2015-12-30

2015年ネパールの旅⑤

   
助け合いの原点に触れて~ネパールからの学び~              
 ボランティアをするには3段階の気付きがある。第一にある対象へ関心を持って事実を知り、第二に自分の力で何か役に立ちたいと願って実践し、第三にボランティアする相手から学ぶことで、そうして深い充実感を得ることができる。
海外に出ると、日本の素晴らしさと同時におかしさにも気付く。スリランカやネパールなどの貧困国を訪ねると、日本ではいつも自由に使うことのできる水道や電気などのありがたさがよくわかる。と同時に、経済大国になった日本において、一時期より減ったとはいえ、小学生を含めて自殺者が年間で毎年2万5000人をこえるなどの異常な状況がより気にかかる。自殺の予備軍は自殺者の10倍はいるそうだから、地方都市の人口に匹敵する25万人が自殺したいと毎年行動している。民主的と標榜する生協で働く仲間も同じで、生協で働いていた私の40年間にも、何人かが自殺してショックを受けた。 
経済大国になった日本や、事業規模の拡大した生協において、何かがどこかで欠けている。その何かを少しでも掴みたくて、今回の旅にチベット仏教の最高峰であるダライ・ラマ14世の対談集を持参し、停電になって照明が半分になった薄暗い部屋でも読んだ。親族の戒名代で74万円もとられ、日本の葬儀仏教にはかなり懐疑的な私だが、自らを含め世界各地の仏教界のトップを「搾取者」と位置付け、だから自己規制が必要という14世の言葉は刺激的である。そもそもお釈迦様は、絶対的な神は存在せず、全て因果の関係で発生していると教え、自らが亡くなった後は仏像でなく教えを拝めと厳命していた。戒名にしても出家した僧に付ける名前であり、ましてや高額の費用がかかるなどは、本来の仏教とまったく何の関係もない。
ともあれ人々が安心して楽しく人生を過ごすことを目指す本来の仏教哲学は、格差社会が進み、世界中の戦争に巻き込まれる危険の高まっている日本において1つの灯になるはずだし、いずれ確立させたい生協哲学にも通じるものがありそうだ。
金儲けの手段や威厳を付けるための偽仏教でなく、本来のお釈迦様の教えを知り、それを現世やこれからの社会に活かすためにどのようにすればいいのか。私の興味や関心は深まるばかりだが、仏教の宗派の違いも分からないほどの素人であり、どのように解決の糸をたぐっていけばいいのかまるでわからない。

しかし、元々経済的に貧しく、かつ大震災の後というネパールの厳しい状況の中で、慎ましく助け合って生きている人たちを見ると、協同組合や仏教の原点にいくらか触れた感じがしてワクワクする。

2015-12-23

「愛とヒューマンのコンサート」で福島・宮城の被災地を訪ね

 19日から21日にかけ、福島県川俣町にある全村避難の飯舘村の仮設住宅や、同保育園と中学校、それに宮城県名取市の仮設住宅など計8か所で「愛とヒューマンのコンサート」があり、それに同行した。今回は、金沢恵理子さんのピアノとソプラノの声楽家である大前恵子さんが熱演した。「アベ・マリア」ではじまるが、場所によってシューベルト、グノー、カッチーニの作品を使い分けてインパクトを与え、クリスマスの曲や日本の歌などもまぜて、楽しい1時間がすぐに過ぎていった。
 もうすぐ震災から5回目の正月を迎える仮設住宅では、復興住宅や自力で家を建てて出る人が続き、どこも使っている部屋は半数ほどになっている。それも残っているのは経済力の乏しい高齢者が大半で、これからの行き先を心配している人が多い。他方で復興住宅は、家賃がかかるし、集落に関係なく集まるのでまた新たにコミュニティを作らなければならず、高齢者の引きこもり対応など新しい課題も出ている。飯舘村では2017年春の帰村を村長が打ち出しているが、村の75%をしめる森林の除染はできず、道路や敷地を除染してもすぐに山から放射性物質が流れ落ち、子どもを持つ親の不安が広がっている。
 参加者と交流する場が2回あり、私も以下のような話をさせてもらった。
 「人の頭には左右2つの脳があり、普段私たちが新聞を読んだり会話などで使っている論理対応の左脳と、音楽や美術などに触れて感性を高める右脳があり、現代人は左脳が発達していますが、音楽を聴き右脳の働きが活発になって左右のバランスがとれると、気分も良くなります。さらに人の耳で聴くことのできる音の周波数は20ヘルツから20kヘルツですが、その前後にもたくさんの周波数の音があり、鼓膜では感じませんが、人体を構成している40兆個の細胞は共振します。本来細胞には、30億年とも言われている生物の誕生からつながって、元気に生きる力を内在していますが、今回の震災などの過剰なストレスで被災者の皆様の細胞は萎縮しています。生の音楽による共振で、前向きに生きようとする力が内部からわいてきますので、ぜひこれからも生の演奏を楽しんでください。
 さらには、音楽はこうしたプロから聴くものだけではありません。人間の体は最高の楽器で、日頃の暮らしの中で、たとえば子どもや孫に童謡を歌ってあげることも、子どもや孫の内部にある生きる力を刺激することができます。生活の中でぜひもっと自由に音を楽しんでください」
 もちろん政治の問題は大きく存在し、政府や東電の責任は厳しく追及しなくてはならないが、不条理で矛盾の中でも、一人ひとりの内部にある力をより引き出すことも、同時にする必要があると私は思う。 

2015年ネパールの旅④

 8年前から勉学支援している10年生のサンギッタちゃんは、昨年同様に元気で安心した。震災で竹を組んだ小屋が壊れ、横に同じく竹で骨組みを作り、壁には割った竹に内側から泥を塗りつけていた。床は土のままで、屋根の半分は6月に寄贈したトタン16枚を乗せていたが、後の半分は薄いビニールシートの上にワラを乗せただけで、野ネズミが食べるとそこから雨漏りがして困ると母親が話していた。6月にネパールの支援団体HEENEPへ50万円送ったが、全体の里子は私の支援以外も含めると31人いて、全ての家で分けると16枚になったので仕方がない。残りの半分用にもトタン16枚を購入して運ぶように,NPOの友人に25000Nps(約29000円)を後で渡して頼んだ。
 父親に聞くと、新しく小屋を建てるための竹やワラなどの購入費は約8万Nps(93000円)で、作業は全て自分の手で2週間かかったとのことであった。日当が500Nps(約580円)の仕事も毎日あるわけでなく、子ども3人を含めた家族5人が食べるだけで精一杯だろうから、この費用をねん出するのも大変だったことだろう。
 サンギッタちゃんは、後2年で卒業となる。将来の夢についてたずねたが、残念ながら今はまだないとのこと。実際に職がなく、大卒でも海外への出稼ぎが多い国であり、夢がないのは残念だけどネパールの現状からすれば仕方がない側面もある。
 どんなに貧しくとも、家族で助け合ってつつましく生きている。人間や家族の強さをここでも見ることができ嬉しかった。
 
 ボランティアをはじめるにあたり、関心を持って現実を見てまず興味を持ち、大変だとか慈悲の気持ちで、自分にできることを何かしようと功徳させてもらうことと同時に、相手から何か学ぶことがあることを知ると、より有意義で活動を継続することができる。

2015-12-12

2015年ネパールの旅③

 文化のある場所には、必ず音楽が流れ独自の楽器を奏でている。長い歴史のあるネパールには、写真のようなサーランギーがあり、その語は、100を意味するサーと、色を意味するラングという2つのヒンディー語の合成語で、100以上の音色を出せることを意味し、ヴァイオリンの原型との説もある。
 ネパールにいる友人の師匠が、このサーランギーの有名な演奏者で、自宅にある工房を訪ねて話を聞かせてもらい、特別に6500ルピー(約7500円)で写真の1本を購入させてもらった。1本の堅い木を成形してくり抜き、胴の部分には山羊の皮を貼って音響を増すようにしている。ヴァイオリンは指で弦を抑えるが、サーランギーでは爪で絃の下から当てて音を調整する。手にするとずっしりと重く、座って両膝の上に立てて、弓を当てて演奏する。ヴァイオリンほど上品な音ではないが、いかにも樹木の音といった素朴な音色でおもしろい。インドでは、4本の弦と胴体の間に何本もの絃を張ったものもあり、師匠もそうした楽器を作っていて演奏してくれた。音色により深みがあって面白かった。もちろん音階もきちんと奏でることができるので、ぜひ練習して簡単な曲を演奏してみたいものだ。
 ところでこの素晴らしい楽器を作り、かつ演奏する人たちが、ネパールではカーストの最下層であるダリットに位置付けられ、今でも社会的差別を受けている。師匠はカトマンズ大学音楽部の教授であるが、名前でダリットとすぐ分かるため、建物の出入りなどで制約を受けることがある。ダリットの出身者が教授になるなどは特例で、掃除や肉職人など、給与の安い特別な仕事しかつくことができず、それも仕事があればいいほうである。
 
 今回の地震で、社会的弱者であるダリットへの援助が少なく困っているとのことで、独自の子ども支援ができないかとの相談があり、教授の案内でダリットの2家族を訪問させてもらった。大学の近くで夫婦が清掃員をしている家庭は、2人で月16000ルピー(1万8600円)の収入がある。月2000ルピーのアパートを訪ねると、狭い部屋はそれなりにきれいだが、太陽は当たらず、日中は外に出て日向ぼっこをしている。8畳ほどの部屋にダブルベッドが1つで、親子4人が暮らし、飲み水は外にあるタンクから買っている。
 もう一つの家族は、教授の崩れた実家に仮設小屋を造って暮らしている親族で、夫は中近東へ出稼ぎに行き、月2万ルピーを稼ぎ、その中から1万5000ルピーを仕送りしている。
 どちらの家庭でも、1年間の子どもの勉学費は約5000ルピー(5800円)であった。教授と相談し、ダリットの子どもの勉学を支援する委員会を設立し、私の拠出する50万円で貯金して利子を得て、それを活用することにした。NPOの貯金では年率7.75%にもなるので、15%の税金を差し引いても、1年で利子は2万7000ルピーほどになり、5人の子どもの年間勉学費にすることができる。利子の発生は1年先なので、その間の運用について友人が2万ルピー出してくれることになり、来春から運用することにした。今後が楽しみである。

2015-12-11

2015年ネパールの旅②

 物の乏しい場所に行くと、物の価値がよくわかる。水もその1つである。日本ではどこにでもある蛇口をひねると、すぐにきれいな飲み水が出てくる。ところがネパールでは、首都のカトマンズのホテルですら、ときには水が勢いよく出ないことがある。ましてや山村では、湧水を集めて利用しているため、その場所まで出かけていって汲んでくるしかないし、さらに乾期ともなれば水量がかなり減るし枯れることもある。
 多くの里子の暮らすチョーバス村では、集落からかなり離れた場所で湧水をコンクリート製のタンクに集め、それをパイプで集落の近くまでひいてきて小さなコンクリート製のタンクに貯蔵し、25世帯が使用している。ところがどちらも老朽化して亀裂が入るなどし、必要な水量を使うことができなくなっていた。そこで日本から支援しているNGOであるHEENEPに村から相談が以前からあり、昨年私が委託した100万円の半分を使って造りたいとのことであった。現地を見て必要性は理解できたが、肝心の計画書がない。村の有力者に話を聞いても、とにかく金を出してほしいと説明するだけで、どう村人が協力して造るのかにまったく触れない。援助づけの典型で、これでは村人の自立につながらない。援助するのは材料代を中心とし、集落で労力を出し合って協同して造る計画をきちんと出させて、それをHEENEPが納得すれば実施するよう責任者へ伝えた。
写真は、湧水を貯める源水のタンクで、鉄製のふたが腐食し、石を乗せていた。

