2017-01-18

ロシアの旅5 国家社会の在り方は

 ロシアの旅の3日目からはモスクワに入り、クレムリン宮殿や赤の広場なども訪ねた。観光コースを巡ったので、多くが街中の美しい建物であった。またこちらではクリスマスのシーズンにあたり、各地で東京にも負けない華やかなイルミネーションが輝いていた。デパートには世界のブランド品が並び、美しく着飾っている人たちも少なくない。
 ところで1917年のロシア革命から社会主義国となったが、1986年のチェルノブイリ原発事故から矛盾を抑えきれなくなり、ついに1991年に計画経済のソ連は崩壊した。その後に誕生したロシアは市場経済を強め、2000年に登場したプーチンはがむしゃらに今も進めている。ソ連からロシアになっての国民の感想をガイドに聞くと、「半分は喜び、後の半分は悲しんでいる」とのことであった。経済格差が広がっているせいだろう。
 これらの経過については、ややもすると全面否定の論調が多いが、もっと事実に基づいて評価と批判する各点を正確にすべきではないだろうか。市民の暮らす住居はかなり整備され、地域ぐるみの巨大な集中暖房ができている。そもそもマルクスは、人間疎外のない社会をイメージしていたが、レーニンやスターリンの指導して建築した国では、中央集権を強めて疎外を克服できなかった。このためイタリアのグラムシがかつて「資本論に即さない国」と指摘したように、以前からマルクスの考えとはかなり異なる国家社会とソ連はなった。マルクスがイメージしたのは、中央集権の全体主義国家でなく、各地や各分野で大小の協同組合が活躍する国家と私は考えている。
 社会主義のソ連が崩壊し、資本主義の総本山であるアメリカは、トランプ大統領となって金中心の動きをさらに加速させるだろう。そこでは人間疎外がさらに深刻化し、人々の幸福はますます薄まっていく。アメリカの従属国として動き、福島原発事故で何も変わらない日本も、残念ながら同じである。ロシアから批判的に私たちが学ぶことはいくつもあるようだ。
モスクワ 救世主キリスト聖堂 (寒くて土産屋の試飲ウオッカを何杯も飲んで描いた)

2017-01-17

ロシアの旅4 日本山妙法寺の平和行進の足跡

 サンクト・ペテルブルクの市内にあるニコリスキー聖堂を訪ねた。1762年にできたバロック式の大きな建物で、海軍の守護神でもあり、かつての日露戦争の日本海戦において戦死した兵士の慰霊碑もある。その建物の入り口の外のフェンス際に、四角で白く細長い棒が立ち、「May Peace Prevail On Earth!」と「世界人類が平和でありますように!」と明記してあった。20年ほど前に日本山妙法寺による平和行進がこの地であり、そのときに設置されたようである。1974年にベルギーで開催となった世界宗教者平和会議において、10月24日の国連創設記念日を含む8日間は、国家や宗教をこえて平和や感謝の祈りをし、世界に愛と光と平和を伝えることを決め、その後各地で取り組んでいるのでたぶんその1つだろう。
 ここで日本山妙法寺の平和行進の足跡に出会うとは驚きであった。日蓮から出発した日本の仏教の1つであるが、「世界の平和」を願うのであれば他の仏教はもとより、キリスト教やイスラム教やヒンヅュー教の信者でも、日本山妙法寺に参加することを歓迎しているから凄い。1917年に満州において建立した藤井日達からスタートし、例えば原水禁運動などで手太鼓を打ちながら、大きな声で「南無妙法蓮華経」と唱えている信者たちである。このため非暴力で自らをヒンヅュー教徒であり、同時にイスラム教徒で原始キリスト教徒でもあると称していたインドのガンディーとも藤井日達は直接会って意気投合した。
 どちらも「神は真理である」では異なる神によって宗教の対立する危険性があるので、そうではなく「真理は神である」としてあらゆる宗教の普遍化をめざした。個人、家族、地域社会、国家、世界などの平和を実現するため、大切な思想の1つだろう。
ニコリスキー聖堂の正面にて

