2017-12-10

新鋭のジャーナリストたち 第23回平和・協同ジャーナリスト基金贈呈式 

 12月9日の午後に、第23回平和・協同ジャーナリスト基金賞の授賞式が日本記者クラブ大会議室であり参加した。活字部門35点と映像部門39点の74点から、以下の8点が入賞した。
 基金賞(大賞)1点:RKB毎日放送製作のドキュメンタリー映画「抗い 記録作家林えいだい」 
 奨励賞 
 ①沖縄タイムス社取材班の連載「銀髪の時代『老い』を生きる」
 ②シンガーソングライター、清水まなぶさんの「追いかけた77の記憶 信州全市町村戦争体験聞き取りの旅」(信濃毎日新聞社)
  ③西村奈緒美・朝日新聞記者の「南洋の雪」(朝日新聞高知版連載)
 ④株式会社パワー・アイ(大阪市)製作のドキュメンタリー映画「被ばく牛と生きる」(松原保監督)
 ⑤広島市立基町高等学校創造表現コース・美術部の「被爆者の体験を絵で再現する活動と10年間の作品集」
 ⑥望月衣塑子・東京新聞記者の「武器輸出及び大学における軍事研究に関する一連の報道」 
 審査委員賞 ジャーナリスト、梅田正己さんの「日本ナショナリズムの歴史」全4巻(高文研)
 市民のカンパで成立しているこの基金賞に、私は2012年の第18回で奨励賞を受賞させてもらい、副賞の楯を書斎の棚に飾ってある。
 受賞者の5分ほどの挨拶がいつも楽しみである。
 「伝えられない歴史は繰り返される」
 今年83歳で惜しくも他界された林えいだいさんは、ふるえる指に鉛筆をテープで巻きつけて書いていたとのこと。
 シンガーソングライターの清水まなぶさんは、聞き取りした重い言葉にメロディーを乗せて懇親会で披露してくれた。
 広島市立基町高校の美術の先生も来ていたので、生徒たちが被爆者から聞き取りして描いた絵の冊子を、できれば韓国の原爆資料館に寄贈させてもらえないかと相談して了解を得た。
 たとえ無名でも、ジャーナリストとしてコツコツと事実に向き合っている人が各地にいる。私も志を忘れることなく、これからも文字と歩みたい。

2017-12-07

障がい者の5kmウォーキングに参加

 快晴の続く3日は、朝から「第30回野馬追の里 健康マラソン記念大会」と同時に「第12回ウオーキング大会」があり、後者は子どもや障がい者向けであった。
 7時にホテルを出て自転車を走らせ、7時半には会場の雲雀が原祭場地のすぐ前にある作業所「ほっと悠」に着いた。広い祭場地は毎年のように野馬追の勇壮なレースをする場で、2年前に私はそこで観戦したこともあった。
 ほっと悠で少し待機して準備し、集まった障がい者と職員の17人と一緒に会場へ入った。当日の受け付けがあったので、5kmのウオーキングを申し込んで参加費の500円を払って記帳し、「9482」の緑のゼッケン・記念のタオル、ペットボトルなどを受け取った。
 定刻の8時30分に5kmのグループは出発し、祭場地から西に向かう道に沿い長い列になって歩き出した。中には視力が悪くて白杖を手にして伴走者が横にいる人もいれば、車椅子に乗って後ろから押してもらっている方もいた。
 途中で「苦労して歩いて、どんなことが楽しいですか?」と聞くと、「いつも移動するときは車なので、自然の中を歩くのは嬉しいです」とのことであった。ガラス窓こしでないから、風や香りなども感じることができて嬉しいのだろう。同じウオーキングでも、人によって楽しみ方はいろいろである。
 途中の太田神社でトイレ休憩し、5kmの行程を終えて出発点に戻ってきたときは10時近くになっていた。ずっと歩いていると、防寒着の中は少し汗ばんでいた。
 ゴールすると1人ひとりが完歩証を受け取り、また温かい豚汁があって一息つくことができた。
 
 ウオーキングの後で、精神に障がいを持ちながらも職員としてりっぱに仕事をしている男性の話を聞かせてもらった。今も病気は完治せず毎日のように薬を飲んでいるが、自分の限界を自覚できるようになり、パニックになる前に休んで自己コントロールしている。職場の配慮や環境を整えることで、障がいを持った
人が職員として責任ある仕事をできるわけで、ぜひもっと増えてほしいものだ。

2017-12-06

障がい者のスポーツ交流会 今年最後の取材

 12月1日から南相馬市へ入った。インターネットで検索した格安のホテルは、南相馬市原町の市街地からかなり離れた小高い丘の上にあった。懐中電灯の明かりで持参した折り畳み自転車を走らせるのは注意を要したが、40分ほど走り到着したときはホッとした。1泊3500円でありがたかったが、何と夜と朝の2食付きで驚いた。
 2日の朝から市内の体育館で障がい者スポーツ交流会があり足を運んだ。市内にある7つの作業所から、百数十人ほどの障がい者や職員が集まり、10時から14時までボッチャーや玉入れや車いすリレーを楽しんだ。
 ここに山形の市立第十中学校から、芋煮の差し入れが今年もあって、責任者から聞き取りをさせてもらった。中学の生徒たちは、南相馬のいくつかの作業所で作っている缶バッジを今でも地元で販売し、またたくさんの年賀状を書いて交流している。生徒会だけでなく、PTAや学校もそれぞれ支援で動き、よく継続して活動していると感心する。
 今回は中型のバスにPTAや教師など17人が乗って山形を朝出発し、持参した芋や牛肉やコンニャクなどを使い、体育館の入口に置いた大きな鍋で芋煮を作ってくれた。できた最初の一杯を「どうぞ」と言われたのでいただくと、ダシもよく出ていて冷えた体にそれは美味しかった。
 昼飯のときに、参加者には弁当と一緒に温かい芋煮を食べた。中にはスポーツよりも、この芋煮を楽しみにしている障害者もいた。車椅子の人も玉入れの輪に加わり、投げることはできなくても歓声の中で一緒に楽しんでいた。

2017-11-27

生協と生協人の在り方は?~大阪いずみ市民生協問題20年目に考える~

 11月25日の午後に都内で表題のシンポジウムを開催させてもらい、沖縄や九州を含め52人もの参加で熱気ある議論をすることができた。20年まえに大阪いずみ市民生協において、代表権を持つN副理事長が、億単位の私物化や、さらには女性職員や組合員理事へのセクハラなど、生協として信じがたい暴挙があった。これに怒った3人の職員が内部告発し、それに対して理事会は解雇2名と長期自宅待機1名で応えた。事実が公になり、告発者の3人を支援する動きが拡がり、私はその全国組織の事務局長として微力ながら支えさせてもらった。
 裁判は画期的な勝利をおさめ3人は職場復帰したが、裁判の終了と同時に全国の支援運動も終わった。裁判はあくまで弁護士が中心であり、生協人としての主体的な問題の掘り下げは不十分のままであった。そこで20年後の今、大阪いずみ市民生協問題を入口にし、これからの生協や生協人の在り方を考えることにさせてもらった。
 シンポの前半の1時間半は、告発者3人や当時のちばコープ高橋理事長から、いずみ問題とは何であったのかリアルな報告を受けた。
 後半はまず私が30分で「生協における働き方を考える」とし、①日本における働き方、②大阪いずみ市民生協で問われた働き、③課題で触れさせてもらった。自分の頭で考え働き、1度しかない人生を悔いなく生きることが大切で、ある調査では終末期の人の70%がチャレンジしなかったことを後悔していることや、私自身の生協人としての働きも紹介させてもらった。
 続いて「大阪いずみ市民生協で問われた課題」として元日本生協連矢野専務が30分で、①1990年代後半・生協危機、②いずみ生協事件の深刻さ、③ガバナンスの課題、④職員と労組の役割り、⑤内部告発と不当解雇、⑥日生協&生協労連の役割りと限界、⑦民主団体・弁護士の対応、⑧20年の変化と残されている課題に触れた。日本全体の景気が大きく悪化するであろう2020年に、再度生協の在り方が問われることになり、いずみ事件の教訓を噛みしめる必要があるとの指摘であった。
 休憩の後は、参加者との議論を5時まで熱くし、関わった生協人だけでなく弁護士や学者などからも率直な意見交換をすることができた。その後の懇親会には33人もが参加してくれて、美酒を飲みながら楽しく懇談することができた。美味しいお酒を味わうことができた。
告発した勇気ある3人梅渓・坂田・内田さんと

 

2017-11-19

踊る96歳の母 高知に帰省し

 11月13日から17日まで高知の実家に帰省した。96歳になる母は、この春先から市内の老人施設でお世話になっていたが、何と11月10日から家での暮らしに2か月ほど復帰することになった。そのため段差をカバーするなど家の改装などもあり、また何もできないが長男としての責任もあって、今後のことを兄弟で相談したいとも考えた。
 在宅で週に3回(月、水、金)はデイケアを使う。弟は実家にいるが、ビニールハウスでのキューリ栽培が忙しい今は、朝4時に出て帰りは夜の8時や9時で、とても介護などできない。実家の近くに住む妹が、仕事の前と後で寄ってくれて、食事や薬などの世話をみてくれている。
 足腰がだいぶ弱った母は、それでも伝い歩きはできる。以前から熱心な信仰があり、前は毎朝のように大きな神殿の前に正座し、長い祝詞をあげていたが今はそれもない。それでも3日目の夜に夕食の後で、妹と3人でおしゃべりをしていたときのことである。桂浜の近くを車で走るとき、いつも「南国土佐を後にして」を一緒に歌っているというので、ぜひ聞かせてと頼んだ。最初は嫌がっていたが、妹と私が手拍子して歌い出すと母も歌い出し、さらには急に立ち上がって踊りだしたのには驚いた。他にも「めんないチドリ」を歌い踊ってくれた。背中を伸ばし、軽やかに回転もした。
 さすがに翌朝に母は、「疲れた」と言っていたが楽しそうであった。長年苦労をかけた母である。いつまでも元気でいてほしい。

 17日の昼前に、弟の車で空港へ向かう途中で南国市の物流団地にある生協のセンターを訪ね、その一角にある特例子会社ハートフルコープこうちを訪問した。若い障がい者5人が、生協の共同購入で使うプラスチックの箱の清掃をしていた。段ボール紙などの資源化なども来年には事業にし、より多くの障がい者の雇用を予定しているとのこと。生協の社会的役割発揮のためにも、ぜひ障がい者支援を強めてほしいものだ。
 

2017-11-12

世界の核災害

 11月12日の10時から18時30分まで、都内で「世界の核災害に関する研究成果報告会」があり、それも無料でそれぞれ第一線での研究者12人の報告とあり参加した。テーマは下記と多彩で100人ほどと一緒に最後まで聞いた。
 ①ウラル核惨事、ウィンズケール火災事故、ウラジオストク原潜臨界事故の顛末
 ②マーシャル諸島米核実験の「その後」
 ③仏領ポリネシアでのフランス核実験と公式報告に観る放射能汚染・被ばく状況
 ④セミパラチンスク住民の核実験に対する認識について
 ⑤核被害者への援護制度
 ⑥ABCCと米原子力委員会の被爆者調査
 ⑦放射線の継世代(遺伝的)影響研究の現状と問題点
 ⑧事故31年、チェルノブイリ高濃度汚染地域の内部被ばく
 ⑨誰がどうやって事故を収束したか?~チェルノブイリ・東海村・福島の現場で~
 ⑩英国の核災害時緊急事態対応体制から学ぶ
 ⑪米国の核廃棄物問題の現状
 ⑫台湾の原子力政策の転換過程~「フクシマ・エフェクト」はどう作用したのか
 途中に休憩はあったが、堅い話をこれだけ聞いているとさすがに疲れた。それも決して楽しい話ではない。それでも考えさせられる有意義な内容がいくつもあった。
 ある人が核文化は、「否定し嘘をつき機密にする」ことと解説しているそうだ。まさに福島でも同じである。アメリカにおける核廃棄物の処理は、広い国土もあってか日本よりもずさんとのこと。それにしても健康や環境などへの被害は拡がり、いずれ手に負えなくなる。福島の事故から学び、台湾では建設中の原発を止め、脱原発の国政に舵をきった。それは喜ばしいことだが、わが日本では何も事故から学ばずに再稼働や輸出を進めている。いったいこの国はどうなっていくのだろうか。



