2011-03-30

孫の卒園式

 上の孫が早くも卒園することになり、何回も迎えに行っている保育園に自転車で出掛けた。会場のホールには日の丸もなく、「おめでとう」と大きく書いた紙が貼ってあり、ほのぼのとした雰囲気が気持ち良かった。
 式の冒頭に、東北関東大震災で亡くなった子どもたちに想いを寄せて黙祷。小学生だけでも1000人以上が死亡というから、どれだけの幼い子どもたちが犠牲になったことか。親や祖父母の気持ちを思うと胸が締め付けられる。
 賞状を受け取った子どもたちは、一人ひとりが親の前にまで行って「ありがとう」と言い、親もそれにコメントしていて楽しかった。
 二部では子どもたちの成長を披露してくれた。縄跳び、スキップ、太鼓などが続いた。子どもたちが、左右に持ったコマを同時に回したのには驚いた。遊びもすっかり変わっている。孫は縄跳びで少し失敗し、それがよほど悔しかったのか泣きはじめて、その後は涙を拭きつつの演技であった。これも成長するための一里塚。がんばれ、凛!

。ジジーがこれからも応援するから。
 

2011-03-28

フィリピンでの遺骨収集でとんでもないことが

 フィリピンの首都マニラでは、日本語による日刊紙「マニラ新聞」が発行されており、その3月27日付けの紙面がメールで送付されてきた。「盗骨被害者の男性自殺 遺骨収集に『無言の一石』イフガオ州」と大きくあり、小見出しは「協力費が『盗骨誘発』自殺の比人男性 村人分断の渦中に」とあり、このまえフィリピンで別れたばかりのセサーの顔写真が大きく載っている。
 2008年から日本の民間団体が、1柱につき4000ペソ(約8000円)で日本人の遺骨を集めていた。8000円は、日本ではさほどの価値はないが、現金収入のないフィリピンの山奥では、人の良心を奪う。古い骨で、日本人かフィリピン人かの区別はできない。金のために何と、地元で大切にしている現地の墓を掘り起こして換金する人が出始めた。セサーの墓も荒らされて、夢に先祖が出てきて嘆いており、ご先祖の霊をなぐさめるため豚3頭を使ったお祭りを準備していたそうだ。日本の民間団体のやり方が問題として、マニラにある日本大使館に抗議もしている。
 セサーには、8歳から1歳までの子どもが3人いる。さぞかし心残りであっただろう。1ヵ月前に2年ぶりで会って、2晩話し合ったし、食事や酒も楽しんだ。どこか元気がなく、またパソコンで清書すると約束した書類を手書きで持ってきたりして何かおかしいなと感じたが、まさか自殺するまで追い詰められていたとは知らなかった。
 それにしても66年前は戦争でフィリピンの人々に多大な犠牲を日本は与え、そして今回は形は違うにせよセサーやその家族に、大きな悲しみを与えている。先の戦争の根本的な反省をあいまいにしたことにより、こうした無責任な輩がまだ日本にはいる。同じ日本人として、怒りと同時に情けなくなる。
 写真は、在りし日のセサー。合掌

名古屋にて

 南医療生協での取材で20日から25日までまた名古屋に滞在した。今回も柴田駅近くの多世代住宅「わいわい長屋」でお世話になった。1泊3000円で、木の部屋やヒノキ風呂があり快適。星崎診療所やグループホーム「なも」、それに南生協病院やカナメ病院など、今回はできるだけ自分の足を使って歩いた。1日に2時間は歩いた日もあり、それも天白川のほとりは風が強くて寒いほどであった。
 ここでも東北関東大震災の影響がいろいろとあった。病院の産婦人科には、福島から2名の妊婦さんが避難している。海外に住むある方は、名古屋に住む娘に「移住してこい」と国際電話をかけてきたとのこと。
 南医療生協として支援の動きをしている