ロシアの旅3 戦争の悲劇

 第二次世界大戦のときはレニーグラードと呼んでいたこのサンクト・ペテルブルグの地は、激戦地としても有名である。ドイツ軍約30万人が攻め込み、1941年6月から44年1月まで約900日間も約300万人市民を封鎖し、約100万人が死んだとされる。その間に零下40℃のも冬もあった。封鎖された中で人々は食糧にも困り、馬や犬や猫を食べつくし、ついには死んだ人の肉をも口にするようになった。そのため専用の屋台まで出て、それも大人より子どもの肉が柔らかいと高値で販売された。
 途中から挽回したソ連軍が、今度はドイツ軍を包囲したため補給が途絶え、食べ物で困ったドイツ軍も同じであった。戦争が終わって本国に帰還できたドイツ人は、わずか5万人である。その中には戦場での深い後悔から、楽しいクリスマスを祝う気持ちにずっとなれないとの証言がある。
 第二次世界大戦の末期にフィリピンで、かつての日本兵が山奥へ逃避する途中で「猿肉」などと称して人肉を食べた話は、現地でも何回か聞いたことがある。同じことがヨーロッパでもおこなわれていた。戦争とは、それほど人から人間性を奪う。
 それにしても900日もよくもちこたえたものである。記録によれば満足な食べ物や暖房がない中でも、市民は詩や音楽で生きる力を保っていた。芸術の素晴らしさを再確認できるし、ロシアの民衆における文化レベルの高さを知ることもできる。どんなに過酷な状態になっても、突き詰めれば行政や国家に頼らず、自力でどうにかしても生き抜くたくましさだろうか。
サンクト・ペテルブルグ南方30kmでドイツ軍の前線基地があった宮殿の庭

2017-01-16

ロシアの旅2 高い文化レベル

 最初に訪ねたサンクト・ペテルブルグは、モスクワにつぐ2番目の大都市で、かつては首都でもあって歴史が漂い芸術の街でもある。詩人のプーシキンや、「罪と罰」でも有名なドストエフスキーなどが活躍していた。そうした芸術を今の人が、暮らしの中で親しんでいるから凄い。いたる所に関連した銅像や記念碑があり、例えば「罪と罰」に登場する「金貸し老婆の家」とか「ソーニャの家」などもあって驚いた。
 ここでもっとも有名なのはエルミタージュ美術館だろう。今回の旅の楽しみであった。とにかくそのスケールの大きさと、名画の多さには感動した。美術の教科書で見るような世界の名画がいくつもある。それも同じ画家の作品が何枚も並んでいる。同時に驚いたのは、ほとんどがガラスケースに入ってなく、絵の具の色を直接鑑賞できるし、さらにはフラッシュを出さなければ写真を撮ることもできた。日本のようにケースに入れていないのは、「ガラスを通すと色のエネルギーが少なくなるから」との説明で、画家の情熱により近づくことができて嬉しかった。迷路のような展示室を4時近く歩き疲れたが、充実した時間であった。
アンリ・マティスの代表作「ダンス」
 音楽ではチャイコフスキーもここで作曲し、代表作「白鳥の湖」もその1つで、実際に散策しつつ白鳥を眺めた池にも出かけた。古い修道院の側にある広い池は、厚い氷で残念ながら白鳥はいなかったが、大好きなメロディーを脳裏で流しつつしばし眺めた。
チャイコフスキーが「白鳥の湖」をイメージした池


ロシアの旅1 かつての憧れの地へ

 2017年1月10日から15日の日程で、全食事付きで10万円を切るという格安ツアーがあり急ぎ足でロシアを訪ねた。この時期は零下20℃にもなり、客がほとんどいないので安い。成田から10時間ほどでモスクワに入り、国内線でサンクト・ペテルブルグへ入って3泊した。飛行機は評判のあまり良くないアエロフロートで、楽しみにしていたアルコールはワインだけで、それも食事のときだけ。
 私は20歳で高知から東京へ出てくるとき、トルストイなどのロシア文学に魅力を感じ、いずれソ連に留学したいと願っていた。昼間は生協の食堂で働きつつ、代々木の日ソ学院でロシア語を少し学んだ。それまで5年間も学んだドイツ語よりもロシア語は変化が多くて複雑で、かつ日本からソ連への留学制度が狭まったこともあって断念した苦い想い出がある。それでも厳しい自然の中で育んできたスケールの大きなロシアの小説や詩、そして哀愁を帯びた民謡があるし、また失敗したとはいえ社会主義の後を一度は訪ねてみたいと憧れていた。
 その一方でアフガニスタンへの侵攻や、最近であればチェチェンやウクライナとの関係などで理解しがたいソ連やロシアの動きがあり、興味・関心が以前に比べると薄らいできたことも事実であった。
 それでも動ける時にと思い妻と出かけた。12月中旬に4人目の孫が園で骨折し、休職した娘がずっと泊まりに来ていたが、10日からは割り切ってアパートへ戻ってもらった。
 『異端の人間学』という五木寛之と佐藤優の新書の異色対談集をゆっくり読みつつ、短期間で寒かったが想い出に残るミニ旅であった。
サンクト・ペテルブルグの聖イサク寺院。柱にはドイツ軍の砲撃の痕がいくつもある。