 

2017-11-10

圧政ヲ変ジテ自由ノ世界ヲ ~秩父事件の情熱を今に~

 農民連の集会で、山の流木防止に関して秩父の新井健二郎さんから10分ほどの貴重な報告があった。今年の7月に九州北部豪雨があり、死者と行方不明者で41人もでている。その生々しい現場を先月訪ねていたので興味深く聞いた。杉やヒノキの針葉樹は根の張りが浅く、山の構造にもよるがすぐ崩れて土石流になる。そこで新井さんは、危ない山の巨木を1mほどの高さで全て切り、そこに切った木を横に積み上げている。それらの木が枯れる頃には、広葉樹の雑木がはえて自然に近く災害により強い山になるそうだ。
 休憩時間に名刺交換させてもらい、討論会の終わった午後に市街地から車で30分ほどの自宅まで連れていってもらい、その裏山を見せてもらった。山すそは石で固めて2年で雑木は大人の背丈よりも高くなり、これであれば土砂崩れもたぶんないだろう。
 4年間のシベリア抑留から帰国した新井さんは、まず山の木を全て切って牧草を育て牛を飼ったが失敗し、今度は国策に沿って杉を植えたが、やっと販売できるまで成長したとき政府は材木を自由化し売れなくなった。そこで福島から柿を自力で学び生産を今も続けている。
 ところで新井さんは1884年に起こった秩父事件にとても詳しく、次々に貴重な話が出てくる。92歳になっても記憶は鮮明で、会話も普通にできる。頼まれて秩父事件やシベリアを含む戦争体験などの講演を、今も元気にしているから凄い。当時の圧政に対し養蚕のできなくなった秩父の農民が、自由民権の考え方で世直しをしようと立ちあがった。それも各地に広がりつつあった自由党の傘下で行動しようと集まったが、秩父でスタートさせる2日前に自由党は解散し、党首の板垣退助は事もあろうに政府から莫大な金をもらってヨーロッパへ逃げた。同じ土佐人として私は恥ずかしい限りである。
 詳しくは2004年の映画「草の乱」にも描かれている。決起に集まった農民は3000人で、最終的に1万人が関わっているから、まさに草の根の力による社会運動であった。ところが政府は暴動と決めつけて厳しく処罰し、全国の教科書でも自由民権運動の1つと高く評価されてからも、地元では長く否定的であった。新井さんたちの地道な取り組みで、80周年や100周年の集会を成功させながら、記念碑や記念会館などが地元にできている。
 新井さんのワクワクするドラマは、最近の赤旗日刊紙に「秩父事件を歩く」として6回も連載されている。新井さんの近くにいると、133年の時間を超え秩父事件のとき松明を掲げて山野を駆け巡った闘志の熱気を感じた。
東京めざし松明をかかげる「秩父事件青年の像」前の新井健二郎さん

「今だけ、金だけ、自分だけ」の農政からの脱却を ~農民連関東ブロック研究交流集会に参加~ 

 11月8,9日と秩父にて農民連関東ブロック研究交流集会があり、会員ではないが農業や農家の現状を知りたくて参加させてもらった。東大の鈴木宣弘教授による特別講演「TPPを超える危機!日米FTA・日欧EPAで私たちのくらしは」が1時間半ほどあり圧巻であった。A4版で24枚もある資料を使い、それもメモを取るのも追いつかない早口で進んだ。
 農水省に15年もいただけに政治の裏側にも詳しく、安部政権になっていかに国民を無視した政策が暴走しているのか具体的に話していた。例えば今年の春に国会でほとんど議論せずに廃止した種子法で、日本人の食生活に不可欠な米・麦などの大切な種子を、アメリカの企業に開放する道筋をつけた。そのため「亡国の種子法廃止」とまで言い切った。悪影響は農家だけでなく、消費者や生協にも必至だろう。その割には生協の反応が一部で、全体として鈍く残念である。
 「国民のため」と口先では言っているが、実態は企業の金儲けが最優先である。遺伝子組み換え種子と農薬をセットにして世界中で販売しているアメリカのモンサント社は、人の健康被害が増えることを見越してドイツの製薬メーカーのバイエル社を買収し、さらに利益拡大をすすめている。TPPがストップしたかと安心していたら、TPP11となって動いている。それも詳しい交渉内容が明らかにならないので、どんな影響が出るのか心配である。
 最後に鈴木さんが強調していたのは、「自分たちの安全・安心な食と地域の暮らしは自分たちで守る」ことで、スイスのように生協と農業生産者団体が、国レベルでの協定書を結ぶなどしていることをヒントに示しまさに共感できた。
 名刺交換させてもらい、後日に連絡して研究室訪問の約束をさせてもらった。
 9日の午前中は討論の時間で、10数名の参加者から各地での取り組みの報告があった。2015年の1年間で農作業中に死亡事故は338件もあり、65歳以上が84%で80歳以上が47%とのこと。いかに高齢化した農家に過酷なしわ寄せがいっているか知って驚いた。消費者や生協は安さを求めることも大事だが、こうした農家の現実を直視し、一緒になってどのような社会や食や農業にしたいのか話し合うことが重要だと強く感じた。
熱く講演する鈴木教授
 

2017-11-05

今も福島第一原発2号機から放射能汚染物質が拡散 福島東葛活動報告会

 11月4日の11時から18時40分まで、千葉県のとある市民センターで「福島第一原発事故、隠された原因と責任 そして終わらない被ばくと汚染」と題した集会があり、70人ほどと一緒に参加した。
 報告の一人目は、飯館村の佐藤八郎村議。来春にまだ0.4μSv/h台と高い地域で学校を再開し、今の予測では迷っている38人を含め90人の小中生が通学予定だが、村は2300万円出し何と400人分の制服を有名なデザイナーに作ってもらいプレゼントするそうだ。もっと有効に税金は使ってほしいものだが。
 二人目は、今回のメインの山田國廣さんで、『初期被ばく その被害と全貌』(風媒社 定価2000円)の出版記念も兼ねていた。元は水に関した環境学の先生だが、震災後は原発事故による環境破壊問題に取り組み、データに基づき問題に鋭く迫っている。午前の話と午後の質疑応答を含め3時間ほど熱く語ってくれた。凄い本である。①事故は津波でなく地震で起きた、②重大な健康被害を起こしている初期被ばく、③今も2号機から放射能汚染物質が大量に放出などについて、膨大なデータや文献を基にし実証している。
 政府・東電・マスコミ・御用学者などの非科学的な説に対し、事実を積み上げて正面から反論している。細かいデータがいくつも入った352頁もの大著で、じっくりと精読したい。
 なお山田さんは、この本の内容を読んで理解したら、ぜひ各地のデータを同じ手法で検証することを訴えていた。住んでいる取手市でも取り組んでみたい。
 午後はパネルディスカッションで、福島や千葉など8人からの基調な報告があった。区域外のいわゆる「自主避難者」で、住宅の明け渡しを求められている生々しい話もあった。
 19時から交流会があり、山田さんや佐藤さんを含め40人ほどが輪になって楽しい場となった。
 長時間で少し疲れたが、たいへん有意義であった。まだまだ3・11以降の人災は続いていることを実感。

2017-10-28

原発事故から時間の止まった地域 浪江町請戸(おけど)の今

 10月22日(日)はどこの作業所も休みで、取材をすることができない。かといって部屋で原稿を書いているのはもったいない。そこで電車を使い、雨は降っていたが常磐線終点の浪江町へ出かけることにした。
 荷物を減らすため自転車を入れる専用の重いビニール袋を持参せずに、無人の鹿島駅で自転車を折り畳んで乗った。すると車掌が寄ってきて、袋に入っていない自転車は持ち込み禁止とのこと。やむなく原ノ町の停車時間に、駅員に相談して大きなビニールをもらって入れそのまま乗車することができた。
 鹿島から30分ほどで浪江の駅に着き、自転車を組み立てて町中を走った。駅に数名の人はいたが、町に出ると商店はシャッターが降り、歩いている人はまったくいない。巡回しているパトカーから、不審そうな顔をした若いポリがこちらを見ていた。放射能の空間線量を測定して表示するモニタリングは、駅前で作動してなく、他はだいたい0.2μSv/h前後であった。
 事故を起こした原発に近づくため海岸方面を目ざし、何回も訪ねた請戸(おけど)港に向かい、30分ほどで着いた。除染したゴミの仮置き場と焼却炉が橋の手前にあり、写真の道路の突き当りの林の中に事故を起こした福島第一原発があって、一面の黄色いセイタカアワダチソウの向こうに晴れていれば4本の煙突を見ることができる。
 一角にある被災した住宅は当時のままで、6年7カ月の時間が止まっていた。できれば原発の近くまで走りたかったが、台風21号の影響で雨と風が強くなってきたので、2時間ほどの散策を終えて駅に引き返した。

2017-10-27

全身で歌う障がいをもった人たち 南相馬市の健康福祉まつり

 10月20日から南相馬市に入り、今回はNPO「あさがお」の運営するデイサービス施設「ともに」の休憩室を借りて宿泊することにした。作業所「あさがお」に理事長を訪ねると、埼玉から2人の若い女性が同じく支援に来ていて少し懇談した。毎月のように埼玉から1泊2日で訪ね、「あさがお」で障がい者の作った豆腐や豆乳などを仕入れて埼玉の知人などに販売しているから凄い。もっとも往復の時間と経費を節約するため、いつも常磐道を使っている。そのため空間線量がまだ5μSv/h前後と、国際基準の約50倍も高い汚染地域を何回も通過しているので私は心配である。時間と費用は少しかかるが、郡山か福島経由で南相馬へ入ってほしいものだが。
 21日は9時半から3時半まで、原町の施設や周辺の広場を使い健康福祉まつりがあり、私は「あさがお」の手伝いをしつつ祭りを楽しんだ。出し物の1つが、さぽーとセンターぴあの利用者約30人による「とっておきの音楽祭」であった。あいにく台風21号の影響で雨がずっと降り、屋外の予定が急きょ屋内のホールになった。車椅子の3人を含めた障がい者たちが、「365日の紙飛行機」「フォーチェンクッキー」「みんなちがってみんないい」「虹をかけよう」を、ボランティアのギターやピアノ演奏をバックにして元気に歌ってくれた。声を十分に出せない人は、リズムに合わせて指先や体全体を動かして音楽を楽しんでいた。
 冷たい雨に濡れた体であったが、とっておきの音楽を聴き、体の芯底からほんのりと温かくなってきた。

