2013-03-28

映画「東京家族」

 やっとのことで昨日この映画を鑑賞することができた。期待した通りのいい映画である。小津安二郎監督による60年ほど前の映画「東京物語」をモチーフにし、2011年3月の震災直前にシナリオは完成していたが、それを山田洋次監督はストップさせ、震災を関連させて練り直した。周吉の次男の昌次と恋人の紀子が出会った場を被災地のボランティアとしたことや、昌吉がしたたかに酒を飲んで心の通じる場面の少なくなる東京での家族の在り方を通して、今の社会を「このままではいかん!」と独白することなどに、深刻な震災後の世相を反映させている。それにしても、東日本大震災を声高に「大変だ!」とか「がんばれ!」などと叫ぶのでなく、身近な家族の有り様を通して、一人ひとりの生き方をじんわりと考えさせてくれる。戦後すぐの「東京物語」では、次男の戦死や戦争未亡人を登場させ、第二次世界大戦が背景にあり、こうした社会性が物語に深味を付けている。これからも震災のルポルタージュを書くつもりの私にも、いろいろと考えるヒントをくれた映画であった。  1つ気になったのは「東京家族」というタイトルで、そもそも東京家族という名詞があるのか疑問で、どうも私にはわかりづらい。素直に「新東京物語」でいいのではないかと思うのだが、何か山田監督に意図があったことだろう。

2013-03-26

つながろう!パルシステム福島&東京こども交流会

 3月23日から25日まで表記の交流会が都内であり、24日の昼からパルシステム東京本部における昼食を兼ねた交流会に参加させてもらった。11時過ぎに新大久保のパル事務所を訪ね、医療福祉生協連のバンダナを頭に巻いて、まずは昼食用のカレー作りの手伝いをした。パルの産直の野菜と肉とオリジナルのカレーを使い、子ども用の甘口と大人用の辛口を作っていたので、焦げ付かないように鍋をかき混ぜたり、出来上がった65人分の料理を会場の会議室まで運んだりした。  福島から大型バスで来たのは、19世帯の親子45人で、12時に到着した一行は、歓迎の挨拶の後にセルフサービスで昼食のカレーを食べ、デザートや飲み物も口に入れた。食事の後は伝言ゲームや歌やプレゼントの交換などがあった。歌の1つが、子どもの大好きな「アンパンマンのマーチ」で、「今を生きることで あつい 心 もえる・・・」など大きな声でみんなと歌った。何回となく歌っていた歌詞だが、改めて福島の子どもたちと歌うと、これまでと違った意味を感じた。

2013-03-25

さいたまシティマラソン みんなのフェスティバル

 3月23日の午前中に孫の悠の卒園式があり、それを楽しんでから埼玉へと向かった。スーパーアリーナの隣にある「けやき広場」で、明日のさいたまシティマラソンのためのイベントがあり、ここに復興支援としてコープみらい(3月21日にさいたまコープがちばコープとコープとうきょうと合併した)からいくつかのテントを出していた。岩手県宮古市からの「かけあしの会」は、鮭ラーメンやホタテの串焼きなどで2テント、みやぎ生協は1テント、福島県のなみえ焼きそばで1テント、コープ復興支援の取り組み写真展で1大型テント、コープみらいの物販販売で1テントなどがあった。  夕方6時からはコープみらい主催で、参加した約30人ほどで懇親会。かけあしの会の世話人4名(今回も遠路を車で参加し、毎回のことながら頭が下がる)、みやぎ生協の生活文化部4名、相双ふるさとネットの大田代表、それに旧さいたまコープの佐藤理事長以下の元気な組合員理事や職員などで楽しく飲みつつ交流した。挨拶の指名を受け、2週間前に出させてもらった『3・11 忘れない、伝える、続ける、つなげる』のお礼と、その後は福島をテーマの本創りに入っていることを話させてもらった。

2013-03-20

おおさかパルコープ・よどがわ生協・ならコープのバスボランティア参加者交流会

 3月17日の1時から4時まで、大阪で交流会が開催となり参加した。参加者のテーブルを囲むように、会場の左右には被災地で提供したタコ焼き・お好み焼き・うどん・そば・お汁粉などの屋台が並び、参加した生協職員が手際よく調理をしていた。岩手の漁師さんから借りた10枚近い大漁旗が、会場の前後に飾ってあり、被災地とつながった集いである雰囲気をよく出していた。舞台の大きなスクリーンには、被災地の岩手県陸前高田市の風景や、ボランティアで訪ねたときの様子などが映し出されていた。それにしても中学生やら80歳までの幅広い人たちが、関西から岩手まで片道14時間もかけてこれまでに700人以上が参加しているから驚く。そしてこれまでと同じペースで、3生協は2013年度もボランティアバスでの支援を継続する予定なので頼もしい。昨年の10月に出版させてもらった『被災地にとながる笑顔ー協同の力で岩手の復興をー』(日本生協連出版部)で、取材し書かせてもらった遠野まごころネットの齋藤さんも報告に来ていたので、取材のお礼を伝え、その後の動きなども含めて聞かせてもらった。被災地への関心が3年目となって急激に低下し、かつ資金の援助も大幅に少なくなっているので、まごころネットも方針を大幅に変更するそうだ。被災者自らが助け合って自立しつつある地域も一部にはあり、希望の火となっている。また現地を訪ねたい。

