2016-05-26

5月の飯舘村訪問記1

 5月21日から25日まで、飯舘村の隣にある飯野町の佐藤八郎さん宅に泊めさせてもらい、資料の整理をしつつ飯舘村や仮設住宅を訪ねるなどしてきた。
 22日は飯舘村の小宮地区に入り、「モニタリングじいさん」こと伊藤延由さんを訪ねた。元は村にあった農業研修所の管理人であったが、震災後は研修所近くの山菜などの放射能汚染を独自に調べ発信している。原発を止める集会などで報告もし、その113枚もの膨大な資料もいただいた。ちょうど協力している独協医科大の木村真三さんが調査で来ていて、名刺交換させてもらい夕方まで懇談させてもらった。木村さんは放射能汚染について、100mSv/yを安全だという御用学者はもちろん大問題だが、20mSv/yを黙認する「民主的」な医師や学者についても、誰のための研究かぶれていると批判的で、私も同感であった。その中には私と同じ日本科学者会議所属の著名な学者もいて、誠に残念な話である。少なくとも私は謙虚さを忘れず、誰のための研究や文筆であるか少しでもぶれないようにしたいものだ。
 24日は、飯舘村の避難者が住んでいる伊達東仮設住宅を訪ねた。管理人に挨拶をして最近の状況を聞かせてもらい、まずは何回も会っている安齋徹さんを訪ねた。カメラが趣味で膨大な写真を持ち、震災後の飯舘村の変化や仮設住宅などを見せてもらった。震災前は健康な体で農業を営んでいたが、震災後は体調を崩して今も医者通いをしている。
 映画「飯舘村の母ちゃんたち 土とともに」に出ていた菅野榮子さんと菅野芳子さんにも会って話を聞いた。映画では大変な困難を笑いで吹き飛ばすようなバイタリティある場面がいくつもあり、実際の2人も同じ前向きな姿勢で笑い声が絶えなかった。それでも仮設に来た当初の榮子さんは、生きる意欲をなくして湯たんぽを抱いて泣きながら寝込んでいたとか、バイクに乗るほど元気な祖父が震災後に埼玉へ避難してすぐに亡くなり、また祖母も後を追うように他界した苦労話を芳子さんからも聞いた。笑いの裏には、たくさんの苦労があることをここでも再認識した。伝統食の1つである手作りみそも食べさせてもらい、楽しい有意義な時間であった。
 
写真は飯舘村にあるモニタリングの1つ。周辺は除染を繰り返し、空間線量は山や草地に比べれば低くなっているが、それでも0.30μSv/hを表示し、国際基準である0.1μSv/hからすれば3倍の高濃度。他の場所では1や2μSv近くもいくつかあった。

 

0 件のコメント:

コメントを投稿