2017-10-17

10月の内山節寺子屋に参加

 10月14日の夕方から哲学者の内山節さんが関わる寺子屋があり、亀有にある延命寺へと出かけた。5時から開始となった寺子屋には、約30人が広間に座り、前半はある女性参加による「今までの労働環境 これからの労働の世界」と題した報告があった。戦後のわが国における労働を概観し、これからの柔軟な働き方を期待する内容で面白かった。ただ、日本の国策との関連に触れてないことや、報告の前半は「労働」で後半は「働き」と表現するなど、論点のあいまいなことがいくつかあって後の議論で触れさせてもらった。
 10分の休憩の後は内山さんによる話で、今回は「大日教」の経典をとりあげた。名称をどこかで聞いたことはあるが、中身についてはまったく読んだこともなく、コピーはもちろん現代訳だが、それでもかなり難解である。1時間ほどなので大日教の一部につき、現代訳をさらに分かりやすく解説してくれた。印象的だったのが「空(くう)」である。仏教で「空」は重要な意味を持つが、どうもその意味するところが私も掴みかねていた。内山さんによると、空(くう)は空(そら)のように、上空にあるがこれが空ですと限定することができず、またその上には宇宙があり、下には大地や自然や人もいるように、あらゆるものと接している存在とのこと。いくらか「空」の理解が進んだ。
 後の懇親のとき、内山さんの著書「哲学の冒険」や「続哲学の冒険」に経典の話がないので、
いつ頃から仏教の経典に興味を持ち出したのかたずねた。すると中学や高校生のときに、なぜか興味を持って読み始めていたとのことで驚いた。私にすれば、ドキドキしつつ「平凡パンチ」かせいぜい社会科学関連を手にしていた頃で、同世代でもこんなに凄い人がいるものだとあらためて感心した。
 寺子屋では、まだしばらく経典の話が続く。葬儀仏教として日本仏教を避けていたが、せっかくの機会なので少し真面目に学んでみたい。

2017-10-15

エフコープにおける障がい者支援

 10月11日に福岡県うきは市を訪ね、地元の生協であるエフコープによる障がい児の学童保育の現場を訪ねた。閉鎖になった市の保育園を利用し、放課後等デイサービス「うぃずあっぷる」を開設し、10人ほどの障がい児を4人のスタッフが世話していた。
 世間体を気にして15年も家から外に出してもらえていなかったある障がい児が、市の薦めもあってここを利用することになり、皆と遊んだり買い物や公園などへも出かけてすっかり明るくなり、保護者も驚いているという。夏には庭にある小さなプールでも遊んでいる。
 訪ねたときお八つの時間と重なり、子どもたちと一緒にお菓子を食べながら少し交流させてもらった。小学2年の言葉が出ないある男の子は、ここでスタッフの女性が目線を合わせてゆっくり話しかけることを繰り返し、最近話すことができるようになった。
 言葉がほとんど出ない私の4歳になる孫と重なり、思わず涙が出そうになった。
 12日はエフコープの本部の敷地内にある就労継続支援A型事業所「アップルファーム」を訪ねた。ここでは障がい者11人が、1年を通してシイタケを生産し生協で販売している。シイタケの菌を埋め込んだモミ殻の塊を使い、温度や湿度を細かく管理して成長させ、販売できる大きさになるとカットして分量を量り袋に入れて商品にしている。障がい者の条件に応じて、できる作業を分担しているから、それぞれが真面目にコツコツ仕事をこなしていた。
 ここで月給は11万円ほどだから、小規模作業所の工賃の平均1万数千円に比べるとはるかに高い。ある障がい者は、月給を貯めて母親に新車を買ってプレゼントしたとのこと。さぞかし母親は驚き、かつ喜んだことだろう。
 さらにはここで働くことに慣れた障がい者が、生協のリサイクル専門の子会社に就職して頑張っているから凄い。
 障がい者のグループホームなども課題になっているそうだ。
 土産でもらったシイタケは、帰宅してすぐに焼いて生姜と醤油で食べた。歯ごたえもよく、いつも以上にお酒が美味しかった。

2017-10-14

九州北部豪雨の被災地を訪ねて

 10月11日の早朝に羽田を出て福岡に飛び、福岡県南部に位置する朝倉市の被災地を訪ねた。今年の7月の集中豪雨により、同市だけで34名もの死者がでている。何回かテレビでも見た映像では、流木を含んだ濁流が沢を走り、多くの民家や田畑をおし流していた。まだその生々しい姿がいたる所にあった。
 それにしても自然の猛威にはただ驚くしかない。海面の温度が上昇し、湿った空気が大量に山間地へ流れて、50年に1度といった大雨を降らしている。自然現象といっても、工業化による地球的な二酸化炭素の増加による温暖化もたぶんに影響しているのだろう。どこかの軽薄な大統領が言うような、「地球温暖化は問題ない」との論調に私も同意しない。
 氾濫した河川の上流にあるいくつもの崩れた山肌には、敗戦後に植えた杉がほとんどである。杉の成長は早くて効率的な建築材育成には適しているが、根は深く伸びず倒れやすい。このため斜面の杉は、山肌と一緒になってすぐに崩壊する。敗戦後に経済優先で、杉やヒノキといった針葉樹ばかりを植林してきた政治のツケをここでも見ることができ
た。
 こうしてみると今回の災害は、天災と同時に人災の側面も忘れてはならないだろう。

2017-10-01

町内会の自主防災会訓練

 10月1日の今朝は、8時前に防災ヘルメットを着用した。年に1回の町内会の自主防災会訓練で、線路近くの小さな公園に約40名の住民が集まってくれた。73世帯を近所の13グループに分けて、それぞれに正と副のグループ長を選出し、まずは電話による緊急連絡網を使い、「訓練です。避難準備・高齢者避難開始の連絡がありました」を全家庭に伝え、安否確認をしてから公園のホワイトボードに記入してもらう。電話の一報が8時になり、すでに公園へ移動した人も多くて通じず次に向けた課題となった。
 公園ではまず防災会の会長として、この間2回のJアラート警報に私は触れた。早朝に防災無線で不気味に鳴り響き、政府の指示するように頭を低くした人もいるようだが、それだけでは不十分である。爆弾は爆発すると、破片の飛散と同時に強力な風圧が起こり、体内の血液が穴から噴き出る。それを防ぐため第二次世界大戦のときの訓練では、両手を使い親指で耳、人差し指と中指で目、薬指と小指で鼻を封じたことを紹介し動作をして見せた。さらには肛門の筋肉も閉めるとより効果的である。もっとも北海道を通過する飛行物体に対し、はるか離れた茨城県で警報を流すのは、別の意図があるのではとヘソの曲がった私は勘ぐってしまうが。
 次に日赤の訓練で教わった毛布のガウン風の紹介をした。縦にした毛布を背中に掛けて前で合わせ、足元までに丈を調整して紐で腰まわりを縛る。両肩から前に下ろした左右の端は、洗濯ばさみで止めると仕上がりである。
 他には、①  リヤカーで歩行困難者を自宅から公園へ搬送、②  防災器材の活用で、ブランコの鉄骨へビニールシートを張り、簡易テントの作成・発電機の使用・チェーンソーで角材の切断、  応急処置:三角巾を使い止血など怪我の応急処置をした。
 9時になると地元の消防署が消防車2台で来てくれての訓練で、  携帯電話で消防署への通報訓練、  全員による消火器の使用、③心臓マッサージと自動体外式除細動器)の利用を10時までした。
 最後にこの7月に泥棒が入った家庭の報告をしてもらった。夫婦で酒を飲んで戸締りを忘れて熟睡し、知らぬ間に財布から現金を奪われたケースである。お酒の好きな我が家でも他人事ではないので注意しなくて。
 これからも楽しく防災訓練をみんなと続け、いずれ来る大震災に備えたい。

2017-09-13

半年ぶりに「きらら女川」を訪ねて

 9月6日の朝のバスで陸前高田から気仙沼経由で女川に入った。途中で南三陸町を通過し、以前に何回か訪ねた志津川漁港やカキ処理場などを眺めた。津波で43人が亡くなった高さ12mの3階建て防災対策庁舎は、周りの盛り土が高くなり、瞬間的にしか見る事が出来なかった。私がカメラを向けていると、乗客の年配の男性は静かに合掌していた。
 半年ぶりの女川も、いたるところでまだ盛り土作業が続いていた。駅前にできた商業施設の一角に、障がい者も働いているレストラン「きらら女川」があり、そこで秋刀魚定食をいただいた後で、自転車を組み立てて高台にある作業所「きらら女川」へ向かった。
 作業所2階にある休憩所を宿泊で利用させてもらい、2泊3日で職員や利用者の聞き取りをさせてもらった。ここは障がい者の就労継続支援B型の作業所で、クッキーの他にパンやワカメなどの水産品を扱い、月給に相当する工賃は5万円を維持している。全国平均が1万数千円だから、かなり高い。オリジナル品の製造や、土日も営業するレストランの経営などが効果を上げている。
 利用者さんに聞いても、いろいろな種類の作業があるのでマンネリにならず、またレストランでは直接お客の美味しいという反応に触れることができるから、仕事が楽しいという。
 ある職員は、「きらら女川で働いている障がい者さんは幸せですよ」とのこと。以前に勤めた別の業種の職場では、障がい者へ職員の暴力が日常的に行われ、そのときの障がい者の怯えた顔が今でも忘れることができないそうだ。
 震災後に拠点を鳥取県に移して頑張っている理事長がちょうど女川に来ていたので、8日の昼食に駅前で全員参加のバーベキューがあり、そこにも同席させてもらった。年配の理事長は、若い利用者に自分の皿から肉を分けてあげていた。
 まだまだ課題はあるが、ここでも復興が着実に
進みつつあることを実感できた。
 
 

2017-09-12

3カ月ぶりの陸前高田

 9月5日の朝4時過ぎに眠い目をこすりながら家を出て常磐線に乗り、上野駅から新幹線で一ノ関へ行き、乗り換えて気仙沼経由で陸前高田へ入った。自費の取材のため経費を安くするため、今回はJRの東北フリーパス券を使い、通常では片道で1万5000円ほどするが、往復で同じ額だからそれは助かる。もっとも使えるのは年に数回で、それも4日間だけだから限定的ではあるが。
 津波が襲った陸前高田の市街地は、今も7mほどのかさ上げ工事が進み、すでに完成した中央部には大きなショッピングセンターや児童公園が完成し、また夏に図書館もオープンしている。そこのバス停で下車し、持参した折り畳み自転車を組み立てて目的地の「あすなろホーム」をめざした。
 12時からの誕生日会に参加させてもらった。職員さんたちからのサイダーや菓子の差し入れがあり、昼食を兼ねてバースディパーティーの歌などもあった。
 顔なじみの利用者さんも何人かいて挨拶もした。その一人の30歳半ばのマー君は、今回も次作の詩をいくつか見せてくれた。その1つである。
 「手をとりあって
 仲間が一人でも 氷のようにかたい
 ながれる 氷もあるんだって
 ぼくでも よければ
 手を とりあって行こうよ
 作業場近くまで ながれるように
 手の平の チカラをあたえもらい
 ぼくは ただ仲良くしたいだけだし
 仲間が一人でも ながれすぎて
 つらそうな時 みてみぬふりって
 ぼくは もうしたくないんだ
 だから そう手をとりあって
 心のいやせる しゅんかんを
 ぼくは 仲間といっしょに
 いたいだけなのだ」
 ダウン症の障がいが少しあるマー君は、原稿用紙に書くにも時間がかかったことだろう。日頃の作業所での一コマを、ていねいに描いていてホッとする素敵な詩だ。
 取材ではこうした人に会うことができるので楽しい。

2017-09-03

四街道市民ミュージカル「ドンマイ」を観て

 9月2日の午後1時から千葉県四街道市文化センターにおいて、千葉盲学校のフロアバレーチームをテーマにしたミュージカルがあり、約800人ほどの方たちと鑑賞させてもらった。一般に馴染みの薄いフロアバレーチームとは、視覚障がいのある人と健常者が一緒にプレイできるスポーツで、床上30cmに張ったネットの下を、動かすと音の出るボールを潜らせて得点を競う。
 4歳から81歳までの総勢100人の市民が、フロアバレーチームの当事者や多彩な応援者などになって2時間の舞台はテンポ良く展開していった。
 いくつも印象的な場面はあった。その1つが、小学生ほどの子ども約10人たちによるチアガールの踊り。音楽に合わせてリズミカルに踊る中で、頭の大きさは他と同じだが、足の長さが著しく短い子がいて、他の子と一緒に楽しく全身で飛びはねていた。
 演技を終えた後で会場外のロビーにいると、偶然にもその子がすぐ近くにいて母親らしき若い女性と話していたが、すぐに友だちの方に駆けていった。
 「お母さんですか」と聞くと、「はい」とのことで少し立ち話をさせてもらった。3歳のとき足の骨の発達に障がいがでる病気にかかり、今は小学校2年生だが背丈が低いこと、今回の出演は親や先生からでなく自らがチラシを持ってきて、「ぜひやりたい」とのことで実現したことなどを話してくれた。
 「お子さんの素敵な踊りで、私も元気をもらいましたよ」と伝えると、「ありがとうございます」と深々と頭を下げられて恐縮した。素敵な親子に出会えて嬉しかった。
 

