2017-12-10

新鋭のジャーナリストたち 第23回平和・協同ジャーナリスト基金贈呈式 

 12月9日の午後に、第23回平和・協同ジャーナリスト基金賞の授賞式が日本記者クラブ大会議室であり参加した。活字部門35点と映像部門39点の74点から、以下の8点が入賞した。
 基金賞(大賞)1点:RKB毎日放送製作のドキュメンタリー映画「抗い 記録作家林えいだい」 
 奨励賞 
 ①沖縄タイムス社取材班の連載「銀髪の時代『老い』を生きる」
 ②シンガーソングライター、清水まなぶさんの「追いかけた77の記憶 信州全市町村戦争体験聞き取りの旅」(信濃毎日新聞社)
  ③西村奈緒美・朝日新聞記者の「南洋の雪」(朝日新聞高知版連載)
 ④株式会社パワー・アイ(大阪市)製作のドキュメンタリー映画「被ばく牛と生きる」(松原保監督)
 ⑤広島市立基町高等学校創造表現コース・美術部の「被爆者の体験を絵で再現する活動と10年間の作品集」
 ⑥望月衣塑子・東京新聞記者の「武器輸出及び大学における軍事研究に関する一連の報道」 
 審査委員賞 ジャーナリスト、梅田正己さんの「日本ナショナリズムの歴史」全4巻(高文研)
 市民のカンパで成立しているこの基金賞に、私は2012年の第18回で奨励賞を受賞させてもらい、副賞の楯を書斎の棚に飾ってある。
 受賞者の5分ほどの挨拶がいつも楽しみである。
 「伝えられない歴史は繰り返される」
 今年83歳で惜しくも他界された林えいだいさんは、ふるえる指に鉛筆をテープで巻きつけて書いていたとのこと。
 シンガーソングライターの清水まなぶさんは、聞き取りした重い言葉にメロディーを乗せて懇親会で披露してくれた。
 広島市立基町高校の美術の先生も来ていたので、生徒たちが被爆者から聞き取りして描いた絵の冊子を、できれば韓国の原爆資料館に寄贈させてもらえないかと相談して了解を得た。
 たとえ無名でも、ジャーナリストとしてコツコツと事実に向き合っている人が各地にいる。私も志を忘れることなく、これからも文字と歩みたい。

2017-12-07

障がい者の5kmウォーキングに参加

 快晴の続く3日は、朝から「第30回野馬追の里 健康マラソン記念大会」と同時に「第12回ウオーキング大会」があり、後者は子どもや障がい者向けであった。
 7時にホテルを出て自転車を走らせ、7時半には会場の雲雀が原祭場地のすぐ前にある作業所「ほっと悠」に着いた。広い祭場地は毎年のように野馬追の勇壮なレースをする場で、2年前に私はそこで観戦したこともあった。
 ほっと悠で少し待機して準備し、集まった障がい者と職員の17人と一緒に会場へ入った。当日の受け付けがあったので、5kmのウオーキングを申し込んで参加費の500円を払って記帳し、「9482」の緑のゼッケン・記念のタオル、ペットボトルなどを受け取った。
 定刻の8時30分に5kmのグループは出発し、祭場地から西に向かう道に沿い長い列になって歩き出した。中には視力が悪くて白杖を手にして伴走者が横にいる人もいれば、車椅子に乗って後ろから押してもらっている方もいた。
 途中で「苦労して歩いて、どんなことが楽しいですか?」と聞くと、「いつも移動するときは車なので、自然の中を歩くのは嬉しいです」とのことであった。ガラス窓こしでないから、風や香りなども感じることができて嬉しいのだろう。同じウオーキングでも、人によって楽しみ方はいろいろである。
 途中の太田神社でトイレ休憩し、5kmの行程を終えて出発点に戻ってきたときは10時近くになっていた。ずっと歩いていると、防寒着の中は少し汗ばんでいた。
 ゴールすると1人ひとりが完歩証を受け取り、また温かい豚汁があって一息つくことができた。
 
