2011-10-25

やっと「協同っていいかも?」を出版


 約2年かけて愛知県は南医療生協を足げく訪ね、やっとのことで「協同っていいかも?」(合同出版 定価1400円)の出版にこぎつけることができた。この間に20回は現地を訪ね、100名近い方から面白い話をいくつも聞かせてもらった。ガンの末期で最後のコンサートを開いた方を、看護師や職員がサポートして成功させたこと、高齢の女性の自主性を大切にして認知症が大きく改善したグループホームなどなど、それらにはいくつもの協同の輪がある。
 南医療生協の50年は、「協同っていいかも?」と組合員や地域へ常に呼びかけ、それに「協同っていいよ!」と実践で応えてきた歴史でもある。誰かにお願いする要求追求でなく、協同を大切にした要求実現の実践と教訓は、地域社会に貢献する協同組合や生協の1つの確かな道を示していると信じている。
 国連が2012年を国際協同組合年と定めたことにより、我が国でも協同組合や生協に関する議論が活発化することだろう。協同組合の原点を問うこの本は、おかげさまで国際協同組合年認定事業に登録させてもらったので、生協運動の普及にもいくらか貢献できることを念じている。



 

2011-09-25

被災地に育て仙台白菜

 津波で被害を受けた田畑は、塩害で作物が育たない。そこで土を入れ替えて、かつ塩分に強い仙台白菜を育てて商品化するプロジェクトが「みやぎ生協」で始まった。名付けて仙台白菜プロジェクト。訪ねた生産地は、宮城県石巻市矢元のある農家。水田と畑の全てで作物を作ることができなくなり、ご主人は市内のガレキの撤去作業でバイトをしている。それでもどうにか農作業をしたいと、この仙台白菜に挑戦した。仙台白菜は、戦前まではよく作っていたようだが、その後は商品化されていない。今回はそうした伝統野菜をJAと生協で復活させ、さらには仙台のある高校の調理科が協力して、漬物でなくケーキなどの新しい商品にチャレンジするというから楽しみである。
 順調にいけば11月中旬には収穫することができるそうで、ぜひうまくいって欲しい。

2度目の気仙沼

 7月31日に仙台へ入り、民俗学者で地元学を提唱されている結城登美雄さん宅を訪ね、生産者に寄り添う大切さを教えてもらった。8月1日は、朝「みやぎ生協労組」の赤松委員長の車で石巻に入り、蛇田店の伊藤店長、大和地域代表理事、共同購入石巻支部の斉藤支部長、「こ~ぷのお家」の丹野施設長に会って、震災後の取り組みを聞いた。沿岸部が沈下し、生協の1つの店は満潮時に冠水するので閉店になっている。次回にゆっくりと時間をかけて石巻に入る予定で、翌日の2日早く南三陸町に向かい、志津川漁協とある組合員さんを訪ねて話を聞いた。
 夕方に気仙沼に入り、三浦支部長や春日地域代表理事に会って、今回の取材について協力をお願いした。その後6日まで組合員集会室に滞在させてもらい、水産業者、仮設住宅、復旧を目指す会社、避難所、図書館などを訪ねて聞き取りなどをした。5月のときに比べると、ガレキはだいぶ撤去され異臭も少なくなっていたが、それでもまだ復旧にはほど遠い。
 それでも嬉しかったのは、街のあちこちに咲くヒマワリの花である。支援者が市民を元気づけようと、ヒマワリの種を贈ってくれたようで、それは街が明るくなっていた。
  

2011-08-08

気仙沼の旅

 5月に続き2度目の気仙沼に入った。今回は5泊できたので、被災者からの聞き取りや視察もゆっくりできた。ガレキの撤去が進み、異臭もだいぶ少なくなっているが、仕事そのものがなくなっているので復旧にはまだかなりの時間がかかりそう。
 まだいくつか避難所があり、プライバシーを守るため小型のテントを体育館の中に設置し、これで家族が暮らしている。狭いし暑さも大変だろう。仮設住宅もいくつか見た。宮城県では大手の住宅メーカーに発注し、どこも同じ樹脂と金属製のプレハブで、断熱材もなくて日中は外より暑い。洗濯物を干す場所がわずかで、家族で暮らす人は困っていた。先の見通しが立たず、高齢の夫婦が最近心中したそうだ。他の高齢の女性は、家族同様に可愛がっていたペットの猫を殺し、自分も死のうとしたが失敗して、今は1人で仮設にて暮らしている。聞いていて、何ともやるせない気持ちに何度かなった。
 魚市場も訪ねて話を聞いた。岸壁にある市場は地盤沈下に対応して約1mのかさ上げをしているが、それでも満潮時には海水が入る。カツオの水揚げは再開されているが、冷凍や冷蔵の大型倉庫が全滅しているため、水産加工がまったくできずに生での流通のみ。関連する仕事ができるようになるためには、まだまだ時間がかかる。
 みやぎ生協の春日地域代表理事から借りた自転車で、取材や被災地まわりをした。沈下して海水の大きな池になっている場所で、魚が泳いでいるのには驚いた。津波は道路のアスファルトもいくつかの場所で剥ぎ去り、ダンプが走ると


土埃が舞い上がって目が痛い。
 それでも市内のあちこちに咲くヒマワリの花にホッとした。支援者から元気になって欲しいとの願いで届いた種が、各地で咲きはじめていた。こういう支援もあるのかと嬉しくなった。数は少ないが、仕事を再出発させた人もいた。
 

2011-07-14

台湾の旅2

 台北市内の2.28公園を訪ね、2005年に日本から運んで寄贈した被爆ハマユウに再会した。2.28とは、戦後に蒋介石が大陸から台湾に逃げたとき、多数のそれまでの台湾で活躍していた人たちを虐殺した事件を指す。まだ全貌が解明されておらず、どれだけの人が殺されたのかもわかっていないようだ。まだ台湾では戦後が続いており、そこで被爆ハマユウは「和平花」として公園の一角にある記念館の入り口近くに植わっている。台湾語と英語の解説文付きの大きな掲示板や、何と散水器も設置されており、大切にされていることがよくわかった。

台湾の旅1

 3泊4日で3万円を切る格安のツアーがあり、7月10日から13日まで妻と1年ぶりの海外旅行で台湾へ。故宮博物館を2時間鑑賞できるツアーも魅力的であった。成田から高雄に夜飛び、深夜にホテルへ入った。雨期でもあり、到着の4時間前は大洪水だったとのことであったが、着いた頃は大丈夫だった。
 11日は高雄市内の観光をした後で、台中から台北へとバスで移動。各地で活気のある町並みを見ることができた。
 台湾では八賢人が有名で、ガイドさんの話によると、この8人の神様が日本へ出発するときに1人が風邪を引いて出掛けられなくなり、そこで日本では七福神になったとのこと。七福神の1人は日本の土着の神だから、7人が台湾から来たとの話はおかしいと思うが、要はご利益のある神様であれば宗教にこだわらないのは台湾も同じようだ。
 台北市内の龍山寺もそうで、本堂に仏教の観音様を祭ってあるのはわかるが、その他に道教や儒教の神様も全部で7体も祭り、参拝者は大きな線香を7本持ち、違和感なく順番に参拝していた。

2011-07-07

福島県いわき市へ

 7月6日の早朝、愛用の折りたたみ自転車を持って常磐線を北上。勝田駅で乗り換えて、福島県の泉駅で降りたときは11時になっていた。暑い駅前で自転車を組み立て、小名浜港を目指した。30分ほどでたどり着いた港の変貌に驚いた。漁船はいくつか泊っていたが、かつての活気はまったくない。市場やたくさんの物産展などは、ガレキを撤去しているが、土台だけだったり、残った建物も1階は大破し、柱がゆがんでいたりする。電柱にぶつかったままの大きなコンテナもあった。
 やっと1軒の食堂があったので入ると客は私1人。聞くと船は出ても、福島の魚はまったく売れないので、宮城や千葉などに卸しているので、ここにはまったく上がってこないとのこと。このため製氷工場や加工工場、そして物産店などにまったく魚が出せずに困っているとのことであった。
 その後自転車で、湯元駅近くのパルシステム福島を2時に訪ね、専務さんから震災の対応などを聞いた。NPOなどと連携し、仮設住宅への支援などをしている。
 3時半から再び自転車で泉に戻り、4時からはコープふくしまの「いわき支部」を訪ね、支部長さんから話を聞いた。放射能の学習会や線量計の共同購入など、大変な中で模索をしている。放射能の汚染は、茨城に住む私も他人事ではない。


 6時に電車に乗り、買った500ミリのビール2本を一気に飲んだ。家に帰ると、両腕が日焼けで真っ赤になりヒリヒリするは、久しぶりの折りたたみの堅いサドルだったので腰も痛くなった。

東京平和映画祭 2011年

 6月26日に第8回目が開催となって参加した。今年も刺激的な以下の映画であった。
  1、源八おじさんとタマ
  2、隠された被曝労働
  3、チェルノブイリの真実
  4、原発導入のシナリオ
  5、わしも死の海におった
  6、幸せの経済学
 この他に、柴野徹夫氏「核・原発依存、きっぱりやめるとき」、藤田祐幸氏「ヒロシマ、ナ ガサキ、そしてフクシマ」、上杉隆氏「震災報道と1億総洗脳化社会」、飯田哲也氏「核によ る大厄災、石油を巡る戦争から、太陽による平和へ」の講演もあって参考になった。
 「隠された被曝労働者」は、2007年までで原発に関わった労働者170万人、その中で40万人が被曝しているとのこと。労災を受けたのはわずか7例で、まさに闇から闇に葬られている。福島の第一原発でも同じことが今も続いている。
 「わしも死の海におった」は、ビキニでの水爆実験に関連して高知の宿毛高校の調査。何回もの実験を繰り返し、死の灰は太平洋だけでなく日本にまで届いていたことに驚いた。
 来年がまた楽しみだ。


      
 

2011-06-16

被爆ハマユウの花が

 例年だと7月に入って咲くのだが、借りている畑の一角にある30本ほどの被爆ハマユウの1本が、いつもの白い花をもうつけてくれた。福島の原発事故に反応したわけでもないだろうが、なぜかここ取手市は、もっと北にあって原発に近い水戸市などよりも放射能の汚染が高い。
 66年前に広島の比治山で被爆した子孫のハマユウである。反核平和のために沖縄などの日本はもとより、韓国やスリランカやマーシャルなど世界の各地にも運んできたが、まさか自分の住んでいる足元で、原発による放射能汚染に脅かされるとは思ってもいなかった。反核のシンボルとしての被爆ハマユウを、もっともっと拡げたいものだ。

2011-06-15

3人目の孫誕生

 6月14日に予定より3日早く、長女の明美に3人目の子どもが産まれた。今回は本人の希望で、助産師さんを呼んで自宅出産。朝に陣痛が始まったとの電話連絡が本人からあり、妻が駆けつけるとすでに家族に見守られて出産は終わっていたとの超安産であった。やはり家庭での自然分娩が母体にもいいのだろうか。体重は3000g弱で、男の子の名前は伶(れい)。どんな人間に成長してくれるのか楽しみ。


 4月に住んでいる取手市の水道水で、基準以上の放射能汚染があったりしたので心配していたが、無事に産まれてとりあえずはホッとしている。それでも福島第一原発の事故はまだ続いているので、不安はまだまだ続く。