が、神戸のときと異なり、人の応援はしないことにしている。放射能の影響で、医療福祉生協としては政府のいう30kmでなく、海外と同じ90kmが危険との判断をしているそうだ。地図で福島原発を中心にして90kmを描いて驚いた。郡山市、福島市、高萩市などが入るし、仙台や会津若松や水戸にもうすぐかかる。90km以内が危険だとすると、ボランティアでの動きも神戸のときと同じにすると、後でとんでもない被害が広がる。
 写真は戦前からある住宅の1つで、伊勢湾台風のときに軒下まで水がきて土壁などは大破したが、その後補修して今は南医療生協の組合員でもある98歳の男性が1人で暮らしている。

2011-03-19

東日本大地震4

 早いもので地震が発生してから8日も過ぎた。まだ復興どころか福島原発事故は、さらに拡大しそうで不安がつのる。
 ところで住んでいる取手市に、新たに120名の避難者を受け入れることになったと今朝の新聞に書いてあった。福祉施設で過ごすことになるようだ。
 昨日、高知の弟から土佐文旦や作っているキューリが大量に届いた。2日前の高校の体育館では、まるで野菜類がなかった。そこで今朝、キューリや他の野菜をたくさん入れたポテトサラダをボール一杯作り、またキューリ8本は塩もみしてビニール袋に入れ、ビンで叩いて漬物にした。それらと文旦とオレンジを買い物用のビニール袋に入れて

リュックに詰め、昼前に体育館を訪ねた。
 今回は、体育館の入り口に市の職員が立っていて、持参した物を全て点検している。何と食べ物類は、全て加熱したものでなければダメとのこと。したがってポテサラはいいが、漬物と果物は受け取れないという。そんなバカな話はないので、上司に問い合わせをしろいうと、困った顔をして携帯電話をしていた。その結果、漬物はいいとなったが、やはり果物はダメとのこと。それでは「ミカンをボイルしてくれば良いのか」と怒鳴りたかったが、時間の無駄と感じて若い職員の前を離れた。指示されたことしかしないマミュアル人間が、ここまで拡がっている。まったく情けない話である。
 顔見知りの避難した女性に事情を話し、体育館の外に出てもらい、「高知から届いた文旦なので、よろしければ子どもたちと一緒に食べてもらえませんか」と伝えた。「ありがとうございます」とのことで、2人の女性に全部を渡した。寒い体育館なので、風邪などの予防になるビタミンの補給に、少しは役立ったことだろう。

2011-03-17

東日本大地震3


 今朝の新聞に、何と地元の取手一高の体育館に3家族11名が避難しているとのことで訪ねた。11日には常磐線が動かなくなり帰宅難民400名を受け入れた施設で、毛布は山積みしていたが、それでも底冷えのする施設である。
 避難者は20名をこえて、市の職員2名がまわりの世話などをしていた。いわき市から来た家族に話を聞くと、まず地震と津波で高台に避難し、それが解除になってホッとして我が家に帰ると、今度は原発の事故であわてて家族3名と、近所の知人(子ども4人の6人家族)でもって2台の車で東京に向かったとのこと。途中車で2泊し、東京にやっと着いたがどこも落ち着く場所がなく、家のあるいわき市に戻ろうと北上したが、高萩あたりで通行止めにあい、また東京方面に引き返して昨晩取手に来たとのこと。正確な情報が届かず、行ったり来たりしている。中には1歳3ヵ月の子どももいて、さぞかし苦労したことだろう。昨晩は、下に5枚の毛布を敷き、上にも5枚の毛布を掛けたが、それでも寒かったとのこと。
 しかし、ガソリンがあったから良かったけれど、いわき市の近所ではガソリンがなくて動くことのできない家族も少なくないそうだ。
 水や菓子パンやカップ麺などは、市から無料で配布されていたが、こんな食事では何日も体がもたない。ストーブの上での煮炊きやガスボンベでの調理を、体育館内でするのは禁止しているとのことで、寒さの続く中でこれからどうするのだろうか。とりあえず今日はお手伝いすることがないようだったので、後日にまた訪ねることで帰ってきた。

 
 

