2016-07-31

相馬馬追祭に参加して 7月下旬飯舘村訪問記

 7月22日(金)の深夜に知人の軽自動車で国道6号や常磐線を北上し、途中で道に迷ったりしながらも、23日(土)の午前1時に飯舘村にある細川牧場へたどりついた。翌日からの相馬野馬追祭に、63頭もの馬を世話している。仕事中の主人が迎えてくれて、まずは日本酒で乾杯して雑談し2時には就寝した。
 23日は朝4時半に起き、祭りに使う馬を南相馬市内へ10トントラックで運ぶ様子を見させてもらった。神社での出陣式を見た後で、午後に牧場へ戻ってくると夜のバーベキューの準備で、軽を私が運転して奥さんの案内で炭や肉などを運んだりした。
 いよいよ24日(日)が相馬野馬追祭の本番である。朝5時に10トントラックに乗せてもらい、会場である祭場地へ7時頃には入る。あいにくの小雨で、テントの中にいても風によって雨が入ってくる。祭りの開始は11時。民謡や相馬流山踊りなどがあり、ビールを飲みつつ震えながら騎馬隊を待った。定刻より少し早く、背中に幟を立てた騎馬武者が続々と入場してきた。その数440だから壮観である。古式競馬は、1周1000mを6頭から9頭ほどで疾走し、それは見応えがあった。最後は花火で高く打ち上げた神旗争奪戦であった。冷たい雨の中で途中から鼻水が止まらなくなって困ったが、1000年も続く伝統文化を楽しむことができた。
 他方で気になることもあった。放射能の汚染で南相馬市も高いが、原子力対策本部は居住制限区域と避難指示解除準備区域を、年間20ミリシーベルト以下になるとして7月12日に解除し、祭の会場もその一部であった。国内法では一般人の基準は1ミリであり、なぜか福島の被災地ではその20倍となっている。さらにホームページでみると、祭場地の東は0.289マイクロ・シーベルトで、西は0.310マイクロ・シーベルトとなっている。これは年間にすると×24×365で、約2.5から2.7ミリ・シーベルトにもなる危険地帯である。伝統文化を継続することは大切なことだが、それはあくまで安全を前提にした話であり、原発の被害の実態は正確に共有することも重要である。
 

2016-07-22

絵金祭り

 7月18日は、高知県赤岡町の絵金祭りを訪ねた。絵金とは、江戸時代の末期に活躍した絵師金蔵の愛称である。若くして絵の才能を認められ、18歳から江戸で狩野派に学び、土佐藩家老の御用絵師となって活躍したが、模写した絵を誰かがかってに烙印して販売したため、贋作事件に巻き込まれて追放となった。
 以来10年も行方が分からなかった絵金だが、赤岡で今度は庶民のため祭りに飾る絵などを描くようになった。歌舞伎の場面などを、それは勢いのある筆と原色に近い鮮明な色で仕上げ、見る人を圧倒させる。
 以前は赤岡だけでなく高知の各地の祭りで見ることができ、実家のある春野の祭りでも展示してあった。人体から飛び散る血などがあまりにもリアルすぎて、子ども時代の私は怖かった。
 若くして出世街道から奈落の底に落とされた絵金は、さぞかし罠におとしいれた人を恨んだことだろうが、絵の目的をしっかりと見据えなおし、今日に続く自由奔放で素晴らしい作品をいくつも残しているから凄い。人生の目的は肩書や金などでなく、自らの信念の追及であることを示しており、これほど私にとって嬉しいことはない。過大に美化されすぎた坂本龍馬よりも、私は絵金に親しみを感じる。
祭りでは地元の酒蔵が、1合の枡酒を購入して飲み干すと、何杯でもおかわりのできる振る舞い酒があった。それも冷たい美酒を、浴衣姿の若い女性が笑顔でついでくれる。4杯飲むと、すっかり気分が良くなった。
 

2016-07-20

アンパンマンの作者やなせたかしさんの故郷を訪ね

 7月13日から墓参りを兼ね、4番目の孫たちを連れて土佐の高知に帰省した。2歳9か月になる孫を喜ばせようと、実家から弟の運転で片道1時間ほどかけアンパンマン・ミュージアムを訪ねた。発達障害のある孫は、まだ言葉を話すことができないが、大好きなアンパンマンやバイキンマンは指をさして喜んだ。
 作者のやなせたかしさん作曲のアンパンマン・マーチには、「なんのために生まれ なにをしに生きるのか こたえられないなんて そんなのはいやだ!」との一節がある。著書によれば晩年の自分に問いかけた文句とのことで、子どもだけでなく大人にとっても重みがある。67歳の私も、そう問われるとふと考えてしまう。
 ミュージアムから車で10分ほど離れた場所に、やなせさんの死後に新しく「朴(ほお)の木公園」ができていたので訪ねた。柳瀬一族の墓が裏山の中腹にあり、そこで眠っているそうだ。まな板に使う朴の木は、自らを痛めても包丁の刃こぼれはさせない。故郷の土はあたたかく、1本の朴の木になり、はにかみながら白い花を咲かせ、かぜに揺れていたいと遺書にしたためている。
 2013年に94歳で他界するまで、漫画家、絵本作家、詩人、編集者、舞台美術家、演出家、司会者、作詞家、シナリオライターなど、それは多彩な場で楽しく活動されてきた方である。公園から山の中腹に向かい合掌させてもらった。

2016-07-09

20ミリ・シーベルト受忍論は基本的人権無視 7月上旬飯舘村訪問記

 7月2日から6日までまた福島を訪ねた。来年春の飯舘村帰村に向け、この7月1日からは村内の長期滞在が可能になっている。そうしたこともあり、飯舘村を訪ねるとあちこちで建物の修復や建て替えがすすんでいる。


 人が安全に暮らすことのできるレベルに放射能が低減していればいいのだが、残念ながらそうではない。健康を害する危険な状況はほとんど変わらないのに、基準を国がかってに大幅に緩和して、「安全だから帰ってもいいですよ」と帰村を促している。
 ここで使われているのが20ミリ・シーベルト受忍論である。今でも国際基準や日本の法律でも、国民の1年間にあびてもかわない範囲は1ミリ・シーベルトとしているが、20倍の20ミリ・シーベルトまでであれば安全であるとの説が福島では使われている。もっとひどいのは、100ミリ・シーベルトは野菜不足の健康被害リスクよりも低いとの暴論で、これはカラー刷りのパンフになって飯舘村だけでなく各地で行政から配布されている。
 もし年間20ミリ・シーベルト(1時間では20ミリ・シベルト÷365日÷24時間=2.28マイクロ・シーベルト)が安全だと断言できるのなら、1~2マイクロ・シーベルト前後でもばく大な税金を使っておこなっている除染の必要性がなくなる。
 原発事故の被害を少なくし東電の賠償額を減らして、原発の再稼働や輸出などをもくろむのでなく、国民の健康と命を最優先にする政治や科学が求められている。