2011-06-11

岩手県の被災地

 6月8日から10日まで岩手県に入り、沿岸部の被災地をまわってきた。まず8日は盛岡市にある「いわて生協」の本部を訪ね、菊池専務や県連の加藤会長などから、震災後の生協の対応などについて聞き取りをした。約2000名いる職員のうち、2名が死亡または行方不明となっている。地震による建物の被害は幸いなことにあまりなく、滝沢村にある本部の入り口前の雨避けが落下した程度。やはり大きいのは津波であった。加藤さんからは、生協だけでなく生産者の復興への取り組みなど、幅広い動きを聞くことができて参考になった。特に漁民を中心とした、県漁連や宮古市にある田老漁協の動きは興味深く、9日と10日にそれぞれの事務所を訪ねることにした。
 9日は8時半にホテルを出て、生協職員の畠山さんの案内でまず宮古市へ。偶然にも田老の出身で、父親は漁業をしていたとのことで詳しい話を聞くことができた。「津波太郎(田老)」の異名を持つ田老地区は、日本一と言われる10mの堤防が集落の入り口に設置してあることで有名だが、今回の津波はそれを超え、いくつかの鉄筋の建物を残して町並みは全てなくなっていた。
 宮古市には生協の店が4店あり、その中でも一番大きなドラ店を訪ね、菅原店長などに話を聞いた。津波で犠牲になった方の遺体にかける浴衣を、被災していない組合員に店内放送で呼びかけた店長でもある。生協らしい人道支援がここでも展開されていた。
 午後は車で南下し、山田、大槌、釜石と廻った。どこも町並みが消え去り、「ここに町がありました」と言われても、想像すらできない。異臭だけでなくハエが大量に飛び交っており、住民の

衛生のことが心配になった。盛岡に帰ってきたのは、夜の8時を過ぎていた。
 10日は、生協の労組や県漁連、そして岩手信用生協の上田専務を訪ね、それぞれ震災への対応などについて聞かせてもらった。

2011-06-05

今崎暁巳さんを偲ぶ会

 4日の1時15分から北とぴあのペガサスホールにて、約140名による偲ぶ会があり、事務局の一員として朝から出掛けた。近くのスーパーでビール264本やツマミ類を大量に購入し、配達を依頼して会場へ。11時から他の事務局とホールを設営し、昼からの偲ぶ会を迎えた。日フィルの四重奏が奏でる中で、参加者による献花から始まり、実行委員長である柳沢さんの挨拶から各界の代表の挨拶など、多彩な話を聞くことができた。久しぶりに会ったケーナ奏者の八木倫明さんは、賛美歌「アメイジング・グレイス」を厳かに演奏してくれた。いい偲ぶ会だった。
 4時前に終え急いで後片付けをし、5時前には無事に終了。二次会はベトナムから駆けつけてくれた小松さんを含めて、ルポ研のメンバー10数名で近くの居酒屋へ。美味しいお酒だった。どうにかしてルポ研の再出発につなげたいものだが。

2011-06-02

水織ゆみチャリティコンサート

 6月1日の7時から北区の「北とぴあ」にて、水織ゆみさんの「東日本大震災チャリティ~小さな祈りの灯コンサート」があり出掛けた。実はこんなシャンソン歌手がいることはまったく知らなかったし、書きかけの原稿は終わってないのでどうしようかと少し迷ったが、3・11に本人の創った「小さな祈りの灯」の詩を見て、これは聴きたいと思って出掛けた。
 はりの有る声量で「青葉城恋歌」からスタートし、「紫の桜」や「マイ・ウエイ」などを熱唱してくれた。途中では彼女が何度か訪ねた被災地の映像も流れ、二部の最後の曲「セ・ラムール」では手話付きで歌い、被災者に寄せる思いがよく伝わってきた。
 それにしてもバイタリティのある女性である。駆けつけた友人の歌手たちと、2時間の舞台でずっと熱く語り、歌い、そして舞っていた。黒いロングドレスから、少しのぞいていた膝には、2枚のバンドエイドが貼ってあった。被災地での支援活動でもで転んだのだろうか。ぜひこれからも素敵な歌をお願いしたい。チケットを贈ってくれたO

さんにも感謝。ありがとうございました。

2011-05-28

ネパールと東日本大震災の報告会

 5月26日の6時から渋谷のコーププラザにおいて「JUKUさんのネパール報告と大震災を考える」集会があり参加してきた。JICAで活躍中の小澤重久さんからは、「ネパールの人々の暮らしと協同組合の活動」と題してパワーポイントを使った40分の報告があった。貧しい中でも助け合って暮らしている様子がよく分かった。私は「みやぎ生協、いばらきコープ、さいたまコープの震災対応」として写真を使った30分の報告。石巻で

生協の店長が店頭販売で、398円のキャベツを組合員のため300円にしたのに対し、近くの競争相手の店は利益のため500円で販売して客の怒りをかったことを報告した。どちらを向いて仕事をしているかである。
 他に「岩手県被災地報告」や「みやぎ生協の店舗支援体験報告」と盛り沢山であった。体験報告では、小川祐子さんによる歌いつつのマジックショーもあり、約20名のみんなで拍手した。
 9時に終えた後、いつもの安い中華料理屋に席を移し、ギョーザをつまみつつ小澤夫妻を含めて有志で二次会。来年の9月まで小澤夫妻はネパールに滞在するとのことで、それまでに3回目のネパール訪問をしたいものだ。

2011-05-25

ソウルの旅

 5月23日から25日までソウルを訪ね、高橋公純さんのお寺の一室で今回もやっかいになった。羽田から2時間で着き、時差もないので気楽に飛ぶことができる。韓国にホームステイして韓国語を勉強したいという知人がいて、その紹介をしたこともあって挨拶に訪ねたことと、いずれまとめる予定の上甲米太郎さんに関す資料集めが目的であった。
 ソウルにはかつて日本が、朝鮮を植民地にしていたときの資料館がいくつもある。その一つが西大門刑務所で、独立運動の闘士を投獄し、さらには虐殺もした場所がある。5年前に訪ねたときは、日本人が竹ベラを朝鮮人の爪に突き刺しているロウ人形があったが、それは無くなり机の上に血に染まった竹ベラが置いてあった。ここに治安維持法違反の罪で、小学校において教員の勉強会を組織しようとしていた上甲米太郎さんたちが投獄され、丸2年間服役していた。その当時の食事や日課などについて、事務所で聞き取りができた。
 伊藤博文を義によって殺害した安重根(アンジュウグン)の記念館も、当時の日本と朝鮮の関係を知るのに貴重な場所であった。韓国では国民的英雄であり、処刑されるまでの40日間で200本の達筆な書をしたためており、そのいくつかが展示してあった。処刑される5分まえに書いたものもあり、あらためて凄い人物だったことがわかる。
 韓流のブームはいいが、どれだけの日本人がこうした場所に足を運んでいるだろうか。ぜひ観て、かつて何があったのか知って


ほしいものだが。

2011-05-22

たたかいのルポ15号の合評会

 21日(土)に15号の合評会を王子区民センタの会議室で開催した。参加者は、会員が11名と読者が1名の計12名。顧問の故・今崎暁巳さんに黙祷した後で、まずは乾杯。4年ぶりの同人誌の発行であり、それはお酒が美味しかった。夏日でもあって冷たいビールや日本酒が、クイクイと入っていった。
 ただし、「これでルポ研も終わりか」と言った声も出ているくらいで、今後をどうするのかハッキリさせなくてはいけないので議論した。15号の合評も兼ねているので時間がどんどん過ぎ、5時までの一次会で終わらず、場所を変えての二次会で7時過ぎまで熱く議論した。ルポ教室を開いて新しい仲間を増やすことや、インターネットを使って議論や発表の場を拡げ、ぜひ再出発しようとなった。課題はあるが、ぜひ続けたいものだ。
 明日から2泊3日のソウル。西大門刑務所などを視察し、いずれ本を考えている上甲米太郎さんに関わる資料を探してくる予定。被爆ハマユウで関わっているお寺に今回も宿泊させてもらい、ボランティアの人たちとの交流もある

ので楽しみ。

2011-05-20

埼玉県での原発避難所

 埼玉県北部の加須市にある旧騎西高校には、4月1日に埼玉アリーナから移ってきた福島県双葉町から移ってきた約1300名の方たちが暮らしている。そこに「さいたまコープ」が毎週木曜日に炊き出しをしており、それを昨日19日に佐藤理事長が訪ねるとのことで同行させてもらった。役場も一緒に避難しており、テレビでは何度も見ていたが、教室や体育館などに避難者があふれ、その大変さを現場で実感できた。人数が多いため簡易の間仕切りも設置できず、着替えは廊下に設置した段ボールの箱の中でおこなっていた。これではストレスが溜まる一方で、1日も早く間仕切りを設置し、また仮設住宅などへ移ることが必要と痛感した。
 生協で提供していたのは、ワカメと豆腐の具がたくさん入った味噌汁と、ホウレン草のおひたしにキュウリの漬物。行政の届ける弁当では、汁がなく、かつ野菜が少ない。それを補うことを目的に、近くの生協の北本店で食材をカットして、生協の車で高校に運び、調理室などを使って生協のボランティア(今回の6回目からJAの女性部も合流)で調理し、配食している。総勢40名ほどが、役割分担に沿って対応し、避難者の方たちから感謝されていた。協同組合らしい支援である。


 

2011-05-15

青年劇場「族譜」を観て

 5月13日の2時から、吉祥寺の前進座において青年劇場の「族譜」があり出掛けた。梶山季之原作でジェームス三木脚本・演出である。この劇にも出ている女優の上甲まち子さんから、父米太郎さんのことを書くためにも、ぜひ観た方がいいとのことであったので楽しみにしていた。1940年(昭和15年)の植民地であった朝鮮のある地方を舞台に、日本政府による創始改名によって引き起こされる悲劇を演じていた。700年もの一族の伝統をもつ地主のソルジニョンは、姓を変えることに強く反対するが、孫たちにも被害が及ぶとして改名し、その日に井戸で自殺する。フィクションではあるが、こんなことがいくつもあったことだろう。期待したとおりの劇であった。
 かつての帝国主義時代の傲慢さは、放射能の高い汚染水を「低濃度」と称して公海に垂れ流している今の為政者にも、私には重なって見えた。
 来週にはソウルを訪ね、韓国のボランティアグループの人たちと2年ぶりの交流をし、

上甲米太郎さんが2年間も投獄されていた西大門刑務所もまた見てくる予定。

2011-05-14

みやぎ生協の震災対応

 新幹線が復旧したので、5月11日、12日と宮城県を訪ねた。もっと滞在したいと思いホテルを探したが、なぜか仙台市内はどこも満杯。やっと11日だけあったので、いやいやながら右翼のアパ系列のホテルを使った。
 11日は八乙女にある「みやぎ生協」の本部へ。事務所は天井が落ちるなど、ひどい状態になっていた。宮本専務に話を聞き、関連する資料をいくつももらった。職員で14名が死亡し、まだ2人が行方不明とのこと。80億円ほどの損害になるようで、内部留保を一気に崩しても足りず、経営は大変になりそうだがリストラもせずに頑張るとのこと。
 12日は、みやぎ生協労組の赤松委員長が、支援物資を石巻経由で気仙沼に届けるとのことで、その車に同乗させてもらった。被災地をテレビでは何度も観ていたが、実際にその場に立つと、臭いもあるしホコリもあってより大変さが実感できた。建物の基礎だけ残して瓦礫と化した街や村を、ただ言葉もなく呆然とながめていた。
 石巻の蛇田店の伊藤店長に話を聞いた。停電でレジを使うことができなかったが、組合員の暮らしを支援するため、商品は100円と300円にして店頭で販売を続けた。その頃1個398のキャベツを300円にして販売していたら、近くのあるスーパーでは500円で売ったとのこと。するとそのスーパーの客から、「生協は300円なのに、便乗値上げだ」と抗議の声が店やツイッターで流れたとのこと。さすが生協であるし、そうした店長がいるとは頼もしいかぎりだ。ぜひこれからも生協らしく、組合員や地域を大切にする目線で頑張って欲しい。