2015-12-10

2015年ネパールの旅①

 12月1日午前0時20分発で羽田空港からバンコック経由で、1日の12時45分にネパールの首都カトマンズへ入った。1年ぶりで5回目のネパール入りである。今回は、2015年4月25日のマグニチュード7.8による大地震後に、どのように31人の里子たちが暮らしているのか里親の4人で視察し、今後の支援につなげることが目的であった。
 被災の概況である。ネパール赤十字社の発表によれば、人口2650万人のネパール国内の 死者数は 8,046 名,行方不明 569 名、負傷者数 16,972 名、109 万世帯 が被害を受け、61 万世帯が避難、49 万戸の家屋が全壊、29 万戸が半壊 した。さらに5 12 日にもカトマンズの東付近でマグニチュード 7.3 の地震 が発生し、被害が増大している。現地のある通訳者は、200万戸の家屋が住めなくなったと話していた。
 倒壊した家屋や古い寺院などをいくつも見ると、レンガを積み上げただけであり、これでは横揺れが来るとすぐに崩れるのは当然である。さらに山にある農村へ入ると、レンガを購入することもできない貧しい家庭では、いくらか平らな石をたくさん集めてきて、それを積み上げて土で隙間を埋めて部屋を造り、その上に板を並べ、さらにその上へ部屋を造った2階ての建物が多い。これだと板や窓ガラスなどだけ購入すればよくて、10万ルピー(約11万6000円)で1軒が完成するそうだ。ガラスをやめて板だけの窓にすれば、もっと安く造ることができる。
 町などでレンガを積み上げ、購入したドアや窓などを付けると、安く仕上げれば50万ルピー(58万円)ほどでできるとのこと。
 農村では家族の住む母屋の傍に、山羊や鶏などを飼っている家畜小屋を大半が備えている。母屋の2階が崩れて平屋になっても、建物に亀裂が入るなどして次の地震で崩れることを心配し、家族は家畜小屋で暮らし、家畜を半壊した母屋で飼っている世帯がいくつもあった。床はどちらも土のままであるから、家の周りには小さな溝を掘ってあるが、雨の日にはジメジメするそうだ。
写真は2階が崩れてトタンを乗せて屋根にした家。左に積み上げた石が、震災前は2階の壁を造っていた。

2015-11-03

スイスを旅して

 10月18日から27日まで、いつもは30万円ほどして敬遠していたスイス・ツアーが、20万円を切る格安があり妻と出かけた。観光シーズンの終わりでもあり、どこまで楽しむことができるのか不安もあったが、添乗員も驚くほど天候に恵まれ、予定したマッターホルン、モンブラン、ユングフラウなどは全て見ることができ、また自由時間が半分ほどあり、20枚ほどのスケッチを楽しくすることもできた。以下はいくつか旅の印象である。
 第一に、4000mをこえるアルプスの山々にある氷河の変化である。スイスだけで122もある氷河は、地球温暖化で毎年7m減少し、それが最近は10mと早くなり、さらに昨年は13mも溶けて短くなった。その水を使い水力発電に活用しているのはいいが、IPCC(気候変動にに関する政府間ペネル)の予想では、このまま推移すると今世紀末までに気温が2.7℃上昇し、アルプスの氷河が消えてヨーロッパの水源がなくなるので、農業や漁業などに与える影響は計り知れない。さらに氷河が溶けて軽くなった影響で、山が少しずつ高くなりマッターホルンは3mアップしたそうで驚く。
 第二に、どんな小さな町でもCOOPの店があって嬉しかった。スイスの物価は高く、お握り1個が450円や、小さな弁当でも2000円ほどして驚いた。通常のビールやワインも日本とほぼ同じであるが、COOPのPB商品は、ビールで500mlが75円で、1lのワインが300円と安く、毎晩のように利用させてもらった。レシートには、Für mich und dich(私とあなたのために)と印字してあった。もっともおかげで夜の原稿書きは酔っぱらって十分にできず、予定した2本のうち短い1本を書きあげただけであった。
 第三に、スイス人の柔軟な考え方の一部を見ることができた。徴兵制を今もしており、軍服姿の若者の多いのは気になったが、いくつかある空軍基地は、訓練で使わないときは住民の遊び場に開放している。フランス、ドイツ、イタリアに隣接し、国境を自由に行き来できるが、EUには加盟せず通貨も独自のスイス・フランで、自分たちのことは自分たちで決めている。
 第四に、自分の暮らしを大切にした働き方である。昼休みがあって店も閉めるし、日曜日に開いている店も少ない。ある展望台へゴンドラで登ったとき、30歳の男性と一緒になり英語で会話すると、背負っている簡単なハングライダーで、山頂からふもとの町へ飛び降りるという。休日かと思ったら、ランチタイムだというし、さらに1回でなくうまくすれば3回は挑戦するというから驚いた。危険ではないかと聞くと、全然平気で奥さんも一緒に飛んでいるとのこと。日本では考えられないことである。
ユングフラウの氷河にて

 

2015-10-27

東京新聞 平和の俳句で掲載

 2015年10月22日付けの東京新聞朝刊で、「平和の俳句 戦後70年」が掲載され、思いがけず以下の私の句とコメントが載った

  「眼(め)をつぶし帰りし父は土となり  西村 一郎(66) 茨城県取手市
 「高知で農業を営んでいた父の左目は義眼だったが、幼いころの私は気づかなかった。あるとき父が、農作業中に左目へ泥が飛んでもぬぐわなかったことから、義眼だと分かった。戦争で中国に行き、なんとか帰還するため自ら目をつぶして傷痍(しょうい)軍人となったらしい。私にその是非は語れないが、死ぬまで黙々と田畑に向かい、働き続けた父の後ろ姿は、農業や平和について考える私の原点となった。」

 生前の父は、帝国陸軍のとき落馬して目を負傷したと話していたが、あるとき部下であった男性が訪ねてきたとき話を聞くと、農家出身の父はとても乗馬が上手く、また敗戦の日まで目の怪我はしていなかったとのことであった。
 下士官で敗戦を迎え、戦犯として処刑される噂が流れ、傷痍軍人となることで帰国することを望み、自ら左目をつぶしたようだ。軍の経歴書を見ると、敗戦後の1945年8月20日に南京の陸軍病院へ入院し、マレーシアなどの病院をまわり、1946年に横須賀へ戻っている。
 一度父に目のことで損傷させた方法や当時の心境など尋ねたことはあるが、きちんと答えてくれなかった。
 憲法違反の声の高い安保法が成立し、きな臭さが高まった。戦争だけはゴメンである。

2015-10-12

孫の運動会

10月10日は、3番目と4番目の孫の運動会を保育園に訪ねた。園庭では裸足の子どもたちが、元気に伸び伸びと遊んでいた。
 8時半の定刻となり、園長さんの挨拶で運動会はスタートした。最初は駆けっこで、次々に小さなランナーは走っていた。孫の2人も参加したが、4歳の伶(れい)は手首を後ろだけに振り、小股でチョコチョコ走るので、まるでスピードが出ずに残念ながらビリだった。
 今月末で2歳になる心晴(こはる)は、なぜか自らの力で歩くことがまだできず、常に誰かの支えが必要で、ずっと心晴だけが保母さの世話になっていた。
 続く競枝で心晴は、お父さんの支えでヨチヨチ歩き、途中でお菓子をもらって喜んでいた。
 医師の診断では、どちらも異常が見つからず、もう少し様子見となっている。
 ところで勘繰りかもしれないが、どちらも2011年3月の原発事故後の出産であり、少しは影響しているのではないだろうか。孫たちも住む取手市は、除染の対象地域であり、今でも我が家の庭などは線量計で測ると0.15μSvほどある。日本の除染基準0.23μSvの以下であるが、年間にすれば1mSvを超え、国際基準からすれば危険な地域となる。放射線は、外部被曝だけでなく内部被曝もあり、細胞を破壊すると同時に、遺伝子にもダメージを与える。
 しかし、内部被曝の影響を現実の暮らしの中で実証することは極めて難しい。
 これからも原発や放射能汚染の動向に
は注意したい。
 

2015-10-11

町内会の自主防災訓練

 10月4日の7時半、白いヘルメットをかぶって近くの公園に出かけた。自主防災会主催による訓練であり、私はその責任者でもあったので少し緊張する。これまではいつも町内の掃除の後に訓練していたのでかなりの参加者はいたが、今回はまったく防災訓練だけでの集合であった。
 他の役員10名も集まり、防災倉庫を開け、訓練の最終確認をするなどして8時のスタートを待った。続々と住民が集まる。66世帯約130人を15のグループに分けてあり、各グループ長から安否確認のホワイトボードに記入してもらう。
 8時になったので、「常総市の災害をもたらした記録的な雨雲が、もし鬼怒川のすぐ東を並行して流れる小貝川に降っていれば、取手市に洪水が入っていたかも知れない。取手市の予想では2mから最大で5mを予想しているので、訓練は大切」と開始の挨拶をした。
 1人が怪我して動けないとの想定で、2人の男性役員に購入した折り畳みリヤカーを使って救出に向かってもらった。またある女性から、携帯電話で119番へ通報してもらい、訓練をしている公園への出動を要請した。あわせて公園のブランコにビニールシートを掛け、雨のときに対応する訓練もした。
 集まった約50人は、2組にグループ毎に分かれてもらい、1組は発電機とチェーンソーの使用やロープの結び方をし、後の組には看護師の資格を持つ役員を中心にし、三角巾を使った止血の訓練をした。20分ほどで組を入れ替え、全員に基礎的な訓練をした。
 9時前になると消防署の大型車1台と地元の消防分団の小型車1台が公園に到着し、消火器の使用と心臓麻痺へ対応するAEDの訓練を30分ほどした。
 訓練の最後に消防署からの話を受けると、いくつもの町会の訓練を見ているが、ここまで具体的に細かくやっている団体は初めてとのことであった。
 ぜひみんなでこれからも、地道な防災の取り組みは続けていきたい。残念ながら非協力的な人もいるし、なおかつ「自主防災会は不要」と足を引っ張る人もいるが、いずれ分かってくれることだろう。
 

2015-09-17

「愛とヒューマンのコンサート」新潟県小国町編

 9日の午後に大町から長岡市の小国へと車で入る。いつのまにか台風18号が発生し、愛知県などに大雨を降らせつつ北上しているとの情報があり、天候を気にしつつの運行であった。
 小国における「愛とヒューマンのコンサート」は、2004年の中越地震後からであった。小国会館での「戦後70年 戦争と平和を考える 我がまち小国 愛とヒューマンのコンサート」は、定刻の6時半から開始となり、約50人が音楽を楽しんだ。
 今回のコンサートを企画した地元で大工をしている山崎忠吉さんは、以下のようにあいさつ文をプログラムに入れていた。
 「≪戦後70年 戦争と平和を考える≫をタイトルに、コンサートを開催できることに大きな意義を感じます。(略)小国町に初めて「愛とヒューマンのコンサート」の調べが流れたのは、中越大震災の後で、そこから我がまち小国コンサートが生まれました。
 今、戦争をする国になるのか!ならないのか!の選択が迫られています。戦前は、戦争遂行のために国が演奏してよい音楽と、悪い音楽を色分けした時代がありました。平和であるからこそ自由に音楽が聴ける、当たり前のすばらしさを奪われてはなりません。
 この日の感動と平和への祈りを、みなさんとともに心に刻みたいと思います」
 コンサートの冒頭に、地元の小国コーラス7人が3曲を歌い、その中に山崎さんもいて美声を流していた。
 休憩をはさんで1時間半ほどのコンサートは、アンコールの「赤とんぼ」で楽しく終えた。
 夜の9時過ぎに、支援者の民家で打ち上げと懇親会があり、ここでもたくさんの料理と地酒が並んだ。お酒を飲めない山崎さんは、ここでも親切に最後まで付き合ってくれて、「小国は12月から3月までは雪が深くて仕事がなく、男は出稼ぎで生活費を稼いでいた。その間は、雪かきから子育てと全てを女性に任せていた。そこで出稼ぎをしないですむようにと、新たな仕事おこしとして紙漉きをはじめたりしている」などと話してくれた。
 地方でも必ず元気な人はいる。山崎さんのような方に会えるとワクワクする。
 
 今回の一連のツアーを企画し、また運転もしてくれた今野強さんと、側でいつも支えてくれたパートナーの和子さん。そしてずっと乗せてもらい安全運転をしてくれた近藤裕隆さん、演奏者の松本克巳さん、金沢恵理子さん、大前恵子さん、他にもたくさんの方との出会いで想い出に残る楽しい旅となった。12月までに原稿にし、来年3月の復興支援本の第7冊目にぜひつなげて、ささやかなお礼にぜひしたい。