 ウオーキングの後で、精神に障がいを持ちながらも職員としてりっぱに仕事をしている男性の話を聞かせてもらった。今も病気は完治せず毎日のように薬を飲んでいるが、自分の限界を自覚できるようになり、パニックになる前に休んで自己コントロールしている。職場の配慮や環境を整えることで、障がいを持った
人が職員として責任ある仕事をできるわけで、ぜひもっと増えてほしいものだ。

2017-12-06

障がい者のスポーツ交流会 今年最後の取材

 12月1日から南相馬市へ入った。インターネットで検索した格安のホテルは、南相馬市原町の市街地からかなり離れた小高い丘の上にあった。懐中電灯の明かりで持参した折り畳み自転車を走らせるのは注意を要したが、40分ほど走り到着したときはホッとした。1泊3500円でありがたかったが、何と夜と朝の2食付きで驚いた。
 2日の朝から市内の体育館で障がい者スポーツ交流会があり足を運んだ。市内にある7つの作業所から、百数十人ほどの障がい者や職員が集まり、10時から14時までボッチャーや玉入れや車いすリレーを楽しんだ。
 ここに山形の市立第十中学校から、芋煮の差し入れが今年もあって、責任者から聞き取りをさせてもらった。中学の生徒たちは、南相馬のいくつかの作業所で作っている缶バッジを今でも地元で販売し、またたくさんの年賀状を書いて交流している。生徒会だけでなく、PTAや学校もそれぞれ支援で動き、よく継続して活動していると感心する。
 今回は中型のバスにPTAや教師など17人が乗って山形を朝出発し、持参した芋や牛肉やコンニャクなどを使い、体育館の入口に置いた大きな鍋で芋煮を作ってくれた。できた最初の一杯を「どうぞ」と言われたのでいただくと、ダシもよく出ていて冷えた体にそれは美味しかった。
 昼飯のときに、参加者には弁当と一緒に温かい芋煮を食べた。中にはスポーツよりも、この芋煮を楽しみにしている障害者もいた。車椅子の人も玉入れの輪に加わり、投げることはできなくても歓声の中で一緒に楽しんでいた。

2017-11-27

生協と生協人の在り方は?~大阪いずみ市民生協問題20年目に考える~

 11月25日の午後に都内で表題のシンポジウムを開催させてもらい、沖縄や九州を含め52人もの参加で熱気ある議論をすることができた。20年まえに大阪いずみ市民生協において、代表権を持つN副理事長が、億単位の私物化や、さらには女性職員や組合員理事へのセクハラなど、生協として信じがたい暴挙があった。これに怒った3人の職員が内部告発し、それに対して理事会は解雇2名と長期自宅待機1名で応えた。事実が公になり、告発者の3人を支援する動きが拡がり、私はその全国組織の事務局長として微力ながら支えさせてもらった。
 裁判は画期的な勝利をおさめ3人は職場復帰したが、裁判の終了と同時に全国の支援運動も終わった。裁判はあくまで弁護士が中心であり、生協人としての主体的な問題の掘り下げは不十分のままであった。そこで20年後の今、大阪いずみ市民生協問題を入口にし、これからの生協や生協人の在り方を考えることにさせてもらった。
 シンポの前半の1時間半は、告発者3人や当時のちばコープ高橋理事長から、いずみ問題とは何であったのかリアルな報告を受けた。
 後半はまず私が30分で「生協における働き方を考える」とし、①日本における働き方、②大阪いずみ市民生協で問われた働き、③課題で触れさせてもらった。自分の頭で考え働き、1度しかない人生を悔いなく生きることが大切で、ある調査では終末期の人の70%がチャレンジしなかったことを後悔していることや、私自身の生協人としての働きも紹介させてもらった。
 続いて「大阪いずみ市民生協で問われた課題」として元日本生協連矢野専務が30分で、①1990年代後半・生協危機、②いずみ生協事件の深刻さ、③ガバナンスの課題、④職員と労組の役割り、⑤内部告発と不当解雇、⑥日生協&生協労連の役割りと限界、⑦民主団体・弁護士の対応、⑧20年の変化と残されている課題に触れた。日本全体の景気が大きく悪化するであろう2020年に、再度生協の在り方が問われることになり、いずみ事件の教訓を噛みしめる必要があるとの指摘であった。
 休憩の後は、参加者との議論を5時まで熱くし、関わった生協人だけでなく弁護士や学者などからも率直な意見交換をすることができた。その後の懇親会には33人もが参加してくれて、美酒を飲みながら楽しく懇談することができた。美味しいお酒を味わうことができた。
告発した勇気ある3人梅渓・坂田・内田さんと

