2018-04-23

野原敏雄先生の生前葬(想)に参加

 4月22日に名古屋にて、以前からお世話になってきた野原敏雄先生の生前葬(想)があり参加した。88歳の先生は、地域を大切にした地理学の専門家であると同時に、中京大生協の理事長や協同組合学会の会長などを歴任し、協同組合や生協の理論化にも尽力されてきた。それらは、『現代協同組合論』(1996年)、『友愛と現代社会』(2011年)、『友愛と協同についての覚え書き』(2017年)に収れんされており、それぞれ読み応えがある。
 集いは14時からであったが、12時に会場で先生に会って人生哲学をじっくりと聞かせてもらった。事前に電話やメールで聞き取る内容は相談していたが、何と各項目に応えてA4版1枚のレジメを作ってきてくれていたのには恐縮した。子どもの頃の家庭がたいへん貧しくて苦学したことや、教職となった大学で不当な扱いを受けて仲間と闘ったことなどが、先生の人柄の基礎となり、かつ長年追い求めてきた友愛原理と協同思想にもつながっている。それらを原稿化して6月号のコープソリューション紙に掲載する予定。
 生前葬にはじめて参加させてもらい、100人近い多彩な顔ぶれにまず驚いた。テーブルは、①協同組合、②地理学、③出身の名古屋大学、④教えていた中京大学、⑤住民運動・文化活動、⑥市民運動・まちづくり、⑦中津川市、⑧鷹ノ巣とあり、それぞれに十数名が座った。
 「千の風邪になって」「平城山」「愛 燦々」の独唱の後、神官と一緒に入場した先生は、自己紹介の中で自分の墓を共同墓地とし、そこの碑文に自作の「仰岳俯峡 生一瞬 真守歳々 人通天」としたことを話していた。
 参加者のスピーチは、生協や大学関係者の他に、太陽光発電ネットワーク、農業小学校、地域の住民運動、文化運動などとそれは多彩であった。
 5時に記念写真を撮って楽しい集いは終わり、近くの会場へ二次会の場を移し、そこに30人ほどと合流した。名刺交換させてもらいながら、8時過ぎまでビールを飲みつつ有意義な交流をすることが出来た。

2018-04-06

ルポルタージュの恩師 柳沢明朗さん逝去

 まだネパール・ツアーの疲れがとれずスッキリしない時に、思いがけない訃報が届いた。所属する現代ルポルタージュ研究会の長年の顧問とし、社会の見方やルポの書き方などについて、それは厳しくもありまた優しく話してくれた柳沢明朗さんであった。
 届いたのは断片的な情報で、関連する人に電話を何本もかけ、やっとだいたいのことが分かってきた。それらによると、柳沢さんは4月5日午前3時に入院先で、肝臓がんのため亡くなった。84歳。本来であれば今後の対応をする奥さんは、何と1月に骨折で入院して7月までかかるというから無理で、とりあえず家族葬を予定しているそうである。
 私がルポ研に入れさせてもらい柳沢さんに会ったのは、1980年に友人が鉄道自殺をしてすっかり落ち込んでいた頃である。それまでは小説などを書いていたが、社会と切り結び事実で語るルポの魅力にはまり、毎月の例会やその後の飲み会がそれは楽しみであった。それらが1986年のルポによる処女作へとつながり、今の私にもなっている。
 あくまで社会の弱者の側に立ち、とにかく足を使って現場へ入って書き続けること。教えてもらったルポの基本を、これからも大切にして東日本大震災の復興などを描き続けたい。
 いつの日か天国とやらで再会したとき、書き方がまだ足りないと叱られずにまた美酒を飲み交わしたいものだ。いや、哲学者の池田晶子の説に従えば、柳沢さんの体は確かになくなったかもしれないが、もともと目に見えない柳沢さんの本質はなくなっていない。少なくとも私の魂の中でこれからも一緒に生きていくので、これからもよろしくお願いします                     
 ともあれほんとうに長い間ありがとうございました。合掌      
(写真は2015年5月に横須賀の柳沢宅で)

