2015-08-25

京都にて仏の教えに触れ

 8月23日の早朝に眼をこすりながら家を出て、11時からの京都での打ち合わせに新幹線で向かった。余裕を持って出たので30分ほど時間があまり、京都駅前の東本願寺へと向かう。いつもの雄大な境内はあったが、大きな門などは修理中で趣きが一変していた。それは仕方がないことで、門の前の案内板を順に観ていると、東日本大震災の復興支援の激励と一緒に、8月10日付けの「九州電力川内原子力発電所の再稼動に関する声明―いのちは生きる場所を失っては生きられない―」もあって、ゆっくり読ませてもらった。以下の言葉が明記してあり、仏教家がここまで社会問題に関わって主張しているのかと驚き、かつ嬉しくなった。
 「私たち真宗大谷派(東本願寺)は、今、まさに行われようとしている九州電力川内原子力発電所の再稼動に対して強く遺憾の意を表明いたします。福島第一原子力発電所事故の教訓を軽視し、他者の犠牲の上に成り立つ豊かさを享受する社会は、人間の罪への無自覚が露呈しているものといわざるをえません。
 いのちは生きる場所を失っては生きられません。原子力発電に依存し続けることは、人の関係性に分断をもたらし、いのちを支える大地を根こそぎ奪い取られてしまう危険の上に絶えず生活することを意味します。
 人のいのちが育まれる大地とは、人と人が共に生きあえる社会であります。むしろ、いま願われることは、被災された人々の悲しみに寄り添い、引き裂かれた関係性を回復していくことではないでしょうか。
 私たちは、原子力発電に依存し続けようとする人間の愚かさや核利用をめぐる無責任なあり方を、あらためて直視しなければなりません。
 真宗大谷派は、仏の真実の智慧にわが身とこの世のあり方を聞きひらく教団として、現在のみならず未来のいのちをも脅かすエネルギー政策を問い直し、一人ひとりが原子力発電に依存しない社会の実現に向けた真摯な対話を重ねていくことを強く提唱いたします」
 日頃は仏教だけでなく宗教全般に縁遠い私だが、どれも共感できる言葉である。
詳しくは同HPhttp://www.higashihonganji.or.jp/で触れている。次は少し時間をとって訪ねたいお寺である。

2015-08-18

全村民避難の飯舘村を訪ねて

 17日は早朝の風呂で、昨晩12時過ぎまで被災者と飲んだアルコールを飛ばし、7時半から飯舘村佐藤八郎村議から村の現状についてのレクチャーを受けた。6000人の村民全員が避難しているが、村長は議会にも計らず2017年には帰村するつもりとのこと。住民不在の政治が、国会だけでなくいろいろな場でおこなわれていて心配だ。
 その後、車2台に分乗して飯舘村を目指す。あいにくの雨の中、飯舘村に入ると森林の中に村落が点在している。持参した線量計は、0.5μSv/h前後をずっとさしている。国のいんちきな除染基準でも0.23μSvの倍であり、国際基準である年間1mSv(÷24h÷365日=約0.1μSv)に比べると5倍もの危険地域である。
 雨の中を何カ所かで除染作業をしていた。その廃棄物は、黒い1t入りのフレコンバックに詰めて畑や山すそに積み上げているが、それば半端な数ではない。中には積み上げたフレコンバックの上にビニールシートをかけ、メタンガスを抜くための煙突を立てている所もあった。
 そうした中で運営している特養老人ホームを訪ねた。震災当初は無理をして120名ほどの利用者を、各保護者に引き取ってもらうなどして村外へ避難させたが、どこも認知症や運動機能が悪化するなどし、また他の施設での引き取り交渉が成立せず、やむなく放射能の汚染が高い中で続けることにした。現在は41人の高齢者が暮らし、村外からの通いで52人の職員が対応している。無責任なツイッターでは、「老人を犠牲にしている」とあったらしいが、他に手立てがなく人命優先のやむを得ない判断であった。矛盾の中で生きていくしかない。そんな大変な中でも、職員の女性の優しい笑顔が印象的であった。次の本ではぜひ詳しく紹介したい。
こんなことまで強いている原発事故だが、いまだに東電も製造メーカーも政府も、誰一人として責任をとらない。第二次世界大戦から続いている集団無責任そのものである。