2013-03-19

南医療生協の10万人会議

 名古屋にある南医療生協では、より多くの組合員の声を運営に反映させるため、以前は1000人会議から6万人会議へと発展させ、今では10万人会議と称して月に1回の楽しく有意義な会合を開催している。実際に参加している人は100名ほどだが、そこへくるまでに地域の多くの人との意見交換をし、1人が1000人を代弁しているとの気構えである。3月16日のその会議に参加し、南医療生協を舞台にして2011年に書かせてもらった本『協同っていいかも?』(合同出版)が、昨年12月に平和・協同ジャーナリスト基金奨励賞を受けた報告とお礼をのべさせてもらった。写真はそうした10万人会議の1コマで、寸劇によって仲間増やしの強化を楽しく訴えていた。  中庭には、病院が建ったときに寄贈した被曝はまゆうが元気に育っていたし、ロビーにあるコンビニショップの本売り場には『協同っていいかも?』が5冊ほど並べてあるし、お世話になった組織部長の話では、まとめて購入した1000部が足りなくなり、最近も50冊を出版社へ注文したとのことで感謝、感謝である。  夕方からは、調理施設のある「だんらん」において手作りの歓迎会をしてくれて、顔見知りの10数名が集まって楽しく懇談することができた。一人ひとりの組合員を大切にし、暮らしやすい地域を仲間の力で今も築いている。また機会を作って訪ね、南医療生協の取り組みからまた学びたいものだ。

2013-03-16

つながろうCOOPアクション交流会

 第2回の同交流会が、3月14、15日と福島市であり、前日から線量計を持って市内に入った。14日は全国から集まった約150名で交流し、夜は食事を兼ねた懇親会。サブタイトルは、「つどい・つむぎ・つなげる・未来」で、被災3県の取り組みだけでなく、各地の貴重な経験も交流して有意義であった。出版部が出したばかりの本を平積みしてくれ、夜の懇親では同じテーブルに座った10名ほどの全員が買ってくれ、お礼を言いつつサインさせてもらった。  15日はバスで南相馬市や相馬市の被災地の視察。まだガレキや横転した車などが放置されたままの場所もいくつかあり、3.11の傷跡をここでも見ることができた。写真はその1つの子どもの靴。履いていた子どもは、無事だったのだろうか。そうあってほしいと祈りながらシャッターをおした。

2013-03-13

新刊『3・11 忘れない、伝える、続ける、つなげる』の出版

 ほぼ1年の取材を終え、『3・11 忘れない、伝える、続ける、つなげるー協同の力で避難者の支援を』(日本生協連出版部 定価1400円)を出させてもらうことができた。震災復興支援の本では、2012年3月の宮城県をテーマにした『悲しみを乗りこえて共に歩もうー協同の力で宮城の復興をー』(合同出版 定価1400円)、2012年10月の岩手を舞台とした『被災地につなげる笑顔ー協同の力で岩手の復興をー』(日本生協連出版部 定価1400円)に続く3冊目となった。  さいたまコープを中心とし、唯一残っている加須市の旧騎西高校の避難所における炊き出しなど、被災地でなくても全国にいる避難者を地元で支えている取り組みを紹介させてもらった。各地でコミュニティーが崩壊している今日、避難者を含めて新しいコミュニティーを創ることは全国的な課題でもあり、その1つのヒントにつながれば幸いである。  本の表紙には、双葉町婦人部による相馬流山踊りを使わせてもらった。伝統文化を守りつつ、埼玉の皆さんへ感謝の気持ちを込めて踊っている。1日も早く全ての被災者が安心して暮らすことのできるようになってほしいものだ。

