2015-10-27

東京新聞 平和の俳句で掲載

 2015年10月22日付けの東京新聞朝刊で、「平和の俳句 戦後70年」が掲載され、思いがけず以下の私の句とコメントが載った

  「眼(め)をつぶし帰りし父は土となり  西村 一郎(66) 茨城県取手市
 「高知で農業を営んでいた父の左目は義眼だったが、幼いころの私は気づかなかった。あるとき父が、農作業中に左目へ泥が飛んでもぬぐわなかったことから、義眼だと分かった。戦争で中国に行き、なんとか帰還するため自ら目をつぶして傷痍(しょうい)軍人となったらしい。私にその是非は語れないが、死ぬまで黙々と田畑に向かい、働き続けた父の後ろ姿は、農業や平和について考える私の原点となった。」

 生前の父は、帝国陸軍のとき落馬して目を負傷したと話していたが、あるとき部下であった男性が訪ねてきたとき話を聞くと、農家出身の父はとても乗馬が上手く、また敗戦の日まで目の怪我はしていなかったとのことであった。
 下士官で敗戦を迎え、戦犯として処刑される噂が流れ、傷痍軍人となることで帰国することを望み、自ら左目をつぶしたようだ。軍の経歴書を見ると、敗戦後の1945年8月20日に南京の陸軍病院へ入院し、マレーシアなどの病院をまわり、1946年に横須賀へ戻っている。
 一度父に目のことで損傷させた方法や当時の心境など尋ねたことはあるが、きちんと答えてくれなかった。
 憲法違反の声の高い安保法が成立し、きな臭さが高まった。戦争だけはゴメンである。

2015-10-12

孫の運動会

10月10日は、3番目と4番目の孫の運動会を保育園に訪ねた。園庭では裸足の子どもたちが、元気に伸び伸びと遊んでいた。
 8時半の定刻となり、園長さんの挨拶で運動会はスタートした。最初は駆けっこで、次々に小さなランナーは走っていた。孫の2人も参加したが、4歳の伶(れい)は手首を後ろだけに振り、小股でチョコチョコ走るので、まるでスピードが出ずに残念ながらビリだった。
 今月末で2歳になる心晴(こはる)は、なぜか自らの力で歩くことがまだできず、常に誰かの支えが必要で、ずっと心晴だけが保母さの世話になっていた。
 続く競枝で心晴は、お父さんの支えでヨチヨチ歩き、途中でお菓子をもらって喜んでいた。
 医師の診断では、どちらも異常が見つからず、もう少し様子見となっている。
 ところで勘繰りかもしれないが、どちらも2011年3月の原発事故後の出産であり、少しは影響しているのではないだろうか。孫たちも住む取手市は、除染の対象地域であり、今でも我が家の庭などは線量計で測ると0.15μSvほどある。日本の除染基準0.23μSvの以下であるが、年間にすれば1mSvを超え、国際基準からすれば危険な地域となる。放射線は、外部被曝だけでなく内部被曝もあり、細胞を破壊すると同時に、遺伝子にもダメージを与える。
 しかし、内部被曝の影響を現実の暮らしの中で実証することは極めて難しい。
 これからも原発や放射能汚染の動向に
は注意したい。
 

2015-10-11

町内会の自主防災訓練

 10月4日の7時半、白いヘルメットをかぶって近くの公園に出かけた。自主防災会主催による訓練であり、私はその責任者でもあったので少し緊張する。これまではいつも町内の掃除の後に訓練していたのでかなりの参加者はいたが、今回はまったく防災訓練だけでの集合であった。
 他の役員10名も集まり、防災倉庫を開け、訓練の最終確認をするなどして8時のスタートを待った。続々と住民が集まる。66世帯約130人を15のグループに分けてあり、各グループ長から安否確認のホワイトボードに記入してもらう。
 8時になったので、「常総市の災害をもたらした記録的な雨雲が、もし鬼怒川のすぐ東を並行して流れる小貝川に降っていれば、取手市に洪水が入っていたかも知れない。取手市の予想では2mから最大で5mを予想しているので、訓練は大切」と開始の挨拶をした。
 1人が怪我して動けないとの想定で、2人の男性役員に購入した折り畳みリヤカーを使って救出に向かってもらった。またある女性から、携帯電話で119番へ通報してもらい、訓練をしている公園への出動を要請した。あわせて公園のブランコにビニールシートを掛け、雨のときに対応する訓練もした。
 集まった約50人は、2組にグループ毎に分かれてもらい、1組は発電機とチェーンソーの使用やロープの結び方をし、後の組には看護師の資格を持つ役員を中心にし、三角巾を使った止血の訓練をした。20分ほどで組を入れ替え、全員に基礎的な訓練をした。
 9時前になると消防署の大型車1台と地元の消防分団の小型車1台が公園に到着し、消火器の使用と心臓麻痺へ対応するAEDの訓練を30分ほどした。
 訓練の最後に消防署からの話を受けると、いくつもの町会の訓練を見ているが、ここまで具体的に細かくやっている団体は初めてとのことであった。
 ぜひみんなでこれからも、地道な防災の取り組みは続けていきたい。残念ながら非協力的な人もいるし、なおかつ「自主防災会は不要」と足を引っ張る人もいるが、いずれ分かってくれることだろう。