2015-09-17

「愛とヒューマンのコンサート」新潟県小国町編

 9日の午後に大町から長岡市の小国へと車で入る。いつのまにか台風18号が発生し、愛知県などに大雨を降らせつつ北上しているとの情報があり、天候を気にしつつの運行であった。
 小国における「愛とヒューマンのコンサート」は、2004年の中越地震後からであった。小国会館での「戦後70年 戦争と平和を考える 我がまち小国 愛とヒューマンのコンサート」は、定刻の6時半から開始となり、約50人が音楽を楽しんだ。
 今回のコンサートを企画した地元で大工をしている山崎忠吉さんは、以下のようにあいさつ文をプログラムに入れていた。
 「≪戦後70年 戦争と平和を考える≫をタイトルに、コンサートを開催できることに大きな意義を感じます。(略)小国町に初めて「愛とヒューマンのコンサート」の調べが流れたのは、中越大震災の後で、そこから我がまち小国コンサートが生まれました。
 今、戦争をする国になるのか!ならないのか!の選択が迫られています。戦前は、戦争遂行のために国が演奏してよい音楽と、悪い音楽を色分けした時代がありました。平和であるからこそ自由に音楽が聴ける、当たり前のすばらしさを奪われてはなりません。
 この日の感動と平和への祈りを、みなさんとともに心に刻みたいと思います」
 コンサートの冒頭に、地元の小国コーラス7人が3曲を歌い、その中に山崎さんもいて美声を流していた。
 休憩をはさんで1時間半ほどのコンサートは、アンコールの「赤とんぼ」で楽しく終えた。
 夜の9時過ぎに、支援者の民家で打ち上げと懇親会があり、ここでもたくさんの料理と地酒が並んだ。お酒を飲めない山崎さんは、ここでも親切に最後まで付き合ってくれて、「小国は12月から3月までは雪が深くて仕事がなく、男は出稼ぎで生活費を稼いでいた。その間は、雪かきから子育てと全てを女性に任せていた。そこで出稼ぎをしないですむようにと、新たな仕事おこしとして紙漉きをはじめたりしている」などと話してくれた。
 地方でも必ず元気な人はいる。山崎さんのような方に会えるとワクワクする。
 
 今回の一連のツアーを企画し、また運転もしてくれた今野強さんと、側でいつも支えてくれたパートナーの和子さん。そしてずっと乗せてもらい安全運転をしてくれた近藤裕隆さん、演奏者の松本克巳さん、金沢恵理子さん、大前恵子さん、他にもたくさんの方との出会いで想い出に残る楽しい旅となった。12月までに原稿にし、来年3月の復興支援本の第7冊目にぜひつなげて、ささやかなお礼にぜひしたい。

2015-09-14

「愛とヒューマンのコンサート」長野県大町編

 8日の夕方に一行は長野県大町へと入った。ここは当時1歳2か月だった坂本龍彦ちゃんが、お母さん都子さんの「この子だけは助けて・・」との叫びもむなしく、殺害されて埋められていた場所である。
 8日の夕方は、市内の「ねむの木ホール」にて「龍彦君を忘れない 愛とヒューマンのコンサート」があり、カッチーニ作曲のアヴェマリアを大前恵子さんが松本克巳さんのヴァイオリンをバックに歌い、休憩をはさんで金沢恵理子さんのピアノの演奏もあった。アンコールでは「赤とんぼ」を全員で歌って終えた。
 9日は大町保育園でのコンサートの後、いよいよ龍彦君が埋められていた場所へと出かけた。町から山の中へと入っていく。30分ほどして舗装してない路地に右折してすぐに車は停まった。あいにくの雨は止みそうにもない。車を停めた場所から50cmほど下がった辺りは、一面の湿地帯で細長い草が生い茂っている。その一角を切り拓いてあり、正面に小さなお地蔵さんが立ててある。この下1mに殺された龍彦ちゃんは、一人で5年10か月も埋められていたのかと想像すると、何ともやりきれない。踏みしめると水が出てきて靴を濡らす。雨で
濡れるお地蔵さんの頭や体を指で静かになぜ、花を一輪添えて合掌した。
 モニュメントは近くの公園に立ててあり、そちらで慰霊祭があった。偶然にもその公園には、日本おとぎ話でも有名な「龍の子太郎」の大きな像もあり、きっと天国で龍彦ちゃんは、龍の子太郎と元気に遊んでいることだろう。