2018ネパール・スタディ・ツアー4 チベット難民キャンプを訪ねて

 カトマンズ市の隣の町パタンには、チベット難民のキャンプがあり訪ねた。故郷のチベットを迫害からのがれるためやむなく離れ、危険なヒマラヤ山脈を越えてきた人々が、助け合って集団で暮らしている。その数はネパール全体で2万人もいるとのこと。10年ほど前に訪ねたポカラの同キャンプもそうであったが、羊の毛から糸を紡ぎ、染色して織物を作って販売し生活費にあてている。落ち着いた色と素朴な柄のしっかりした織物で、孫娘が1つ欲しいとのことで買ってあげた。
 工房では、年配の女性たちが担当の作業を黙々とこなしていた。毛の塊から糸を紡ぎながら廻している糸車に巻いていた70歳の女性は、この作業を55年間も続けていると話していた。インドにいるダライ・ラマ14世のいる地をこれから目指すのかと聞くと、すでに会ってからこのネパールにまで引き返してきたとのことで驚いた。チベットに戻りたいだろうが、戻ればばどんな仕打ちを受けるか分からないので、このままネパールで過ごすのだろう。
 それにしても月収の平均が1万円ほどの貧しいネパールにおいて、さらに経済的に困っているチベット難民を受け入れて共存している。なかなかできることではないが、これが人間のあるべき助け合いだろう。

 

2018ネパール・スタディ・ツアー3 山村での水供給施設

 30人ほどの里子が暮らすチョーバス村では、2年前の大地震によって谷の湧き水を溜めて集落へ流す施設が壊れて困っていた。子どもを支援しているNPOのHEENEP(Healthy Education and Environment Nepal)に聞くと、50万円あればとのことであった。箱物だけの支援に私は抵抗があるが、水運びは子どもや高齢者の役目であり、施設ができれば子どもの遊びや勉学の時間も増えるので意義があり、この金額を2年前に私は預けていた。
 ところがなかなか着工せず、昨年の打ち合わせでハッキリしないのであれば私は支援を止めるつもりであったが、村の行政の支援と村人の労力提供が決まって工事は昨年の秋から一気に進んで完成した。湧き水用と中間用のコンクリート製タンクを設置し、樹脂製の親指ほどの長いパイプをはわせて集落の近くまで水を運んでいた。
 式典に集まった村人に施設の感想を聞くと、ある男性の老人は、これまで水運びで30分かかっていたのが5分ですむようになって助かっているとのことであった。子どもの勉強時間が増えたかは分からないが、少しでも暮らしに役立っているようで安心した。
 HEENEPからタンクにプレートを付けたいとの提案が半月ほど前にあり、文面を送付してきた。そこにはHEENEPのロゴマークの下に、HEENEPと私の支援とあったので、村人を加えた3者での協同によって完成したとの文面にしてもらった。
 もっとも今は乾期であり学校を含めて朝の3時間ほどしか給水はできないが、5月からの雨季になるといつでも水が流れるとのことであった。施設には、これから永い期間のメンテナンスが必要である。ぜひ協同して大切に管理してほしいものだ。

 
 

2018-04-05

2018ネパール・スタディ・ツアー2 貧困の中でも元気な子どもたち

 ダリットとは、ネパールにおけるカースト制の最下層であり、法律では禁じられているが現実には身分差別として色濃く残り、仕事が制約を受けて収入も少ない。そうしたダリットの子どもたちが通う小学校を訪ね、昨年も会った女性の校長先生に子どもたちの話を聞いた。昨年からここの学校で3人の子どもを支援していたが、新たに3人を支援したいと申し出ると、最初に紹介を受けたのが学校の女性用務員さんが育てている捨て子であった。何と2年前に酔っ払いの男性が来て、学校の前に幼い少女を捨てていき、それからというもの用務員さんが世話をしている。学校裏の境内にある用務員さんの小屋を訪ねた。狭い1室には、用務員さんの弟が寝ていて、風貌からダウン症のようであった。姉と弟だけの暮らしでも安月給で大変だろうに、それに捨て子を加えた3人だからかなり質素な食事をしていることだろう。1年生の幼い子どもは用務員さんを「お姉さん」、用務員さんは子どもを妹とそれぞれ呼んでいて、それを目の前にしたとき思わず私は涙が流れそうになった。用務員さんは、まるで観音様のような優しい顔をしていた。素敵な女性はどこにでもいるものである。