2017-08-28

「生協と平和」を考える集いに参加

 「平和とよりよい生活のために」をテーマに、8月26日に東京都生協連の会議室で集いがあり、なぜか司会を頼まれたので参加した。呼びかけは、東京都生協連、東都生協、地域生活研究所で、報告者を含め74人が参加した。
日本は敗戦から72年目を迎え、集団的自衛権を可能とする安保法制関連法案が成立し、戦後責任から戦前責任になっているのではとの意見も出ている。
 「生協の歴史から戦争と平和を学ぶ」として日本生協連元常務理事の齋藤嘉璋さんは、戦前からの生協の歴史と平和の関連について、自著のブックレット『生協の歴史から戦争と平和を学ぶ』も使いつつ解説してくれた。ブックレットは400円と安いこともあるが、すでに7000部をこえているというから凄い。本人の戦争体験は時間切れで聞くことが出来ず残念だった。
 2人目は、「最後の戦争体験者 戦争を語る」としてパルシステム連合会元理事長の下山保さん。奥さんの東京大空襲体験や家族での満州からの逃避行にも触れ、戦争の非人間性を強調していた。今の生協に引き付け、貧困問題に取り組む意義を強調していた。
 5時の終了まで意見交換の時間は30分ほどしかなく、参加者から感想や各生協での取り組みを出してもらった。
 最後に司会者として私は、第二次世界大戦の反省から平和学が広がり、その中で戦争になる前に搾取や抑圧や人権無視の構造的暴力があり、平和な社会を築くためにはこちらにも注目することが大切であること。そのため生協も戦争や核兵器に反対すると同時に、地域や生協内や対委託会社などとの関係において構造的暴力がないのか検証し、もしあれば解消していく努力がいるし、私は独自の研究会で20年前の大阪いずみ生協問題を風化させず、今の生協や生協人の在り方につながる議論の場をこの11月に都内で開くことに触れさせてもらった。
 懇親会は近くの小料理屋の2階。30年ほど前に中野にあった大学生協連時代にはよく使っていた古い店で、懐かしかった。

2017-08-26

反原発取手駅前金曜日行動

 昨日8月25日の夕方、3年前から毎週開催している反原発取手駅前金曜日行動があり参加した。165回目となる今回は、27日投票の茨城県知事選の応援もあって、県外からも脱原発の支援者などが加わり、約40人が駅前に集まった。
 その1人が川俣町の町議である菅野清一さんであった。5分間であったが、帰還の進む被災地で自殺者の増えていることなどリアルな被災地の現実を熱く話してくれた。
 続いて私もマイクを握り、短い時間であったが以下の話をさせてもらった。
 ①昨年夏に避難解除となった南相馬市小高区で、やっと帰ってきた人の中で生活の見通しが立たずに孤立し、中には自殺する人が続き地元の住職が心を痛めている。
 ②飯舘村の2つある焼却炉の1つで、除染した放射性廃棄物を焼却した後の灰を建築資材に加工し、いずれ全国の公共施設で使う準備をしている。
 ③放射線被害は福島だけの問題でなく、空間線量が0.1μSv前後の取手市でも問題である。なぜなら年間の安全値である1mSvは、時間に換算すると約0.1μSvになるが、国際的には内部被曝と外部被爆の合計である。アメリカや日本の政府は内部被曝をまったく考慮していないため、外部被爆にあたる空間線量しか問題にしていないが、内部被曝も重視して、例えば半々で考える国では0.05μSvを基準にしている。
 ④そのため取手市内も手放しで安全とは言えず、雨や野焼きする煙などにはより高い放射能が含まれているので注意が必要である。
 ⑤27日の知事選には、危険な東海第二原発の再稼働を止めるため、反原発を当初から明確にしている新しい知事を選ぶことが大切である。
 皆で替え歌を歌ったりして約1時間で楽しい集いを終えた。


 集会の後、せっかくの機会なので取手駅前のホテルに宿泊する菅野さんを誘って近くの居酒屋へ入った。
 豊かな文化や自然の多い川俣町の現状や今後について、閉店近くまで話をじっくり聞かせてもらった。長く避難地域になっていた山木谷地区で、この秋に伝統芸能の踊りが上演されるという。都合がつけば見たいものである。















 

2017-08-20

「平和の集いin取手」で伊東達也さんに再会

 8月20日の10時から取手市内において「平和の集いin取手」があり、いわき市から伊東達也さんが来るとのことで自転車を走らせた。脱原発の運動では全国的に知られた伊東さんは、私が復興支援本の6冊目で2015年に、「協同の力でいのち輝けー医療生協◎復興支援@地域まるごと健康づくりー」を合同出版から出させてもらったとき、取材で何回かお世話になった。浜通り医療生協の当時は理事長で、生協祭りのとき汗をかきながら後片付けをもされていた。
 「福島原発事故から6年4カ月・現状と課題ー日本史上最大、最悪の放射能公害に苦しむ福島から」とのテーマで、1時間の話は迫力があった。 
 40年もの間、ずっと原発の危険性を訴えチェルノブイリにも3回訪ねたが、実際に福島第一原発の事故にあい、被害の深刻さにはじめて気づいた。それほど原発は危険な存在であり、茨城県民は東海第二原発に注意する必要がある。
 政府は避難者の数を5万人と最近報じているが、これは避難者の定義をかってに狭くし、カウントされていない避難指示区域外からの避難者や自殺・関連死などを含めると9万から10万人近い。
 他にも甲状腺がんや持ち込まれた分団と対立の問題と課題など、第一線にいる伊東さんでしか話せないことを熱く語ってくれた。
 会場では1杯100円のスイトンもあり、昼食でいただいた後、伊東さんと少し意見交換をさせてもらった。原発問題の深さを再認識することができた。
 下は熱弁をふるう伊東さん。

2017-08-13

孫2人と広島へ

 8月5日の早朝に家を出て取手駅で孫2人(中学1、小学5)と待ちあわせて、羽田空港から広島へと向かった。孫の2人には、広島の原爆について事前の勉強をしておくように話しておいたが、教科書以外はまるで興味がなくしていなかった。
 昼前に広島市内へ入り、駅前のホテルに荷物をあずけてグリーンアリーナの「ピースアクションinヒロシマ」へ。日本生協連と広島県生協連の主催で、例年より多く1400人が参加していた。市立沼田高校演劇部による「風の電車」は、原爆投下時に走っていた市電をテーマにした印象的な劇であった。
 フィナーレで100人による虹のひろば合唱団の「世界の命ひろしま」も、迫力があって素晴らしかった。
 会場では若い高校生や大学生の参加が目立ち、今後が期待できる。会場後方のホールでは、各地の生協の取り組みを紹介するコーナーがあり、そこを廻っていると何人かに声を掛けられ、「コープソリューション紙の連載を楽しく読んでいます」といった声もあって嬉しかった。
 6日は早朝にホテルを出て平和公園へ。8時から9時まで平和記念式典に参加し、その後で広島平和記念資料館へと入った。3年ぶりで館内は大きく変わり、まず大人は前回の無料が有料となり、入口で大混雑。さらに展示物がきれいになり、以前の焼けただれて逃げまとう人たちの蝋人形などはなく、まるでゲームセンターかのよう。これで原爆の悲劇が伝わるのかと心配になった。それでも海外からの参加者が多く、それだけ反核の運動が広がっていることがわかり嬉しかった。
 猛暑の中で公園を散策していると、孫たちはすっかり疲れてしまい、午後の予定は中止してホテルで一休みすることにして戻った。
 7日は呉に足をのばし、映画「この世界の片隅に」の舞台の散策や、戦艦大和ミュージアムの訪問を予定していたが、台風5号が九州から中国・四国方面に移動中で予定を変更した。6日の午後で7日の飛行機は全て欠航の表示となっていたので飛行機をキャンセルし、7日の朝一番の新幹線で東京へ戻る手配をし、7日は6時前にホテルを出て乗車した。神戸や大阪あたりで暴風雨にあったが、無事に新幹線は走ってくれ、午後には取手に戻ることが出来た。
孫たちにどの程度の社会勉強となったかは分からないが、いつか広島訪問を思い出すことがあるのではないだろうか。
 

2017-07-25

障がい者作業所の連携した南相馬ファクトリー

 7月19日からまた南相馬市を訪ね、今回は主に南相馬ファクトリー関連の人に会って話を聞かせてもらった。2011年の夏に6つの作業所が連携して稼働しはじめ、まず取り組んだのがオリジナルのカンバッジである。どこの作業所も原発事故の影響で仕事がなくなり困っていたので、障がいを持った利用者さんたちは喜んで作業にあたった。
 無地のバッジの台へ円形にくり抜いた図柄に、同じサイズの透明なラミネートを乗せ、大きなホッチキスのような器具にセットして力を加えると、素敵なカンバッジが完成する。
 全国からの注文の受注や発送作業もある。さらにはデザインの調整なども必要で、当初はある作業所の一隅で通常の仕事をしつつ対応していたが、それでは処理できなくなって2014年にNPO法人となり、専門の職員を配置し独自の部屋を市内に借りて今にいたっている。その職員は、最盛期には5人もいたが、今は2人でこなしている。
 JDFやきょうされんなどの協力もあり、全国からの支援がずっと続き、すでに純益だけで3000万円をこえているというから凄い。図柄も次々と新しくなり、これまでにファクト側で出したのは600種類をこえ、さらに依頼先からのデザインは1000種類にもなるそうだから連帯の力に驚く。
 もっとも最近はバッジの数は減ったが、バッジに同封していたヒマワリの種を各地で栽培し、そこから採った種をファクトリーへ送ってくれるなどの交流をしている団体もいくつかある。
 またバッジに替わり、柄に色付の糸を巻いたボールペンが出て、文字も入れることができ好評とのこと。
 震災直後の支援の時期から、長期に購入が継続する通常商品への転換が求められている。下の写真は、今後強めようとしているオーガニックコットンのバッグやTシャツなど。ぜひ継続してほしい。

2017-07-18

「戦争と平和を考える資料展」と映画「母」を見て 高知に帰省し2

 高知市内の自由民権会館で高知「戦争と平和を考える資料展」がありのぞいてみた。民間の平和資料館である「草の家」が集めた戦争中の貴重な資料などを展示してあり、どれも見応えがある。会場の一隅では映像コーナーがあり、以前に開催した中国のスタディーツアーを放映していた。日本軍に危害を加えられた中国の人たちが、今でも傷痕の残る背中などを見せつつ当時の証言していて言葉もなかった。
 会場では、「高知の戦争ー証言と調査ー」の冊子を販売していて「高知における朝鮮人労働」など5冊を購入させてもらった。まだまだ記録として残さなくてはならない戦争関連の事実はいくつもあり、「草の家」の取り組みがさらに広がってほしいものだ。
 ところで戦争展などを見るといつも思うのは、戦争を72年前の過去の話だけにとどめるのでなく、今にどう引き付けるかもあわせて大切で、特に若い人や子どもに継承させるためには必要である。その点で平和学で強調している構造的暴力(Stracutual Violence)の視点はヒントになる。平和でないとは武力の衝突する戦争だけでなく、もっと広くとらえて経済格差、抑圧、基本的人権なども対象としている。つまり今の日本でも、広い意味で戦争につながる構造的暴力がいくつもあり、過去の話でなく今の問題としてみることが効果的である。
 自由民権会館では、後日に映画「母」を上映するとのチラシがあり、高知での最後の日であったのでこちらも鑑賞させてもらった。時の権力に虐殺されたプロレタリア作家小林多喜二の母の物語で、映画の完成したことは知っていたがまだ見てなかったので興味を持って足を運んだ。母親の目線で多喜二の生い立ちをていねいに描き、あらためて理不尽な時代でも正面から立ち向かって生きるとはこのようなことかと知ることができた。