2015-09-14

「愛とヒューマンのコンサート」長野県大町編

 8日の夕方に一行は長野県大町へと入った。ここは当時1歳2か月だった坂本龍彦ちゃんが、お母さん都子さんの「この子だけは助けて・・」との叫びもむなしく、殺害されて埋められていた場所である。
 8日の夕方は、市内の「ねむの木ホール」にて「龍彦君を忘れない 愛とヒューマンのコンサート」があり、カッチーニ作曲のアヴェマリアを大前恵子さんが松本克巳さんのヴァイオリンをバックに歌い、休憩をはさんで金沢恵理子さんのピアノの演奏もあった。アンコールでは「赤とんぼ」を全員で歌って終えた。
 9日は大町保育園でのコンサートの後、いよいよ龍彦君が埋められていた場所へと出かけた。町から山の中へと入っていく。30分ほどして舗装してない路地に右折してすぐに車は停まった。あいにくの雨は止みそうにもない。車を停めた場所から50cmほど下がった辺りは、一面の湿地帯で細長い草が生い茂っている。その一角を切り拓いてあり、正面に小さなお地蔵さんが立ててある。この下1mに殺された龍彦ちゃんは、一人で5年10か月も埋められていたのかと想像すると、何ともやりきれない。踏みしめると水が出てきて靴を濡らす。雨で
濡れるお地蔵さんの頭や体を指で静かになぜ、花を一輪添えて合掌した。
 モニュメントは近くの公園に立ててあり、そちらで慰霊祭があった。偶然にもその公園には、日本おとぎ話でも有名な「龍の子太郎」の大きな像もあり、きっと天国で龍彦ちゃんは、龍の子太郎と元気に遊んでいることだろう。

2015-09-13

「愛とヒューマンのコンサート」富山県魚津編

 8日の朝名立を出て魚津へと入る。都子(さとこ 当時29歳)さんの埋められていた場所はかなりの山奥で、土砂崩れなどがあって残念ながら入ることができず、はるか手前のキャンプ場の一角にモニュメントが設置してあり、そこで慰霊祭をおこなった。地元のコーラスグループであるサトコ合唱団が、都子さんの詩をもとにした「あなたの心に」を歌い、その後で「愛とヒューマンのコンサート」の松本克巳さんのヴァイオリンで、堤さんの大好きだった「タイスの瞑想曲」や、大前恵子さんの歌と一緒に「アベ・マリア」を演じた。
 20年前に山中から5年10か月ぶりに掘り出された遺体が、ふもとに降りてくるとき近くの多くの住民は、お線香やロウソクを手にして沿道に立ってくれた地域でもある。
 魚津には、女性中心のサトコ合唱団が以前から活動している。「あなたの心に」を静かに歌い終わると、最後に3つの鐘が鳴り、そのとき団員は右手を左の胸に当てて目を閉じる。都子さんを決して忘れない思いが良く伝わってくる。
 合唱団の皆さんが作った美味しい昼食を一緒にいただき、2時からは魚津障害者交流センターで「愛とヒューマンのコンサート」を開催した。
 広い部屋に、車椅子などを含めて50人ほどが集まっていた。開始前から奇声を上げたり、動き回っている人もいて、それまでのコンサート会場とは雰囲気が違う。サトコ合唱団の童謡などの後で、「愛とヒューマンのコンサート」のヴァイオリン松本克巳さん、ピアノ金沢恵理子さん、声楽家大前恵子さんの音楽が部屋中に流れた。演奏家の横にまで飛び出ていく人もいたが、1時間の終わりの頃になると和やかな顔つきになっていた。
 演奏家正面の壁面に、ストレッチャー式の車椅子で横になっている下半身不随の中年の男性がいて、演奏中は上半身を少し起こして写真などを一所懸命撮っていた。演奏が終わって少し話を聞くと、これまで10回の「愛とヒューマンのコンサート」には毎年参加し、最近では翌年のコンサートを楽しみにして1日1日を過ごしているとのこと。音楽の持つ力を再認識させてもらった。

2015-09-12

「愛とヒューマンのコンサート」 新潟県名立編

 9月6日から10日まで、「愛とヒューマンのコンサート」坂本弁護士慰霊ツアーがあり同行させてもらった。今回はこれまでの東北でなく、20年前に3人が埋められていた発見場所の新潟・富山・長野を巡る旅であった。
 埼玉を6日早朝に出発した車2台に分乗し、まず向かったのは当時33歳の坂本堤さんが埋められていた名立の山奥であった。あいにくの雨で予定した親友の松本克巳さんいよるヴァイオリンの演奏はできなかったが、ソプラノの声楽者大前恵子さんの「アベ・マリア」が辺りに流れ、私も目頭を押さえた。毎年地元仏教界の僧侶10人による読経が今年もあり、地元の方も手を合わせていた。1000m近い山の上で、1年の半分が雪で埋もれている。そのため20年前の遺体を見た方の話では、埋められて5年10か月たっていたが、髪の毛などはきちんと生えたままの姿だったとのことである。写真は堤さんが埋められていた場所で、石造のメモリアル碑は、10mほど手前の林道脇に設置してある。
 地元のお寺に泊めさせてもらい、手料理の御馳走や美味しい地酒を飲みつつ、20年間も坂本弁護士のメモリアルを守ってくれている話などを、住職夫妻から聴かせてもらった。
 「使命感で私たちはしているのでなく、「名立にわざわざ来てくれた方が、また来たいな」と思ってくれれば充分ですよ」
 明るい奥さんの話が印象的だった。
 名立機雷爆破事件をはじめて知った。1949年だから、戦争から4年たち私の産まれた年の3月30日のことである。名立漁港に流れついた国籍不明の機雷が爆発し、子ども40人を含む63人が即死している。戦争中は日本全国の海岸や海峡に、日本、アメリカ、ソ連の機雷10万個が敷設されていた。その1つが名立で惨事を起こした。当時の岩のある海岸はコンクリート製の漁港として整備され、爆発の場所は小さな祠が建ちお地蔵様を祭っている。
 機雷の破片などは全てGHQが回収したので国籍は今も不明のままで、被害者は泣き寝入りである。最高の国策である戦争の犠牲者を、ここでも見ることができたし、それを住職夫妻は風化させず、地元で劇団を組織し、シナリオも自分たちで創って演じているし、コーラスのグループもあって、7日には上越市民会館で200人以上が集まり、「愛とヒューマンのコンサート」と一緒に美しい歌声を聞かせてもらった。素敵な人たちの集まった
地域である。

2015-08-25

京都にて仏の教えに触れ

 8月23日の早朝に眼をこすりながら家を出て、11時からの京都での打ち合わせに新幹線で向かった。余裕を持って出たので30分ほど時間があまり、京都駅前の東本願寺へと向かう。いつもの雄大な境内はあったが、大きな門などは修理中で趣きが一変していた。それは仕方がないことで、門の前の案内板を順に観ていると、東日本大震災の復興支援の激励と一緒に、8月10日付けの「九州電力川内原子力発電所の再稼動に関する声明―いのちは生きる場所を失っては生きられない―」もあって、ゆっくり読ませてもらった。以下の言葉が明記してあり、仏教家がここまで社会問題に関わって主張しているのかと驚き、かつ嬉しくなった。
 「私たち真宗大谷派(東本願寺)は、今、まさに行われようとしている九州電力川内原子力発電所の再稼動に対して強く遺憾の意を表明いたします。福島第一原子力発電所事故の教訓を軽視し、他者の犠牲の上に成り立つ豊かさを享受する社会は、人間の罪への無自覚が露呈しているものといわざるをえません。
 いのちは生きる場所を失っては生きられません。原子力発電に依存し続けることは、人の関係性に分断をもたらし、いのちを支える大地を根こそぎ奪い取られてしまう危険の上に絶えず生活することを意味します。
 人のいのちが育まれる大地とは、人と人が共に生きあえる社会であります。むしろ、いま願われることは、被災された人々の悲しみに寄り添い、引き裂かれた関係性を回復していくことではないでしょうか。
 私たちは、原子力発電に依存し続けようとする人間の愚かさや核利用をめぐる無責任なあり方を、あらためて直視しなければなりません。
 真宗大谷派は、仏の真実の智慧にわが身とこの世のあり方を聞きひらく教団として、現在のみならず未来のいのちをも脅かすエネルギー政策を問い直し、一人ひとりが原子力発電に依存しない社会の実現に向けた真摯な対話を重ねていくことを強く提唱いたします」
 日頃は仏教だけでなく宗教全般に縁遠い私だが、どれも共感できる言葉である。
詳しくは同HPhttp://www.higashihonganji.or.jp/で触れている。次は少し時間をとって訪ねたいお寺である。

2015-08-18

全村民避難の飯舘村を訪ねて

 17日は早朝の風呂で、昨晩12時過ぎまで被災者と飲んだアルコールを飛ばし、7時半から飯舘村佐藤八郎村議から村の現状についてのレクチャーを受けた。6000人の村民全員が避難しているが、村長は議会にも計らず2017年には帰村するつもりとのこと。住民不在の政治が、国会だけでなくいろいろな場でおこなわれていて心配だ。
 その後、車2台に分乗して飯舘村を目指す。あいにくの雨の中、飯舘村に入ると森林の中に村落が点在している。持参した線量計は、0.5μSv/h前後をずっとさしている。国のいんちきな除染基準でも0.23μSvの倍であり、国際基準である年間1mSv(÷24h÷365日=約0.1μSv)に比べると5倍もの危険地域である。
 雨の中を何カ所かで除染作業をしていた。その廃棄物は、黒い1t入りのフレコンバックに詰めて畑や山すそに積み上げているが、それば半端な数ではない。中には積み上げたフレコンバックの上にビニールシートをかけ、メタンガスを抜くための煙突を立てている所もあった。
 そうした中で運営している特養老人ホームを訪ねた。震災当初は無理をして120名ほどの利用者を、各保護者に引き取ってもらうなどして村外へ避難させたが、どこも認知症や運動機能が悪化するなどし、また他の施設での引き取り交渉が成立せず、やむなく放射能の汚染が高い中で続けることにした。現在は41人の高齢者が暮らし、村外からの通いで52人の職員が対応している。無責任なツイッターでは、「老人を犠牲にしている」とあったらしいが、他に手立てがなく人命優先のやむを得ない判断であった。矛盾の中で生きていくしかない。そんな大変な中でも、職員の女性の優しい笑顔が印象的であった。次の本ではぜひ詳しく紹介したい。
こんなことまで強いている原発事故だが、いまだに東電も製造メーカーも政府も、誰一人として責任をとらない。第二次世界大戦から続いている集団無責任そのものである。

浪江から福島第一原発をにらみつけ

 15日の夕方に埼玉の知人宅で泊めてもらい、16日の早朝6時に出発した車に同乗させてもらい、一路福島へ。10時頃着いた福島市の笹谷仮設住宅で、被災者の女性の話を仮設の部屋で聞かせてもらった。請戸の海岸近くの広い自宅は全て流され、壁には以前の家の航空写真を飾ってあった。震災前に病気でご主人を亡くし、その後は女手一つで事業を切り回し、軌道に乗りつつあったときの震災や原発事故で一変している。浪江に帰ることはできず、仮設の近くに息子夫婦が家を建て、そこに母親の部屋も造ってくれたのでうれしいが、まだそちらへ移る気持ちにならないとのこと。
 昼食の後で浪江に入った。途中の2か所の検問所では運転免許書を出して一人ひとり係りが確認する。もらった白い上下の防護服やマスクなどし、浪江の海岸近くまで走った。線量計はグングン上がり、常磐道あたりでは6μSv/h近くにもなって驚いた。国際基準の年間1mSvからすると、60倍もの危険な地域である。
 請戸の付近は、昨年と異なってガレキがだいぶ整理されていた。それでも家屋の基礎のコンクリートだけを残し、一面に雑草が生い茂っている。この地域だけで約190が亡くなり、その半数がまだ行方不明とのこと。埋もれている方もあるだろうが、放射能の汚染が高くて捜査も遅れている。
 海岸から南を見ると、林の向こうに原発の煙突や工事のクレーンなどが見える。諸悪の根源となっている原発である。それにしても何が原因で、今は内部がどうなっているのかなど分からないことがあまりにも多い。例えばMXという他と違った燃料の4号機は、3号機で発生した水素が地下を通って入り込んで爆発したとのことだが、空気よりも軽い水素がそんな流れ方を本当にするのか。原発の安全管理を委託されているイスラエルの軍事会社マグナ・BSP社が、いったい何をしたのか。政府や東電に都合の悪いことは、今でも国民に開示していない。
 自然災害ややむを得ない側面もあるが、金儲けによるこんな人災は、絶対に私は許すことができない。