浪江から福島第一原発をにらみつけ

 15日の夕方に埼玉の知人宅で泊めてもらい、16日の早朝6時に出発した車に同乗させてもらい、一路福島へ。10時頃着いた福島市の笹谷仮設住宅で、被災者の女性の話を仮設の部屋で聞かせてもらった。請戸の海岸近くの広い自宅は全て流され、壁には以前の家の航空写真を飾ってあった。震災前に病気でご主人を亡くし、その後は女手一つで事業を切り回し、軌道に乗りつつあったときの震災や原発事故で一変している。浪江に帰ることはできず、仮設の近くに息子夫婦が家を建て、そこに母親の部屋も造ってくれたのでうれしいが、まだそちらへ移る気持ちにならないとのこと。
 昼食の後で浪江に入った。途中の2か所の検問所では運転免許書を出して一人ひとり係りが確認する。もらった白い上下の防護服やマスクなどし、浪江の海岸近くまで走った。線量計はグングン上がり、常磐道あたりでは6μSv/h近くにもなって驚いた。国際基準の年間1mSvからすると、60倍もの危険な地域である。
 請戸の付近は、昨年と異なってガレキがだいぶ整理されていた。それでも家屋の基礎のコンクリートだけを残し、一面に雑草が生い茂っている。この地域だけで約190が亡くなり、その半数がまだ行方不明とのこと。埋もれている方もあるだろうが、放射能の汚染が高くて捜査も遅れている。
 海岸から南を見ると、林の向こうに原発の煙突や工事のクレーンなどが見える。諸悪の根源となっている原発である。それにしても何が原因で、今は内部がどうなっているのかなど分からないことがあまりにも多い。例えばMXという他と違った燃料の4号機は、3号機で発生した水素が地下を通って入り込んで爆発したとのことだが、空気よりも軽い水素がそんな流れ方を本当にするのか。原発の安全管理を委託されているイスラエルの軍事会社マグナ・BSP社が、いったい何をしたのか。政府や東電に都合の悪いことは、今でも国民に開示していない。
 自然災害ややむを得ない側面もあるが、金儲けによるこんな人災は、絶対に私は許すことができない。

2015-08-09

韓国料理にみる文化レベルの高さ

 3泊4日という短い韓国の旅であったが、今回も美味しい料理やお酒を楽しむことができた。
韓国料理を代表する1つがキムチである。それも日本で一般的な白菜だけでなく、たくさんの種類があるし、訪ねる時期によってもいろいろな種類を味わうことができる。今回は、ゴマの葉のキムチをはじめて食べた。日本ではゴマを昔から食用するが、葉を食べることはあまりない。ゴマと同じく健康に効くとのことで、何枚もいただいた。ゴマの葉は、他にはゆがいて味噌などの好みのタレに付けて食べており、これも美味しかった。葉でも捨てずに食べることは、物を大切にする意味からも優れた食文化といえるだろう。食糧不足がいずれくる日本においても、もっと謙虚に韓国の食文化から学ぶ必要がありそうだ。
 ゴマといえば、これも初めて食べた黒ゴマのおかゆも美味しかった。黒ゴマをすりつぶし、もち米の粉と一緒に煮たもので、簡単に日本でもできそうだ。
 私のような酒好きには、韓国のマッコリも魅力である。発酵酒であるマッコリにもいろいろあって、市販している商品をいくつか飲み比べたが、微妙に異なっておもしろい。今回は、陶器に入った栗のマッコリを料理店で飲ませてもらった。少し黄色のドロッとした汁で、普通のマッコリよりも甘くて口当たりが良く、キムチを食べつつぐいぐいと飲むことができた。
 こうした料理やお酒と同時に、宴会における韓国の方の楽しい場づくりも素晴らしい。6日の夜は晩餐会があり、食事の後はマッコリやビールなどを飲みつつ、韓国の舞踊や民謡などを楽しみ、続いては皆がお待ちかねのカラオケタイムである。1人がマイクを手に歌い出すと、仲間が周りに集まって輪になりリズムに合わせて踊ったりする。私が歌ったときも、10人ほどの女性たちが手を大きく振りながら近くで踊ってくれた。1人ひとりが、それは素敵な笑顔であった。
 政治レベルで韓国と日本の間に残念ながらギクシャクはあるが、私にできる草の根レベルでの交流は、ぜひこれからも続けていきたい