 会場のチケット売り場には、「草の家」の西森さんがいて立ち話を少しした。家を立ち上げた故西森茂夫さんの奥さんで、平和関連だけでなく演劇などにも取り組んでいる元気な女性で、爽やかな笑顔が印象的であった。

2017-07-17

枯葉剤を日本各地の山林に埋設  高知に帰省し1

 7月12日から年に1回の墓参りで、今回は一人で故郷の高知へ帰った。今年の春前に老人施設へ入った95歳になる母や、私が子どものころよく世話になった親類を訪問などした。

 インターネットで第24回『週刊金曜日』ルポルタージュ大賞入選作「枯葉剤がカワウソを殺した」のブログを見て知ったジャーナリストの成川順さんを、いの町の自宅に訪ねた。1949年生まれの同じ齢である。
 ベトナム戦争で大量生産した枯葉剤の不良在庫を抱えたアメリカは、処分に困まり何と日本政府へ押し付け、我が国の国有林に除草剤として散布し、それでも処理しきれなかった大量を山に埋設しているから驚いた。
 仕組みはこうだ。枯葉剤は、強力な除草剤である24Dと245Tを1:1の比率で簡単に混ぜて完成させる。このため24Dと245Tのそれぞれは、除草剤として「合法的」に製造しかつては利用できた。
 それも北海道、青森県、岩手県、福島県、群馬県、山梨県、愛知県、岐阜県、広島県、愛媛県、高知県、佐賀県、長崎県、熊本県、大分県、宮崎県、鹿児島県と全国に広がり、高知県内では、西土佐村、窪川町、本川村、北川村、大豊町、安芸市、土佐清水市、津野町、宿毛市と多く、私の故郷を流れる仁淀川の上流にも埋設してあるから、仁淀川の魚の減少にも影響をきっと与えているだろう。
 かつてベトナムを訪問したときホーチミン市の戦争記念館で、ホルマリン液に浸かったおびただしい奇形児を観た。同行した妻は入口で顔色を変えて一歩も入らず、私だけが恐る恐るやっとのことで見て廻った。どれもこれが人間の胎児かとビックリする形で、私の膝はガクガクしていた。
 そんな猛毒を、日本の豊かな山林に今も置いてある。コンクリートの容器で保管している場所もあるが、中には一斗缶ですでに腐敗して薬剤が流出しているものもある。
 他にも高知白バイ事件の話を聞いた。停まっているスクールバスに白バイが衝突し、警察官が死亡した事件で、警察は証拠をねつ造してバスの運転手を有罪にしたとのこと。
 私は、福島県飯館村の焼却炉で、放射能の除染した大量のゴミを燃やし、それから出た灰を建築資材に加工して全国の公共施設で使用する準備をしている話をすると、成川さんは初めて知ったと驚いていた。
 成川さんのブログ「平成・土佐日記」はhttp://blog.livedoor.jp/narijun1-ryou/
 貴重な写真などがたくさん掲載されている。ぜひ一人でも多くの方に読んでほしい。
 ジャーナリストが追究すべき権力の闇は、今もいくつもある。

2017-07-05

種子法廃止はとんでもない暴挙

 7月3日の午後、「日本の種子(たね)を守る会設立総会」が、参議院議員会館で開催され参加した。全国各地から約350人が参加し、熱気に包まれていた。
 この春にマスコミにもほとんど流れることなく、20184月に廃止が決まった主要農作物種子法(種子法)は、日本の農と食の根幹となる米、大豆、麦など主要農作物の種子を安定的に生産供給する国の責任を1952年に定め、都道府県を通じて種子の生産と供給、原種・原原種の生産、地域に合った特性の種子の開発に貢献してきた。美味しい米を食べることのできる基礎が、この法律で守られてきたのである。
 それをなんと安倍政権は、民間企業の種子市場参入の妨げになるとの理由で突然廃止した。すでに民間も参入して種子の開発をしているから、種子法をなくす必要性はまったくない。種子価格の高騰や、各地域に合った特性ある様々な種子が減少し、さらにはモンサントなど世界の種子市場を独占する多国籍企業の導入をより許すことになる。このため、食料自給率のさらなる低下や、国民の健康や命に直結する食料主権が脅かされる可能性もある。
 これだけ重要な法案が、多くの国民の知らない間に可決しているから驚くし、農家の出身でもある私は怒りもわいてくる。日本の農の否定でもある。
 そこで各地のJAと地域生協が協力し、今日の総会設立となった。呼び掛けた発起人には、パルシステム連合会、生活クラブ連合会、グリーンコープ共同体、あいコープみやぎもあった。
 龍谷大学の西川芳昭教授から、『種子の多様性を守る——人間と植物の共生の視点から』の記念講演があり、「種子が消えれば食べ物も消える。そして君も」との言葉を紹介していた。
 設立総会では茨城県JA水戸の八木岡努組合長が会長になり、2人の副会長の1人に生活クラブ連合会加藤好一会長が就任した。
 また食料生産の基本は、土地・水・種であり、食料生産の仕組みを崩壊させる事は地域を崩壊する」として、わざわざ種子島から飛んできたパルシステム連合会前理事長の山本伸司さんが幹事長となった。
 生協総研の頃に何回か会った懐かしい顔ぶれで、あらためて2人と名刺交換をさせてもらい、コープソリューション紙でこの運動を紹介して応援することを伝えた。全国の生協に、実態をまず知ってもらい種子を守る運動にぜひ参画してもらいたいものだ。

 

2017-07-04

哲学者内山節さんの寺子屋に参加

 『自然・労働・協同社会の理論』(内山節 農文協 1989年)を読んで鋭い文明批判に興味を持ち、インターネットで検索していると月に1回のペースで寺子屋を開催していることを知り、7月1日の夕方から会場の亀有駅近くにある延命寺を訪ねた。
 本堂の下にある会場を訪ねると、以前にストリート・チルドレンのスタディー・ツアーでフィリピンを一緒に訪ねた植田さんがいて互いに驚いた。
 20人ほどが集まり、5時から参加者の1人が「亀と暮らしながら考えたこと」を報告し、その後で内山さんから選択本願念仏集について興味深い話があった。法然の名前は聞いたことがあっても、その思想や念仏集にまでは触れたことがなく、浄土宗の考えのポイントや、関連して民衆仏教としての変遷なども聞かせてもらい、日本の仏教の流れを少し理解することができた。話の後で自由討論の時間があったので、私は初めての参加で勉強させてもらったことを感謝しつつ、スリランカやネパールで原始仏教に少し触れて、そもそも釈迦は絶対的な神の存在を否定していたし、僧が現金をもらわないなど日本の仏教と根底から異なる仏教が存在することや、日本の民衆信仰では正当な仏教の流れだけでなく、例えば七福神に代表されるいくつもの宗教を網羅した動きも見る必要があるのではと報告させてもらった。
 8時からは横の広間において、各自が持ち寄った品々をつまみながら立食での懇親であった。私は手軽に豆の菓子と冷凍の枝豆を持参したが、手作りの豆腐や料理がいくつもあるし、さらにはビール・ワイン・日本酒もたくさん並び、これで参加費が500円とは驚きである。それも日本酒は純米や吟醸で、嬉しくなって何杯もいただいた。
 内山さんとも少し懇談することができたので、独自の哲学を創り上げるプロセスについて訊ねたりしたが、「特にない」とのこと。立ち話で簡単に説明できることではない。こだわる宗教を聞くと、「近いのは修験道かな」とのこと。山に入って修行し悟りを得る日本古来の山岳信仰と、仏教が組み合わさった日本独特の宗教である。そこまで考えを巡らしているとはさすがである。
 たくさんの著書の中から関心のある中古本8冊を注文してあるので、それらを読んでからまた内山さんと懇談し、いつの日か3・11からの復興哲学と生協哲学のヒントをどうにかして得たいものである。

2017-06-30

遠野のガラス絵館を訪問

 陸前高田で取材中に、友人から遠野で暮らすガラス絵作家の児玉房子さんの死去の知らせを受けて驚いた。現代ルポルタージュ研究会に何回か参加してもらい、ガラス絵の勉強で世界の各地をまわっていることや、軍隊をなくしたコスタリカのことなども聞かせてもらった。またルポ研の発行する冊子の表紙にもガラス絵を使わしてもらったし、ヨーロッパの農婦たちを描いた小さな作品を1点購入させてもらい書斎に私は飾ってある。
 25日の夜に仙台へ入らなくてはならず、陸前高田から花巻に出て宮沢賢治記念館を訪ねる予定だったが、急きょ遠野へ行くことにした。
 遠野の駅前にある観光案内センターで天ケ森ガラス絵館のチラシをもらい、掲載している地図をたよりに持参した折り畳み自転車を組み立てて向かった。
 到着まで約1時間ほどかかった。途中から急な坂道で自転車を押して登り、木立の中に立派な木造の館があて驚いた。30坪の部屋に宮沢賢治やコスタリカなど150点ほど展示してあり、他に観客もいなくてゆっくり鑑賞することができた。児玉さんらしい鮮やかな色使いで、どれも心が和む。入場料が無料で、なおかつ親切な係りの年配の女性が香りの高いコーヒーを入れてくれた。
 児玉さんのお兄さんも館にいたので、房子さんとの関係を話してお願いし、館の裏にある母屋の仏壇でお線香をあげ読経をさせてもらった。大きな杉の木に両手を回し、笑っている房子さんの写真が飾ってあった。
 何回も入退院を繰り返し、今回も房子さんは退院して戻ってくるつもりでいたようだが、急変してそれがかなわぬこととなった。享年77歳で、102歳の母親を残してのことである。さぞかし心残りであっただろう。房子さんの人間や平和にこめた温かい願いが、ほのぼのと伝わってくる素敵なガラス絵館である。訪問するのに少し疲れはするが、ぜひ一人でも多くの方に訪ねてもらい児玉房子さんの心に触れてほしい。

2017-06-29

被災地で野の花を活ける

 24日の夕方から、あすなろホームの前の理事長である高井文子さん宅を訪ねた。高齢で病気にもなり理事長は交替されたが、理事として今もあすなろホームやグループホームSUNを応援している。
 その1つが、SUNの利用者さんたちに教えている活け花で、その方法がユニークである。利用者の7人と一緒に近くを散歩し、途中の道端でそれぞれが気に入った野草の花や小枝などをつんで持ち帰る。それを使って活けるのだが、花器も市販の花瓶でなく、日常に使用するどんぶりなどの食器やペットボトルなどを切って加工した器で、中に剣山を置いて花や枝を立てる。それも活け花の流派が大切にしている形でなく、この花が人間であればどのように飾ると一番嫌味もなく美しく見てもらえるかと考えながらしている。花と葉や小枝の関連を人間のコミュニケーションに置き換え、利用者さんの一人ひとりの判断を重要視しているからおもしろい。
 利用者さんにしてみれば、高井さんから言われたとおりに花を活けるのでなく、自らの友人関係に引き付けて自由に考えて草花をセットできるので、きっと楽しいことだろう。それぞれが活けた花は、各自の部屋に持って帰って飾っているし、ときには地域の方たちをSUNに招き、みんなで活けた野の花を楽しんでもらう場も作っている。そうした場で地域の方たちが喜んでくれれば、障がいをもった利用者さんには自信につながり、より情熱を持って活け花を暮らしの中に取り込んでいくことだろう。
 福祉文化という言葉があり、専門の本や学会もできている。高井さんが進めているように障がい者の方の自由な発想で花を活け、それを日々の暮らしの中で愛でて人生を楽しむことが、福祉文化にもきっとつながっていくことだろう。ところで福祉は障がい者や高齢者だけを対象にしてなく、元々は幸せを意味するので、私も含め全ての人にとって大切なことである。野の草花を私ももっと愛でてみたい。
 写真は野の草花が生い茂る陸前高田の広い被災地。