2015-08-09

韓国料理にみる文化レベルの高さ

 3泊4日という短い韓国の旅であったが、今回も美味しい料理やお酒を楽しむことができた。
韓国料理を代表する1つがキムチである。それも日本で一般的な白菜だけでなく、たくさんの種類があるし、訪ねる時期によってもいろいろな種類を味わうことができる。今回は、ゴマの葉のキムチをはじめて食べた。日本ではゴマを昔から食用するが、葉を食べることはあまりない。ゴマと同じく健康に効くとのことで、何枚もいただいた。ゴマの葉は、他にはゆがいて味噌などの好みのタレに付けて食べており、これも美味しかった。葉でも捨てずに食べることは、物を大切にする意味からも優れた食文化といえるだろう。食糧不足がいずれくる日本においても、もっと謙虚に韓国の食文化から学ぶ必要がありそうだ。
 ゴマといえば、これも初めて食べた黒ゴマのおかゆも美味しかった。黒ゴマをすりつぶし、もち米の粉と一緒に煮たもので、簡単に日本でもできそうだ。
 私のような酒好きには、韓国のマッコリも魅力である。発酵酒であるマッコリにもいろいろあって、市販している商品をいくつか飲み比べたが、微妙に異なっておもしろい。今回は、陶器に入った栗のマッコリを料理店で飲ませてもらった。少し黄色のドロッとした汁で、普通のマッコリよりも甘くて口当たりが良く、キムチを食べつつぐいぐいと飲むことができた。
 こうした料理やお酒と同時に、宴会における韓国の方の楽しい場づくりも素晴らしい。6日の夜は晩餐会があり、食事の後はマッコリやビールなどを飲みつつ、韓国の舞踊や民謡などを楽しみ、続いては皆がお待ちかねのカラオケタイムである。1人がマイクを手に歌い出すと、仲間が周りに集まって輪になりリズムに合わせて踊ったりする。私が歌ったときも、10人ほどの女性たちが手を大きく振りながら近くで踊ってくれた。1人ひとりが、それは素敵な笑顔であった。
 政治レベルで韓国と日本の間に残念ながらギクシャクはあるが、私にできる草の根レベルでの交流は、ぜひこれからも続けていきたい

2015-08-08

韓国原爆展示館が開館

 知人の住職である高橋公純さんが、自費で韓国原爆展示館を開館し、その式典が6日の午後にソウルのお寺の1階であり参加してきた。20坪ほどの狭い部屋ではあるが、原爆に関する資料の展示は韓国のどこにもなく画期的な施設である。高橋さんから依頼を受けて広島の原爆ドーム前の元安川で採取した原爆瓦を寄贈した私は、以下のスピーチをさせてもらった。
 「70年前の今日、アメリカ軍が日本の広島へ史上初の原子爆弾を投下しました。原爆にはリトル・ボーイと名付け、一般には「小さな男の子」と訳していますが、本来は「おちんちん」の意味で、これだけ日本人をバカにした名前はありません。広島市の上空500mで破裂した原爆は、近くに3000度から4000度の熱線を注ぎ、家や樹木などを焼き尽くしました。その時民家の屋根にあった瓦が飛び散り、川底に残って原爆の悲惨さを今に伝えています。
 当時のアメリカのトルーマン大統領は、「戦争を1日も早く終わらせるため原爆を投下した」と話しましたが、2か月前に沖縄戦は終わり、すでに日本には飛行機、軍艦、弾薬などがないことをアメリカは知っていました。このため原爆投下の本当の理由は、第一にアメリカの大財閥が金儲けをするため、第二に放射能による人体実験でした。
 2011年3月の東電福島原発の事故も、70年前の広島・長崎の原爆と根本は同じです。このため韓国における被爆者を守る運動と、日本で原発をなくす活動は、どちらも人々が安心して暮らす社会を目指すことで共通して大切なことです。
 この小さな原爆瓦が、そうした両国の懸け橋や、社会の仕組みを考えるきっかけになれば幸いです。ありがとうございました」
 このときもらった木製の感謝牌には、次の印字があった。
 「貴殿は平和の花である被曝ハマユウを守る会の責任者として、二度韓国各地の施設に平和の花を植えてくださいました。また去年は台湾に、今回は韓国に貴重な原爆瓦を寄贈してくださいました。その平和への歩みは称賛に値します。ここにささやかな記念牌を贈り労を称えます」
 そんなにたいしたこともしていないので面はゆい感じがしないでもないが、韓国の被爆者に寄り添い、平和を考えるきっかえの1つになれば幸いである。
 同時に千葉県の有志が被爆者の聞き取りをした冊子「原爆投下後の70年 今、なお」を展示館に寄贈した。

韓国人原爆犠牲者70周年追悼式

 4日から韓国はソウルへ一人で飛び、知人の住職のお寺で宿泊をさせてもらい、6日の午前中は赤十字会館で開催の、韓国人原爆犠牲者70周年追悼式に参加させてもらった。6月から韓国ではコロナウイルスによる死者が続出し、このまま続けばソウル行きをどうしようかと迷ったときもあったが、7月になって下火になったので安いチケットを購入して出かけた。
 70年前の広島と長崎へのアメリカ軍による原爆投下により、約7万人の朝鮮の方々が被曝し、4万人が殺され、残った2千人が北朝鮮へ、2万1千人が韓国へ戻ったとされている。その多くは病気や貧困に苦しみつつ亡くなり、現在は2600人の被爆者が韓国で暮らしている。
 そうした人たちへ韓国や日本の政府からの援助はほとんどなく、また一般市民は原爆によって第二次世界大戦が早く終わり、日本をこらしめるめることができたと考える人が多く支援もない。
 住職が代表をつとめる奉仕団太陽会が主催した式典は、420人の会場が満席となり、花で飾った舞台には、中央に祭壇を設けていた。開式辞の後で被爆死亡者の名簿を台湾太陽会からの寄贈による厨子へ納入し、日本太陽会寄贈の平和の鐘、そして私が寄贈した原爆瓦を次々に檀上で被爆団のソウル支部長へ手渡した。韓国国歌の後で平和の鐘を7回子どもが鳴らして全員で黙とうし、来賓者の国会議員、日本大使館、スリランカ大使館の各代表から簡単なスピーチがあった。
 さらには日本から被団協と、そして日本太陽会からのスピーチもあった。特に日本太陽会からは、日本による豊臣秀吉から続く朝鮮への侵略や、被爆者に対しても日本内外で差を付けていることなどへの心からのお詫びを伝えて印象的であった。
 犠牲者への献茶は、韓国人のチマチョゴリ2人、日本人の和服1人、台湾人のチャイナドレス1人が檀上で並んでおこない鮮やかであった。純白のチマチョゴリを着た2人の女性による鎮魂の舞踊や、民謡「恨五百年」などが続き、そして太陽会合唱団による被爆者への追悼歌「タンシン アンニョン(さようなら あなた)」が静かに流れた。これは住職による作詞で、広島で被爆した犠牲者をいつまでも忘れないというナレーションも入ったしんみりと
聞かせる歌である。
 最後に白い菊の花を祭壇に献花して、1時間半ほどの式典を終えた。

2015-07-19

高知の旅2 絵金

 幕末の頃に、土佐の高知で絵師の金蔵こと絵金が活躍していた。私の産まれ育った仁淀川の河口近くの村でも、祭りの時には絵金の絵馬がいくつか並び、子ども心には絵の意味は分からずにいたが、ローソクに照らし出される赤や青の強調したおどろおどろしい殺戮の場面は、底知れぬ恐怖心をもったものだ。
 南国市の赤岡町に絵金の資料館があるし、絵金祭りは18、19日だが、その前に町の神社で夜に展示するとのことで15日に兄弟で出かけた。
 資料館の絵金蔵は、いくつもの作品や資料があり見応えがあった。絵の天分に恵まれていた絵金は、とんとん拍子で土佐藩で出世したが、だまされて贋作事件に関わり城下町である高知市を追放される。10年の空白の後、絵馬などの作者として再出発し、今に残る作品を精力的に描いていった。一説ではお酒を飲みつつ、1晩で1つの作品を描いたというから凄いスピードである。
 1枚の絵の中に複数の出来事を描き、ストーリーを楽しむ芝居絵がある。和ろうそくの光に浮かびあがる極彩色が、妖しくゆらめく。墨で一気に描いた下絵は躍動感にあふれ、180cmの巨体を使い勢いよく筆を走らせたことがよく分かる。
 中には男女別での放屁合戦や、夜這いの風景などで性器をリアルに描いた「笑い絵」もあった。権力から離れ自由奔放に描いた絵金のいごっそうぶりがよく分かって愉快であった。
 絵金を保存している赤岡町には敬服するが、あくまでも年に数日の祭りであり、そのときの観光客も知れている。日頃から子どもや高齢者を含めた住民が暮らしやすい地域にすることが町おこしの本命であり、街中の大半の店にシャッターの降りていることが気になった。

高知の旅1 平和資料館草の家

 7月13日に1年ぶりで墓参りに帰省した。時間があったので市内にある平和資料館「草の家」を久しぶりで訪ねると、創立者の故西森茂夫さんの奥さんである遼子さんがちょうどいて、近況などを聞かしてもらった。「草の家」は、平和と教育、環境問題を考える草の根たちの広場として、西森さんが私財を投入して設立した4階建てである。1階の50人収容のホールには、壁面に戦争関連の遺品などを展示し、2階は図書室になっている。
 私が生協総合研究所の研究員だった頃に、まだ健在だった西森茂夫さんを取材させてもらい、「草の家」の取り組みを「生活協同組合」誌に掲載させてもらった。また西山竜平さんが高知へ戻ったときに同行してここを訪ね、1晩泊めさせてもらったことも懐かしい。
 ここを拠点にし、戦争遺跡の保存と調査研究、戦跡めぐりや平和の旅の実施もあれば、記録や草の家ブックレットなどの出版もすれば、ミニコンサートやフォーラム、映画会、学習会なども開催している。これらを全て民間の力で運営しているから凄い。
 遼子さんと話していると、こうち生協の協力で「ぼくの見た高知大空襲」のDVDが完成したとのことで、1部をいただいた。1945年の7月にアメリカ軍のB29の120機が高知市を空襲し、そのとき母と姉を亡くした岡本正弘さんの語りを紙芝居にしていた。子ども向けで、戦争の実態を分かりやすく解説している。市内を流れる鏡川が、焼夷弾で川面も燃えて多数の死傷者を出したことなどを知ることができた。私は中学生の頃にボート遊びや魚獲りした川だが、次に観るときはこの紙芝居をきっと思い出すことだろう。
 かつてここで働いていた金さんが、ソウルの民族問題研究所で活動し
ているという。8月に被爆資料室オープンに参列するためソウルを訪ねるので、時間があえばぜひ会ってきたいものだ。

2015-07-10

会津地方を訪ねて

 7月6日から8日まで会津を訪ね、天気が良かったので、スケッチブックを持って喜多方の蔵めぐりもした。大和川酒造などの酒蔵がいくつかあり、それぞれが無料で見学させてくれ、自慢のお酒の試飲もできるから最高である。
 会津坂下にある8.5mもの立木千手観音は、その名の通り根のある大木を彫った仏像で、日本一の立像観音とのことで迫力があった。808年に彫刻したそうだから、実に1200年以上もたっていることになる。それぞれの樹木にも命が宿るという日本古来の自然観に、仏教の教えを重ねて彫ったものだろう。奈良や京都とは異なった自由な会津仏教の1つであり、おもしろい流れである。
 いろいろな方にも会ってきた。スクールソーシャルワーカーをしている女性の話では、東日本大震災で震災して会津地方に避難している家族で、補償金を使いはたし、子どもの食費にも事欠くケースがあるとのこと。特に長い休みの後は、痩せた状態で登校する子がいたりして、格差社会がより深刻になっているとも話していた。
 この6月に出版させてもらった『協同の力でいのち輝け』の取材でお世話になった、会津美里の農民詩人前田新(あらた)さんも訪ね、今回は書斎なども見させてもらいながら話を聞かせてもらった。本を贈るとすぐに、「冥土への最高の土産ができました」とのていねいな礼状が届き恐縮した。
 脳梗塞をおこして町会議員を降りてから前田さんは、1年に1冊は出版すると決意し、農作業をしつつこれまでに詩集や小説や評論集など15冊を出しているから凄い。80歳になる今も、会津の近代史における農民の動きなどを研究し、いずれ本にする準備をしている。
 蔵を改造して造った書斎は、壁面に本が整然と並び、さらには気分転換に描いている絵もいくつかあった。広い窓から見える磐梯山の雄大な姿も、100号ほどののびやかな絵になっていた。訪ねた日は朝5時から奥さんや娘さんと農作業でキューリもぎなどをされ、疲れた体であっただろうが笑顔で10時から3時前まで楽しく懇談させてもらった。
 後遺症で片腕しか自由に動かすことのできない体で、トラクターを運転し、パソコンや絵筆も動かしている。農民詩人というより、宮沢賢治が強調した農民芸術家そのものである。