2011-03-15

東日本大地震2

 とりあえず家族に怪我はなく一安心したいところだが、連日のテレビ放映では、見るたびに死者・行方不明者の数が急増し、今日はすでに1万5000名をこえている。いったいどこまで被害者は増えるのだろうか。また孤立している被災者の方が、各地に数多くいる。北風や雪の中で、一刻も早く救援して欲しい。
 あわせて心配なのは、福島原発事故の深刻さである。原発の建物が煙と共に吹き飛んだときは、思わず我が目を疑った。それも1号機に続き3号機では、炎と同時に空高く舞い上がった。さらに昨晩からは2号機で同じトラブルへと広がり、今日は4号機の火災も発生し、放射能漏れが深刻化しているとか。
 北茨城市では、高い放射能を検出した。北風に乗って飛んできたのだろう。南茨城に位置する我が家にも、いずれ風や雨で流れてくるだろう。好きなことを61年間やってきた私だが、まだやりたいことがいくつもあるので健康は維持したい。さらには近くに可愛い孫が2人いるし、この6月には3人目の孫が長女に産まれる。そんな子や孫たちに悪影響が出はしないかと心配し、無責任な原発推進者たちに激しい憤りを感じる。
 ところで「非文化人」のどこかのアホな知事が、今回の震災を「天罰だ」と公式の場で発言したとのこと。同じ日本人の言うことかと、まったく情けなくなる。すぐさま都知事の職を辞めるべきなのに、また次の選挙に立候補するというので開いた口がふさがらない。

2011-03-12

東日本大地震1

 いやあ、11日の地震には驚いた。渋谷で日本生協連の仲間との集会が夕方からあり、出掛けようとしたときに最初の地震がやってきた。本棚は倒れるは、ガラスの食器は棚から落ちて割れるし、心底怖いと思った。携帯電話も通じないし、電車もストップしていて動きようがない。もっとも都内に出掛けていたら、今度は帰ることができなくなっていた。
 何度かの強い揺れが続き、そのたびに妻と外に出て近所の人たちと立ち話を繰り返した。そのうちに日が沈んだが停電は続き、懐中電灯とローソクで明かりをとった。しかし、ローソクは火事にもなりかねないので、庭にセットしてあるソーラ充電の防犯灯を2本抜いてきて部屋を明るくし夕食をすませた。
 電気が流れたのは、12日の午前3時過ぎ。さっそくテレビをつけて東北の状況を見て再度ビックリ。巨大な津波に民家や車などが流されている。2004年のスマトラ沖地震のときを思い出した。死者と行方不明がどんどん増え、1000人から1300人にもなり、さらに増えそう。
 高知の実家や親類から見舞いの電話が入り、さらに沖縄の知人からも「大丈夫か?」との連絡があって元気をもらったし、フィリピンやスリランカやネパールからもメールや国際電話による連絡が来たのにはこちらが驚いた。海外でもかなり大々的に報道されているとのこと。
 近所では屋根と塀の破損が何軒かあった。宮城や岩手の生協の仲間が心配。

2011-03-03

フィリピンの旅8

3月2日(水)
 9時にロビーに集合し、今日も遅れてきた車でNGO「パアララン・パンタオ」へ。この団体は、ゴミの山の近くで2ヵ所のフリースクールを運営している。高齢の代表レティシアさんが1989年に自力で設立したもので、2年前にも訪ねて話を聞いたが、その努力にはただただ頭が下がる。それも彼女は肩肘はってやっているのではなく、食事のときの飲み物で水やジュースを前にして説明するとき、ないにも関わらず「ビールですか、ワインですか」と付け足すし、いつもお金がなくて困っているが、「いざとなれば日本へ行って、厚い化粧をして踊り子となって稼ぐ」と、ユーモアあふれる人でもある。
 無料で開く教室は狭く、午前と午後に子どもたちは入れ替えている。そうした勉強も魅力だが、子どもたちにとっては無料の食事がそれ以上に魅力的なようだ。
 すぐ近くにゴミの山がそびえている。写真を撮ろうとしたら、市の職員が飛んできて写真はダメときつい口調で厳命された。外聞を気にしてのことだろうが、事実は事実である。他の場所からバックに写るようにしていくつかゴミ山を撮った。
 「パアララン・パンタオ」に通う子どもの家庭をいくつか見せてもらったが、例えば3畳ほどで親子5人が住み、よくこれだけ狭い空間で寝るものと驚く。これでも路上に比べれば、屋根や壁があるだけ幸せである。
 夜はキャロルが訪ねて来てくれた。66歳になった彼女はゲッソリとやつれて以前の面影はなくなり、杖をつきつつ娘のヒデコ(18歳)に手を引いてもらいつつ歩いていた。夕食は近くの串焼きやで、飲み食いし1人200ペソ(400円)。