2011-05-08

映画「無言館」

 上野区民館で下町人間の会が呼びかけて、映画「無言館」の試写会があり出掛けた。長野県は上田にある無言館は、戦没画学生慰霊碑美術館として全国に知られており、そのドキュメント映画である。館長の窪島誠一郎さんの思いを軸に、無言館のメッセージを静かに、しかし強烈に投げかけていた。窪島さんの語りがいい。絵は他の芸術と異なり、対象を愛さないと描くことができないので、この無言館は反戦平和というより、愛の美術館だと解説していた。愛する恋人や母や故郷を限られた時間の中で必死に描き、できれば再び戻ってきて書き足しをしたいと願いつつ異国に散った若者たち。さぞかし無念であっただろう。
 主題歌の「乾かぬ絵具」で窪島さんは、「乾かぬ絵具よ 今も 少しも色褪せぬ あなたの一滴の生命よ」と高らかに詠った。歌手の佐藤真子さんは、映写の前に熱唱してくれた。
 経済主義のあげくに原発が事故を起こし、大変な被害を今も福島を中心に広げている。全国の原発をすぐに止めるべきだ。9・11の首謀者と証拠もないのに決め付けて、丸腰の男を家族の前で射殺し、歓喜しているオバマやアメリカの民衆を見てゾッとした。何ということをするのだ。
 先月末に

62歳にもなったのに、年甲斐もなく怒ることの多い昨今で、「無言館」の映画はしばし心を鎮めてくれた。5月14日から6月10日まで、新宿武蔵野館で上映される。ぜひ一人でも多くの方に観て欲しい。
 再び上田の無言館を訪ねたくなった。

2011-04-24

「日本の食と農 どうした、どうなる、どうする」

所属する日本科学者会議食料問題研究委員会が主催し、23日(土)1時半~5時まで暉峻(てるおか)衆三元教育大教授に話していただいた。ご高齢にもかかわらず、16ページものレジメと7点の資料に沿って、戦後における日本社会の変動のなかで、どのように食や農が変遷してきたのか、そして現状と課題について1時間半の予定が3時間近く熱弁を展開してもらった。
 アメリカの国策に沿うように、日本の食と農が大きくゆがめさせられてきたし、今度のPTTで、さらにその傾向に輪をかけると心配されていた。大事な指摘で、指摘を噛み締める必要がある。
 写真の中央が暉峻さん。

2011-04-21

さいたまコープちえネット発表会

 4月19日(火)の10時半から14時10分まで、南浦和駅近くのコーププラザ浦和にて、2010年度のちえネット発表会があり、アドバイザーとして今年も参加した。今年は例年になく93名もの参加で、会場はほぼ満席であった。
 日々の暮らしの中で困っていることについて、組合員さんがテーマを決めて1年間、ほぼ月に1回は集まって研究した成果を披露する場で、今年は以下のチームであった。
 ①、シンプル生活、②すっきり、③リサイクル、④食生活、⑤くらしとお金、⑥米っ粉、⑦あっ貯まる、⑧しゃぼん玉
 もちろん程度の差はあるが、暮らしの中の疑問に対して自らの力で切り込み、仲間と一緒になって調べ、議論して考え、そしてまとめているので、いつもながら感心する。
 2011年もテーマやメンバーを新たにしてスタートし、また1年間のアドバイザーを依頼された。私にとっても勉強になるので、引き続き楽しく関わっていきたい。できればこうした組合員の研究と、もう少し生協事業との連携を強めたいものだ。


 

2011-04-12

被災地の大津港を訪ねて

 復旧した常磐線に乗って北上して羽鳥駅で下車し、迎えに来てくれた「いばらきコープ」の佐藤理事長の車で大津港を訪ねた。茨城県の最北端で、テレビでは何回も見ていたが、打ち上げられたいくつもの船や、大破した家屋の前に立つと、地震と津波の脅威を心底感じる。さらにここは福島原発から一番近い茨城県の地で、念のため放射能のチリを少しでも吸わないようにマスクをしていった。
 新聞によれば5名が亡くなり、まだ1人が行方不明とのこと。また放射能汚染は魚にも現れて、茨城県の漁船はどこも漁を止めている。まったくとんでもない事態になっており、天災はあきらめることができるにしても、放射能汚染という人災については益々


憤りが高まる。

2011-04-05

コープソリューション掲載記事12 「こうべからのメッセージ」に学ぶ  

「こうべからのメッセージ」に学ぶ    
2011年3月19日 生協研究家 西村一郎
災害時の生協の役割
2011年3月11日午後2時46分に、東北地方の太平洋沖でマグニチュード9.0という巨大な地震が発生した。東日本大震災である。
茨城県南部の我が家では、震度6弱で初体験の激しい揺れとなった。真っすぐに立っていることができず、本棚が倒れ食器が飛び散る中で心底恐怖を感じた。家族に怪我はなく家屋の破損もなかったが、近所では屋根の瓦がはがれ、塀の倒れた家が何軒かあった。地域ではすぐに停電となったので、夜はローソクのもとでラジオから地震情報を集めた。やっと翌朝になって電気が通じ、テレビの画面を見て息を飲んだ。NHKだけでなく全てのテレビ局は一般の放送を中止し、現地の生々しい被災状況を放映していた。
強い地震による家屋や山の崩壊だけでなく、10mをこえる高さにもなったという巨大な津波によって、全滅した集落がいくつもある。襲い掛かる津波に、家屋や車が次々と押し流され、さらには逃げ惑う人々の映像の前で、ただ呆然と見つめるだけであった。
日を追うに連れて死者と行方不明者の数が増え、宮城県だけでその数は万単位になるとのことだから、いったいどれくらいの被害なのだろうか。全壊した役場もいくつかあるそうなので、正確な被害状況を把握するにはかなりの時間を要することになりそうだ。さらには強い余震が続き、他方で福島原発の拡大する事故は新たな不安を投げかけている。
いずれにせよ今回の地震で甚大な被害を受け、復興にはこれまでの災害時にない時間と費用と労力を要することになるだろう。社会的な役割を求められている生協にとっても、組合員の内外から期待が高まっている。
今回の地震の被害に対応する生協の課題を考えるに当たって、1995年の阪神淡路大震災のときに、コープこうべの取り組みはいくつものヒントになる。「被災地に生協あり」と新聞で報道された豊富な実践があった。そのときの210名に及ぶ被災者の体験をふまえて、コープこうべのまとめた貴重な冊子「こうべからのメッセージ 阪神・淡路大震災を体験して」から、全国の生協が学ぶべきことはいくつもあるので紹介したい。

「こうべからのメッセージ」の概要
 58ページの冊子「こうべからのメッセージ」は、震災のあった1995年6月にコープこうべくらし創造本部が編集した。「はじめに」の中で以下のように触れ、教訓の共有化を呼びかけている。
「未曾有の震災を体験して、人間の生きるための強さや、思いやりと心の豊かさが大切であることも改めて実感しました。さらに、これまでの地震に関する常識がいかに甘かったかということ、日ごろの備えはどうしなければならないかということ、いざという時の対応など、震災体験の中に多くの教訓を見ることができます」
具体的には以下の構成である。
・ グラッときた時
・ 余震に備えて
・ 役に立ったグッズ
・ ライフラインが途絶えて:水を手に入れる、作る・食べる・片付ける、トイレを流す、 
洗濯する、入浴する、明かりをつける、寒さをしのぐ、ゴミを捨てる、交通、連絡をとる、生活情報を集める、家族が支え合う
・ 人と人が支え合う
・ ボランティア
・ 私たちの提言
・ 手紙
・ 地震10カ条
・ 資料
どの項目も組合員の体験に基づいて書いてあり、具体的でかつ実践的である。阪神・淡路大震災に比べて今回の東日本大震災は、地震よりも津波の被害が大きいし、さらには原発事故もあって状況は異なるが、冊子「こうべからのメッセージ」から学ぶことはいくつもある。

万が一に備えて
 日頃から万が一への備えが極めて重要である。冊子では「余震に備えて」として、地震直後の家族の約束ごとや寝る時の注意に触れ、さらに室内の工夫として以下の6点をあげている。
① 高いところにモノを置かない
② 家具は低くする
③ 固定する
④ 配置を変える
⑤ グラつきや隙間をなくす
⑥ 飛び散りを防止する
また非常袋に入れると重宝な物については、「役に立ったグッズ」として優先順に次の20品を紹介している。
懐中電灯、食料品、ラップ、ビニール袋、小型ラジオ、トイレットペーパー、電池、ウ
エットティッシュ、手袋・軍手、小銭、使い捨てカイロ、カセットコンロ、下着、薬、紙コップ、飲料水、アルミ箔、紙皿、生理用品、帽子
どれもが万が一のとき大いに役立つ物である。さらには手近にあるものを活用することや、持病のある人や赤ちゃんなどへの対応も忘れずにすることも書いてあるから親切である。

万が一になったとき
冊子では「ライフラインが途絶えて」として、どのようにして非常時の中でも生きるのかについての知恵を細かくまとめてある。日頃は当たり前の水道や電気やガスの供給が、災害時にはストップしてしまうことが多い。どれも大切なライフラインであるが、その中でも第一に重要なのは水であり、飲む水だけでなく、洗う水や流す水などを手に入れることである。
第二には食事で、「作る・食べる・片付ける」として、いかに効率良く調理して食べてから片付けるかについてまとめている。
他にも暮らしに欠かすことのできないトイレ・洗濯・入浴・照明・防寒・ゴミ処理・交通・連絡・生活情報を集める・家族の支えについて、貴重なチェックポイントイを具体的に触れているので参考になる。

人と人の支え
 この冊子の優れている一つが、災害時における物の確保だけでなく、精神面での絆を重視していることで、具体的には「人と人が支え合う1,2」として貴重な体験などをまとめている。復興までには、残念ながら数ヵ月から数年かかることも少なくない。そのため不安や心配事が増加し、メンタル面での支え合いは極めて大切になってくる。
 「助け合い、支え合う命」の小見出しで、「五千数百名の生命をひとのみにした今回の大震災では、紙一重で助かった人もたくさんいました。警察も消防も出動しないうえに、自衛隊の援助もまだなかった直後の時間を、私たちはその地域に住む人たちと心を一つにして行動できたことを誇りに思います」と触れ、いかに隣近所における人と人の繋がりが大切であるか強調している。
 他にも「身にしみた人の温かさ」や「生活共同体・ご近所の輪」や「私のネットワーク再認識」において、震災の中での教訓をまとめている。
 被災者向けだけでなく支援するボランティアについても、4ページを使って大切な事例を整理してあるので、今回であれば被災した生協だけでなく支援する生協にとっても大いに参考となる。
 