2015-07-01

ジャーナリスト高杉晋吾さんに会って

 6月30日の昼過ぎに、電車を乗り継いで池袋線の入間駅へ向かった。社会派のジャーナリストである高杉晋吾さんに会って、ルポの方法などについて聞くためである。約束の15分前に改札口に出ると、すでに82歳の高杉さんが立っていて恐縮した。5分ほど歩いて集合住宅のお宅へ向かう。
 高杉さんの『袴田事件・冤罪の構造』(合同出版)を読んで、その取材の丁寧さに驚いた。いかにでたらめな「証拠」によって袴田さんが死刑囚にされたのか解きほぐし、事実でもって再審無罪へと読者を案内してくれる。他にも古書店で入手できる6冊をインターネットで購入し読んだ。教育、水力ダム、廃棄物、障害者問題など、多面的なテーマで出版し、そでに60冊ほど出しているから凄い。それも年によると2冊だけでなく3冊も出している。小説やエッセイであればわかるが、「足で書く」とも言われるルポルタージュにおいて、年に3冊も仕上げるとなるとかなりのスピードと体力が必要である。
 5月に「愛とヒューマンのコンサート」でカメラ担当として高杉さんの奥さんは同行して面識があり、電話して今回の面会をお願いした。
 キッチンのテーブルに座ると、「何もありませんが」と言いつつビールとつまみを出してくれ、乾杯してから親しく質問に答えてくれた。
 「高杉さんの原点は?」に対して、11歳のとき満州の自宅庭の防空壕でアメリカ空軍の直撃弾を受け、母と姉など6人が即死し、高杉さんは母の下で奇跡的に助かったことと話してくれた。後で近所の人から、姉は首が飛び、内臓が破裂して腸が枕木にかかっていたと聞かされたそうだ。大学時代に社会の仕組みについて学び、母や姉の殺された戦争の背景などを考え、社会にある差別をえぐり出すことに情熱をかたむけるようになった。私の父親が自分で片目をつぶして傷痍軍人として帰国したことが、私の1つの原点になっていると話すと、「よく分かりますよ」とうなずいていた。
 取材は全てテープに録音し、それを後でコツコツと文字にしているとのこと。テープおこしは、話した時間の数倍かかる。そんなに時間をかけるのは大変なので、私は大学ノートに要点をメモするようにしているが、忘れてしまうこともあって困ることがある。高杉さんの本には、細かい会話がよく出てくるが、全て会話を記録しているからできることである。6畳ほどの書斎を見せてもらうと、一面の本棚にはテーマ別にA4版の紙製ファイルがずらりと並び、関連する資料などをきちんと綴じ几帳面さがよくわかった。
 テーブルの上にビールの空き缶が6本並び、今度は焼酎を出してくれた。
 「ミクロを積み上げていけば、やがてマクロになります。私も歳をとってきたので、これまでの総仕上げとして個別のテーマを横串にした本を書くつもりです」とのことであった。もちろんルポではないが、ぜひ読みたいものである。
 奥さんは数日前に転倒して骨折し入院していたので、2人で駅前のそば屋へ入って夕食をとり、ビールで2人の健康と次の作品に向け乾杯した。楽しく有意義な時間だった。

2015-06-28

沖縄のミニ旅3 映画「沖縄 うりずんの雨」

 那覇市内の桜坂映画館で、アメリカ人のジャン・ユンカーマン監督による映画「沖縄 うりずんの雨」が上映されており足を運んだ。タイトルにある3月から5月に降る雨を意味する「うりずん」は、「うりずんの雨は 血の雨 涙雨 礎の魂 呼び起こす雨」からとり、英語版ではThe Afterburnとなっている。監督の造語で、炎に焼かれた痕といった意味だろうか。
 2時間半ほどの長編ドキュメントで、沖縄戦、占領、凌辱(りょうじょく)、明日への4部構成となって、日本国内の目線でなく国際的な視野に立って、戦争にほんろうされてきた沖縄の戦後史を浮かび上がらせ、今を生きる人々の熱い息吹を伝えている。
 いくつも印象的な場面があった。1995年にわずか12歳の少女を、3人の海兵隊員がレイプした事件は、その後の米軍基地返還運動へとつながり、私も記憶していた。その加害者3人を監督は調べ、その1人が取材に応じた。当時21歳のロドリコは、主犯の兵士が当初は冗談を言っていると思っていたが、実際に行動をはじめたのでいつの間にか共犯者となった。映像では、「レイプする必要はなかった」と苦悩した顔つきで後悔し、帰国後は精神的なダメージもあって現在も失業中とのことである。
 米軍の若い兵士は、地元の町から他に出たこともない者が多く、高校から入隊して訓練を受け、そのまま沖縄などに配属されている。そこでは命令に沿って同じ人間である相手を殺すため、敵を虫けらのように見下し自らの人間性を否定する教育を徹底して受ける。そして実弾や本物の地雷などを使った訓練を繰り返すので、心身ともにボロボロになってしまい、休息時は人間性をなくして性犯罪などへとつながりやすい。ロドリコは特殊なモンスターでもなく、ごく普通の若者であった。その一般的な若者が、沖縄では一生を台無しにする犯罪へと走っている社会構造こそが大問題である。
 今も続く米軍による性犯罪についてインターネットで調べると、たくさんの事例が沖縄であり、1955年には6歳の少女がレイプされ惨殺、さらには1948年に生後9か月の赤ちゃんがレイプされたともあって驚く。これらも氷山の一角であり、さらには男の子の被害の記述がない。
 映画では、米軍の女性兵士にも被害者が続出しており、その人たちが組織を作り活動している様子も紹介していた。
 ユンカーマン監督の鋭い問いかけは、沖縄の人だけでなく、私も含めた日本人の一人ひとりが正面から受け止め考えなくてはならないだろう。違憲の戦争法案を無理に進める安倍首相や自公の国会議員など
にも、ぜひ観てほしいものだ。 

2015-06-27

沖縄のミニ旅2 不屈館、国際平和研究所

 24日は、いくつかの資料館などを徒歩で訪ねた。朝からこの日も日差しが強く、帽子とサングラスをかけて出かけた。ゆっくり歩くだけで汗がにじんでくる。最初に向かったのは、できたばかりの不屈館。瀬長亀次郎さんと民衆資料館であり、瀬長さんの次女である館長の千尋さんにも会い、たくさんの資料を観させてもらった。ご主人が以前に生協で働いていたこともあり、数年前に沖縄で懇談させてもらった方である。都内であった6・13の安保法案反対の集会で、瀬長さんの口ぐせであった「道理と正義は我々にある」と檀上から話していた人がいて、今にもカメさんは生きていることを実感できた。
 2時間ほど滞在してから不屈館を出て、次の沖縄国際平和研究所に向かった。途中の海岸淵で小高い丘があり登ると、いくつもの記念碑があり、それぞれに合掌しつつ碑文を読んだ。その一つが写真の「海鳴りの像」で、70年まえの戦争において海で亡くなった沖縄県民3405人を祭っていた。学童疎開の対馬丸は知っていたが、それ以外にも26隻が犠牲になったとのことで驚いた。他にも戦時下で新聞を守るために殺された方の碑などもあり、どれだけたくさんの人が非業の死をされたのか改めて知った。
 国際平和研究所は、昨晩、知人の車から場所は教えてもらっていたが、なにせ夜だったのでよく分からず探し回った。やっと辿り着いた研究所は、1675点の写真で沖縄戦、ホロコースト、戦後沖縄について鋭い投げかけをしていて勉強になった。沖縄を日本だけでなく、ナチスのユダヤ人虐殺などと対比しつつ、国際的な視点で考えるヒントを投げかけている。不屈館と同様にさほど大きくはないが、民間の力で貴重な資料を通して沖縄や日本社会の在り方に対する発信をしている。
 県庁近くにある那覇市歴史博物館も訪ね、「戦後70周年記念展沖縄戦」を観たが、こちらはポリシーの弱い
平面的な展示で30分ほどで出た。
 

2015-06-26

沖縄のミニ旅1 高江、辺野古

 6月22日から25日まで、久しぶりの沖縄を訪ねた。辺野古などの情報は断片的に流れてくるが、現地の動きを知るには足を運ぶことが一番である。
 沖縄の知人にお願いし、23日のまる1日を車で案内してもらった。9時半に首里駅で待ち合わせ、一路北上して名護市経由で高江へ。4年ほど前に市議選の応援で、汗をふきつつジュゴンを守る候補者の名前を連呼した町である。シャッターの降りた店が増えているような気がした。昼に高江へ入り、フェンス前のテントにいる2人にあいさつして話を聞いた。7月からヘリパットの工事が再開されるとのことで、今は静かだが注意して監視しているそうだ。基地との境界線に沿って近くの高台に登り、あたりの米軍基地を眺めた。どこまでも密林が続き、かすかに見える鉄柱が米軍基地である印であった。以前に観た映画「標的の村」で、反対運動の動きをていねいに紹介している。
 「本土にある米軍基地を全て合わせた面積が、ここの広さです」
 思わず「えっ!」と驚いて、広大な山々をあらためて眺めた。資料のDVDを購入する。
 高江から1時間ほどで辺野古へ着いた。大浦湾の対岸から見ると、立入禁止の赤いブイが海面にズラッと並び、その広さに驚いた。
 辺野古の海岸ふちにあるテントを訪ね、以前の取材で顔見知りになっている女性にあいさつする。以前に私も乗ったカヌーや舟がないので聞くと、基地建設へ抗議する場に効率よく行くため、対岸の二見へ車で運んでいるとのこと。反対行動へのいやがらせが激しく、平気で舟をぶつけてくるので、けが人の手当や舟の修理などで大変とのことであった。
 キャンプ・シュワブの基地は、海岸において以前は有刺鉄線を張っていたが、今は高いフェンスを造っている。戦車のような水陸両用艇が演習をしており、轟音とともに何台もサンゴ礁を傷つけながら上陸訓練をしていた。
 基地正面のゲート前には、細長い大きなテント村ができ、沖縄はもちろんのこと全国各地から集まった100人ほどが座っていた。決意表明などの他に自作の反戦歌を紹介している人もいた。
 以前に訪ねたときは数名であったが、これだけの人が連日のように集まっている。一般の会社などからも、連日のように支援物資が届いている。今ある米軍基地は、全て暴力によってアメリカ政府が土地を奪って造った。今回の辺野古は、日本政府が血税を使って基地を造り、寄贈しようとしている。これを通せば、平和憲法が骨抜きになる。沖縄の人だけでなく、日本人全員にかかる大問題である。


 

2015-06-03

『協同の力でいのち輝けー医療生協・復興支援◎地域まるごと健康づくり』を出版

 東日本大震災の復興支援本シリーズで6冊目となる『協同の力でいのち輝けー医療生協・復興支援◎地域まるごと健康づくり』(合同出版 定価1400円)を、やっとのことで出版させてもらった。今回は、福島県内にある5つの医療生協を舞台にし、被災者だけでなく地域に暮らす高齢者などを含め、まさに地域まるごと健康づくりの実践をひろった。
 小名浜公害からの健康を守る取り組みの浜通り医療生協、核害のまちに生きると頑張っている郡山医療生協、空間放射線量のまだ高い福島市で健康づくりを進める福島医療生協ときらり健康生協、そして線量は他に比べれば低いが地道に活動する会津医療生協である。形は異なっても、協同を大切に創意工夫した活動がいくつもあり、ここでもワクワクしつつ取材を進めさせてもらった。
 福島における地域まるごと健康づくりの記録としてもこの本は意味があるし、全国の仲間にも普及して、こうした取り組みがさらに拡がることに少しでも貢献できれば幸いである。そうした流れが、健康を守る主体が国民一人ひとりにあるとする健康民権運動にもつながっていく。
 この復興支援シリーズの7冊目として、音楽をテーマにすることで、すでに3月から「愛とヒューマンのコンサート」を中心にして取材に入っている。過日に宮古市を訪ねたとき、再開した三陸鉄道をテーマにした本ができないかと関係者からの声もいただいた。
 市販の本で販売に応じていくばくかの印税は入ってくるが、自腹の取材費をとうてい賄うことはできず、持ち出しがずっと続いている。「次こそベストセラーになって」と思うのだが、いつも「獲らぬ狸の皮算用」である。それでもお金には替え難い得るものがあり、これからも私は本創りをするつもりである。