2017-06-28

陸前高田 作業所あすなろホーム祭り

 6月24日にあすなろホーム祭りがあり、前日の朝6時に取手を出てJRを使って陸前高田市へと、また折り畳み自転車を持って入った。梅雨の時期で天候を心配していたが、23,24と晴天で腕などは赤く日焼けしたほどである。
 23日の昼にあすなろホームへ着くと、会場となる駐車場ではテント張りなどの準備をしていたので手伝った。利用者さんや職員たちは、ダンスや演奏など最後の仕上げを繰り返していた。
 24日は8時前に民宿からホームへ行き、10時の祭り開始までの準備を手伝った。6張りのテントを立ち上げ、各足に重い砂袋を括り付けたりなどした。会場の周囲には、本や衣料などのバザー、ドーナツやケーキなどあすなろの商品、かき氷、冷たいドリンク、焼きそばなどのコーナーが並んでいた。
 10時には150人ほどが集まり、2人の利用者さんの司会で開会の言葉があり、理事長や利用者の自治組織青空会会長からのあいさつもあった。陸前高田のマスコットである「ゆめちゃん」も来場し、可愛い高田保育園の園児15人と踊りを披露してくれた。地域と作業所がよく連携していることがわかった。
 次から利用者さんたちの発表である。15人ほどのダンスグループ「カラフルポンチ」は、下の写真のように両手に黄色のぼんぼんを付けて軽やかに踊った。10人ほどのパフォーマンスグループ「みんなが英雄」も元気に体を動かしていた。10人ほどの手話グループはまなすによる「花は咲く」や「サザエさん」があり、正面に座っていた私は手話もまねながら一緒に歌った。
 15人ほどのバンドグループ「けせんオールスターズ」は、エレキや金管などを使い、懐かしい「夢の中へ」などを演じ歌ってくれた。
 途中でボランティア10人の紹介があり、私も簡単に自己紹介させてもらった。
 餅まきでは、紅白のたくさんのお餅が青空に高く舞った。写真をずっと撮っていた私は、1個も手にすることができず。20人ほどが輪になったドラムサークルでは1員に加えてもらい、利用者さんたちと音をしばし楽しんだ。
 最後の出し物は、チャオチャオ陸前高田と高田音頭で、車椅子の利用者さんも楽しく両手を上げていた。
 心配した熱中症でダウンする人もなく、2時には予定したプログラムを全て終えた。
 障がいをもった利用者さん、職員、保護者、地域の方たちが協力し、楽しいお祭りであった。

2017-06-22

子ども被災者支援法制定から5年

20日の午後に、参議院会館講堂において、2012年にできたこの議員立法の法律の今を問う国際環境NGO「FoE Japan」の主催集会があり参加した。被災した子どもに寄り添って検査や保養などをうたっている画期的な内容だが、避難者からは「塩漬け、棚ざらし、骨抜きの5年間」との指摘もあるほど期待した効果が出ていない。

 なぜ骨抜きになったのか話題になり、川田龍平議員から①議員立法であり、政府が提案した法律でないため責任をもって政府は取り組んでいない、②政権交代の2点との説明があった。おかしな話である。できた経過は別にして、施行した法律に沿った実施が政府に求められているのに、それをサボタージュしている。
 避難者の現状について、「避難の協同センター事務局長」のパルコープ連合会の瀬戸さんから絶壁に追い詰められている事例報告があった。特に経済的にもきつい母子家庭は深刻で、手持ちが3万円しかなく、住宅保障もなくなって路頭に迷っている深刻な話などもあった。被災者支援が貧困対策にもなっている。
 被災者に寄り添っている数少ない医師の1人である崎山さんからは、すでに191人と罹患統計より数十倍の高さで福島県民調査で甲状腺癌の子どもが発生しているのに、県民調査委員会ではまだ「放射線の影響とは考えにくい」としていると強く批判していた。
 残念ながらこれが現状である。それでも諦めずにできるところから被災者のプラスになるようにしていきたい。まだ0.15μSv/hもある取手市で暮らす私の可愛い4人の孫のためにも。
 

2017-06-08

映画「スノーデン」を観て

 凄い映画であると同時に、私を含めて世界中のメールや携帯電話を盗聴する仕組みができている事実に底知れない恐ろしさや怒りを感じた。
 オリヴァー・ストーン監督が、アメリカ政府による国際的な個人情報監視の事実を暴いた「スノーデン事件」に迫るドキュメント風映画である。CIAおよびNSA(アメリカ国家安全保障局)職員だった愛国青年のエドワード・スノーデンが、恋人との幸せな人生を捨ててまで、2013年6月にアメリカ政府がひそかに作り上げた国際的な監視プログラムの存在を内部告発する前後の9年をていねいに描いている。
 1つの場面に日本が登場する。スノーデンはNSA在職中の2009年に在日米軍の横田基地で勤務し、日本の通信網を支配し、送電網やダム、交通機関などインフラ施設をコントロールする「スリーパー・プログラム」を仕掛けていたと告白する。日本列島の南から順に街全体の灯が消えて真っ暗になり、「日本が同盟国でなくなる日が来たら、"消灯"」というスノーデンのセリフがあった。原発もけっして例外ではないだろう。
 来日時のインタビューで監督は日本を「同盟国でなく人質を取られた国」と話している。 
 映画のラストでロシアに亡命したスノーデンが、ネット中継で公の場に姿を現す。国際的な盗聴という違法行為を平然とアメリカは行い、しかもそれに世界的に有名なIT企業が協力している現実にスノーデンは義憤を感じたと述べた。
 恐ろしい映画だが今の社会の現実を理解するためには、ぜひ観るべき映画だろう。 
 ちなみにスノーデンが、6月2日付けの東京新聞において、「共謀罪 監視が日常に」と警鐘し、NSAで使っていた大規模監視システムは、すでに日本へ2013年に供与した文書を公開している。もちろん安倍政権は認めてないが、私はスノーデンを信じる。
 
 

2017-06-07

パワーシフトのすすめ

 6月3日に埼玉で、地球規模での環境問題に取り組む国際環境NGO であるFoE Japanが主催し、シンポジウム「電力自由化から1年~動き出す地域・市民・ビジネス」があり参加した。電力小売全面自由化から1年たつが、自然エネルギーの供給をめざす電力会社への切り替えはまだこれからで、持続可能なエネルギー社会に向け、電力(パワー)のあり方を変えていくパワーシフト・キャンペーンを進めている。太陽・風力・水力・地熱・バイオマスなどの再生可能な自然エネルギーは、化石燃料や原子力などに依存するエネルギーと異なり環境への負荷が大きく低減する。
このため電力自由化やエネルギーをめぐる最新情報を共有し、パワーシフトに取り組む以下の3団体からの報告を受けた。
    自由の森学園:学園の理念に沿って再生可能エネルギーを重視する電力会社を選択
    こだいらソーラー:出資型の市民共同発電所、東京で第一号
    ラッシュジャパン:倫理観をビジネスの原動力に
なおFoE Japan は、世界74ヵ国に200万人のサポーターを有するFriends of the Earth International のメンバー団体として、日本で1980年から活動をしている。
我が国の債務残高はGDP比で2016年になんと232%にもなり、経済危機が心配なイタリアやギリシャよりもはるかに高い。国策で進めた原発で世界史上最大の事故が発生したのに、政府の誰も原因究明や責任をとらずに再稼働や輸出を推進している。こうした中では協同組合の互助の精神で、自分たちにできることはたちで実践していくしかない。すでに全国では9の地域生協が電力事業をスタートさせ、他にも検討している生協がいくつもある。


私は、我が家と子どもの家を含め3カ所にソーラをすでに設置している。加入している生協が電力事業を開始すれば、すぐに切り替えたい。

2017-06-04

陸前高田の作業所を訪ねて

 5月29日早朝から折り畳み自転車を持って新幹線で北に向かい、一ノ関・気仙沼経由で6月2日まで陸前高田市へ入った。
 2か月ぶりだが市内のかさ上げ地にはショッピングセンターもでき、目まぐるしく街の様子が変化している。
 今回は作業所あすなろホームにおいて、障がいを持った利用者さんたちと一緒の作業をいくつもさせてもらい、休憩時間などに懇親して障がい者の目線で作業所の運営を理解することが主目的であった。生わかめでは、茎をとり剣山を使って細かく裂いたり、つまみになるような一定のサイズに揃えたりした。レタスなどの新鮮な野菜3種類をカットして混ぜ合わせ、市販のカット野菜としての袋詰めもある。高度な技術を要するのは、ドーナツやケーキ作りである。多様な種類があり、かつその日の室温や湿度などでも発酵時間や加熱温度などを微妙に変えなくてはならず、こちらは側に立ってながめるだけであった。
 障がいに応じて椅子での作業など、1人ひとりに対応している。また同じ人でもその日の体調は朝になってみなくては分からないこともあり、顔を見て何をしてもらうかを職員は最終判断している。
 中にはそうした作業の
できない重度の方もいるが、椅子に座って販売用のビニール袋に、マジックインキで絵や「ありがとうございます」などと描いていた。
 一般におこなわれている作業に人を合わせるのでなく、逆に人に作業を合わせているので、それは和やかな雰囲気がどこも漂っていた。
 後半の2日間はあいにくの雨となり、自転車での移動はトラックの水しぶきを受けるなど大変だったが、今回も有意義な体験をさせてもらい、また貴重な取材もできた。
 
 

2017-05-23

南相馬の作業所訪問

 5月17日から20日まで、この2月に続いて2回目の南相馬入りをしいくつかの作業所を訪ねた。今回は障がい者と一緒に作業をさせてもらい、同じ目線で作業を理解することが主な目的であった。
 鹿島区を中心にしているNPOあさがおでは、就労継続支援B型の「きぼうのあさがお」を中心にし、この秋には7軒目となるグループホームや、急に運営の決まった農業体験交流館の完成と事業が広がっている。自らも障がいがある西理事長は、障がい者の自立を大切にし、一人で暮らすことと仕事の両方ができることを重視している。
 ここでは豆腐や豆乳に使っている有機農法の青ばた豆の選別や、基盤に部品を組み立てる作業をさせてもらった。
 原町区と小高区を中心にしているNPO「ほっと悠」では、村田理事長も参加して朝の体操を全員でしてから作業が開始する。ここでは資源回収や車の電子回路に使うリード線の伸ばしもあれば、近くの「ほっと悠Ms」では弁当を作って配達もしている。さらに昨年夏に規制が解除となった小高区における区役所のホールや、この4月には地域のたまり場としてのCafeを運営している。作業場を少しでも広げて、障がい者の受け取る工賃を高くするように工夫している。
 いくつもの作業をさせてもらい、親しくなった障がい者と会話や昼食を楽しむことができた。たとえいろいろな障がいがあっても、作業や方法を工夫すれば働くことのできる人はたくさんいる。