2015-08-08

韓国原爆展示館が開館

 知人の住職である高橋公純さんが、自費で韓国原爆展示館を開館し、その式典が6日の午後にソウルのお寺の1階であり参加してきた。20坪ほどの狭い部屋ではあるが、原爆に関する資料の展示は韓国のどこにもなく画期的な施設である。高橋さんから依頼を受けて広島の原爆ドーム前の元安川で採取した原爆瓦を寄贈した私は、以下のスピーチをさせてもらった。
 「70年前の今日、アメリカ軍が日本の広島へ史上初の原子爆弾を投下しました。原爆にはリトル・ボーイと名付け、一般には「小さな男の子」と訳していますが、本来は「おちんちん」の意味で、これだけ日本人をバカにした名前はありません。広島市の上空500mで破裂した原爆は、近くに3000度から4000度の熱線を注ぎ、家や樹木などを焼き尽くしました。その時民家の屋根にあった瓦が飛び散り、川底に残って原爆の悲惨さを今に伝えています。
 当時のアメリカのトルーマン大統領は、「戦争を1日も早く終わらせるため原爆を投下した」と話しましたが、2か月前に沖縄戦は終わり、すでに日本には飛行機、軍艦、弾薬などがないことをアメリカは知っていました。このため原爆投下の本当の理由は、第一にアメリカの大財閥が金儲けをするため、第二に放射能による人体実験でした。
 2011年3月の東電福島原発の事故も、70年前の広島・長崎の原爆と根本は同じです。このため韓国における被爆者を守る運動と、日本で原発をなくす活動は、どちらも人々が安心して暮らす社会を目指すことで共通して大切なことです。
 この小さな原爆瓦が、そうした両国の懸け橋や、社会の仕組みを考えるきっかけになれば幸いです。ありがとうございました」
 このときもらった木製の感謝牌には、次の印字があった。
 「貴殿は平和の花である被曝ハマユウを守る会の責任者として、二度韓国各地の施設に平和の花を植えてくださいました。また去年は台湾に、今回は韓国に貴重な原爆瓦を寄贈してくださいました。その平和への歩みは称賛に値します。ここにささやかな記念牌を贈り労を称えます」
 そんなにたいしたこともしていないので面はゆい感じがしないでもないが、韓国の被爆者に寄り添い、平和を考えるきっかえの1つになれば幸いである。
 同時に千葉県の有志が被爆者の聞き取りをした冊子「原爆投下後の70年 今、なお」を展示館に寄贈した。

韓国人原爆犠牲者70周年追悼式

 4日から韓国はソウルへ一人で飛び、知人の住職のお寺で宿泊をさせてもらい、6日の午前中は赤十字会館で開催の、韓国人原爆犠牲者70周年追悼式に参加させてもらった。6月から韓国ではコロナウイルスによる死者が続出し、このまま続けばソウル行きをどうしようかと迷ったときもあったが、7月になって下火になったので安いチケットを購入して出かけた。
 70年前の広島と長崎へのアメリカ軍による原爆投下により、約7万人の朝鮮の方々が被曝し、4万人が殺され、残った2千人が北朝鮮へ、2万1千人が韓国へ戻ったとされている。その多くは病気や貧困に苦しみつつ亡くなり、現在は2600人の被爆者が韓国で暮らしている。
 そうした人たちへ韓国や日本の政府からの援助はほとんどなく、また一般市民は原爆によって第二次世界大戦が早く終わり、日本をこらしめるめることができたと考える人が多く支援もない。
 住職が代表をつとめる奉仕団太陽会が主催した式典は、420人の会場が満席となり、花で飾った舞台には、中央に祭壇を設けていた。開式辞の後で被爆死亡者の名簿を台湾太陽会からの寄贈による厨子へ納入し、日本太陽会寄贈の平和の鐘、そして私が寄贈した原爆瓦を次々に檀上で被爆団のソウル支部長へ手渡した。韓国国歌の後で平和の鐘を7回子どもが鳴らして全員で黙とうし、来賓者の国会議員、日本大使館、スリランカ大使館の各代表から簡単なスピーチがあった。
 さらには日本から被団協と、そして日本太陽会からのスピーチもあった。特に日本太陽会からは、日本による豊臣秀吉から続く朝鮮への侵略や、被爆者に対しても日本内外で差を付けていることなどへの心からのお詫びを伝えて印象的であった。
 犠牲者への献茶は、韓国人のチマチョゴリ2人、日本人の和服1人、台湾人のチャイナドレス1人が檀上で並んでおこない鮮やかであった。純白のチマチョゴリを着た2人の女性による鎮魂の舞踊や、民謡「恨五百年」などが続き、そして太陽会合唱団による被爆者への追悼歌「タンシン アンニョン(さようなら あなた)」が静かに流れた。これは住職による作詞で、広島で被爆した犠牲者をいつまでも忘れないというナレーションも入ったしんみりと
聞かせる歌である。
 最後に白い菊の花を祭壇に献花して、1時間半ほどの式典を終えた。