2015-05-27

岩手での「愛とヒューマンのコンサート」

 2015年5月20日から22日にかけて、岩手県の被災地である大槌 山田 宮古の10カ所で、松本克巳さんのヴァイオリン金沢恵理子さんのピアノによる愛とヒューマンのコンサート」が開催となり同行させてもらった。松本さんは日本フィルハーモニー交響楽団でヴァイオリニストとして金沢さんはピアノリサイタルシリーズ <未来へのレクイエム>を各地で演奏し、それぞれ国内外で高く評価されている。
 20日の10時過ぎに東北新幹線新花巻駅で今野強・和子夫妻の車へ全員が乗り、新緑の山間をぬって一路東へ向かい、釜石を経由して最初の訪問先である大槌町「ベルガディア鯨山(くじらやま) 風の電話」へ。人口1万5276人の大槌町は、町長を含め1240人が津波の犠牲となり、人口対比では県下で一番死者の多い町である。太平洋を望む2000坪の山の斜面を整地し、佐々木格夫妻がいくつもの草花を育て、被災者の憩いの場にもなり、その中の1つが亡くなった方との会話もできる「風の電話」である。2からその白い電話ボックスで黒のスーツの松本さんの演奏による「アメイジング・グレイス」にはじまり、木造の小さな「森の図書館」では花柄のワンピースによる金沢さんの電子ピアノも加わって、エルガーの「愛のあいさつ」からドヴォルザークの「ユーモレスク」まで5曲の演奏があった。静かな優しい音色は、10人ほどの来園者だけでなく、ガーデンの花や小鳥たちにも届いていた。

 次は126戸ある吉里吉里(きりきり)仮設団地集会所で、4から1時間かけてクライスラーの「愛の悲しみ」や「愛の喜び」もあれば、28歳で亡くなった貴志康一の優雅な「竹取物語」や雄々しい「水夫の唄」があり、また日本民謡で大漁唄いこみ歌として有名な力強い「斎太郎節(さいたらぶし)」もあって、集まった高齢の女性10人が喜んでいた。
 三カ所目は、7時半から三陸花ホテルはまぎくの広いロビーであった。はまぎくの花言葉は、逆境に立ち向かうであり、震災から復興しつつある当ホテルにふさわしい名前である。
 窓ガラスを通して太平洋をバックに松本さんは立ち、グランドピアノの前に座ったグリーンのドレスの金沢さんと、「愛のあいさつ」や「タイスの瞑想曲」など10曲を熱演した。アンコールに応えた陽気な「チャルダッシュ」では、ドイツ人3人を含む20人ほどの手拍子もあった。
 遅い夕食には、佐々木夫妻の他に大槌でのコーディネート役の臺(だい)隆明さんも加わり、差し入れのワインと海の幸で交流した。大槌を復興させるため臺さんは、住民の力で夢の音楽ホールを地元に造るプロジェクトを立ち上げ、文化による町づくりを進めているから凄い。
 21日はホテルをを9時前に出発し、国道45号線を北上して30分ほどで山田町へ入った。人口1万8617人の山田町では、津波で753人が犠牲になった。重茂(おもえ)半島と船越半島に囲まれた山田湾の奥にある街並みは、湾内で反響した津波が影響し、またプロパンに引火して火災が発生して被害が拡大した。防潮堤や盛り土の工事は進んでいるが、3年前に比べても住居などの再建はあまりされず、まだ復興にはかなりの時間がかかりそうであった。
 山田町の社会福祉協議会で運営する復興支えセンターに表敬訪問し、松本さんは「G線上のアリア」などを演奏した。
 10時半に訪ねた170世帯の山田町民グランド仮設住宅にある談話室は、昨年の10月にも演奏し、今野さんが撮影した前回の映像を演奏前に流して盛り上がった。毎月被災者の60人ほどが近くの体育館でカラオケ大会を楽しむなど交流が盛んで、「斎太郎節」などは手拍子の他に歌まで出ていた。 
 道の駅で昼食用の弁当などを買い、次の43世帯があるタブの木荘談話室へ早めに入って食事をしていたときである。年配の女性が目頭を押さえつつ入ってくると、案内してくれた女性の町議の前に座り込んだ。生活保護を受けているが、町役場の職員から通帳に10万円をこえる金額があり、これは問題だと脅されている様子を涙声で話していた。「必要な生活費を払って金額を10万円以下にして、職員に見せれば大丈夫だから」との町議の声に、女性は安心した様子であった。1時からの演奏を他の10人ほどと一緒に聞き、後の記念写真ではすっかり笑顔になっていたのでホッとした。   
 3半からは、宮古市に入り愛宕公園仮設住宅集会所で、13人が演奏を聞いていた。   半からは、いわて生協のマリンコープドラ一階復興商店でのミニコンサートで、買い物客など20人ほどが椅子に座り、「愛のあいさつ」から「タイスの瞑想曲」まで10曲を楽しんだ。   3年前に宮古市を舞台に復興支援の本を書いたときには、何回も訪ねた店で懐かしかった。夕食用の刺身などと一緒に、大槌で被災して現在は盛岡の蔵を借りて作っている赤武酒造の1升ビン浜娘も買い、宿泊先の千徳ボランティアセンターで美味しくみんなと飲んだ。純米酒だが吟醸酒に近い端麗な上品さがあり、復興支援しつつ愛飲できる。
 22日はセンター9時に出て、宮古市磯鶏(そけい)仮設団地集会所へ行き、10時から11人が演奏を楽しんだ。12時からはシートピアなあど(道の駅みやこ)で約40人が演奏に耳を傾け、昼食をした後でせっかくなので近くの浄土ヶ浜を案内し、演奏会としては最後になる宮古市鍬ヶ崎学童の家を3半に訪ねた。現地案内中村國雄さんの職場で、子ども16人と近くの仮設住宅などから大人10人も参加した。ここでは子ども中心に、「星に願いを」やショパンの「子犬のワルツ」もあれば、どの子も大好きな「散歩」もあった。そして最後は、みんなで歌う「BELIEVE(ビリーブ)」である。演奏後に女性の館長さんは、「子どもの必要最小限の世話をするのがスタッフは一杯で、文化面などのゆとりある支援は、『愛とヒューマンのコンサート』のようなボランティアが来てくれて本当に助かっています」と声を詰まらせてお礼を言っていた。  
 座っている被災者や子どもの前では、膝を折って同じ目線でヴァイオリンを優しく弾く松本さん。恵理子がエリーゼに似ているとして、「エリーゼのために」をそよ風のように奏でるかと思えば、「斎太郎節」になると腕まくりをして飛び上がって鍵盤を連打する金沢さん。私も音を楽しみ、3日間で10カ所でのミニコンサートと忙しくはあったが、音楽を通して人と人の心が通じることを、今回のコンサートでも実感することができた。
 なお22日に一行と分かれた私は、宮古にもう1泊し、「かけあしの会」の皆さんと会ったり、3年ぶりの田老を訪ねるなどした。


2015-05-13

ネパール地震報告と音楽の集い

 季節外れの台風6号が北上している12日の夕方6時から、渋谷のコーププラザにおいてネパール地震報告と音楽の集いを支援の仲間と開催し、何と53人もが集まってくれたので感謝感謝。
 前日にスリランカから帰国し、まだ疲れが十分に取れてはなかったし、12日の朝から3時まで出版社で、この6月に出版する復興支援本の第6冊目となる原稿の最終校正の念校をして、だいぶ頭が疲れていた。それでも昨年ネパールでもらった帽子をかぶり、気分を新たにして集いに臨んだ。
 5分遅れでスタートし、冒頭の10分の開会あいさつでネパール子ども基金代表の私は、子ども支援の経過や今回の集いの趣旨を話し、支援に関わる意義について以下の3点を触れた。
 ①貧困や震災などで困っている人に対して、できる範囲で手助けすることは、人間としても当然の行為である。
 ②ただし、それだけでなく、支援する相手から逆に学ぶことはいくつもある。金や物のないネパールでは、子どもが本や食べ物などをそれは大切に扱い、元気で前向きに暮らしており、物事や生きる原点を確認させてくれる。苦しい生活だからいろいろな助け合いがあり、協同組合の原点を観ることもできる。
 ③さらには、同じ志をもった仲間と知り合うことができ、お金ではなく素敵な友人との人(ひと)財産を楽しく作ることができる。
 ネパールの地震報告では、帰国したばかりの小澤重久さんと、民族楽器サーランギ(ヴァイオリンのような楽器)演奏者のネパリさんから、パワーポイントの映像50枚を使った生々しい説明があった。テントで寝ている子どもたちや、昨年訪ねたカトマンズの古い家屋が粉々になっているなどして胸が痛んだ。
 その後30分で6曲の素敵な演奏があり、ネパール音楽を堪能することができた。
 7時40分から希望者による会費制の懇親会をし、ここにも40人が参加してくれて楽しい一時をもつことができた。

2015-05-11

スリランカを訪ねて

 5月4日から10日までスリランカを訪ね、本日11日の午後帰国した。5月のスリランカは、仏教の国らしくお釈迦様を祝う花祭りが満月前後にあり、どこの寺院も飾りや出し物などで賑やかであった。
 今年は利子が4%と昨年の半分と大幅に減って、200万円のファンドの利子は8万8000ルピーしかなく、各校長のリクエストに応えて2つの小学校へ本と、1つの学校には楽器ハルモニウムを寄贈してきた。
 500人ほどの公立の学校でも、図書館に入れる本の予算がまったくない。このため本棚に入っている少ない本は、先生たちが持ち寄ったりした古い本などである。大きな段ボール1箱ほどの本を、全校生が校庭に集まって受け取ってくれた。
 楽器も学校にとっては大切な教材だが、これも予算がなくて紙に書いた鍵盤で授業をしている。楽器の寄贈式では、さっそく音楽の先生が演奏し、男性の校長が仏教讃歌をゆっくり歌ってくれた。「我が校の宝物にします」との校長の挨拶が印象的だった。
 昨年持参した中古のピアニカ10本を寄贈した学校では、それらを使った歓迎会をしてくれた。学校だけでなく村のお祭りなどでも、子どもたちは元気に演奏しているという。
 日本では本や楽器などいくらでもあるのでその素晴らしさの認識は薄いが、そうした物がないスリランカの貧しい小学校では、宝物として大切に扱っている。本や音楽の原点を再認識させてもらうことができる。
 学校訪問以外の時間は、スケッチブックを持って近くの民家や寺院を散策し、好きな椰子の木を中心に描いたりした。知人の民家での宿泊でもちろんエアコンもなく、今回も蚊にだいぶ喰われてしまったが、いつものようにキングココナツに地酒のアラックを入れて美味しく飲み、異文化の中でしばし
のんびりすることができた。

2015-05-01

被災地での「愛とヒューマンのコンサート」

 4月27日早朝から30日の夜にかけ、福島と宮城での14カ所において被災者に少しでも元気になってもらう「愛とヒューマンのコンサート」があり同行させてもらった。
 「広い河の岸辺」の訳者として話題の人にもなっているケーナの八木倫明(やぎりん)さんとアルパの高橋咲子さん、それにソプラノ歌手の大前恵子さんを中心に、企画者の今野強夫妻、運転の近藤裕隆さん、それに川越市の市民団体「自立の家」から桑野夫妻を中心に4名、カメラ担当、それに私の総勢12名が3台の車に分乗し、楽器や支援物資などを乗せて忙しく移動した。
 27日は、10時30分から福島市で飯館中学の音楽室を皮切りにし、蓬莱学習センターや飯坂温泉ケアセンターでは福島医療生協主催、28日は石巻へ入り、貞山小学校、3つの仮設住宅の集会所、29日は気仙沼へ入り、幼稚園もある教会、復興住宅のコミュニティセンター、2つの仮設住宅、30日は再び石巻へ入り、介護施設、仮設住宅、日赤病院において「コーヒールンバ」や「コンドルは飛んでいく」などの他に、「浜辺の歌」や「芭蕉布」もあれば、皆で歌う「広い河の岸辺」や「斉太郎節」など、それぞれ1時間ほど演奏や歌の楽しいプレゼントがあった。
 強行軍で会場では看板や椅子などのセットをし、コンサートが終わると片付けて次の会場へ急ぐ繰り返しであった。それでも曲に合わせて体を静かにゆらし、目頭を押さえる女性もいれば、斉太郎節に合わせて車椅子で両手を上げて踊る高齢者もいて、音楽の力を再確認することができた。
 また石巻市の雄勝では、古い木造の旅館だが生きたウニを7個も冷酒と一緒にいただき、お礼に生臭坊主として大きな仏壇に読経させてもらった。また気仙沼では泊めてもらった支援者のお宅から、水墨画のような入り江の対岸にある大島からの日の出を、何羽ものウグイスの鳴き声を聞きつつしばし
眺めることができた。29日は66歳の誕生日でもあり、これまでにないプレゼントとなった。