2015-09-13

「愛とヒューマンのコンサート」富山県魚津編

 8日の朝名立を出て魚津へと入る。都子(さとこ 当時29歳)さんの埋められていた場所はかなりの山奥で、土砂崩れなどがあって残念ながら入ることができず、はるか手前のキャンプ場の一角にモニュメントが設置してあり、そこで慰霊祭をおこなった。地元のコーラスグループであるサトコ合唱団が、都子さんの詩をもとにした「あなたの心に」を歌い、その後で「愛とヒューマンのコンサート」の松本克巳さんのヴァイオリンで、堤さんの大好きだった「タイスの瞑想曲」や、大前恵子さんの歌と一緒に「アベ・マリア」を演じた。
 20年前に山中から5年10か月ぶりに掘り出された遺体が、ふもとに降りてくるとき近くの多くの住民は、お線香やロウソクを手にして沿道に立ってくれた地域でもある。
 魚津には、女性中心のサトコ合唱団が以前から活動している。「あなたの心に」を静かに歌い終わると、最後に3つの鐘が鳴り、そのとき団員は右手を左の胸に当てて目を閉じる。都子さんを決して忘れない思いが良く伝わってくる。
 合唱団の皆さんが作った美味しい昼食を一緒にいただき、2時からは魚津障害者交流センターで「愛とヒューマンのコンサート」を開催した。
 広い部屋に、車椅子などを含めて50人ほどが集まっていた。開始前から奇声を上げたり、動き回っている人もいて、それまでのコンサート会場とは雰囲気が違う。サトコ合唱団の童謡などの後で、「愛とヒューマンのコンサート」のヴァイオリン松本克巳さん、ピアノ金沢恵理子さん、声楽家大前恵子さんの音楽が部屋中に流れた。演奏家の横にまで飛び出ていく人もいたが、1時間の終わりの頃になると和やかな顔つきになっていた。
 演奏家正面の壁面に、ストレッチャー式の車椅子で横になっている下半身不随の中年の男性がいて、演奏中は上半身を少し起こして写真などを一所懸命撮っていた。演奏が終わって少し話を聞くと、これまで10回の「愛とヒューマンのコンサート」には毎年参加し、最近では翌年のコンサートを楽しみにして1日1日を過ごしているとのこと。音楽の持つ力を再認識させてもらった。

2015-09-12

「愛とヒューマンのコンサート」 新潟県名立編

 9月6日から10日まで、「愛とヒューマンのコンサート」坂本弁護士慰霊ツアーがあり同行させてもらった。今回はこれまでの東北でなく、20年前に3人が埋められていた発見場所の新潟・富山・長野を巡る旅であった。
 埼玉を6日早朝に出発した車2台に分乗し、まず向かったのは当時33歳の坂本堤さんが埋められていた名立の山奥であった。あいにくの雨で予定した親友の松本克巳さんいよるヴァイオリンの演奏はできなかったが、ソプラノの声楽者大前恵子さんの「アベ・マリア」が辺りに流れ、私も目頭を押さえた。毎年地元仏教界の僧侶10人による読経が今年もあり、地元の方も手を合わせていた。1000m近い山の上で、1年の半分が雪で埋もれている。そのため20年前の遺体を見た方の話では、埋められて5年10か月たっていたが、髪の毛などはきちんと生えたままの姿だったとのことである。写真は堤さんが埋められていた場所で、石造のメモリアル碑は、10mほど手前の林道脇に設置してある。
 地元のお寺に泊めさせてもらい、手料理の御馳走や美味しい地酒を飲みつつ、20年間も坂本弁護士のメモリアルを守ってくれている話などを、住職夫妻から聴かせてもらった。
 「使命感で私たちはしているのでなく、「名立にわざわざ来てくれた方が、また来たいな」と思ってくれれば充分ですよ」
 明るい奥さんの話が印象的だった。
 名立機雷爆破事件をはじめて知った。1949年だから、戦争から4年たち私の産まれた年の3月30日のことである。名立漁港に流れついた国籍不明の機雷が爆発し、子ども40人を含む63人が即死している。戦争中は日本全国の海岸や海峡に、日本、アメリカ、ソ連の機雷10万個が敷設されていた。その1つが名立で惨事を起こした。当時の岩のある海岸はコンクリート製の漁港として整備され、爆発の場所は小さな祠が建ちお地蔵様を祭っている。
 機雷の破片などは全てGHQが回収したので国籍は今も不明のままで、被害者は泣き寝入りである。最高の国策である戦争の犠牲者を、ここでも見ることができたし、それを住職夫妻は風化させず、地元で劇団を組織し、シナリオも自分たちで創って演じているし、コーラスのグループもあって、7日には上越市民会館で200人以上が集まり、「愛とヒューマンのコンサート」と一緒に美しい歌声を聞かせてもらった。素敵な人たちの集まった
地域である。