2015-06-28

沖縄のミニ旅3 映画「沖縄 うりずんの雨」

 那覇市内の桜坂映画館で、アメリカ人のジャン・ユンカーマン監督による映画「沖縄 うりずんの雨」が上映されており足を運んだ。タイトルにある3月から5月に降る雨を意味する「うりずん」は、「うりずんの雨は 血の雨 涙雨 礎の魂 呼び起こす雨」からとり、英語版ではThe Afterburnとなっている。監督の造語で、炎に焼かれた痕といった意味だろうか。
 2時間半ほどの長編ドキュメントで、沖縄戦、占領、凌辱(りょうじょく)、明日への4部構成となって、日本国内の目線でなく国際的な視野に立って、戦争にほんろうされてきた沖縄の戦後史を浮かび上がらせ、今を生きる人々の熱い息吹を伝えている。
 いくつも印象的な場面があった。1995年にわずか12歳の少女を、3人の海兵隊員がレイプした事件は、その後の米軍基地返還運動へとつながり、私も記憶していた。その加害者3人を監督は調べ、その1人が取材に応じた。当時21歳のロドリコは、主犯の兵士が当初は冗談を言っていると思っていたが、実際に行動をはじめたのでいつの間にか共犯者となった。映像では、「レイプする必要はなかった」と苦悩した顔つきで後悔し、帰国後は精神的なダメージもあって現在も失業中とのことである。
 米軍の若い兵士は、地元の町から他に出たこともない者が多く、高校から入隊して訓練を受け、そのまま沖縄などに配属されている。そこでは命令に沿って同じ人間である相手を殺すため、敵を虫けらのように見下し自らの人間性を否定する教育を徹底して受ける。そして実弾や本物の地雷などを使った訓練を繰り返すので、心身ともにボロボロになってしまい、休息時は人間性をなくして性犯罪などへとつながりやすい。ロドリコは特殊なモンスターでもなく、ごく普通の若者であった。その一般的な若者が、沖縄では一生を台無しにする犯罪へと走っている社会構造こそが大問題である。
 今も続く米軍による性犯罪についてインターネットで調べると、たくさんの事例が沖縄であり、1955年には6歳の少女がレイプされ惨殺、さらには1948年に生後9か月の赤ちゃんがレイプされたともあって驚く。これらも氷山の一角であり、さらには男の子の被害の記述がない。
 映画では、米軍の女性兵士にも被害者が続出しており、その人たちが組織を作り活動している様子も紹介していた。
 ユンカーマン監督の鋭い問いかけは、沖縄の人だけでなく、私も含めた日本人の一人ひとりが正面から受け止め考えなくてはならないだろう。違憲の戦争法案を無理に進める安倍首相や自公の国会議員など
にも、ぜひ観てほしいものだ。 

2015-06-27

沖縄のミニ旅2 不屈館、国際平和研究所

 24日は、いくつかの資料館などを徒歩で訪ねた。朝からこの日も日差しが強く、帽子とサングラスをかけて出かけた。ゆっくり歩くだけで汗がにじんでくる。最初に向かったのは、できたばかりの不屈館。瀬長亀次郎さんと民衆資料館であり、瀬長さんの次女である館長の千尋さんにも会い、たくさんの資料を観させてもらった。ご主人が以前に生協で働いていたこともあり、数年前に沖縄で懇談させてもらった方である。都内であった6・13の安保法案反対の集会で、瀬長さんの口ぐせであった「道理と正義は我々にある」と檀上から話していた人がいて、今にもカメさんは生きていることを実感できた。
 2時間ほど滞在してから不屈館を出て、次の沖縄国際平和研究所に向かった。途中の海岸淵で小高い丘があり登ると、いくつもの記念碑があり、それぞれに合掌しつつ碑文を読んだ。その一つが写真の「海鳴りの像」で、70年まえの戦争において海で亡くなった沖縄県民3405人を祭っていた。学童疎開の対馬丸は知っていたが、それ以外にも26隻が犠牲になったとのことで驚いた。他にも戦時下で新聞を守るために殺された方の碑などもあり、どれだけたくさんの人が非業の死をされたのか改めて知った。
 国際平和研究所は、昨晩、知人の車から場所は教えてもらっていたが、なにせ夜だったのでよく分からず探し回った。やっと辿り着いた研究所は、1675点の写真で沖縄戦、ホロコースト、戦後沖縄について鋭い投げかけをしていて勉強になった。沖縄を日本だけでなく、ナチスのユダヤ人虐殺などと対比しつつ、国際的な視点で考えるヒントを投げかけている。不屈館と同様にさほど大きくはないが、民間の力で貴重な資料を通して沖縄や日本社会の在り方に対する発信をしている。
 県庁近くにある那覇市歴史博物館も訪ね、「戦後70周年記念展沖縄戦」を観たが、こちらはポリシーの弱い
平面的な展示で30分ほどで出た。
 