フィリピンの旅7

3月1日(火)
 10時半にロビーへ集合するが、迎えの車が来たのは11時過ぎ。これも時間を気にしないフィリピンタイム。NGO「バンガラップ・シェルター・フォー・ストリートチルドレン」を訪問し、責任者から説明を受ける。路上で暮らす男の子で7歳から17歳を対象にして、ここの施設で集団生活をし、公立の学校に通っている。なお施設の名称は、「路上の子どもたちに夢をもたらす場所」という意味である。1989年から活動しているカトリック系の施設で、日本からの支援者も多く、2年前に会った横浜の林さんは、80歳の今も元気で応援しており、4月にもまたあるイベントのため来訪するとことであった。
 1000万人をこえるマニラで、約7万人のストリートチルドレンがいるのではと職員は話していたが、正確な統計はないようである。
 1時から在日本大使館を相川さんと訪ねる。様子を知りたいとのことである大使館員からの要請で行ったが、何と食事時間がのびているとのことで、入り口において30℃を超える炎天下30分も待たされてしまった。当人は謙虚な人で好感を持つことができた。待たされたのは、何かの手違いだろう。
 雑談は30分ほどで終えた。「バランガイ」の日本訳について質問したが、適当な日本語がなくて大使館もカタカナでそのまま使用しているとのことであった。
 ホテルにタクシーで戻った後、一人で外に出て床屋へ行く。入り口にはショットガンを持った守衛が2人いて驚いた。床屋とマッサージを兼ねた店で、マッサージをする若い女性が何人もおしゃべりをしていた。散髪代は250ペソ(500円)でサッパリした。
 夜は、ホテルを訪ねてきたジョバンニと久しぶりに会い、近くの中華店で相川夫妻と一緒に食事した。アバタンでの話をし、中国製の格安発電機についてどう思うのか質問したが、今は風力発電を担当しているので、水力の担当者に聞いてみると彼はメモをしていた。
 レストランではビールをしこたま飲み、かつホテルに戻って相川さんがお参りに使った日本酒を飲み、フラフラになって部屋に戻り、そのまま熟睡した。

2011-03-01

フィリピンの旅6

28日(月)
 7時に長距離バスへみんなで乗り、一路マニラを目指す。2時間ほどで山を降りると、もう30℃ほどの猛暑。窓の外では稲刈りをしていた。5時間ほどしたソラノで他のバスに乗り換えて、マニラに着いたのは夕方の5時。マニラ湾の夕焼けがきれいだった。
 シャワーを使いつつ、山で着ていた衣服を全て足踏みして洗濯。体のあちこちが痒く、鏡に映してみると、背中や首などにもダニに喰われていた。12ヵ所の全てにメンタームを付けて、かつ衣服でこするとなぜか腫れが広がるのでバンドエイドを貼った。毎回のことながら、これで1週間はかゆみが続く。