 2人目として紹介を受けた少女は、両親が広い寺のトイレ掃除をしていた。何か所かあるトイレの1つの横に、4畳ほどのレンガ造りの部屋があり、そこで親子4人が暮らしていた。収入はトイレの利用者が手洗い場に置いていく5円や10円といった小銭で、さすがに聞けなかったが月によくても数千円程度であろう。日本から持参した鯉のぼりを、同行した私の孫娘が少女にプレゼントすると、母親の抱いている妹が欲しがっていたので少女は渡してあげた。鯉のぼりは、子どもの健やかな成長を願う日本の伝統的なシンボルであり、ぜひ部屋に飾ってくださいと両親に伝えた。


2018-04-04

2018ネパール・スタディ・ツアー1 元気な子どもたち

 3月27日から4月4日まで、今度中2になる孫娘を含め8人で今年のネパールスタディツアーをしてきた。
 今回の旅では、以下のことが私にとっての目的であった。
 ①11年間支援してきたサンギッタちゃんが、この春に無事12年生を卒業するので、新しい里子2人を紹介してもらい決める。
 ②材料費を提供させてもらったチョーバス村の水供給施設の完成を確認する。
 ③カースト制の最下層の独自子ども支援で、昨年決めた3人の子どもに会う。
 ④これらの里子支援をしている現地の2つの市民団体との打ち合わせをする。
 ⑤こうした取り組みを13歳の孫娘にも触れてもらい、社会を考える1つにしてもらう。
 
 いろいろと工夫して私は、2つの市民団体を通してこの春から計8人の子どもをサポートすることになった。2つの団体にそれぞれ75万円の基金を積み、銀行に預けて年利が10%と12%もあり、所得税は10%かかるが、受け取る金利がどちらも約7万円にもなる。児童の1年間の勉学費は、服や靴などを含めても約7000円であり、これだけの金利でかなりの里子を支援することができる。多くの里親は、年間1万1000円で支援を継続しているが、私は自らに何かあったときにでも里子や市民団体に迷惑をかけたくないので基金にさせてもらっている。
 カトマンズから車で30分ほどのキルティプル市郊外にある山村では、2人の少女の里子ができた。はげ山で湧水もなく、雨水だけで荒れた畑において育つのはトウモロコシと少しの野菜。それも育ちが悪く、狭い畑で自給できるのは家族の数か月分だけ。後は平地の大きな農家の手伝いで日当が300ルピー(約300円)や、家造りのレンガ運びなどで500ルピーなどの収入を使って必要な食費などにしている。それも雨が降ると仕事はなく、月収にすればせいぜい5000ルピーほどだろう。これではいくら物価が安くても、4人や6人の家族を養うのは大変である。ある子の家では、水も電気もまったくなかった。小屋の中に台所らしき場がないので母親に聞くと、外にある薪を積んだトタン屋根の下に、鍋が2つ転がっていた。一段下の場にあるブロック積みの小さなトイレには、ドアはなかった。
 そんな中でも子どもたちは、瞳をキラキラさせながら元気いっぱい暮らしていた。

 

2018-03-25

花見に想う

 桜の花の季節となった。各地から開花の便りが届き、中でも故郷の高知からの日本いち早い知らせは嬉しかった。昨日、夕方から上野で知人と会う用事があったので、少し早く出かけて上野公園を散策した。満開の桜も素敵だったが、とにかく凄い人だかりに驚いた。
 いつもであれば私も缶ビールでも飲みつつ桜を愛でたいところだが、今年はそのような気分になれなかった。この2月に亡くなった石牟礼道子さんの、「花の文をー寄る辺なき魂の祈り」を想い出したからである。水俣病で亡くなった少女きよ子の母親が、石牟礼さんに語ったという内容である。歩くことのできない少女が庭にはって降りて、泥まみれになった不自由な手で桜の花びらを愛でていたことがある。そのことを石牟礼さんに、母親はこう話したという。
 「それであなたにお願いですが、文ばチッソの方々に書いてくださいませんか。いや世間の方々に、桜の時期に花びらば一枚、きよ子のかわりに拾うてやって下さいませんでしょうか。花の供養に」
 世間の一人である私も、母親の痛いほどの気持ちを感じたし、桜の花びらを通して水俣病で亡くなったきよ子とその母親、そして石牟礼さんの魂に触れることができた。

 公園で人の波を避けてたたずんでいると、大きな石碑の陰にホームレスの男性が座っているのに気付いた。すぐ目の前で酒盛りしつつ楽しんでいる人々は、誰一人として気にしていない。ボストンバックと白いビニールを被せた手押し車が横にあった。どんな人生を過ごしてきた方なのだろうか。