休憩時間に名刺交換させてもらい、討論会の終わった午後に市街地から車で30分ほどの自宅まで連れていってもらい、その裏山を見せてもらった。山すそは石で固めて2年で雑木は大人の背丈よりも高くなり、これであれば土砂崩れもたぶんないだろう。
4年間のシベリア抑留から帰国した新井さんは、まず山の木を全て切って牧草を育て牛を飼ったが失敗し、今度は国策に沿って杉を植えたが、やっと販売できるまで成長したとき政府は材木を自由化し売れなくなった。そこで福島から柿を自力で学び生産を今も続けている。
ところで新井さんは1884年に起こった秩父事件にとても詳しく、次々に貴重な話が出てくる。92歳になっても記憶は鮮明で、会話も普通にできる。頼まれて秩父事件やシベリアを含む戦争体験などの講演を、今も元気にしているから凄い。当時の圧政に対し養蚕のできなくなった秩父の農民が、自由民権の考え方で世直しをしようと立ちあがった。それも各地に広がりつつあった自由党の傘下で行動しようと集まったが、秩父でスタートさせる2日前に自由党は解散し、党首の板垣退助は事もあろうに政府から莫大な金をもらってヨーロッパへ逃げた。同じ土佐人として私は恥ずかしい限りである。
詳しくは2004年の映画「草の乱」にも描かれている。決起に集まった農民は3000人で、最終的に1万人が関わっているから、まさに草の根の力による社会運動であった。ところが政府は暴動と決めつけて厳しく処罰し、全国の教科書でも自由民権運動の1つと高く評価されてからも、地元では長く否定的であった。新井さんたちの地道な取り組みで、80周年や100周年の集会を成功させながら、記念碑や記念会館などが地元にできている。
新井さんのワクワクするドラマは、最近の赤旗日刊紙に「秩父事件を歩く」として6回も連載されている。新井さんの近くにいると、133年の時間を超え秩父事件のとき松明を掲げて山野を駆け巡った闘志の熱気を感じた。
東京めざし松明をかかげる「秩父事件青年の像」前の新井健二郎さん
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