2013-03-10

原発シンポin福島2

 シンポの2日目は、朝8時半から大型バス2台で浜通りの1つである川内村の視察に入った。東電の原発事故により約3200名もの村民が避難していたが、2012年1月にいち早く帰村宣言して役場を戻して対策を講じ、この1月25日現在で帰村者436名と週4日以上滞在する人は約800名ほどになっている。テレビでは何度も見ることのあった遠藤村長から歓迎の挨拶があり、復興の具体的な内容については復興対策課長の井出さんからパワーポイントを使った詳しい説明を受けた。村は盆地のため周囲の山は放射能に高く汚染されているが、役場や農地のある場所は比較的低く、かつ1年目の除染もあって国の規準からみると安全とする場所や農地に大半がなっている。ここで新しい村づくりを積極的にすすめ、除染実施と雇用の場の確保で、①企業誘致と定住構想、②農産物栽培工場、③再生可能なエネルギー導入、④健康・医療・福祉の充実、⑤教育環境の充実を掲げ取り組んでいる。それらの現場をいくつか案内してもらい見せてもらった。写真はその1つの仮設住宅にあるサポートセンターで、カラオケなど住民のたまり場となっている。写真中央のネクタイ姿が井出さん。村の住民に寄り添った独創性は、仮設住宅を含め建物の基礎をしっかりと造り、永く住むことのできる建物にしていることにも現れていた。1戸につき数百万円もかけ、2年とか3年で使えなくなる仮設住宅はもったいないと以前から私も思っていたが、ここでは数十年住むことができる。また1棟は2戸建てで、いずれは中央の壁を取り払って1世帯が暮らすことも想定している。阪神・淡路大震災のときは、1棟に4戸が普通であったが、壁が薄くて特に両隣が他人の部屋になっている場所では、声や音が気になって寝ることのできない人が多くいた。このため95年以降の仮設住宅では2戸建てにすることにしていたが、今回の震災では急いで多数を建てなくてはいけないとのことで多くが4戸建てとなって音の悩みが出ている。こうした住民サイドに立った配慮をしている川内村の取り組みは素晴らしい。まだ課題はいくつかあるが、村の前向きな姿勢が印象的であった。  

2013-03-09

原発シンポIn福島1

 3月8、9日と日本科学者会議が主催する表記のシンポが福島県の飯坂温泉であり、線量計を持って参加した。8日の午後は記念講演と3つの分科会があり、多面的な議論があって勉強になった。記念講演は「福島第二原発差し止め訴訟の経験と教訓をどう現代に活かすか」のテーマで安田純治弁護士が話し、分科会は第二「原発災害と地域産業」に参加し、①「原子力災害に伴う『風評』被害対策と検査体制の体系化」(福島大 小山良太)と「中小企業の被害状況と復興に向けた課題」(福島大 初澤敏生)の有意義な報告があり参考になった。まだわからないことがいくつもあり試行錯誤の状態だが、被災者に寄り添ってできることを模索しているそれぞれの姿が印象的であった。なお参加者は北海道から沖縄まで約120名も手弁当で集まり、夜の懇親を含めてお互いの考えや取り組みを交流して楽しい場であった。

2013-03-06

原発事故に関する4つの事故調査報告書について

 東電福島第一原発事故について、民間、東電、政府、国会の4つもの報告書が出ているのは知っていたが、どれも膨大な量で関心はあっても読み込むことはできずに気になっていた。図書館で、『4つの「原発事故調」を比較・検証する 福島原発事故13のなぜ?』(日本科学ジャーナリスト会議 水曜社 2012年12月)を見つけ一気に読んだ。凄い本で、ここで比較検証している13項目とは以下である。 Q.00  福島第1原発事故の全体像・推移と4事故調 Q.01  地震か津波か? なぜ直接的な原因が不明なのか? Q.02  ベントは、なぜ遅れたのか? Q.03  メルトダウンの真相は? なぜ発表は迷走したのか? Q.04  事故処理のリーダーは、なぜ決まらなかったのか? Q.05  東電の「全員撤退」があったか、なぜはっきりしないのか? Q.06  テレビ会議の映像に、なぜ音声がないのか? Q.07  なぜ「原子力ムラ」は温存されたのか? Q.08  なぜ個人の責任追及がないのか? Q.09  住民への情報伝達は、なぜ遅れたのか? Q.09+ 放射線被曝情報の誤解と混乱は、なぜ生じたか? Q.10  なぜ核燃料サイクル問題の検証がないのか? Q.11  原子力規制への提言が報告書によって違うのは、なぜか? Q.12  なぜ4報告書がこのまま忘れ去られようとしているのか? Q.13  なぜ4報告書には「倫理」の視点が欠けているのか?  読んでいてそら恐ろしくなったのは、事故の原因やその背景がどれでもきちんと解明してなく、これでは一番大切な原発事故の再発防止にはならないことである。その中でも一番まともな国会事故調は、せっかく15億円もかけた640ページもの貴重な報告書であるにも関わらず、すでに国会の神棚に飾られて埃が積もりつつあるのに等しい。民主党にせよ自・公政権にせよ、真面目に正面からこの原発事故に向きあおうとしていない証拠である。  この本でまだ足りないのは、原子力ムラは日本だけで存在するのでなく、1950年代からアメリカにおいて大きくなった国際原子力ムラが存在すること、そして日本を含めてそうした原子力ムラを支えている多くの人々の存在や価値観まで踏み込むことだろう。そうしないと本質にメスが入ることにはならないのではないだろうか。