2015-04-23

ガイアの夜明け 地域革命 南生協病院の取り組み

 4月21日のテレビ「ガイアの夜明け 地域革命 南生協病院の取り組み」を興味深く見た。毎月150名近くの生協組合員・医師・職員などが集まり議論する「1万人集会」の成果が、2010年に7階建ての病院となり、その後の同じ毎月の取り組みの「10万人集会」を受けて、今月に8階建ての「よってって横丁」が完成した。地域で暮らす組合員が、自分たちに必要な医療・介護のあり方やサービスを自由に出し合い、それを医療生協の場で具現化している。お金ではなく人と人がつながり、豊かな地域の暮らしを協同で創る一人ひとりの喜びが、南医療生協の原動力になっている。
 組合員は7万をこえる規模なので、いくつもある100万人前後の地域生協などに比べるとけっして大きな生協ではない。しかし、組合員を主体にしたまさに協同組合らしい取り組みが、こうして素晴らしい形になっていることは、日本もまだまだ良くなる可能性があるとワクワクする。番組では「地域革命」と表現しているが、けっして誇張ではなく、生協内部はもちろん協同組合外も含めて人間らしい地域や暮らしを創る大切なヒントがいくつもある。
 写真は、組合員の折った1000個以上もある花びらを集めた「生協桜」で、新設した横丁のロビーに飾ってあった。

2015-04-07

南医療生協の「よってって横丁」オープンまつり

 4月4日に名古屋の南大高駅前で、南医療生協「よってって横丁」オープンまつりがあり、招待を受けて竣工式に出席させてもらった。2011年に完成した7階建ての病院と、駅の間の広い敷地に、8階建てのりっぱなビルが完成していて驚いた。
 2011年の秋に出版させてもらった単行本『協同っていいかも』(合同出版)を仕上げるため、2年半ほどかけて毎月のように訪ねては、いつも1週間ほど滞在していろいろな方からの取材をさせてもらった。組合員がその地域に欲しい医療や介護の施設づくりに関わり、土地、建物、職員、利用者、資金まで主体的に集め、その間にいくつものドラマがあり、いつもワクワクしつつ訪ねたものだ。
 式典の会場では、何人もの懐かしい方に会って挨拶することができた。2時からの式典の後で、横丁の案内をしてもらった。各フロアは、下記である。
 1階:在宅診療所、訪問看護ステーション、ヘルパーステーション、指定居宅介護支援事業
   所、デイケア、小規模多機能ホーム、自習室、レストラン、駐輪所
 2階:メンタルクリニック、えきまえ歯科、こころはり・きゅう院、広場、レストラン
 3~4階:在宅型有料老人ホーム
 5~8階:サービス付き高齢者住宅
 敷地面積2600㎡、延べ床面積8691㎡もある巨大な建物である。毎月の「10万人集会」を3年近く積み上げ、「南医療生協の地域包括ケアの先取りが生み出した」が横丁のキャッチコピーである。施設を見学すると、廊下に作品を掲示するフックとレールの設置、無料の子ども向け自習室、地元の杉板の使用など、組合員の声の反映を観ることができた。歯科は予防に力点を置き、食事や暮らしとの関連からアドバイスするというから凄い。
 書かせてもらった本関連の嬉しい話も聞くことができた。4月21日にこの横丁などについて、テレビ「ガイアの夜明け」で放映する予定で撮影している。ところがなぜこんな凄いことが実現できたのかディレクターは理解できずに困っていたところ、「協同っていいかも」を読んで納得したとのこと。また韓国から来る視察団は、必ず翻訳本を詳しく読んでくるので、鋭い質問をいつも受けるとのことであった。そうしたこともあり、「ぜひ第二弾の本を創りたい」とのことであったので、ぜひよろしくと返答しておいた。1年後あたりがまた楽しみである。
 夜は式に参加した富山医療生協や新潟医療生協などの方たちと一緒に、南医療生協の幹部の皆さんと楽しく懇親をさせてもらった。純米大吟醸のこれまでになく美味しいお酒が五臓六腑にしみわたり、思い出の1ページとなった。

2015-04-02

仮設住宅で三味線の演奏

 埼玉県坂戸市に住む今野強・和子夫妻が中心の、「つながって生きてこな! 愛とヒューマンのコンサート」として、3月31日から4月2日まで福島の仮設住宅などで、津軽三味線の五錦雄吾さん(33歳)の演奏があり、31日に同行させてもらった。
 30日の夕方に今野宅をおじゃまし、五錦さんを含めて4人で食事しつつ話を聞かせてもらった。今野さんの取り組みは、坂本弁護士の救援、阪神・淡路大震災、中越地震、東日本大震災と多彩で、資料だけでも膨大にあり、次々と映像も見せてくれるが、あまりにも数が多くてメモをすることもできない。五錦さんは途中で寝たが、深夜の1時近くまで今野夫妻とお酒を交わしつつ楽しく話を聞かせてもらった。
 5時に起きると、すでに奥さんは8個の弁当の準備をしていたので、その箱詰めを手伝う。慌ただしく6時に出て、カメラのグループ4人を含め8人を乗せたバンで北を目指した。途中のサービスエリアで朝食をすませ、10時半には目的の福島市笹谷仮設住宅の集会所へ到着した。それまでずっと、膝を悪くしている今野さんの運転である。替わってあげたいが、私はペーパードライバーで、高速道路は走ったことがない。
 11時から集会所で演奏があり、じょんがら節に続いて、斎太郎節や会津磐梯山などでは、2週間前に会った大和田さんがマイクを持って立ち、歌詞の紙を手にしてみんなと一緒に楽しく歌った。粋な都々逸もあれば、最後に津軽三味線の聞かせどころでもある曲挽きとなり、ビンビンとまさしく叩くとの表現がぴったりの音が集会場にあふれた。
 次は福島医療生協の組合員センター開所式で、市の南に位置する蓬莱町へ。昨年の取材で会った人も複数いて、お互いに驚いた。50人ほどが、熱心に聞いていた。
 4時半からは市内の矢野目仮設所での演奏となった。集まった40人ほどの中には、陽気な方も多く、三味線に合わせて歌や踊りとそれは賑やかな場となった。
 演奏を終え、飯館村の保養施設がある飯坂温泉へ。温泉で疲れを癒やした後は、飯舘の3人を含めて食事をしつつ懇談した。借り上げのアパートで暮らしている女性は、娘や孫が神奈川にいるとのこと。これまでの「愛とヒューマンのコンサート」を何回も聞き、それでどうにか前向きになれたという。
 懇親の場に最後まで残ったのは、飯舘の2人と私の3人。1升ビンの日本酒が空になり、焼酎やワインも飲んだ。
 翌朝にまた温泉へ入り、昨晩のアルコール分を抜いてから、一行と分かれて飯坂温泉駅へと向かった。ずっと同行したかったが、1日は11時から埼玉でどうしても外せない用事があり、新幹線で向かった。
 ボランティアで協力する演奏家、企画する今野夫妻、そして被災地で受け入れをしてくれる人たちとの協同である。ぜひ今後とも同行させてもらい、音楽を通した復興のドラマを追いかけたい。

2015-03-21

円空展から仮設住宅へ

 3月18日に仙台からの帰りに福島で下車し、資料の詰まったリュックをホテルに預け、県立美術館で開催中の東日本大震災復興支援とある円空展を観た。水害で母親を亡くしたことがきっかけで、飛騨に生まれた円空は、全国を行脚しつつ12万体ともいわれている仏像を彫るようになった。笑顔と怒りの顔の2つを持った両面宿儺坐像や、立ち木に梯子をかけて鉈をふるい作ったとされる金剛力士(仁王)立像吽形(うんぎょう)など、どれも見応えがあった。いずれ円空風仏を彫ってみたいものだ。
 1時間ほど鑑賞してから、美術館の前から飯塚線に乗って笹谷(ささや)駅で降り、300世帯ほどある笹谷仮設住宅を訪ねた。仮設は正式には応急仮設住宅と言い、災害時に2年を目途のまさに応急の住宅であるが、今回の震災ではすでに5年目へと入っている。一般的な間取りでは、押入れもない4畳半が2部屋に、小さな台所やトイレや風呂が付いている。それが長屋形式でつながり、隣とは薄いボード1枚が境となっているため、音がほぼ素通りである。またここの仮設は、コンテナのような鉄製の箱で、夏は暑く冬は寒い。震災直後はまだしも、すでに4年近くも暮らしている。住民のストレスは、かなり高いのではないだろうか。半分ほどの世帯が、ここから出て空家となっている。
 そうした中でも自主的なパトロール隊を組織し、夜の1時間は3人一組になって拍子木を叩きつつ安否確認などをしているから凄い。どんなに大変になっても人間は、助け合って生きていくものだ。
 19日は、NPOビーンズふくしまが被災者たちのたまり場として開設した「みんなの家@ふくしま」のオープンセレモニーを昼前から訪ねた。2階建ての民家を借り、地元の人も含めて被災者が自由に集まることができる。小雨にもかかわらず80人ほどが参加し、テープカットの後はチェロの演奏や「編んでるおばさんの楽しい人形劇」もあって、集まった子どもたちも喜んでいた。昼になるとコープふくしまの方たちの協力で美味しい豚汁もあれば、庭でついたおもちも並び、参加者はお腹を満たすことができた。このNPOは、もともとフリースクールの子どもや、震災後は仮設住宅の子どもの学習支援などをしている。素敵な取り組みをしている人たちは、ここにもいて嬉しくなった。

2015-03-20

第3回国連防災会議に参加して

 3月14日から18日まで仙台市において第3回国連防災会議があり、それと並行して開催されているパブリック・フォーラムシンポジウムが多数あって、15日から17日まで参加した。前者は政府関係者などが集まり、日本からは安倍首相などが参加して、「東北での震災復興は順調に進んでいます」と、表面的なきれいごとを言っているから聞いても参考にならない。
 それに比べNPOなどによる真面目な企画がいくつもあり、それらを選んで参加した。1つがJDF(日本障害フォーラム)などが企画した「身体障害に関するUNDESAフォーラムー包括的な防災とレジリエンス:社会的一体性が命を救う」で、先の震災で死亡率が健常者より障害者が2倍高いことを紹介し、その背景や対応についての議論があった。宮城県に限定すれば、その差は3倍以上にもなるとのことで驚く。たくさんの障害者の方たちが参加し、日本語と英語の手話もあった。
 「せんだいの杜の子ども劇場『笑顔でつながる杜の子まつり』報告と心のケア講座」も刺激的であった。スマホやゲーム器で子どもの健康が阻害されており、それを防ぐ市民の運動が専門家を交えて進んでいる。明るい中年女性たちが輝いていた。
 「大震災の経験に学び、防災・復興のあり方を考える」では、私も所属する日本科学者会議の主催で、兵庫県立大の室崎さんや東北大の片山さんなど、各分野での第一人者9名をそろえての内容の濃いシンポであった。3時間のシンポの後で関係者
の懇親会があり、それに参加させてもらい、室崎さんの前に座って懇親させてもらった。国が進める高台移転に当初から反対し、どんな地域にするかの哲学から構築すべきとの貴重な問題を提起している。今も毎週の土日は被災地に入っているとのことで、その科学者魂にはただただ敬服した。