2017-05-13

ネパール・スタディツアーの報告会

 3月に7名で実施したネパール・スタディツアーの報告会を、12日に都内で開き里親たち14人が参加した。
 乾杯して喉をうるおした後で、ツアー参加者のそれぞれから5分ほど報告した。私はパワーポイントの映像を使い、新たにスタートさせたカースト制度最下層のダリットの子ども向け支援スリジャナ・サムハを紹介した。
 6歳の男の子で足の骨に癌ができて手術したアルビン・ダージ君は、今は普通に歩いているが、手術した足の骨は成長しないのでやがて歩行障がいが出るとのことであった。両親と弟の4人家族。
 5歳の男の子のサンギャ・ラマ君は、両親を含めた家族4人で、外光のほとんど入らない1つの部屋で暮らしていた。
 4歳の女の子のサビナ・バンダリちゃんは、母と2人で暮らしている。悪臭のするドブ川と学校の塀の隙間に土のう袋を積み上げた細長い場所に、バラック小屋が並び、その1つで暮らしていた。目のくりくりした可愛い子である。
 私にとっては孫がまた増えたような感じであった。預けてある75万円は、定期貯金で利子が12%が付くので、もう少し支援する子どもの数を増やすことができると期待している。
 ネパール子ども基金として支援しているネパールの市民団体HEENEP(ヒーネップ)の決算書の報告もさせてもらった。前年度は日本の里親が減って60万円ほど足りなくなっているが、これまでの内部留保で120万円ほどの固定資産があり補てんしている。
 会場ではカトマンズにいるウッタムさんたちとスマホを使って、互いに映像を見ながらしばし会話することができた。便利になったものである。
 またメンバーの一人である原田さんが、「ネパール子ども基金・里親の会」のホームページを立ち上げてくれた。これまでの取り組みや写真などもたくさん入っている。情報交換などで役立つことだろう。
  http://ncf.yuukoharada.com/
 写真は完成した今回のツアー報告書23頁の表紙で、下部のスケッチは私が描いたものを編者が余白埋めに入れてくれた。


 

2017-05-12

鳥取県の作業所のゆめ工房を訪ねて

 5月8日から11日にかけて、鳥取県は米子市の南に位置する伯耆(ほうき)町を訪ねた。2011年3月の東日本大震災で壊滅的な被害を受けた女川町で、永年パンやカリントウの製造をしていた阿部雄悦さん(76歳)に会うためである。女川で再建したかったが物理的にそれができなかった阿部さんは、縁があって震災直後に鳥取のここへ移り、再び障がい者と一緒になってパンやカリントウを作りはじめた。震災前から女川で販売するだけでなく、全国各地で障がい者が働く作業所など40カ所へ生地や商品を卸しており、1日も早く再建することが求められていたからである。
 大山のふもとの2か所で、元JAの施設などを改造し、カリントウやパンの製造の他に、サンマやワカメなどの加工場や、さらには地域の方たちにも自社商品を美味しく食べてもらうため小さな居酒屋「おらほや」も併設して運営している。
 阿部さんが開発した食品保存の酵素「夢21」を使い、カリントウやパンは冷凍生地から障がい者でも美味しく作ることができ、処理した水産物は数年でも保存させてから刺身で食べることができる。これまでに140種類ものカリントウを作り、材料には女川のサンマやワカメもあれば、鳥取の長いもやどじょうやしじみもある。
 阿部さんの凄いのは、そうした商品の開発と同時に、障がい者が働く作業所を2か所も作り、ゆめ工房21は労働契約をむすばない障害者就労継続支援B型事業所でカリントウを作り、ゆめ工房は労働契約をむすび最賃法を守る障害者就労継続支援A型事業所ではパン作りや水産物の加工をしている。このためBからAに移るなど障がい者の意欲と能力に応じて自立を促し、月給10万円以上を受け取るようになったある若い女性は、一人でアパート暮らしをし、また通勤用に車を買ったと嬉しそうに話していた。
 「震災後にここに来て、家族が増えましたよ」
 楽しそうに話す阿部さんの笑顔が印象的だった。
 パン屋の丁稚奉公から自らを鍛え上げた阿部さんは、障がい者福祉や社会福祉などの理屈から
でなく、目の前に困っている人がいれば素直に自分にできる手を差し伸べて支えてきた。そのことによって金では味わうことのできない人間的な豊かさに触れてきたことを喜んでいる。
 

2017-04-24

農福連携の場を訪ね

 4月22日に所属する日本科学者会議食糧問題研究委員会の研究会として、埼玉県熊谷市における農業と障がい者福祉の連携の場を訪ねた。
 1つ目は1987年にスタートした地域福祉活動グループ「おにの家」で、田舎のカフェおにっこハウスと2つのグループホームを運営している。訪問したおにっこハウスの傍に加工場を建て、契約農家で生産した大豆や米などを使い、独自の味噌を作って販売している。野菜や食品などの販売コーナーも兼ねたカフェは、三角の高い屋根の建物で解放感があり、落ち着いて食事や会話を楽しむことができる。「ハンディのある人もない人も共に働くお店」をキャッチフレーズにした店で、誰もが楽しそうに働いていた。ここでの障がい者が受け取る1カ月の工賃は4万3000円とのことで、全国平均の約3倍と高い。さらにグループホームの経費が月5万円と安く、障がい者年金と工賃で自活でき配慮がいきとどいていて感心した。飼っている1800羽の鶏は、過剰なストレスを与えない平飼い、安全な自家飼料、野菜などの緑餌で育て、毎日1000個の卵はけっして安くないがいつも完売している。
 850円のランチは、手作りの料理と古代米の御飯で美味しくいただいた。
 2つ目の施設は、同じ市内で利根川近くにある埼玉福興(株)。20人の障がい者が2kmほど離れた寮で共同生活をして徒歩で通い、玉ねぎなどの畑仕事の他に、ビニールハウス内で各種野菜の高床式水耕栽培をしている。ここの工賃は、全国平均に近い1万円ほどであった。
 農業人口が減少する中でこうした農福連携は、単純作業であれば可能な障がい者の力を発揮してもらう場として、近年各地で広がりつつある。我が国では全人口にしめる障がい者は6%をこえているのに、会社などでの法定就業率は2%で、それすら守っていないところもある。障がい者が人間らしく働く場として、これからも農業は大切である。
 と同時に現場では、時として効率追求の農業と障がい者を大切にする福祉の考えが対立することがあり、バランスをどうとるか課題になっているとの声もあった。
 ともあれ若い農業人口が激減している日本では、これからますます高齢者と障がい者の関わりが大切になっていくだろう。

2017-04-20

誰もが取り残されない復興とまちづくり

 4月18日(火)の12時30分~16時30分で、国会議事堂前にある衆議院第二議員会館において、日本障害フォーラム(JDF)主催の「~熊本地震1年 東日本大震災6年~
誰もが取り残されない復興とまちづくりに向けて」があり参加した。被災地の実情と課題、ならびに関係者の取り組みについての報告とともに、今後の復興と将来予想される新たな災害を見据えながら、誰もが取り残されない防災とまちづくりについて話し合うことが目的であった。会場には車椅子の方など約150人が集まり、熱心に聞いていた                                     来賓で来ていた国会議員の川田龍平さんは、障がい者だけの問題でなく高齢者などにも関わる重要なテーマであると強調し同感であった。                東北からの報告では、岩手県より視覚障害者の代表、宮城県よりてんかん協会の方、福島県より障がい者施設の職員がそれぞれ報告した。                基調報告は、「インクルーシブな災害支援とその後に向けて(熊本の現場から)」のテーマで熊本障害フォーラム/被災地障害者センターくまもと事務局長の東俊裕さんから、熱い話があった。包含的を意味するインクルーシブとは、障がい者も健常者と分け隔てなく暮らす共生が目的である。自らも車椅子で長年暮らしながら積極的に社会運動にも関わっている東さんは、段差のある仮設住宅では障がい者が生活できなく、それは東日本大震災のときと同じで、過去に学ばない行政を鋭く批判していた。      休憩の後で日本障害フォーラム副代表藤井克徳さんがコーディネートしたパネルディスカッションがあり、4人のパネラーがさらに障がい者と震災について深めた。    障がい者を含めた社会的弱者の目線で見ると、震災や復興における問題の本質がよく分かる。

2017-04-18

安倍政権と憲法をめぐる情勢~野党+市民の力と今後の展望~

 表記についての講演会が4月15日に都内であり参加した。報告者は東京慈恵医大の小澤隆一教授で、主催団体は生協だれでも9条ネットワーク・生協九条の会埼玉・コープネットグループ労働組合九条の会であった。参加した41名の中には、顔なじみの人も多かった。
 毎月19日に都内で行動している生協だれでも9条ネットワークからは、斎藤さんから憲法に関連し共謀罪と教育勅語についての報告があった。170人が参加している生協九条の会埼玉の石川さんからは、安倍政権で頭にきているとの話があった。
 話題提供としてマイクを握った山本さんは、理不尽な政治の動きの中でも、辺野古でのスローガンでもある「勝つためにはあきらめない事」が大切であると訴えていた。
 さて小澤さんの憲法関連の話である。憲法問題を考えることは、政治情勢を読み解くカギであるとし、その1つで戦争法案とも揶揄された安保法制を取り上げていた。自公が強行採決した安保法制には、①集団的自衛権における限定容認が限定にならない、②後方支援は武力行使になる、③外国軍の武器等保護のための武器使用が武力紛争へとなる危険性がある、④PKO法による5原則が、南スーダンにおける適用対象や自衛隊の業務などの拡大で、いくつもの矛盾が憲法との間で発生している。
 ところが安倍政権は、論理立て本質論の議論をせずに、「言葉あそび」によるごまかしを繰り返している。憲法の原理をいくつか再確認できた。

 小泉首相の頃から顕著になってきた政権の傲慢さが、今やピークに達していると私も感じている。韓国では朴大統領の収賄罪などが問題となり収監された。もちろん収賄などは問題だが、安倍首相のしている憲法軽視や無視は、憲法99条で定める公務員による憲法尊重養護義務の明らかな違反であり、こちらの方がよほど大きな罪である。明記している内容に反する行政を許しているのは、憲法の文言に不十分さがあるということだろうか。それとも憲法を受け取る政治家の人間性の問題なのだろうか。
 ともあれ憲法関連の動きはこれからも注視していきたい。

  
 
 

2017-04-08

区域外(自主)避難者の声

 4月7日の15:30から国会議事堂前の参議院議員会館において、避難の協同センター・原発事故被害者団体連絡会・原発被害者訴訟原告団全国連絡会・「避難の権利」を求める全国避難者の会による「今村復興大臣の発言に抗議する共同記者会見」があり参加した。
 4月4日の「自己責任」や「裁判でも何でもやればいいじゃないか」の今村発言には、私も驚きかつ頭にきた。国策ではじめた原発による事故で、危険な放射能が広く拡散し、子どもの体を心配してやむなく避難している人に、よくも他人事のように言えたものである。後で謝罪しかつ撤回したが、それですむ問題ではない。政治家以前の人間性を疑う。首相が首相だから、その下の大臣も似た者同士である。
 ところで一般には自主避難者と呼んでいるが、やむなく故郷を離れた避難者に寄り添って正確に表現すると区域外避難者である。この3月末に住宅の補助を打ち切られ、かといって放射能の汚染がまだ高い福島の家に子どもを連れて戻ることもできず困っている。
 「継続入居できても、補助が終わって高くなる4月の家賃の支払いができない避難者がいる」
 「自宅の土は258万ベクレルで、近くには800万ベクレルの家もあるが、どちらも除染済みの看板が立っている」
 「政府は、調べない・知らせない・助けないのないないづくしだ」
 「被災地の南相馬市で最近、無理心中のような事件が発生した」
 8人の報告者から、身につまされる話が切々とあった。何1つも悪いことをしていない人々が、原発事故によって故郷や家をやむなく離れ、心身ともに極限に近く疲労困憊している。このままでは離婚・自死・無理心中などが、さらに増えるのではないかと私は心配する。
 「生協は今」で連載させてもらっている月刊コープソリューション紙で、先月号に「自主避難者の生活支援を求めー避難の協同センター」を書かせてもらった。国民の生活の安定と生活文化の向上に寄与する生協でも、ぜひ区域外避難者の支援をしてほしいと願って書いた。昨日聞くと、福島など約10の生協で、避難の協同センターへの賛同が広がったとのこと。各地の生協が、ぜひ運動の力になってもらいたい。