生協の総力をあげて被災者の支援を
 生協の目的は、生協法第1条で「国民の生活の安定と生活文化の向上」とあり、活動の対象を組合員だけに限定していない。今回の震災では、東北を中心として多くの国民が被災されて困っているので、これを地元の生協はもちろんだし、全国の生協が総力をあげて支援することは生協の社会的使命でもある。
 被災者に対する生協の支援の第一は、通常の業務をできるだけ滞りなくおこなうことであり、地域生協であれば食料品類の供給や共済の給付などだし、医療福祉生協では医療や福祉サービスの提供である。大学生協や学校生協では、勉学の環境を守る事業の役割が大きい。被災地の生協では、ライフラインに支障をきたし、かつ被災された職員もいる中での事業であり、大きな困難を伴うがぜひ健康に留意し頑張って欲しい。
 第二は、人材や物資を含めて全国からの支援である。すでに全国各地の生協で募金活動を含めて動き始めているし、日本生協連や生協労連では対策本部をいち早く立ち上げ、会員に対して支援の訴えや情報の共有化などを進めている。各地からの支援物資も、被災地に届きつつある。それぞれの支援の輪に、一人でも多くの組合員や職員や労組員のさらなる参加が求められている。生きるギリギリの条件の下で頑張っている被災者から、支援することを通して、いつかは我が身となる私たちが学ぶことは多い。
 今回の大惨事の中で、被災者一人ひとりの生活の安定と生活文化を大切にする生協の役割が、これまでになく大きく求められている。コープこうべの教訓に学びつつ、心身の健康を守りながら人と人の絆を結ぶ新しい震災文化の創造が、全国の生協人に急務となっている。
 
写真 冊子「こうべからのメッセージ」

コープソリューション掲載記事11 生協における減災の取り組み

生協における減災の取り組み      2011年2月19日 生協研究家 西村一郎
はじめに
 巨大な岩石層であるプレートが複数重なった上に位置する我が国では、人体に感じないものを含めると、ほぼ連日のようにどこかで地震が発生している。1995年の阪神淡路大震災や2004年の新潟県中越地震などによる大きな災害は、まだ記憶に新しい。さらに地震調査研究推進本部の発表によれば、向こう30年以内に地震の発生する確率は、宮城県沖や茨城県沖で9割をこえ、南関東や東南海では7割程度などにもなっていて、いつ発生してもおかしくない。
 このため生協においても地震対策が、事業だけでなく組合員にとっても大きな課題となっている。ところで災害への対策は防災の用語を一般に使っているが、こと自然現象である地震を完全に防ぐことは無理であり、災害を減らす意味でより正確には減災が妥当であり、生協ではこちらも使用している。
 生協での地震に対する減災の取り組みを大別すると、組合員を主体にした「わがまち減災・MAPシミュレーション」と、生協職員を主体にして事業面で対応する図上演習がある。日本生協連に専任の防災担当を配置し、阪神淡路大震災などからの教訓も含め、どちらにもきめ細かなマニュアルを作成して全国で普及させている。その内容は生協外でも高く評価され、内閣府からの期待だけでなく、2009年に国連の出版物でも紹介されている。ここでは、組合員を主体にした「わがまち減災・MAPシミュレーション」の取り組みに触れる。

「わがまち減災・MAPシミュレーション」とは
 いつかはやってくる地震が発生したときに、住んでいる地域で迷わずにすぐ行動できるように図上で訓練することが目的である。
 そのため地域の詳しい地図に自宅や避難場所などを記し、どこにどのような助けのいる人がいるのか、自らにはどんな助けが必要なのか、近所の人たちと助け合いながらどう避難すれば良いかなどについて、確認しつつ独自の地図を作成していく。
 これをもとにして安全に避難場所へたどり着く方法や、外出している家族が帰宅できないときにどう対応するかなど、災害時を具体的に仮想体験する。そのことで自分を自らが守る自助や、共に助け合う共助をより理解し、万が一のときに落ち着いて行動することができるようになる。

準備として
 まず用意するのは、①参加者の家と避難場所の載っている地図、②地域の行政が配布している防災(ハザード)マップ、③地図の上に敷きマーカーで記入できる透明シート、④川や路線を記入するホワイトボードマーカー、⑤メモ用紙と筆記用具、⑥付箋と丸いシールのカラーラベル、⑦ハサミである。また5~8人ほどで1つのグループをつくり、進行役のリーダーと記録係を各1名選出しておく。
 本番に入る前に、5分を目安にウオーミングアップする。第一に、「10秒後に震度6強の地震が来る!」と言われたとき、どう対応するか1分以内でメモをしてもらい、数名に発表してもらう。ちなみに震度6とは、家の壊れる割合が30%以下で、がけ崩れや地割れの起こる烈震である。
第二に、実際の大震災がどんな様子であったのか写真や映像を見てもらい、意外と近隣者が助け出すケースや、家屋や家具による圧死の多いことなどを知ってもらう。
 こうして日頃の準備と地震に対する正確な知識があれば、わずか10秒の間でも助かる可能性を広げることのできることを、一人ひとりがまず自覚することである。

まちの地図づくり
 いよいよまちの地図づくりで、目安の時間は30分である。第一に地域の地図の上へ透明シートを乗せ、自分、一人暮らし、赤ちゃん、寝たきり、障害者、外国人の家などに、それぞれの色を決めてカラーラベルを貼る。災害の情報が流れにくい人や、自分の力で動くことの難しい人への配慮が大切となる。第二に、地図にそって線路や車道や川などを、カラーマーカーで使いわけてシート上になぞる。第三に防災マップから、避難場所、防災倉庫、病院、危険箇所などの主要な場所を拾い、マーカーで地図の上のシートに書き込む。
こうして完成させた地域の地図を見て、第四に各自が感じたことをメモにして数名から発表してもらう。

減災シミュレーション
 第一に、地震が発生したとして、自宅から避難所までの行程を地図上で演習する。リーダーは、あらかじめ作成しておいたシナリオに沿って、地震発生、3分後、15分後、40分後の状況を報告する。なお日本生協連ではシナリオについて、都市型、中山間部、海や川沿いの詳しいサンプルを用意しているから便利である。刻々と変わる被害状況の中で、どのようなルートで避難するかその都度判断する。
 第二に、参加者の各自はどのような道を通って避難したか、足跡を地図の上に残してもらう。リーダーは、避難が終了した頃を見計らって、障害者、寝たきりの人、赤ちゃんのいる母親、独居、外国人などに声をかけて避難したかたずねる。多くの参加者は自分の避難に気をとられ、災害弱者といわれる人たちに声をかけることは少ない。
 こうして約30分で避難所までたどり着くシミュレーションをおこなう。

シミュレーションを終えて
 図上の演習を終え、15分かけて振り返りをする。第一には、先ほどまでのシミュレーションを思い出し、感じたことをメモにする。リーダーの問いかけは、①情報を基に、適切なルートで避難所へ行くことができたか、②地域の危険な場所を認識できたか、③近所の弱者を気遣うことができたか、④グループ内で互いの意見を尊重しあうことができたかである。
 第二には、阪神淡路大震災で生き埋めなどが発生した際に、隣り近所の人たちが救出したのは80%で、消防署員や警察や自衛隊など行政機関の人たちによる救出は20%にも満たない事実を指摘し、近隣による助け合いの共助の大切さを指摘し、参加者に考えてもらう。

避難所での動き方
 25分使い、避難所に行ったときの動き方を演習する。第一に、各地から来た沢山の方が騒然としている避難所で、いったい何をするのか各自に聞き発表してもらう。ところで避難所は学校の体育館などで、数百人規模になることも多く、行けば誰かが世話をしてくれるわけではない。そこで第二に、自分で自分を守る自助や、共に助け合う共助について、自分でできることを自主的にそれぞれが考えなくてはならない。
 例えば支援に届いている各種の材料を使い、大事な食事作りがある。手軽に料理ができて全員が早く食べることはもちろんだが、さらには高齢者や障害者などにも配慮することが大切である。また障害を持った人や赤ちゃんのいる人などが、くつろぐことのできる空間を確保することも重要である。体育館などの避難所では、1人1畳を目安に割り当てられるが、段ボールで仕切りをするなどの独自の工夫が必要なときもある。他にも情報の収集、広報、掃除、整理、品々の配布など、避難所ですることはいくらでもある。

課題は
 こうして全国の生協で図上訓練が広がっており、組合員だけでなく職員も含めてさらなる拡大が期待されている。そこでの課題を考えてみた。
 第一に、図上訓練をする場のさらなる拡大である。各地で実施しつつあるが都道府県レベルでの実施が多く、これを市町村やさらには学校区単位にまですると、より効果的である。減災への自覚を高める情宣活動などは、継続して強化することが求められている。
 第二に、隣り近所間の人的繋がりの強化である。近隣者の手助けこそが災害時に一番効果があることは、阪神淡路大震災のときも実証ずみである。
 第三に、食事や寝る場所などの物理的な支援と同時に、精神面での支援も大切である。特に社会的弱者は、震災によってさらなる精神的ストレスを受けるので、親身になっての相談やアドバイスも重要である。
 第四に、町内会で防災訓連を実施した私の経験からすると、図上訓練にとどまらず、ぜひ実際に歩いてみることも重要である。図上では解らない危険な場所がいくつもある。
 日本のどこでも大震災がいつ発生してもおかしくない今日、減災において生協の果たす役割はますます高まっている。

*写真のキャプション
地図を囲んで防災施設等を確認する参加者

2011-03-30

孫の卒園式

 上の孫が早くも卒園することになり、何回も迎えに行っている保育園に自転車で出掛けた。会場のホールには日の丸もなく、「おめでとう」と大きく書いた紙が貼ってあり、ほのぼのとした雰囲気が気持ち良かった。
 式の冒頭に、東北関東大震災で亡くなった子どもたちに想いを寄せて黙祷。小学生だけでも1000人以上が死亡というから、どれだけの幼い子どもたちが犠牲になったことか。親や祖父母の気持ちを思うと胸が締め付けられる。
 賞状を受け取った子どもたちは、一人ひとりが親の前にまで行って「ありがとう」と言い、親もそれにコメントしていて楽しかった。
 二部では子どもたちの成長を披露してくれた。縄跳び、スキップ、太鼓などが続いた。子どもたちが、左右に持ったコマを同時に回したのには驚いた。遊びもすっかり変わっている。孫は縄跳びで少し失敗し、それがよほど悔しかったのか泣きはじめて、その後は涙を拭きつつの演技であった。これも成長するための一里塚。がんばれ、凛!