2015-03-09

愛とヒューマンのコンサート

3月7日に埼玉県坂戸市で「つながって生きてこな!愛とヒューマンのコンサート」があり、取材と裏方のボランティアを兼ねて朝から出かけた。
 10時に会場の坂戸コミュニティセンターロビーに約25名が集合し、打ち合わせの後で準備にかかる。ロビーの窓ガラスにこれまでの被災地支援での写真や、当日のポスターなども貼った。
 来客の始まった12時半頃からは、ロビーでCDや本の販売担当をさせてもらった。2時の開演では、460席が満杯になり、最初から熱気が漂っていた。プログラムは、八木倫明さんのケーナと藤枝貴子さんのアルパを中心に、星の涙(ここだけヴァイオリンが入る)、埴生の宿、コーヒールンバ、コンドルは飛んでいくと、テンポの速い曲が流れ、会場は一気に盛り上がった。
 次は、日フィルで活躍しているヴァイオリンの松本克巳さんの登場である。モーツアルトのアイネクライネから入り、オウム事件で家族と一緒に犠牲となった坂本弁護士が大好きだった「タイスの瞑想曲」などを奏でてくれた。
 休憩の後はクミコさんが登場し、ともだち、愛の讃歌、100万本のバラと続き、最後は八木さんおケーナも加わり、広い河の岸辺で最高潮に達した。
 4時半におわり、隣の建物でお茶パーティーがあり、50人ほどの参加者にクミコさんも少し同席して交流してくれた。3前の「悲しみを乗り越えて共に歩もう」の出版に際しては、石巻でクミコさんに会って取材させてもらっていたのでそのときのお礼を私は伝えた。
 1時間ほどのお茶会の後は、坂戸駅前の集会場に場所を移して30人ほどがアルコールを飲みつつ楽しく交流した。主催者の今野夫妻、ヴァイオリンの松本さん、それに福島の仮設住宅から4名も参加し、多彩な人たちと楽しく有意な交流をさせてもらった。
 今執筆中の福島における5医療生協の本は、3月中に原稿の目途をつけ、次は1年ほど取材して音楽による復興支援を描きたい。写真はお茶パーティーの場面で、向かって左から今野さん、八木さん、クミコさん。

2015-03-05

「みちのくの仏像」に会って

 上野の東京国立博物館で、「みちのくの仏像」展があり足を運んだ。暖かい上野公園では、すでに満開になっている寒桜が1本あり、それを愛でつつ博物館に入った。
 「みちのく」とは、かつて京から遠い「道の奥」にあるとのことでできた言葉である。京からみれば辺鄙な田舎かもしれないが、どっこい東北には独自の文化が栄え、その1つが仏像である。東北6県の代表的な仏像が会場には鎮座し、それは壮観であった。奈良や京都の仏像のような上品な仏像もあるが、荒々しい東北土着の姿もいくつかあって見応えがあった。
 岩手県天台寺の聖観音(しょうかんのん)菩薩立像がある。大きな全身が荒々しい鉈彫りで、樹木に鉈を切りつけるたびに功徳があるとの教えを視覚に訴えているそうだ。
 3m近くもあって見上げるような十一面観音菩薩立像は、宮城県の牡鹿半島の先の高台にあって、先の大震災の津波ではかろうじて難を逃れた。それを祭っている建物には多数の避難者が来て、優しい顔を眺めて癒やされた。
 大好きな円空の大きな仏も、青森から3体届いていた。まだ円空初期の頃の作で、顔や胴体も滑らかに仕上げ、後期のような修練したダイナミックな線はまだない。
 それぞれ平安時代から江戸時代などの作である。そうした長い年月を経た仏像が、
3・11後の今の東北や日本をいったいどのように観、そしてこれからの社会の在り方や、一人ひとりの生き方をどう示しているのだろうか。
 絶対的な神などはいなくて、全てに何かの原因があると諭したお釈迦様の教えに従えば、仏像にすがるだけでなく、仏像を通して今回の人災の原因に正面から立ち向かうことが大切のようだ。
 

子どもの食を考える

 昨日は、東京都生協連主催の「食の現在を考える」連続講座において、「子どもの食を考える」テーマで1時間の話をさせてもらった。WHOの健康の定義である、物理的、精神的、社会的を引用し、食べることによる効果として、肉体の健康だけでなく、頭脳の健康もあれば、地場産を利用することによって地域の健康にもつながることに触れた。子どもの人格を認め、上から目線での指示や禁止を命じるのでなく、子どもの気持ちを大切にして一緒に料理や楽しいコミュニケーションを展開することである。それらについて以前の調査したデータを使い、子どもたちは片付けよりも調理をしたがっていることや、食卓では親に明るい会話を求めていることなどを説明した。
 国連子どもの権利委員会が、これまでに3回も日本政府へ勧告しているように、我が国は過度のストレスが子どもに悪影響し、毎年のように自殺や17万人もの不登校につながっている。こうした過度のストレスが、400種類で100兆個もある腸内フローラ(細菌の花畑)にダメージを与え、不健康につながっている。
 子どもの食を通して大人の食も考えなくてはならないし、さらには家族や地域社会や生協の在り方にも深くつながっている。
 その後に、豊島子どもWAKUWAKUネットワーク代表の方から、実践している「子ども食堂の作り方」の報告があった。
 参加者の約50名は、ワークショップで10のグループに分かれて意見交換し、子どもの食の現状をふまえて今後の改善について話し合った。2時間半ほどであったが、女性を中心にして真剣に話し合う姿が印象的であった。

2015-01-27

イタリアを旅して

 1月19日から26日の日程で妻とイタリアを旅してきた。私にとっては大学生協連の頃に訪ねてからのなので、約20年ぶり。それにしても安いツアーで、燃油代を含めて1人16万円。普通は燃油代が5万円ほどするので、11万円でフライトとホテルと全ての食事代を賄っていることになる。どうやってこのようなツアーができるのだろうか。ともあれ年金生活者には、寒いけど安いこの時期の旅に限る。
 イタリアでは全てバスによる移動で、ミラノ、ベネチア、ピザ、フィレンテェ、ローマ、バティカン市国、ボンベイ、ナポリと廻り、一番長い距離は280kmもあり、5時間ほど座り疲れた。
 それでも行く先々で遺跡や絵画や彫刻などを観ることができ、また短時間ではあるが自由時間にはスケッチもすることができたので旅を満喫できた。スケッチは10分ほどで仕上げ、夜ホテルでワインを飲みつつ水彩を乗せていった。
 「遺跡の上に遺跡がある」と表現されるほど、イタリアは古い歴史を持っていて興味深く、1つの都市に1週間でも滞在したいほどであった。地元のワインを飲みつつ本場のカンツオーネを聴くのも楽しかった。「サンタ・ルチア」や「フニクラ・フニクリ」の風景を観ると、歌のリズムや歌詞がより身近になった。
 他方で気になったこともある。ブランドで着飾った若い女性などが、世界遺産に登録されている建物の前で、タバコの投げ捨てを平気でしている。石畳の境目には、タバコの吸い殻が散乱していた。
 安いツアーのせいか料理にあまり野菜がなく、ナポリの海岸で路上販売のミニトマト1kgを5ユーロ(約700円)で買った。ホテルで食べようとすると、パックの上一列は新鮮であったが、下の全てが腐っていて食べることができなく頭にきた。ふざけた人は残念ながらどこにもいるものだ。
 帰国の前日から右膝が痛くなり、帰国して今日医者に診てもらうと、雑菌が入って化膿しているとのこと。抵抗力が弱っているようで、昨年は腰が化膿して1週間ほど抗生物質を飲んだ。
 写真はボンベイの遺跡。後ろに見えるベスビオ火山が2000年ほど前に噴火し、わずか2日で6mの火山灰に埋もれてしまった都市である。自然の脅威
を改めて感じた。
 

2015-01-18

阪神淡路大震災20周年

 早いもので阪神淡路大震災から、もう20年経った。あの時も信じられなくて、震災翌月の2月上旬に神戸を訪ねて驚いた。
 20年前の同じ場所を早朝の5時に訪ね、神戸市役所の前にある東遊公園で、竹の中に浮かべたロウソクに火を灯し、犠牲者の冥福を多くの人たちと一緒に祈った。あまりにもたくさんの人で、足元も見えないくらいの中だったが、見上げると夜空に美しい三日月がクッキリと見えた。
かなり寒く、ボランティアの人たちがカイロを配り、また粕汁を提供していた。その粕汁も器に一杯入っていて、体の芯から温かくなった。
 9時に三宮駅前に出かけ、明るい中で再度公園を訪ねた。すると人出も少なくなり、1万本も並べてある竹筒を見ると、1・17と1995と置いてあった。他にも雪地蔵が何体も置いてあり、これも初めて見たので感激した。
 これからもずっと震災の記憶を伝えていきたい。

2015-01-15

ネパール・スタディツアーの報告会

1月14日6時半から渋谷のコーププラザにおいて、昨年11月に実施したネパーツ・スタディツアーの報告会をもち、里親を中心に約25名が参加してくれた。
 ネパールの女性協同組合でもらった帽子をかぶった私は、開会の挨拶・乾杯と、ツアーの概要や里子であるサンギッタちゃんの実家を訪ねた様子を話した。竹で骨組みを作り、屋根にはビニールシートをかけた小屋が里子の住まいであり、報告する後ろに映像が流れ、破れた屋根などが映し出されていたので、参加者は驚いて見ていた。
 ツアーに参加した他の人からは、子どもたちや村の様子などを、何枚もプロジェクターで写しだし、現地の様子をよく伝えてくれたり、女性協同組合や人身売買から少女を守るNPOなどの報告もあった。さらにはネパールでのジャイカの仕事を終えて帰国した元日本生協連職員の関谷さんからは、ネパールの協同組合について報告してもらった。また無事に卒業した里子を支援してきた人には、HEENEPからの感謝状が届き手渡した。
 水道や電気もなく、今の日本では考えられないほど貧しいネパールで暮らす子どもたちは、日本から年1万1000円の支援で安心して勉強をすることができ、貧困から抜け出す希望となっている。そうした話を強調して伝え、参加者から後半で感想を聞いたところ、新たに4人が里親になりたいと意思表示があり、さっそく現地のNPOであるHEENEPから届いた新しい里子リストより選んでくれた。
 働いている現役の里親が少ないなど、運営上に改善課題はあるが、食べて飲んでマジックシューもあり、何より新しい里親が増え楽しく有意義な報告会となった。ぜひこれからも素敵な仲間とネパールの貧しい子ども支援を
継続させたい。

2015-01-12

福島の被災地を訪ね

 1月7日から福島へ入り、各地で暮らす被災者やその支援者を訪ねた。最初の福島市では、ささき牧場の佐々木智子さんに会い、近くの仮設住宅などへ作った野菜などを届けている話を聞いた。「支援するなどという気負いはなく、家の畑で少し余分にできた野菜を届けているだけです」と話す姿が清々しかった。テーブルの皿にあったカボチャの煮物は、それはほくほくして美味しく、こんな野菜をもらった被災者も、きっと喜んで食べていることだろう。近くの仮設住宅の周囲には、20cmほどの雪が積もっていた。
 夕方に高速バスで会津若松へ向かう。福島駅では晴れていたが、二本松を過ぎた頃から雪になり、若松に着くころは凄い吹雪になっていた。
 8日は、早朝にまず猪苗代を訪ね、支援している年配の夫婦から話を聞いた。自分たちにできることをコツコツとしているとして、原発反対の100万人署名は知り合いに用紙をお願いして集めてもらい、被災者へは毎年暮に2升の餅をついて届けている。
 午後は、農民詩人の前田新(あらた)さんを会津高田に訪ねた。昼までは晴れていたが、高田の駅に降りた時は、荒れ狂う吹雪になり、かつ駅前にタクシーは1台もない。やっとのことで前田宅を訪ね、大きな柱の家の居間でコタツに足を入れた。
 「名刺替わりです」
 前田さんは、4冊の本を出してくれた。その1冊は、『詩集 一粒の砂ーフクシマから世界にー』とあり、震災後に詠んだ詩がいくつも並んでいた。その1つ「言葉」の最後では、次のように叫んでいた。
 「奪われた土地を取り戻すために
  私はこの地に生きて死にたい
  わが祖先とともにここでたたかいたい
  それはいのちがけのたたかいになる
  たたかいを挑む私の手に
  武器とよぶものは何もない
  精神の目 すなわち
  言葉だけだ」
 研ぎ澄ました言葉が、詩集の中で輝いていた。
 こうした福島に生きる人たちの息吹を、震災復興本の6冊目となる次作に反映させ
、ぜひ私の言葉で埋め尽くしたいと強く感じた。
 *写真は福島市内のある仮設住宅