フィリピンの旅5

27日(日)
 朝は6時前に村中の鶏が鳴き叫び、いやがうえでも目が覚める。寒くてズボンとセーターを着たまま寝袋に入っていたが、2日目にして心配していたダニに3ヵ所腕を喰われてしまった。
 朝にはセサーが昨晩合意した内容の文書を作成して持ってくるはずであったが、いつまでたっても来ない。村長が教会へ行こうというので、11時には戻ってくることができるかと問うとOKとのことで、10分ほど歩いて出かけた。
 「アメージング グレイス」などの賛美歌をいくつか歌い、次に村長の長い話があって昨晩我々と合意したことについてもふれていた。
 途中で抜け出して村に戻るとセサーが来ていたが、パソコンが故障したとのことで文書はなんと手書き。昨晩は合計で9万5000ペソだったが、雑費として5000ペソを追加し、こちらが提示した10万ペソにしっかりと合わせてきた。
 11時半に村を出て、まずは相川さんの父母が眠る地をお参り。急流の小川を横切り、目的地で線香をあげ、私のお経でお参りした。そこまでは良かったが、片付けて帰ろうとしたすぐに今度は相川さんが1mほど下に落ちて背中を強く打ってしまった。相川さんは足を引きつつ休み休みで、どうにかジプニーの待つ上の場所を目指した。
 途中から村長が追いかけてきて、日本から送金する口座番号を聞くことができたことは良かったが、この地に眠る日本兵の供養を我々がするので日本酒を置いていけとか、もしくは金をくれないかとしつこく言い出したのには閉口した。供養といいつつ、自分たちで飲みたいのはみえみえであり、少しがっかりした。私は「次のときに」とかわしたが、我々がジプニーに乗ってからも村長はあきらめない。「100ペソ」を強調し、私は引き続き無視しようとしたが、相川さんが気前よく払ってしまった。
 なんとか理由を付けて金をねだる人と、それに対して良かれと思い込んで払う日本人の関係は、どこかで断ち切らないと本当の意味の友好には決してならないし、こうした個人プレイがNGOなどの組織を崩壊させていく。

フィリピンの旅4

26日(土) 午前中は特別に用事がないので、村の中をスケッチしてまわる。木造の民家、丘の上にある学校、棚田など、どこもが絵になる。
 学校は休みだったが、1人の女の先生が出勤していたので職員室で少し懇談する。生徒は166名で、先生が6人と校長が1人とのこと。10年前は120名ほどであったから、1000名足らずの村で子どもの数がかなり増えている。
 午後は、面白い木があったのでノミと槌を借りてお面を創った。
 夜、セサーとカルロスを交えて、相川さんと私の4名で相談する。2000年のカセッピで設置した施設や装置を再利用し、発電機は中国製の安いものを使い、総額10万ペソ(20万円)の援助をお願いしたいとのこと。それで3集落の36世帯に送電が可能とのことで合意した。パソコンで要請文書を作ることで話は終えた。この段階で、すでにブランディは2本が空になっていた。
 夜は村の広場で民族の踊りを披露してくれて、その輪に私たち日本人も加わって遅くまで楽しんだ。
 ふと広場を離れて、学校に向かう山道を少し登った。広場の小さな明かりが見えなくなるとあたりは真っ暗な闇の中。見上げるとイルミネーションのように大きな星が無数に広がっていて圧倒された。天の川が、まるで雲のように流れている。大宇宙という自然の中に私がいることを、光のない場所で実感できた。自然との関係を遮断してきた文化とは、いったい何だったのだろうかと、ふと考えてしまった。

フィリピンの旅3

25日(金)
 10時にバナウエを改造ジープのジプニーで出発し、一路山道を登ってアバタン村へと向かう。一部は舗装されているが、大半は土の凸凹道だし、さらには土砂崩れがいたるところで発生していた。乾季だというのに雨がふるためである。スリランカも同じで、どうも地球規模で気候がおかしくなっているようで心配だ。
 約2時半で目的のアバタン村のアムロ集落着。昼飯の持参したサンドイッチを食べ、グループはそこから一気に山道を下って目的の村へ。私は相川さん夫妻と案内のマーチンやセサーやエドワードを伴ってもう少し先までジプニーで行き、なだらかな道を下る。それでも相川さんの奥さんは2度転び、ひじに擦り傷を受けた。
 アバタン村の中心のバンガワン集落では、カルロス村長の家に今回も3名で泊めさせてもらう。食事の後で村長と英語で意見交換。2003年から日本政府とフィピン政府の支援による大掛かりな開発プロジェクトが進行していることを始めて知った。
 持参したブランディ3本が、次々にやってくる村人で2時間程度でなくなり、さらに飲もうとするので止めて2階へあげた。明日の分がなくなってしまう。それにしても36度もあるブランディを、村の男性はグイと一気に飲むのには恐れ入る。ここでは正月でも飲むことのできない高級酒だから、同じのん兵衛として気持ちはわからないでもないが。
 何匹もの蛍が木のまわりで飛び交い、しばし見とれてしまった。
食事は、今回すべてマーチンがってくれた。ライスにインスタントラーメン、インゲンのような豆のボイルなどであった。