。ジジーがこれからも応援するから。
 

2011-03-28

フィリピンでの遺骨収集でとんでもないことが

 フィリピンの首都マニラでは、日本語による日刊紙「マニラ新聞」が発行されており、その3月27日付けの紙面がメールで送付されてきた。「盗骨被害者の男性自殺 遺骨収集に『無言の一石』イフガオ州」と大きくあり、小見出しは「協力費が『盗骨誘発』自殺の比人男性 村人分断の渦中に」とあり、このまえフィリピンで別れたばかりのセサーの顔写真が大きく載っている。
 2008年から日本の民間団体が、1柱につき4000ペソ(約8000円)で日本人の遺骨を集めていた。8000円は、日本ではさほどの価値はないが、現金収入のないフィリピンの山奥では、人の良心を奪う。古い骨で、日本人かフィリピン人かの区別はできない。金のために何と、地元で大切にしている現地の墓を掘り起こして換金する人が出始めた。セサーの墓も荒らされて、夢に先祖が出てきて嘆いており、ご先祖の霊をなぐさめるため豚3頭を使ったお祭りを準備していたそうだ。日本の民間団体のやり方が問題として、マニラにある日本大使館に抗議もしている。
 セサーには、8歳から1歳までの子どもが3人いる。さぞかし心残りであっただろう。1ヵ月前に2年ぶりで会って、2晩話し合ったし、食事や酒も楽しんだ。どこか元気がなく、またパソコンで清書すると約束した書類を手書きで持ってきたりして何かおかしいなと感じたが、まさか自殺するまで追い詰められていたとは知らなかった。
 それにしても66年前は戦争でフィリピンの人々に多大な犠牲を日本は与え、そして今回は形は違うにせよセサーやその家族に、大きな悲しみを与えている。先の戦争の根本的な反省をあいまいにしたことにより、こうした無責任な輩がまだ日本にはいる。同じ日本人として、怒りと同時に情けなくなる。
 写真は、在りし日のセサー。合掌

名古屋にて

 南医療生協での取材で20日から25日までまた名古屋に滞在した。今回も柴田駅近くの多世代住宅「わいわい長屋」でお世話になった。1泊3000円で、木の部屋やヒノキ風呂があり快適。星崎診療所やグループホーム「なも」、それに南生協病院やカナメ病院など、今回はできるだけ自分の足を使って歩いた。1日に2時間は歩いた日もあり、それも天白川のほとりは風が強くて寒いほどであった。
 ここでも東北関東大震災の影響がいろいろとあった。病院の産婦人科には、福島から2名の妊婦さんが避難している。海外に住むある方は、名古屋に住む娘に「移住してこい」と国際電話をかけてきたとのこと。
 南医療生協として支援の動きをしている

が、神戸のときと異なり、人の応援はしないことにしている。放射能の影響で、医療福祉生協としては政府のいう30kmでなく、海外と同じ90kmが危険との判断をしているそうだ。地図で福島原発を中心にして90kmを描いて驚いた。郡山市、福島市、高萩市などが入るし、仙台や会津若松や水戸にもうすぐかかる。90km以内が危険だとすると、ボランティアでの動きも神戸のときと同じにすると、後でとんでもない被害が広がる。
 写真は戦前からある住宅の1つで、伊勢湾台風のときに軒下まで水がきて土壁などは大破したが、その後補修して今は南医療生協の組合員でもある98歳の男性が1人で暮らしている。

2011-03-19

東日本大地震4

 早いもので地震が発生してから8日も過ぎた。まだ復興どころか福島原発事故は、さらに拡大しそうで不安がつのる。
 ところで住んでいる取手市に、新たに120名の避難者を受け入れることになったと今朝の新聞に書いてあった。福祉施設で過ごすことになるようだ。
 昨日、高知の弟から土佐文旦や作っているキューリが大量に届いた。2日前の高校の体育館では、まるで野菜類がなかった。そこで今朝、キューリや他の野菜をたくさん入れたポテトサラダをボール一杯作り、またキューリ8本は塩もみしてビニール袋に入れ、ビンで叩いて漬物にした。それらと文旦とオレンジを買い物用のビニール袋に入れて

リュックに詰め、昼前に体育館を訪ねた。
 今回は、体育館の入り口に市の職員が立っていて、持参した物を全て点検している。何と食べ物類は、全て加熱したものでなければダメとのこと。したがってポテサラはいいが、漬物と果物は受け取れないという。そんなバカな話はないので、上司に問い合わせをしろいうと、困った顔をして携帯電話をしていた。その結果、漬物はいいとなったが、やはり果物はダメとのこと。それでは「ミカンをボイルしてくれば良いのか」と怒鳴りたかったが、時間の無駄と感じて若い職員の前を離れた。指示されたことしかしないマミュアル人間が、ここまで拡がっている。まったく情けない話である。
 顔見知りの避難した女性に事情を話し、体育館の外に出てもらい、「高知から届いた文旦なので、よろしければ子どもたちと一緒に食べてもらえませんか」と伝えた。「ありがとうございます」とのことで、2人の女性に全部を渡した。寒い体育館なので、風邪などの予防になるビタミンの補給に、少しは役立ったことだろう。

2011-03-17

東日本大地震3


 今朝の新聞に、何と地元の取手一高の体育館に3家族11名が避難しているとのことで訪ねた。11日には常磐線が動かなくなり帰宅難民400名を受け入れた施設で、毛布は山積みしていたが、それでも底冷えのする施設である。
 避難者は20名をこえて、市の職員2名がまわりの世話などをしていた。いわき市から来た家族に話を聞くと、まず地震と津波で高台に避難し、それが解除になってホッとして我が家に帰ると、今度は原発の事故であわてて家族3名と、近所の知人(子ども4人の6人家族)でもって2台の車で東京に向かったとのこと。途中車で2泊し、東京にやっと着いたがどこも落ち着く場所がなく、家のあるいわき市に戻ろうと北上したが、高萩あたりで通行止めにあい、また東京方面に引き返して昨晩取手に来たとのこと。正確な情報が届かず、行ったり来たりしている。中には1歳3ヵ月の子どももいて、さぞかし苦労したことだろう。昨晩は、下に5枚の毛布を敷き、上にも5枚の毛布を掛けたが、それでも寒かったとのこと。
 しかし、ガソリンがあったから良かったけれど、いわき市の近所ではガソリンがなくて動くことのできない家族も少なくないそうだ。
 水や菓子パンやカップ麺などは、市から無料で配布されていたが、こんな食事では何日も体がもたない。ストーブの上での煮炊きやガスボンベでの調理を、体育館内でするのは禁止しているとのことで、寒さの続く中でこれからどうするのだろうか。とりあえず今日はお手伝いすることがないようだったので、後日にまた訪ねることで帰ってきた。

 
 

2011-03-15

東日本大地震2

 とりあえず家族に怪我はなく一安心したいところだが、連日のテレビ放映では、見るたびに死者・行方不明者の数が急増し、今日はすでに1万5000名をこえている。いったいどこまで被害者は増えるのだろうか。また孤立している被災者の方が、各地に数多くいる。北風や雪の中で、一刻も早く救援して欲しい。
 あわせて心配なのは、福島原発事故の深刻さである。原発の建物が煙と共に吹き飛んだときは、思わず我が目を疑った。それも1号機に続き3号機では、炎と同時に空高く舞い上がった。さらに昨晩からは2号機で同じトラブルへと広がり、今日は4号機の火災も発生し、放射能漏れが深刻化しているとか。
 北茨城市では、高い放射能を検出した。北風に乗って飛んできたのだろう。南茨城に位置する我が家にも、いずれ風や雨で流れてくるだろう。好きなことを61年間やってきた私だが、まだやりたいことがいくつもあるので健康は維持したい。さらには近くに可愛い孫が2人いるし、この6月には3人目の孫が長女に産まれる。そんな子や孫たちに悪影響が出はしないかと心配し、無責任な原発推進者たちに激しい憤りを感じる。
 ところで「非文化人」のどこかのアホな知事が、今回の震災を「天罰だ」と公式の場で発言したとのこと。同じ日本人の言うことかと、まったく情けなくなる。すぐさま都知事の職を辞めるべきなのに、また次の選挙に立候補するというので開いた口がふさがらない。

2011-03-12

東日本大地震1

 いやあ、11日の地震には驚いた。渋谷で日本生協連の仲間との集会が夕方からあり、出掛けようとしたときに最初の地震がやってきた。本棚は倒れるは、ガラスの食器は棚から落ちて割れるし、心底怖いと思った。携帯電話も通じないし、電車もストップしていて動きようがない。もっとも都内に出掛けていたら、今度は帰ることができなくなっていた。
 何度かの強い揺れが続き、そのたびに妻と外に出て近所の人たちと立ち話を繰り返した。そのうちに日が沈んだが停電は続き、懐中電灯とローソクで明かりをとった。しかし、ローソクは火事にもなりかねないので、庭にセットしてあるソーラ充電の防犯灯を2本抜いてきて部屋を明るくし夕食をすませた。
 電気が流れたのは、12日の午前3時過ぎ。さっそくテレビをつけて東北の状況を見て再度ビックリ。巨大な津波に民家や車などが流されている。2004年のスマトラ沖地震のときを思い出した。死者と行方不明がどんどん増え、1000人から1300人にもなり、さらに増えそう。
 高知の実家や親類から見舞いの電話が入り、さらに沖縄の知人からも「大丈夫か?」との連絡があって元気をもらったし、フィリピンやスリランカやネパールからもメールや国際電話による連絡が来たのにはこちらが驚いた。海外でもかなり大々的に報道されているとのこと。
 近所では屋根と塀の破損が何軒かあった。宮城や岩手の生協の仲間が心配。

2011-03-03

フィリピンの旅8

3月2日(水)
 9時にロビーに集合し、今日も遅れてきた車でNGO「パアララン・パンタオ」へ。この団体は、ゴミの山の近くで2ヵ所のフリースクールを運営している。高齢の代表レティシアさんが1989年に自力で設立したもので、2年前にも訪ねて話を聞いたが、その努力にはただただ頭が下がる。それも彼女は肩肘はってやっているのではなく、食事のときの飲み物で水やジュースを前にして説明するとき、ないにも関わらず「ビールですか、ワインですか」と付け足すし、いつもお金がなくて困っているが、「いざとなれば日本へ行って、厚い化粧をして踊り子となって稼ぐ」と、ユーモアあふれる人でもある。
 無料で開く教室は狭く、午前と午後に子どもたちは入れ替えている。そうした勉強も魅力だが、子どもたちにとっては無料の食事がそれ以上に魅力的なようだ。
 すぐ近くにゴミの山がそびえている。写真を撮ろうとしたら、市の職員が飛んできて写真はダメときつい口調で厳命された。外聞を気にしてのことだろうが、事実は事実である。他の場所からバックに写るようにしていくつかゴミ山を撮った。
 「パアララン・パンタオ」に通う子どもの家庭をいくつか見せてもらったが、例えば3畳ほどで親子5人が住み、よくこれだけ狭い空間で寝るものと驚く。これでも路上に比べれば、屋根や壁があるだけ幸せである。
 夜はキャロルが訪ねて来てくれた。66歳になった彼女はゲッソリとやつれて以前の面影はなくなり、杖をつきつつ娘のヒデコ(18歳)に手を引いてもらいつつ歩いていた。夕食は近くの串焼きやで、飲み食いし1人200ペソ(400円)。