2015-06-26

沖縄のミニ旅1 高江、辺野古

 6月22日から25日まで、久しぶりの沖縄を訪ねた。辺野古などの情報は断片的に流れてくるが、現地の動きを知るには足を運ぶことが一番である。
 沖縄の知人にお願いし、23日のまる1日を車で案内してもらった。9時半に首里駅で待ち合わせ、一路北上して名護市経由で高江へ。4年ほど前に市議選の応援で、汗をふきつつジュゴンを守る候補者の名前を連呼した町である。シャッターの降りた店が増えているような気がした。昼に高江へ入り、フェンス前のテントにいる2人にあいさつして話を聞いた。7月からヘリパットの工事が再開されるとのことで、今は静かだが注意して監視しているそうだ。基地との境界線に沿って近くの高台に登り、あたりの米軍基地を眺めた。どこまでも密林が続き、かすかに見える鉄柱が米軍基地である印であった。以前に観た映画「標的の村」で、反対運動の動きをていねいに紹介している。
 「本土にある米軍基地を全て合わせた面積が、ここの広さです」
 思わず「えっ!」と驚いて、広大な山々をあらためて眺めた。資料のDVDを購入する。
 高江から1時間ほどで辺野古へ着いた。大浦湾の対岸から見ると、立入禁止の赤いブイが海面にズラッと並び、その広さに驚いた。
 辺野古の海岸ふちにあるテントを訪ね、以前の取材で顔見知りになっている女性にあいさつする。以前に私も乗ったカヌーや舟がないので聞くと、基地建設へ抗議する場に効率よく行くため、対岸の二見へ車で運んでいるとのこと。反対行動へのいやがらせが激しく、平気で舟をぶつけてくるので、けが人の手当や舟の修理などで大変とのことであった。
 キャンプ・シュワブの基地は、海岸において以前は有刺鉄線を張っていたが、今は高いフェンスを造っている。戦車のような水陸両用艇が演習をしており、轟音とともに何台もサンゴ礁を傷つけながら上陸訓練をしていた。
 基地正面のゲート前には、細長い大きなテント村ができ、沖縄はもちろんのこと全国各地から集まった100人ほどが座っていた。決意表明などの他に自作の反戦歌を紹介している人もいた。
 以前に訪ねたときは数名であったが、これだけの人が連日のように集まっている。一般の会社などからも、連日のように支援物資が届いている。今ある米軍基地は、全て暴力によってアメリカ政府が土地を奪って造った。今回の辺野古は、日本政府が血税を使って基地を造り、寄贈しようとしている。これを通せば、平和憲法が骨抜きになる。沖縄の人だけでなく、日本人全員にかかる大問題である。


 

2015-06-03

『協同の力でいのち輝けー医療生協・復興支援◎地域まるごと健康づくり』を出版

 東日本大震災の復興支援本シリーズで6冊目となる『協同の力でいのち輝けー医療生協・復興支援◎地域まるごと健康づくり』(合同出版 定価1400円)を、やっとのことで出版させてもらった。今回は、福島県内にある5つの医療生協を舞台にし、被災者だけでなく地域に暮らす高齢者などを含め、まさに地域まるごと健康づくりの実践をひろった。
 小名浜公害からの健康を守る取り組みの浜通り医療生協、核害のまちに生きると頑張っている郡山医療生協、空間放射線量のまだ高い福島市で健康づくりを進める福島医療生協ときらり健康生協、そして線量は他に比べれば低いが地道に活動する会津医療生協である。形は異なっても、協同を大切に創意工夫した活動がいくつもあり、ここでもワクワクしつつ取材を進めさせてもらった。
 福島における地域まるごと健康づくりの記録としてもこの本は意味があるし、全国の仲間にも普及して、こうした取り組みがさらに拡がることに少しでも貢献できれば幸いである。そうした流れが、健康を守る主体が国民一人ひとりにあるとする健康民権運動にもつながっていく。
 この復興支援シリーズの7冊目として、音楽をテーマにすることで、すでに3月から「愛とヒューマンのコンサート」を中心にして取材に入っている。過日に宮古市を訪ねたとき、再開した三陸鉄道をテーマにした本ができないかと関係者からの声もいただいた。
 市販の本で販売に応じていくばくかの印税は入ってくるが、自腹の取材費をとうてい賄うことはできず、持ち出しがずっと続いている。「次こそベストセラーになって」と思うのだが、いつも「獲らぬ狸の皮算用」である。それでもお金には替え難い得るものがあり、これからも私は本創りをするつもりである。