2011-03-01

フィリピンの旅5

27日(日)
 朝は6時前に村中の鶏が鳴き叫び、いやがうえでも目が覚める。寒くてズボンとセーターを着たまま寝袋に入っていたが、2日目にして心配していたダニに3ヵ所腕を喰われてしまった。
 朝にはセサーが昨晩合意した内容の文書を作成して持ってくるはずであったが、いつまでたっても来ない。村長が教会へ行こうというので、11時には戻ってくることができるかと問うとOKとのことで、10分ほど歩いて出かけた。
 「アメージング グレイス」などの賛美歌をいくつか歌い、次に村長の長い話があって昨晩我々と合意したことについてもふれていた。
 途中で抜け出して村に戻るとセサーが来ていたが、パソコンが故障したとのことで文書はなんと手書き。昨晩は合計で9万5000ペソだったが、雑費として5000ペソを追加し、こちらが提示した10万ペソにしっかりと合わせてきた。
 11時半に村を出て、まずは相川さんの父母が眠る地をお参り。急流の小川を横切り、目的地で線香をあげ、私のお経でお参りした。そこまでは良かったが、片付けて帰ろうとしたすぐに今度は相川さんが1mほど下に落ちて背中を強く打ってしまった。相川さんは足を引きつつ休み休みで、どうにかジプニーの待つ上の場所を目指した。
 途中から村長が追いかけてきて、日本から送金する口座番号を聞くことができたことは良かったが、この地に眠る日本兵の供養を我々がするので日本酒を置いていけとか、もしくは金をくれないかとしつこく言い出したのには閉口した。供養といいつつ、自分たちで飲みたいのはみえみえであり、少しがっかりした。私は「次のときに」とかわしたが、我々がジプニーに乗ってからも村長はあきらめない。「100ペソ」を強調し、私は引き続き無視しようとしたが、相川さんが気前よく払ってしまった。
 なんとか理由を付けて金をねだる人と、それに対して良かれと思い込んで払う日本人の関係は、どこかで断ち切らないと本当の意味の友好には決してならないし、こうした個人プレイがNGOなどの組織を崩壊させていく。

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