 

2017-11-19

踊る96歳の母 高知に帰省し

 11月13日から17日まで高知の実家に帰省した。96歳になる母は、この春先から市内の老人施設でお世話になっていたが、何と11月10日から家での暮らしに2か月ほど復帰することになった。そのため段差をカバーするなど家の改装などもあり、また何もできないが長男としての責任もあって、今後のことを兄弟で相談したいとも考えた。
 在宅で週に3回(月、水、金)はデイケアを使う。弟は実家にいるが、ビニールハウスでのキューリ栽培が忙しい今は、朝4時に出て帰りは夜の8時や9時で、とても介護などできない。実家の近くに住む妹が、仕事の前と後で寄ってくれて、食事や薬などの世話をみてくれている。
 足腰がだいぶ弱った母は、それでも伝い歩きはできる。以前から熱心な信仰があり、前は毎朝のように大きな神殿の前に正座し、長い祝詞をあげていたが今はそれもない。それでも3日目の夜に夕食の後で、妹と3人でおしゃべりをしていたときのことである。桂浜の近くを車で走るとき、いつも「南国土佐を後にして」を一緒に歌っているというので、ぜひ聞かせてと頼んだ。最初は嫌がっていたが、妹と私が手拍子して歌い出すと母も歌い出し、さらには急に立ち上がって踊りだしたのには驚いた。他にも「めんないチドリ」を歌い踊ってくれた。背中を伸ばし、軽やかに回転もした。
 さすがに翌朝に母は、「疲れた」と言っていたが楽しそうであった。長年苦労をかけた母である。いつまでも元気でいてほしい。

 17日の昼前に、弟の車で空港へ向かう途中で南国市の物流団地にある生協のセンターを訪ね、その一角にある特例子会社ハートフルコープこうちを訪問した。若い障がい者5人が、生協の共同購入で使うプラスチックの箱の清掃をしていた。段ボール紙などの資源化なども来年には事業にし、より多くの障がい者の雇用を予定しているとのこと。生協の社会的役割発揮のためにも、ぜひ障がい者支援を強めてほしいものだ。
 