フィリピンの旅7

3月1日(火)
 10時半にロビーへ集合するが、迎えの車が来たのは11時過ぎ。これも時間を気にしないフィリピンタイム。NGO「バンガラップ・シェルター・フォー・ストリートチルドレン」を訪問し、責任者から説明を受ける。路上で暮らす男の子で7歳から17歳を対象にして、ここの施設で集団生活をし、公立の学校に通っている。なお施設の名称は、「路上の子どもたちに夢をもたらす場所」という意味である。1989年から活動しているカトリック系の施設で、日本からの支援者も多く、2年前に会った横浜の林さんは、80歳の今も元気で応援しており、4月にもまたあるイベントのため来訪するとことであった。
 1000万人をこえるマニラで、約7万人のストリートチルドレンがいるのではと職員は話していたが、正確な統計はないようである。
 1時から在日本大使館を相川さんと訪ねる。様子を知りたいとのことである大使館員からの要請で行ったが、何と食事時間がのびているとのことで、入り口において30℃を超える炎天下30分も待たされてしまった。当人は謙虚な人で好感を持つことができた。待たされたのは、何かの手違いだろう。
 雑談は30分ほどで終えた。「バランガイ」の日本訳について質問したが、適当な日本語がなくて大使館もカタカナでそのまま使用しているとのことであった。
 ホテルにタクシーで戻った後、一人で外に出て床屋へ行く。入り口にはショットガンを持った守衛が2人いて驚いた。床屋とマッサージを兼ねた店で、マッサージをする若い女性が何人もおしゃべりをしていた。散髪代は250ペソ(500円)でサッパリした。
 夜は、ホテルを訪ねてきたジョバンニと久しぶりに会い、近くの中華店で相川夫妻と一緒に食事した。アバタンでの話をし、中国製の格安発電機についてどう思うのか質問したが、今は風力発電を担当しているので、水力の担当者に聞いてみると彼はメモをしていた。
 レストランではビールをしこたま飲み、かつホテルに戻って相川さんがお参りに使った日本酒を飲み、フラフラになって部屋に戻り、そのまま熟睡した。

2011-03-01

フィリピンの旅6

28日(月)
 7時に長距離バスへみんなで乗り、一路マニラを目指す。2時間ほどで山を降りると、もう30℃ほどの猛暑。窓の外では稲刈りをしていた。5時間ほどしたソラノで他のバスに乗り換えて、マニラに着いたのは夕方の5時。マニラ湾の夕焼けがきれいだった。
 シャワーを使いつつ、山で着ていた衣服を全て足踏みして洗濯。体のあちこちが痒く、鏡に映してみると、背中や首などにもダニに喰われていた。12ヵ所の全てにメンタームを付けて、かつ衣服でこするとなぜか腫れが広がるのでバンドエイドを貼った。毎回のことながら、これで1週間はかゆみが続く。

フィリピンの旅5

27日(日)
 朝は6時前に村中の鶏が鳴き叫び、いやがうえでも目が覚める。寒くてズボンとセーターを着たまま寝袋に入っていたが、2日目にして心配していたダニに3ヵ所腕を喰われてしまった。
 朝にはセサーが昨晩合意した内容の文書を作成して持ってくるはずであったが、いつまでたっても来ない。村長が教会へ行こうというので、11時には戻ってくることができるかと問うとOKとのことで、10分ほど歩いて出かけた。
 「アメージング グレイス」などの賛美歌をいくつか歌い、次に村長の長い話があって昨晩我々と合意したことについてもふれていた。
 途中で抜け出して村に戻るとセサーが来ていたが、パソコンが故障したとのことで文書はなんと手書き。昨晩は合計で9万5000ペソだったが、雑費として5000ペソを追加し、こちらが提示した10万ペソにしっかりと合わせてきた。
 11時半に村を出て、まずは相川さんの父母が眠る地をお参り。急流の小川を横切り、目的地で線香をあげ、私のお経でお参りした。そこまでは良かったが、片付けて帰ろうとしたすぐに今度は相川さんが1mほど下に落ちて背中を強く打ってしまった。相川さんは足を引きつつ休み休みで、どうにかジプニーの待つ上の場所を目指した。
 途中から村長が追いかけてきて、日本から送金する口座番号を聞くことができたことは良かったが、この地に眠る日本兵の供養を我々がするので日本酒を置いていけとか、もしくは金をくれないかとしつこく言い出したのには閉口した。供養といいつつ、自分たちで飲みたいのはみえみえであり、少しがっかりした。私は「次のときに」とかわしたが、我々がジプニーに乗ってからも村長はあきらめない。「100ペソ」を強調し、私は引き続き無視しようとしたが、相川さんが気前よく払ってしまった。
 なんとか理由を付けて金をねだる人と、それに対して良かれと思い込んで払う日本人の関係は、どこかで断ち切らないと本当の意味の友好には決してならないし、こうした個人プレイがNGOなどの組織を崩壊させていく。

フィリピンの旅4

26日(土) 午前中は特別に用事がないので、村の中をスケッチしてまわる。木造の民家、丘の上にある学校、棚田など、どこもが絵になる。
 学校は休みだったが、1人の女の先生が出勤していたので職員室で少し懇談する。生徒は166名で、先生が6人と校長が1人とのこと。10年前は120名ほどであったから、1000名足らずの村で子どもの数がかなり増えている。
 午後は、面白い木があったのでノミと槌を借りてお面を創った。
 夜、セサーとカルロスを交えて、相川さんと私の4名で相談する。2000年のカセッピで設置した施設や装置を再利用し、発電機は中国製の安いものを使い、総額10万ペソ(20万円)の援助をお願いしたいとのこと。それで3集落の36世帯に送電が可能とのことで合意した。パソコンで要請文書を作ることで話は終えた。この段階で、すでにブランディは2本が空になっていた。
 夜は村の広場で民族の踊りを披露してくれて、その輪に私たち日本人も加わって遅くまで楽しんだ。
 ふと広場を離れて、学校に向かう山道を少し登った。広場の小さな明かりが見えなくなるとあたりは真っ暗な闇の中。見上げるとイルミネーションのように大きな星が無数に広がっていて圧倒された。天の川が、まるで雲のように流れている。大宇宙という自然の中に私がいることを、光のない場所で実感できた。自然との関係を遮断してきた文化とは、いったい何だったのだろうかと、ふと考えてしまった。

フィリピンの旅3

25日(金)
 10時にバナウエを改造ジープのジプニーで出発し、一路山道を登ってアバタン村へと向かう。一部は舗装されているが、大半は土の凸凹道だし、さらには土砂崩れがいたるところで発生していた。乾季だというのに雨がふるためである。スリランカも同じで、どうも地球規模で気候がおかしくなっているようで心配だ。
 約2時半で目的のアバタン村のアムロ集落着。昼飯の持参したサンドイッチを食べ、グループはそこから一気に山道を下って目的の村へ。私は相川さん夫妻と案内のマーチンやセサーやエドワードを伴ってもう少し先までジプニーで行き、なだらかな道を下る。それでも相川さんの奥さんは2度転び、ひじに擦り傷を受けた。
 アバタン村の中心のバンガワン集落では、カルロス村長の家に今回も3名で泊めさせてもらう。食事の後で村長と英語で意見交換。2003年から日本政府とフィピン政府の支援による大掛かりな開発プロジェクトが進行していることを始めて知った。
 持参したブランディ3本が、次々にやってくる村人で2時間程度でなくなり、さらに飲もうとするので止めて2階へあげた。明日の分がなくなってしまう。それにしても36度もあるブランディを、村の男性はグイと一気に飲むのには恐れ入る。ここでは正月でも飲むことのできない高級酒だから、同じのん兵衛として気持ちはわからないでもないが。
 何匹もの蛍が木のまわりで飛び交い、しばし見とれてしまった。
食事は、今回すべてマーチンがってくれた。ライスにインスタントラーメン、インゲンのような豆のボイルなどであった。

2011-02-27

フィリピンの旅2

 2泊の山奥から、ふもとにある小さな町に戻ってきた。順番にどう行動したか記録しておく。
 まずは村に入るまでの風景。

2011-02-24

2年ぶりのフィリピン

22日の夕方6時に成田をたち、10時過ぎにフィリピンはマニラ空港につく。時差はマイナス1時間で時差ぼけはないが、温度差約20度ありムッとした外気に触れる。
 タクシーを使ってホテルに入る。2年前と同じようにホテルの前の道路では親子の家族が何組も寝ている。ツアーのメンバー7名で簡単な打ち合わせをし、すぐに部屋で休む。
 23日の朝8時に、4名だけで先にバナウエイを目指す。9時まえにバスに乗り、ソラノに着いたのはすでに5時。それからジプニーを2回乗り継いで、目的のバナウエイに着いたのは7時半になっていた。暗くて世界遺産のライステラスをみることができない。すぐに相川夫妻とエドワードで夕食し、疲れていたのですぐに寝る。いつも以上に寒く、少し喉が痛くなり、ベッドでやむなく寝袋も使う。
 24日の朝に後から来たメンバーと合流し、昼食の後で故メイヤー博士の墓に行き、線香を灯してお参りをする。いつものことながら私はにわか坊主になり、暗誦しているお経を読む。
 その後はトライスクルに分乗してライステラスのビュウポイントへ。天まで届くライステラスがすこにあった。明日からの食料を買い、今日の準備は終わった。

2011-02-21

2年ぶりのフィリピンへ

 明日22日から3月4日まで、フィリピンはルソン島へ。加わっているNGO「ストリートチルドレンを考える会」のスタディーツアーで、山奥にあるアバタン村での交流と、マニラでのストリートチルドレンたちに出会う旅である。参加者は7名。中でも高齢で病気の相川夫妻が、ぜひ無事に帰ってきてほしいものだ。
 私にとっては、前半のアバタン村がメイン。2000年当時には電気がまだなく、240万円集めて小型の水力発電装置を、地元の人々やNGOにも協力してもらって設置した。それ以来、何度も訪ねている山村である。成田からマニラまでは5時間ほどだが、そこからが遠い。ふもとの小さな町まで丸1日かかり、そこで1泊して市場で買出しをし、ジプニーで山道を2時間ほど登り、そこからは徒歩で村へと向かう。村では3日の滞在だが、帰りも同じ行程なのでそれは時間のかかる旅となる。
 今回も寝袋を持ち、風呂もない村での2泊の自炊生活である。日本では経験のできないことがいくつもできるので楽しみだが、いつもどんなに防御策をしても強力なダニに喰われることが唯一の悩み。
 まあ、どうにかなるだろう。
写真は、フィリピンとまったく関係のない上野は寛永寺のあるお堂。なかなか味のある雰囲気を醸していた。

2011-02-11

金子みすゞの展示会

 2月10日に日本橋三越で開催中の「金子みすゞ展」に行ってきた。平日の昼間にもかかわらず、会場は大混雑。年配の女性が多く、たくさんの展示を観ていた。中には白い杖を持った人の傍で、ひとつひとつを解説している方もいてファンの幅の広さに驚いた。
 南医療生協のキャッチフレーズにも使っている「みんなちがってみんないい」と結んだ代表作の「私と小鳥と鈴」や、「こっつんこっつん、打(ぶ)たれる土は」ではじまる「土」など、よくこれだけの大きな世界を簡潔にまとめあげたと驚く。
 みすゞの生まれ育った山口県先崎の町並みや地図なども展示してあってながめた。5年ほど前に妻とある安いツアーで先崎を訪ねたことがある。みすゞ記念館による時間はなかったが、静かなたたずまいの町並みを見ることができ、みすゞの過ごした時代を偲ぶことができた。
 と同時に私にとって先崎は、かつて朝鮮から強制連行された方たちが、第二次世界大戦後に開放されて日本から帰国するとき集まった港として印象深い。競い合って小さな漁船を借りて、朝鮮の釜山を目指した。ところが老朽化した船や、台風などの影響もあって難破した船が少なくない。このため犠牲になった方々が少なくない。

2011-02-09

コープソリューション掲載記事10 大学生協の2011年チャレンジ   

大学生協の2011年チャレンジ  
2011年1月17日 生協研究家 西村一郎
 1月14日に大学生協連の新春懇談会があり、当面する大学生協の諸課題について報告があった。全国で展開する大学生協は、すでに組合員数は150万人をこえ、年間の供給高は2000億円にも達し、組合員や大学からの指示を広げつつある。しかし、国際的な金融危機などは、日本の大学生協の経営も悪化させている。こうした中で大学生協は、どのような道筋を描いているのだろうか。