 

2017-01-09

「世界の平和」を求め続ける日本山妙法寺を訪ねて

 友人の誘いで8,9日と、千葉鴨川の日蓮宗総本山清澄寺の境内にある日本山妙法寺の33回忌報恩会に参加させてもらった。「時が来た!」と世界平和大行進を呼びかけた藤井日達さんの法要である。といっても信者でもなし、アメリカやネパールなど世界の各地で、不合理に直面しつつも熱心に祈っている上人たちが集まるというので、ぜひ交流したいと思い出かけた。それも駐車場の係りとしての参加で、生憎の天気予報で雨合羽をもっていった。
 8日の午後3時からの駐車場は、氷雨だけでなく強い風の中で無線を使っての交通整理で手がかじかんだ。夜に宿坊での食事の場でお酒を飲み、ネパールやスリランカから来ている人たちと交流した。
 大部屋で寝てから翌朝は6時に起きて準備し、8時からまた合羽を着て氷雨と北風の中交通整理にあたった。400人ほどがそれぞれ車で来るし、境内の狭い1本の道路を往復するしかなく、8人の車係りが要所に立って15時半まで凍えつつ采配を振るった。どうにか交通事故もなく無事に終えてほっとした。
 日本山の素晴らしさをいくつも学ぶことができた。日蓮から出発し、ただ世界の平和のみを願っているため、その目的を共有するのであれば他の仏教はもとより、キリスト教の信者でも行動を共にすることができる。福島の南相馬のある若い住職も来ていて、被災者に寄り添って取り組んでいることも聞いたし、沖縄の基地問題の最前線から来ている若い女性などにも会った。時間がなく名刺交換し、後日に訪ねる約束をして別れた。宗教の概念を変えなくてならないほどの実践である。同じ駐車場要因だったある男性の信者さんは、タイでミャンマー国境付近に暮らし、ある少数民族の地雷予防教育のボランティアで16年もたずさわっている。「世界のため」であるが特別に肩肘をはらず、自分にできる範囲でコツコツと全国の各地で頑張っている姿が清々しく印象的であった。
 はびこるお金優先の価値観でなく、自らの信念にこだわって生きている素敵な方たちが各地にいることがわかり、2日の疲れもすぐになくなった。

2017-01-03

安藤昌益の願いを今に

 快晴の正月三が日を迎えた。庭では昨年の春に植えたネパールのマリーゴールドが、驚くことに背丈ほど伸び、まだ黄金色の花をいくつも咲かせてくれている。現地では幸せのシンボルとして、花輪にしてお客の首に掛けたり、もしくは玄関に飾ったりもする。世界の皆がぜひもっと幸せになってほしい。

 原発事故が何を社会に問いかけているのか考えている中で、江戸時代の中期に東北で活躍した安藤昌益をもっと学びたいと、昌益をずっと研究している石渡さんを昨日は都内に訪ねた。封建社会の中で昌益は、武士などの権力者だけでなく、儒教や仏教なども民を支配していると全てを否定し、「自然の世」としてだれもが平等に生きることのできる社会を理想とした。直耕(ちょっこう)という造語を創り、土を耕して食を賄う農民こそが重要であると強調した。石渡さんの話では、単に土を耕すだけでなく、そこにある食と農の循環を大切にしていることで、他にもエネルギーやお金や人間関係などにおいても、循環することにこだわったととのことでたいへん勉強になった。
 実は石渡さんは、平和・協同ジャーナリスト基金の役員もされており、2012年に私が『協同でいいかも』で受賞したときに懇談させてもらっていた。暮に石渡さんが書いた『安藤昌益の世界―独創的思想はいかに生れたか』(草思社)を読み、もっと詳しく話を聞きたいと思い連絡をした。
 正月は職場で泊まり込みをしていて時間があるとのことで、昨日は板橋区の職場を訪ねた。国際視覚障害者援護協会の理事長もされており、発展途上国から盲目の若者を日本に招き、3年半の研修・勉強を経て母国などで按摩などの仕事をして自立する応援をしているから凄い。 経済的にはかなり苦労しているようだが、これまでに19か国から84人も育っているから驚いた。素敵な人や団体がここにもいる。