2017-11-12

世界の核災害

 11月12日の10時から18時30分まで、都内で「世界の核災害に関する研究成果報告会」があり、それも無料でそれぞれ第一線での研究者12人の報告とあり参加した。テーマは下記と多彩で100人ほどと一緒に最後まで聞いた。
 ①ウラル核惨事、ウィンズケール火災事故、ウラジオストク原潜臨界事故の顛末
 ②マーシャル諸島米核実験の「その後」
 ③仏領ポリネシアでのフランス核実験と公式報告に観る放射能汚染・被ばく状況
 ④セミパラチンスク住民の核実験に対する認識について
 ⑤核被害者への援護制度
 ⑥ABCCと米原子力委員会の被爆者調査
 ⑦放射線の継世代(遺伝的)影響研究の現状と問題点
 ⑧事故31年、チェルノブイリ高濃度汚染地域の内部被ばく
 ⑨誰がどうやって事故を収束したか?~チェルノブイリ・東海村・福島の現場で~
 ⑩英国の核災害時緊急事態対応体制から学ぶ
 ⑪米国の核廃棄物問題の現状
 ⑫台湾の原子力政策の転換過程~「フクシマ・エフェクト」はどう作用したのか
 途中に休憩はあったが、堅い話をこれだけ聞いているとさすがに疲れた。それも決して楽しい話ではない。それでも考えさせられる有意義な内容がいくつもあった。
 ある人が核文化は、「否定し嘘をつき機密にする」ことと解説しているそうだ。まさに福島でも同じである。アメリカにおける核廃棄物の処理は、広い国土もあってか日本よりもずさんとのこと。それにしても健康や環境などへの被害は拡がり、いずれ手に負えなくなる。福島の事故から学び、台湾では建設中の原発を止め、脱原発の国政に舵をきった。それは喜ばしいことだが、わが日本では何も事故から学ばずに再稼働や輸出を進めている。いったいこの国はどうなっていくのだろうか。



 

2017-11-10

圧政ヲ変ジテ自由ノ世界ヲ ~秩父事件の情熱を今に~

 農民連の集会で、山の流木防止に関して秩父の新井健二郎さんから10分ほどの貴重な報告があった。今年の7月に九州北部豪雨があり、死者と行方不明者で41人もでている。その生々しい現場を先月訪ねていたので興味深く聞いた。杉やヒノキの針葉樹は根の張りが浅く、山の構造にもよるがすぐ崩れて土石流になる。そこで新井さんは、危ない山の巨木を1mほどの高さで全て切り、そこに切った木を横に積み上げている。それらの木が枯れる頃には、広葉樹の雑木がはえて自然に近く災害により強い山になるそうだ。
 休憩時間に名刺交換させてもらい、討論会の終わった午後に市街地から車で30分ほどの自宅まで連れていってもらい、その裏山を見せてもらった。山すそは石で固めて2年で雑木は大人の背丈よりも高くなり、これであれば土砂崩れもたぶんないだろう。
 4年間のシベリア抑留から帰国した新井さんは、まず山の木を全て切って牧草を育て牛を飼ったが失敗し、今度は国策に沿って杉を植えたが、やっと販売できるまで成長したとき政府は材木を自由化し売れなくなった。そこで福島から柿を自力で学び生産を今も続けている。
 ところで新井さんは1884年に起こった秩父事件にとても詳しく、次々に貴重な話が出てくる。92歳になっても記憶は鮮明で、会話も普通にできる。頼まれて秩父事件やシベリアを含む戦争体験などの講演を、今も元気にしているから凄い。当時の圧政に対し養蚕のできなくなった秩父の農民が、自由民権の考え方で世直しをしようと立ちあがった。それも各地に広がりつつあった自由党の傘下で行動しようと集まったが、秩父でスタートさせる2日前に自由党は解散し、党首の板垣退助は事もあろうに政府から莫大な金をもらってヨーロッパへ逃げた。同じ土佐人として私は恥ずかしい限りである。
 詳しくは2004年の映画「草の乱」にも描かれている。決起に集まった農民は3000人で、最終的に1万人が関わっているから、まさに草の根の力による社会運動であった。ところが政府は暴動と決めつけて厳しく処罰し、全国の教科書でも自由民権運動の1つと高く評価されてからも、地元では長く否定的であった。新井さんたちの地道な取り組みで、80周年や100周年の集会を成功させながら、記念碑や記念会館などが地元にできている。
 新井さんのワクワクするドラマは、最近の赤旗日刊紙に「秩父事件を歩く」として6回も連載されている。新井さんの近くにいると、133年の時間を超え秩父事件のとき松明を掲げて山野を駆け巡った闘志の熱気を感じた。
東京めざし松明をかかげる「秩父事件青年の像」前の新井健二郎さん