  大学生協は地球市民育成の場
庄司興吉会長理事より、「地球市民社会と大学生協の役割」と題して大学生協の社会的役割のマクロ的な話があった。9.11から始まったテロとの戦争や、2008年のリーマンショックなどにより、アメリカだけでなく国際社会は大きく揺れ動いている。そうした中でG8からG20に代表されるような新興国の台頭が進み、政治経済主体の対等化と同時に、市民民主主義の普及が著しい。そこでは市民が国家を通じて金融資本を規制しつつ、自らの事業を広げていくことが重要になり、そのもっとも有力な形態が協同組合である。
大学生協は日本における協同組合の源流の1つであり、国際的な感覚を持って21世紀を背負って立つ地球市民の育成の場となっていく。こうした大学生協で学んだことを基礎として、たくさんの社会的協同組合が各地に広がり、日本を協同・協力・自立・参加の社会にしていくという夢を語っていた。
国際化がますます進む中で、世界を視野に入れた地球市民の存在がますます大切な時代となり、そのための学びの場が大学生協の役割であるとの指摘は深い意味がある。

・大学生協連の2011年テーマ
 次に大学生協連和田寿昭専務理事から、「2011年のテーマ」と題して事業課題の報告があった。昨年12月の総会には全国から950名が参加し、「大学と協力し学生支援の輪を広げ、組合員の参加と協同で学生の成長を育もう」とのテーマを確認し、それに基づく2011年の取り組みである。まず高等教育における大学生協の役割として、学生支援と当面する大学の課題を見極めつつ、生協として責任をもって対応できる事業領域を設定している。
 学生支援では、勉学や研究の支援・キャリア形成・奨学金・住まいの斡旋・教科書や教材の提供・心身の健康管理・購買・食堂・留学生支援がある。他方で大学の課題では、勉学研究の高次化・学生の就職・外部資金の獲得・地域社会との連携・入学定員の充足・退学者の削減・留学生の受け入れや派遣などがある。
こうした大学の中で生協としては、学生の成長支援・学びやキャリア支援・仲間づくり・勉学研究用品の提供・食生活応援・大学業務の受託・留学生支援で役割を発揮し、大学の魅力づくりに貢献するとしている。激変する大学において、生協の役割を多面的にとらえて発揮することは大切なことである。 

・共済の取り組み
 生協法の改正によって、2010年に共済部を独立させて大学生協共済連を発足させている。その濱田康行会長理事の挨拶と小野寺正純専務理事からの報告があった。
 全国で64万人が加入し、1年間の支払いは30,545件で236000万円にもおよぶ。件数で多いのは、事故通院、病気入院、手術、事故入院、父母死亡見舞金などである。
学生共済には、3つの助け合いがあることを強調している。1つ目は「もしも」のときで、病気や事故になったとき共済を通して多くの仲間が助けてくれる。2つ目は「もしもにならないため」で、病気や事故に合わないために健康維持や身の回りの安全について学びあうことである。3つ目は、「もしもにならなくても」困った仲間を助け合うことにつながる。
この2つ目と3つ目が、保険にはない共済だけの特徴である。「健康安全&事故防止」活動の具体的な取り組みとしては、第一に健康安全を呼びかけるものとして、健康チェック企画・メンタルヘルス・イッキ飲みやアルコールハラスメント防止・防災対策・食生活相談会・スポーツ企画・自転車やバイク点検などがある。第二に健康で安全な学生生活について考えるために、給付事例の学習会や報告をおこなっている。第三には共済活動について学びあうことで、全国や各地で共済セミナーを開催している。
思いがけない病気や事故による出費を学生共済によってカバーするため、協同組合の原点に立って助け合いの輪を広げている。

  学生の参加
組合員の大半をしめるのは学生であり、その代表として全国大学生協連の北橋達也学生委員長から、「大学生協を通じた学生の参加」のテーマで報告があった。そこでのキャッチフレーズは、「つながる元気、ときめきキャンバス」である。組合員の願いに基づく店舗や活動にするため、組合員の声による店づくりや商品開発もあれば、組合員の生活に基づく学習や交流などもある。
こうして自分たちの大学生活をもっと盛り上げようと、自主的に活動している学生委員は全国に8900名もいる。
具体的な活動は、①健康安全・食育、②キャリア形成支援、③環境活動、④平和・国際交流活動である。健康安全では、食生活診断サイトや自炊の冊子を作るとか、栄養士と協力して食生活相談などがある。キャリア形成支援では、友達と一緒に楽しく英語を学ぶTOEIC勉強会や、先輩による体験談とアドバイスをする就職活動サポートもあれば、増える留学生との交流を通して異文化に触れるTea Partyも開催している。環境問題では、不用品を再利用するリユース市や、ペットボトルのフタを利用するエコキャップ活動などがある。また平和・国際交流活動では、広島や長崎や沖縄を訪問して学びあう「Peace Now!」や、平和の折鶴作りなどがある。
学生の組合員が仲間と協力して実践し、自らの力を育んでいることは素晴らしい。

  さらなる大学生協の役割を発揮するために
厳しい経営環境の中でいくつもの創意工夫をし、事業や運動の領域を広げている。生協や組合員の数が増えていることは、社会からの期待に大学生協が応えている証拠として評価してよいだろう。それを前提にしつつも、しかし私には、大学生協や事業連合の現状をみるといくつか気になることがある。
第一が、PDCAのマネジメントサイクルが不充分でないかとの危惧である。将来の在りたい姿を示すビジョンを示し、そこに向かうための具体的な進め方であるアクションプランや中期計画があり、さらに年度の方針を策定している。それらにはいくつものマネジメントサイクルが存在するが、毎年のように減少し続ける共済加入者や、東京事業連合の2年連続赤字経営などは、マネジメントサイクルの特にC(点検)とA(対策)が、充分でないことを示しているのではないだろうか。
第二に、経営責任の所在にかかわる組織のあり方である。店の事業には、大学生協連の1部署である地域センターと、事業連合と各生協が協力しつつ関わっている。地域生協よりも早く事業連合の組織を各地に作った大学生協では、2010年に東日本の4事業連合を東京に集中させるなどその機能をさらに強めつつある。事業連合の機能強化によるメリットは大きいが、反面で事業連合に権限を集中し続けると、参加する会員生協の空洞化につながり、独自の課題を自らの意志と力で切り開くことが弱くなりやすいので注意がいる。
第三に現在の経営上の問題を、職員や労組と理事会がどこまで共有化できているかである。いくら素晴らしいビジョンや年度方針を作っても、一人ひとりの組合員に商品やサービスを通じて触れるのは、パートを含めた全ての職員であり、職員が「その気」にならなければ絵に描いた餅となりかねない。そうならないためには、全ての職員が経営の実態を共有化し、ビジョンや中計における自らの役割を認識することは何より大切である。
大学生協連の掲げた崇高なビジョンに進むため、こうした点での議論もぜひ深めていただき、全国の大学生協のさらなる発展を今後も期待したい。
  コープソリューション2011年2月号

コープソリューション掲載記事9 「みやぎ生協に期待すること」

「みやぎ生協に期待すること」 ー五方良しの経営めざしー        


          生協研究家  西村一郎
はじめに
 みやぎ生協労組主催のシンポジウムが2010年10月23日に仙台で開催となり、そのときパネリストの一人として参加させてもらった。そのとき私が報告した要旨が以下である。県民世帯の実に7割近くと全国一組織しているみやぎ生協であるが、店舗事業の赤字に代表される厳しい経営が続き、労組としても経営を含めた生協の在り方を議論しようとなった。そこでここまで大きく成長してきたことは高く評価しつつも、原点に立ち返ってこれからの進むべき方向を考えることが必要になっている。他の生協にも当てはまることが少なくない。

問題意識
 第一に、生協内に広がる思考停止である。増える大企業病やヒラメ職員と表現してもいい内容で、本部や上司からの指示待ち職員が増えている。過去の成功体験に安住することによって自己変革せず、かつ生協人同士の馴れ合いから「集団責任は無責任」な状態も一部に現れている。「大きいことは良いこと」として、いくつかの理事会や労組もしゃにむに合併を追及していることに私は疑問がある。規模の拡大によるマスメリットはある反面で、組合員の参加やガバナンスのあり方などで課題も多い。また中期計画などの方針書はきれいにまとめてあるが、それで職員や組合員がどう参画すれば良いのか不明確で、絵に描いた餅となっていることが少なくない。
第二に、変革の主体は職員や組合員の一人ひとりの内部にあることである。明治時代の初期に教育と訳したedukationの語源には、内部から引き出す意味があり、人々の発達する力は各々の内部にある。それを確信せずに、ごく一部のトップや外部のコンサルタントだけの力で変革しようとしても無理である。たとえりっぱな計画書を作成してトップダウンで実行させようとしても、職員の主体性を育むことにはならず、全ての職員が一丸となって実践することにつながらず、充分な成果は得られないことは、たとえばこれまでの日本生協連の作成したいくつものビジョンの経過を見れば明らかであろう。
 第三に、機能の集中と分散の使い分けである。たしかにシステムやバイイングなどの機能は、集中させることによって効果を高めることができる。しかし、地域社会との関係における権限などで、逆に分散させることの方が大切なものもある。
 このようにして、みやぎ生協だけでなく他の生協も、そのあり方の根底に関わる部分から見直さなくてはならない局面にきているとみてよいだろう。

原点回帰と動向把握
 こうした局面に立ったときに、すべきことは原点回帰と動向把握である。
 まず生協の原点では、生協法の第一条で明記してある「国民生活の安定と生活文化の向上」がある。みやぎ生協の原点としては、「わたしたちは、協同の力で、人間らしいくらしを創造し、平和で持続可能な社会を実現します」(めざすもの)がある。これらに対応するみやぎ生協労組の原点が問われている。
 次に動向把握である。一般社会として世界で、日本で、宮城県で、そして地域において、経済や人々の暮らしは、いったいどう動いているのかの認識することである。格差社会が拡がる中で、一人ひとりの自立や互助を大切にする生協が、社会からますます求められている。
 
暮らしは 
第1に高齢化である。生協組合員の平均年齢は2009年で53.1歳となっており、これは国民の平均年齢である44.3歳より8.8歳も高く、一般社会以上に生協の組合員における高齢化が進行している。同時に高齢化は、認知症の増加にも連動する。
第2は世帯の変化である。社会一般では単身者が増加して31%と一番多くを占めているが、生協ではわずか6%でしかない。逆に夫婦と子どもの世帯は、社会で28%に対して生協では46%をも占めている。
 第3は過疎化である。大都市への集中だけでなく、地方の県内でも県庁所在地への人口が集中し、山間地や島だけでなく旧市街地や古い団地などでも多様化した限界集落がすすみ、地域格差が拡がっている。
第4に買い物弱者とか買い物難民と呼ばれる人たちの増加である。交通の不便な山間地や島だけでなく、都心や中心市街地などで地元食料品店や日用品店の撤退した地区を意味する食の砂漠Food Desertが拡大しつつある。
こうした暮らしの変化の中で、たとえば移動販売車が走っている地域もある。鳥取県の江府町(こうふちょう 3,316人)では演歌を流しつつ1日に10カ所を回り、 1分で開店し30分間で生鮮を含め700種類を販売している。これに学び福井県民生協では、現在8台の車を走らせて地域から好評である。  

