなっていたが、それでもまだ復旧にはほど遠い。
それでも嬉しかったのは、街のあちこちに咲くヒマワリの花である。支援者が市民を元気づけようと、ヒマワリの種を贈ってくれたようで、それは街が明るくなっていた。
2011-08-08
気仙沼の旅
5月に続き2度目の気仙沼に入った。今回は5泊できたので、被災者からの聞き取りや視察もゆっくりできた。ガレキの撤去が進み、異臭もだいぶ少なくなっているが、仕事そのものがなくなっているので復旧にはまだかなりの時間がかかりそう。
まだいくつか避難所があり、プライバシーを守るため小型のテントを体育館の中に設置し、これで家族が暮らしている。狭いし暑さも大変だろう。仮設住宅もいくつか見た。宮城県では大手の住宅メーカーに発注し、どこも同じ樹脂と金属製のプレハブで、断熱材もなくて日中は外より暑い。洗濯物を干す場所がわずかで、家族で暮らす人は困っていた。先の見通しが立たず、高齢の夫婦が最近心中したそうだ。他の高齢の女性は、家族同様に可愛がっていたペットの猫を殺し、自分も死のうとしたが失敗して、今は1人で仮設にて暮らしている。聞いていて、何ともやるせない気持ちに何度かなった。
魚市場も訪ねて話を聞いた。岸壁にある市場は地盤沈下に対応して約1mのかさ上げをしているが、それでも満潮時には海水が入る。カツオの水揚げは再開されているが、冷凍や冷蔵の大型倉庫が全滅しているため、水産加工がまったくできずに生での流通のみ。関連する仕事ができるようになるためには、まだまだ時間がかかる。
みやぎ生協の春日地域代表理事から借りた自転車で、取材や被災地まわりをした。沈下して海水の大きな池になっている場所で、魚が泳いでいるのには驚いた。津波は道路のアスファルトもいくつかの場所で剥ぎ去り、ダンプが走ると
土埃が舞い上がって目が痛い。
それでも市内のあちこちに咲くヒマワリの花にホッとした。支援者から元気になって欲しいとの願いで届いた種が、各地で咲きはじめていた。こういう支援もあるのかと嬉しくなった。数は少ないが、仕事を再出発させた人もいた。
まだいくつか避難所があり、プライバシーを守るため小型のテントを体育館の中に設置し、これで家族が暮らしている。狭いし暑さも大変だろう。仮設住宅もいくつか見た。宮城県では大手の住宅メーカーに発注し、どこも同じ樹脂と金属製のプレハブで、断熱材もなくて日中は外より暑い。洗濯物を干す場所がわずかで、家族で暮らす人は困っていた。先の見通しが立たず、高齢の夫婦が最近心中したそうだ。他の高齢の女性は、家族同様に可愛がっていたペットの猫を殺し、自分も死のうとしたが失敗して、今は1人で仮設にて暮らしている。聞いていて、何ともやるせない気持ちに何度かなった。
魚市場も訪ねて話を聞いた。岸壁にある市場は地盤沈下に対応して約1mのかさ上げをしているが、それでも満潮時には海水が入る。カツオの水揚げは再開されているが、冷凍や冷蔵の大型倉庫が全滅しているため、水産加工がまったくできずに生での流通のみ。関連する仕事ができるようになるためには、まだまだ時間がかかる。
みやぎ生協の春日地域代表理事から借りた自転車で、取材や被災地まわりをした。沈下して海水の大きな池になっている場所で、魚が泳いでいるのには驚いた。津波は道路のアスファルトもいくつかの場所で剥ぎ去り、ダンプが走ると
土埃が舞い上がって目が痛い。
それでも市内のあちこちに咲くヒマワリの花にホッとした。支援者から元気になって欲しいとの願いで届いた種が、各地で咲きはじめていた。こういう支援もあるのかと嬉しくなった。数は少ないが、仕事を再出発させた人もいた。
2011-07-14
台湾の旅2
台北市内の2.28公園を訪ね、2005年に日本から運んで寄贈した被爆ハマユウに再会した。2.28とは、戦後に蒋介石が大陸から台湾に逃げたとき、多数のそれまでの台湾で活躍していた人たちを虐殺した事件を指す。まだ全貌が解明されておらず、どれだけの人が殺されたのかもわかっていないようだ。まだ台湾では戦後が続いており、そこで被爆ハマユウは「和平花」として公園の一角にある記念館の入り口近くに植わっている。台湾語と英語の解説文付きの大きな掲示板や、何と散水器も設置されており、大切にされていることがよくわかった。
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