 
 

2017-03-20

陸前高田訪問記4

 市の復興には市役所が大きな役割を果たしている。特に陸前高田市では、「ノーマラーゼーションという言葉のいらないまちづくり」をスローガンにし、障がい者や高齢者にとっても住みやすい街にするという復興哲学をきちんと持って復興をすすめているから凄い。
 そのため復興に直接関わってきた民生部や街づくり戦略室など担当職員に事前に連絡し、経過や課題などについても聞かせてもらった。多忙な市長にも会いたいと思っていたが、事前の連絡はしてなかった。
 14日の昼に少し時間があったので、図書館のことを知りたいと思い高台にあるプレハブの仮市役所を訪ねた。1号棟の玄関を入ろうとすると、中にいた中年の男性がドアを開けてくれて、「いらっしゃい!」と明るい声と笑顔で迎えてくれた。レストランや居酒屋では当たり前の出迎えだが、ここは市役所である。驚いて顔を見るとどこか見覚えがある。
 「もしかして戸羽市長さんですか?」
 聞くと「はい、私です」とのことであった。これはラッキーとすぐ陸前高田に入っている用件を伝え、翌日の昼に会う約束をさせてもらった。
 約束した15日の12時に市長室を訪ね、約40分ほど貴重な話をいくつか聞かせてもらった。
 若い頃に訪ねたアメリカで下半身のない明るい障がい者との出会いや、震災で市職員の4分の1や奥さんを亡くした悲しみなどをふまえ、誰もが暮らしやすい新しい陸前高田を創ろうとする熱い情熱は、言葉や表情からも伺うことができた。「何かあればここに電話をください」と、名刺に携帯電話の番号まで書いてくれた。
 こうした素敵なリーダーがいれば、きっと陸前高田は素晴らしい街によみがえることだろう。次の本でもその支援の1つにぜひつなげたい。
市長室の戸羽太市長
 

2017-03-19

陸前高田訪問記3

 もう一つの福祉作業所の青松(せいしょう)館も訪ねた。ここもいくらか高台にあるが、いくらか低く津波が押し寄せて被害があった。1955年に法人化した太陽会という長い歴史のある社会福祉法人の運営する1つである。
 対応してくれた米田館長に名刺を渡すと、「取手(とりで)からですか」と正確に読んでくれた。普通は取手を「とって」と読むので驚くと、何と取手市で働いたことがあるとのことで二度びっくりした。
 そのこともあり親しく話を聞かせてもらった。その1つが震災をきっかけに、何と新たな事業を立ち上げている。それも震災で消えそうになった伝統の椿油で、後日その新しい作業所を自転車で1時間ほどかけて訪ねた。作業所の名前は、青松館せせらぎである。椿油を私は知っていたが、それは女性が髪に付ける程度であった。ところがここでは、食用をはじめとして大工道具や家具の手入れなど多様な使い方をしていた。そのため専用の製油所が震災前は陸前高田に1軒だけあったが、そこも震災で壊滅し、さらに跡継ぎの長男も犠牲になり、石川夫婦は再開をあきらめていた。そこに太陽会からの相談があり、夫妻はやがて喜んで協力することになる。
 元JAの建物での作業所では、まず2人の障がい者が椿の実を選別し、それを焙煎→圧搾→濾過して製品化していた。作業所の清水さんも側にいるが、機械とはいえ微妙な職人技の操作が必要で、全ての作業は石川夫妻がコツコツとこなしていた。
 純度100%の透明な黄金色の「北限の特産品 気仙椿油」には、上品でほのかな香りの中に、地域に根差した長い伝統文化と、震災後の今を生きる人々の優しさを感じることができた。
青松館せせらぎ搾油工房の前で石川ご夫妻と清水さん。横は唯一発見された奇跡の看板。

陸前高田訪問記2

 定員20人の小さな福祉作業所あすなろは、高台にあったので津波の被害はなかったので、直後は近くの保育園などからの避難者を受け入れて避難所とし、4月から作業を再開している。地元のゆずや塩を使い、独自の菓子を製造している。好評のため工房を新築中で、4月には完成するという。
 ここで障がいを持って働く利用者さんの中には、創作した詩を書にする人もいれば、50号もの大作をアクリル絵の具で描く人もいる。それぞれが辛い震災の中から、自ら描くものを見出し、素晴らしい作品にしている。それも作業所の中だけでなく、特に絵画は市内での展覧会などで地域社会にも発信し、さらには週末に奈良県生協連の協力で奈良においてのイベントも予定していて嬉しくなった。
 自転車で片道1時間ほどかけ、田崎飛鳥さんの自宅にあるいくつかの絵を観させてもらった。津波で亡くなった方たちのため、顔やフクロウや花などをいくつも描いている。丸い顔はどれも明るく笑っているのが心をうつ。枯れた一本松は、熱い生命力を愛しむように濃いピンクで描いてあった。凄い感受性である。
 詩を書にしている熊谷正弘さんは、神田葡萄園の家族の一員で、優しいご両親もいて震災の悲しみを乗り越え、活き活きとした書を描き続けているから驚いた。
 西條一恵施設長からも素敵な話をいくつか聞くことができた。訪ねた日の朝にぎっくり腰となって欠勤して会えず、最初に顔を会わせたのは16日の夕方前であった。震災直後に行方不明者を探して遺体の見回りに一人でずっと行って体調を崩したことや、親の介護や障がいをもった息子たちの対応などでの心労もあったが、そんなときいつも利用者さんがそっと傍に来て、何も言わずに優しく肩をポンポンと叩いてくれるなどした。それだけで前向きに生きる希望につながった。
 17日の午後に再び西條さんから話を聞かせてもらい、お礼を伝えてバス停へ自転車で向かおうとすると、「少し待って」とのことで玄関に入った。すぐに戻ってきた手には小さなビニール袋があり、帰りの電車で食べてくださいとのこと。バスの時間がせまっていたので、リュックに入れ頭を下げて別れた。
 バスを降り気仙沼で電車に乗り換え、お腹もすいたのでもらったビニールを取り出した。オリジナルの紅茶のシホンケーキや「北限のゆずケーキ」などが入っていて恐縮した。工賃の元になる大切な商品で、本来であれば私が代金を支払わなければいけなかった。ふと袋を見ると、赤と緑のペンで花を描き、裏には「ありがとうございました」と書いてある。思わず目頭が熱くなった。このお礼も込めて、これまでにない8冊目の復興支援本を書こうと決心した。
 

 

陸前高田訪問記1

 3月13日の早朝に家を出て常磐線で上野に出て、東北新幹線に乗って北をめざし、一ノ関経由で気仙沼に入り、そこからJRのバス乗り換えて昼過ぎに目指す陸前高田市の高校前で下車した。
 「奇跡の一本松」で有名は当市は、震災前に人口24246人いた市民の実に6.7%が津波の犠牲になり、障がい者手帳の保持者に限定すればさらに高く8.0%にもなっている。3年ほど前に通ったことはあるが、風景は一変していた。震災直後の自衛隊のヘリから、壊滅していると情報が流れた市街地は、近くの山を切り崩し、津波の来た平地を5、6mほどのかさ上げするため、ダンプや起重機の動きが激しい。
 このため道路も変わり以前の地図はまったく役立たず、インターネットで訪問先の地図を個別に打ち出していたが、まるで道順がわからない。バスから降りて持参した折り畳み自転車を組み立て、リュックを背負ってペタルを踏み出した。
 地図を見ると高台にある高校の裏手で、プリントの道を見つつ登っていくと、そのまま進む道がない。元にもどり高台を廻っていくと、ダンプが何十台も並ぶ広い造成場に出た。しかし、そこも先に進む道がなく、また元に戻る。約束の時間になり力を入れてペタルを踏んでいると、防寒コートや手袋の中は汗だらけになった。
 訪問先に電話して場所を確認し、やっと最初の訪問先の福祉作業所を訪ねたときは約束の時間を30分まわっていた。今度は濡れた下着のままで聞き取りをしたので、部屋に暖房は急に体温が下がり、不覚にもすっかり風邪気味になってしまった。
 今回の17日までの旅の目的は、「障がい者と震災復興」をテーマにする復興支援本の8冊目の関連で、「ノーマライゼーションという言葉のいらないまちづくり」を進める陸前高田市の今を知ることであった。そのため複数の福祉作業所の責任者や障がい者、それに市役所の担当する職員などからの聞き取りを考えていた。

2017-03-12

福島を忘れない3・11反原発取手駅前行動で報告

 7年目の3・11がやって来た。政府やマスコミは、原発事故はすでに収束し、2020年のオリンピックやパラリンピックを過剰に宣伝しているが、被災地ではそれどころでない。憲法で保障された居住権や幸福追求権などが、ないがしろにされている被災者は多い。
 そうした被災者に少しでも寄り添うことを目的に、取手市でも有志が動き、いつも金曜日の行動だが、今回は翌日の3・11にあわせて開催し、毎週金曜日の行動で今回が142回目になるとのことだから凄い。
 駅前の小さな広場に100人ほど集まり、オープニングはトランペットの高い音であった。主催者の挨拶の後に各界からの報告があり、依頼を受けていた私は以下の2点に触れた。
 第一に危険な除染ゴミの焼却で、完全に放射能を除去することができずに空中に拡散させている。原子力規制委員会が発表しているように、福島以外においても、茨城や東京などの水道水で微量ながらセシウム137が検出されている原因の1つと考えられる。さらに飯館村の巨大な焼却炉の2台のうちの1台では、焼却灰を整形化して全国の公共施設で使用しようとしている実態に触れた。
 第二は、除染労働者の現状である。外国人をだまして使っていることは新聞報道にもあったが、それだけではない。先月に南相馬の障がい者支援をしている人から聞いた話では、1人当たり1日働かせると6000円ほどのピンハネができるので、何と障がい者までどこからか集めてきている。ところが除染作業は集団でするものだから、すぐに障がい者は外され、同時に寮も追い出されるからホームレスになっている。
 こうした実態に触れ、福島は決して終わっていないことを報告させてもらった。
 後で2人から、「どんな本を出していますか」と聞かれて、1冊持っていたので買ってもらい、他は名刺を渡して本屋かインターネットで調べるように説明させてもらった

 

2017-03-11

2017年ネパールの旅5

 今回のツアーで楽しんだこと。
 ①7000m級の山々を堪能
 標高2600mほどのチョーバス村から望んだランタの7000m級の山々。打ち合わせが終わった後で、昼前から冷たいビールを飲みつつゆっくりとながめることができた。夜に観た満天の星空とともに、大自然の中で生きていることを実感することができる。
                                       
②民謡レッサン・ピリリを踊る                          
 今回のチョーバス村にはじめて同行してくれた若い女性が、モデルさんでダンスも教えているとのことで、村でたき火を囲み村人と交流するときも民謡レッサン・ピリリを披露してくれた。「絹の旗が風にゆれている」との題で、歌詞や踊りは各地に寄って異なるようだが、シンプルで素敵な歌であった。最後の食事会にには美しい民族衣装で来てくれたので、
お願いしてツーショットを撮らせてもらった。

③スケッチ
 ツアーの合間をぬって4枚のスケッチをし、ホテルに戻ってからビールを飲みつつ水彩絵の具を乗せていった。特別に今回は、土産屋で買った黒岩塩の薄茶色の粉末を、水彩がまだ乾いていないときに少し降り掛けてみた。面白い風合いを出すことができた。