みやぎ生協職員の実態
2008年に生協総研で実施した「生協における働き方研究会」の調査では、以下のような数値でみやぎ生協における職員の実態が浮き彫りとなった。

第1に残業の多さである。正規の男性では、月に60時間~80時間が9.8%で、月80時以上でも7.3%いる。パートの女性は、毎日が14.8%と「ほとんど毎日」が24.1%と恒常化している。また委託では、月40時間~60時間で17.5% 80時間以上でも5.3%いる。
第2に仕事の満足感は、パートの女性で72.2%と一番高く、正規の男性では56.1%、委託では21.1%と低くなっている。 

第3に生協の将来ビジョンについてである。ビジョンについては、正規の男性で78%と女性の67%が、パートの女性の54%と委託の男性の35%が知っている。
 その評価では、生協全体でビジョンに向かっていると思うのは、正規の男性で37%、女性で67% パートの女性で54%である。職場の運営にビジョンが活かされていると思うのは、正規の男性32%と女性33%、パートの女性52%と低い。またビジョンが働きがいになっていると思うのは、正規の男性は39%、女性は67%、パートの女性は57%と低い。
このため生協で働くことを子どもや知人に薦めると答えた人は、正規の男性で24%、女性で50%、パートの女性で44と少ない。

経営哲学の確立
近江商人の経営哲学である「三方良し」(買い手良し、世間良し、売り手良し)になぞらえれば、生協の経営哲学においては、先の3つに働き手と作り手を加えた「五方良し」にすることが大切ではないだろうか。
第1に、買い手である組合員一人ひとりの暮らしを応援することである。現行の食や共済の提供だけでなく、介護や子育てや健康・医療での生協の役割発揮が期待されている。また組合員の主体性を高め自立を育むため、誰もが参加できる場の提供や、地域づくりへ貢献し、人と人のネットワークを無数に拡げることである。
第2に、作り手である生産者は、生協のパートナーとして大切である。高齢化した農家の平均年齢は2009年65.3歳となり、65歳以上は61%の177万人もいるから、このままでは農業の担い手が5年後には激減する。そこで生協による生産への関与で、大小の生協版農場を具体化してはどうだろうか。
第3に、働き手である職員の満足である。そこには、①仕事の満足としてやりがいや成長感や自分らしさや認知、②職場の満足として課題に対する姿勢や安心感や一体感、③上司の満足として判断や業務指示の信頼やコミュニケーション、④生協の満足としてトップへの信頼や人事・労働環境の満足がある。ところで
生協における働きがいの3要素として、自らの意思で考え判断して主体的に働くことや、協同組合としての生協や職場や仕事であること、そして組合員からの感謝や励ましがある。
 第4に、世間良しとしての社会貢献である。組合員の暮らしを応援するため
生協版社会インフラを創り、食、健康・医療、保障、仕事、介護、子育てなどで生協ならではの役割発揮である。暮らしを応援する商品やサービスの提供はもとより、事業ネットワーク   によって複数の事業で地域に応じて展開し、また班をコミュニティの基礎単位として再構築し、こうして地域作りへ貢献することである。
第5に、売り手としての生協の経営である。組合員や地域の求める商品やサービスの開発、本部経費の削減、連帯組織では事業連合や日本生協連は裏方に徹すること、店舗事業の改革では原則の徹底を図り、組合員による事業参加や人材育成では、特にミドルマネジャーの育成が急務となっている。
 (コープソリューション 2011年1月号掲載)




コープソリューション掲載記事7 「孫の二乗の兵法」から生協が学ぶこと

「孫の二乗の兵法」から生協が学ぶこと
                             生協研究家 西村一郎
「孫の二乗の兵法」とは
 ソフトバンクの孫正義社長が後継者を育成するため、20107月にソフトバンク・アカデミアとして戦略特別講義を開催した。そのときのテーマが、孫子の兵法と孫正義の考えを掛け合わせた「孫の二乗の兵法」である。具体的には、以下の25の漢字で表現した文字盤に示した経営指針であり、孫正義の経営哲学といってもいいだろう。
 IT産業における経営戦略ではあるが、組織を動かすポイントにあふれ、生協に引き寄せても参考になることがいくつもある。表のような5段階で、上から理念→ビジョン→戦略→将の心構え→戦術となっている。  表



理念
 戦いに勝つための条件として、『孫子の兵法』であげている道・天・地・将・法であり、事業を行う生協にとっても大切で、一番の基礎を構築する部分である。社会的に存在するため、何にこだわって事業を経営するのか明らかにすることでもある。
 まず「道」でソフトバンクにおいては、「情報革命で人々を幸せに」するとしている。事業組織の大義名分であり、生協に当てはめると生協法第1条(目的)の「国民生活の安定と生活文化の向上」になるだろう。
 「天」は天の時であり、孫は情報ビッグバン・マイクロプロセッサー・インターネットをあげている。時流に乗ることであり、生協にとっては格差社会の拡がりによって、協同による助け合いの必要性がますます国民の間に高まっている時代を指す。
 「地」は地の利を指し、2015年にインターネット人口がアジアで26億人となって、世界の半分を占めるとしている。生協にとっては、定款に定める地域を熟知し、まさに地の利を活かして事業を展開することが重要である。合併の議論においても、地の利を活かすことができるかどうかは大きなポイントの1つである。ちなみに「天の時」と「地の利」に「人の和」を加えて、成功の3条件と言う。
 「将」はリーダーのことで、優れた将を得ることを孫は強調する。適任者がいなくて消去法でたまたまトップになるのでなく、生協においても優れた将を継続して組織的に育てることである。
 「法」は、組織の仕組みを整えることとしている。事業規模や社会の変化などによって仕組みは変革しなくてはならず、生協においても同じであり、巨額の赤字を垂れ流ししている店舗事業はもとより、共同購入や共済においても過去の成功体験にいつまでも安住しているわけにいかず、連帯組織である事業連合や日本生協連のあり方も含めて、まさに法の見直しが求められている。

ビジョン
 ビジョンをリーダーが持つべき智(知恵)とし、頂・情・略・七・闘をあげている。
 まず「頂」では、登る山を決め、次に山から見た景色をイメージせよと強調している。
 地域生協では、食の山頂を中心にして共済と福祉の山も決めているが、それぞれから観た下界をどのようにイメージしているのであろうか。
 「情」は情報収集のことで、経営の舵取りをするのに不可欠の項目である。生協においても同じく重要であり、組合員に関する情報はもとより、規模が大きくなればなるほど地域社会や暮らしに関する情報を把握し、経営に反映させなくてはならない。
 「略」は各種戦略の意味で、集めた情報をそぎ落として絞り込み、また勝った後のイメージを先に想像せよと教えている。これからは情報社会とも言われる時代に、生協としても必要な情報をいかに正確にかつ迅速に把握するのかポイントとなっている。
 「七」は七割を意味し、五分五分の時に戦いを仕掛ける者は愚かであり、勝率9割では手遅れになるとタイミングを説明し、生協の経営でも大切である。
 「闘」は、命をかけて闘い、闘って初めて事が成せると話している。保身だけでは、いずれ事業が破綻するのは世の常である。生協の過去の成功体験とも闘い、ときには泥をかぶってでも働くトップやマネジャーが求められている。
 
戦略
 戦略を第一人者たらんとする者の闘い方とし、一・流・攻・守・群をあげている。
 「一」では、NO1への強いこだわりとして、社会的な存在価値をアピールするためにも大切である。これまでの生協であれば、「食の安心・安全」との神話で良かったかも知れないが、もっと具体的で科学的なNO1を明示することである。
 「流」では、時代の流れを見極めるとし、農耕社会から工業社会になり、それが今や情報社会になりつつあると説明している。有限な資源を使い、大量生産・大量消費・大量廃棄という工業社会が限界に近づきつつある今日、生協もその流れを正確に理解しなくては社会的存在価値をなくしてしまう。
 「攻」は討って出ることで、営業・技術開発・M&A(合併と買収)・新規事業を紹介している。生協における食の事業でも、共同購入と店舗の業態だけでなく、インターネットスーパーや移動販売車など、新たな攻めが求められている。
逆の「守」は内部堅めであり、キャッシュフロー経営、コスト削減、投資の効率化、撤退、コンプライアンス、監査、報道リスクが当たるとしている。生協は社会的に善いことをしているとの認識のもとに甘えの構造が強く、経営責任の取り方であいまいなことが少なくないので守りは重要である。
 「群」は、戦略的シナジー(相乗効果)グループとして5000社の連携を目指し、そのためにもマルチブランドを創っていくとしている。生協においても共同購入・店舗・共済・福祉などの各業態を、事業の都合で縦割りにして経営するのでなく、組合員の暮らしや地域に合わせて、有機的に連携させたシナジー事業として展開させることだし、さらには医療生協や大学生協などとのコラボレーションも求められている。

将の心構え
 リーダーの心構えとして、智・信・仁・勇・厳が必要であるとしている。
まず「智」では、思考力・グローバル交渉力・プレゼン能力・テクノロジー・ファイナンス・分析力をあげている。権力を握った者が陥りやすい経験・勘・度胸による管理でなく、生協のリーダーにも智によるマネジメントが重要である。
 「信」では、同志的結合・パートナーシップ・信義・信用・信念を並べている。生協にすれば組合員や全職員との間だけでなく、全てのステークホルダーとの関係で信を大切にしなくてはならない。
 「仁」とは仁愛で、情け深い心で他人を思いやる意味である。人と人の結びつきで成立する協同組合の1つである生協にとっても、大切な要素である。
 「勇」では、大きな敵と戦う勇気と撤退の勇気を示している。資本主義の社会において、資本の論理に基づく株式会社でない事業組織が可能であると実践している生協にとって、大きな競争相手はたくさんあるし、これからも形を変えて出てくる。そうした相手と闘うには大きな勇気が必要で、また毎年増える巨額の赤字の店舗事業からは、撤退の勇気のいる生協が少なくない。
 「厳」では、誠の愛のため、時として鬼になれ、鬼になりきれない者はリーダーになれないとしている。他人よりも自らに厳しく当たることの大切さは、生協のリーダーにとっても同じである。

戦術
 最後の戦術では戦のやり方として、風・林・火・山・海をあげている。
 まず「風」は、まさに風のごとくのスピードである。「林」は「水面下での交渉」と説明しているように、波風を立てずに静かに事を進めることである。「火」では、「何が何でも革命的にやらなければならないときがあります」と、情熱をもつことの大切さを強調している。「山」では「ソフトバンクの事業領域は一貫して情報産業」と紹介し、不動の姿勢に触れていた。そうして最後の「海」では、「海のようにすべてを飲み込んだ平和な状態まで持っていって、初めて戦いは完結します」と結んでいる。
 それぞれの項目が、生協で経営するときの戦術として一考に値する。

生協に活かす
 こうした25文字は、生協に引き付けて考えてもそれぞれに意味がある。さらには経営だけでなく、組織を動かすことでは同じである労働組合にとっても噛み締める価値がある。あるテレビ番組で孫正義は、若者に向かって一番大切なこととして「志を高く」と強調していた。生協としての志の高さが、これまでになく求められている。
 同時に今回のアカデミアで学ぶべきことは、それぞれの生協のトップが、次のリーダー候補者に向けて熱くわかりやすく自らの言葉で語ることである。
  *コープソリューション 2010年11月号掲載