2017-12-29

アウシュビッツ訪問の準備2

 ブックオフなどに頼んだホロコストに関連する本が届き、こちらにも目を通している。それにしても大量虐殺の実態は、本当にこんなことを同じ人間がしたのかと信じられない。ナチスの造った強制収容所は、ヨーロッパの各地に大小900とも、さらに千以上もあったとの説もある。殺されたユダヤ人は、400万とも600万ともいわれており、正確な数字は不明だがとてつもない人たちが、餓死、病死、そしてガスや銃などで理不尽にも殺されている。有名な少女アンネ・フランクもその1人で、どの書物も胸が痛む。人類が決して忘れてはいけない負の遺産であることは間違いない。
 しかし、ただ全員が黙って殺されていたわけではない。ごく少数だが抵抗して脱走したり、さらには死体用焼却炉を爆破したこともあるから驚く。人間の尊厳を守る闘いは、どんな過酷な条件の中でもおこなわれるものである。
 そして『夜と霧』などを書いたヴィクトール.E.フランクルである。ウィーンで精神科の医師をしていたとき、すでにロゴセラピー(意味中心療法)の構想をまとめて原稿にし、それをもって収容所に入ったときに廃棄させられ、死と隣り合わせの収容所生活を自らのロゴセラピーで生き抜いた。人生に欲などを期待するのでなく、逆に人生から何を期待されているか考えろと強調している。金持ちになりたいとか、健康で幸せに過ごしたいなどと人生に期待するのでなく、誰かや何かが私にだけ期待していることを知り、それに応えるために自らが努力することで、これは精神分析だけでなく哲学の領域にまで入る大切な考え方でもある。
 『夜と霧』はすでに日本で100万部も読まれ、特に3・11以降は年に3万部も出ているというから驚く。それだけ絶望の中でも人間らしく生きる希望の書だという証拠でもある。ぜひアウシュビッツで、フランクルがロゴセラピーを実践したことも忘れずに歩いてきたい。

 

2017-12-25

アウシュビッツ訪問の準備1

 格安ツアーがあり1月4日から11日までポーランドを妻と訪ね、念願のアウシュビッツ訪問を予定している。その関係で、まず書棚からフランクルの名著『夜と霧』を取り出して何十年ぶりかで読み直した。旧訳であり、解説が多く参考になるが説明が堅い。
 そこで図書館から関連する以下の本を借りてきて読んだ。
 ①アウシュビッツ博物館案内 ②フランクル『夜と霧』への旅 ③アウシュビッツと<アウシュビッツの嘘> ④どんな時にもお、人生にYESと言う ⑤アウシュビッツの囚人写真家 ⑥ポーランドに殉じた禅僧 梅田良忠 ⑦夜と霧 新訳
 以前に旧訳『夜と霧』を読んだときは、ナチスによるユダヤ人大量虐殺を生き抜いた人の記録として、残酷さしか残っていなかった。しかし、今回新訳や②の「フランクル『夜と霧』への旅」などを読み、これは告発書でなくどんなときにでも人間は生きていく意味のあることを教えた希望の書であることが分かった。
 そこで手元に置いてじっくり読むために、『夜と霧』新訳と「フランクル『夜と霧』への旅」は中古本を注文して取り寄せた。
 『夜と霧』は、東日本大震災の後で年間3万部が売れているそうだから凄い。フランクルの提唱するロゴセラピー(人間の生きる意味の療法)が、大震災の後の復興において力を発揮している証拠だろう。私の次に予定している障がい者をテーマにした復興支援本にも、おおいに参考になりそうだ。
 「フランクル『夜と霧』への旅」にも感心した。朝日新聞の女性記者が、3年もかけて世界中を取材してまとめた本で、これも内容と同時にジャーナリスト魂でも学ぶことが多い。
 これらの他に図書館にないアウシュビッツの関連する本やDVDもいくつか注文したので、出発前にぜひじっくりと
観ておきたい。

2017-12-24

10年目になったネパール子ども基金の打ち合わせと忘年会

 23日に渋谷のコーププラザ会議室において、ネパール子ども基金の打ち合わせと忘年会をもった。ネパールの首都カトマンズにあるHEENEP(ヒーネップ)という小さな市民団体を通し、年間1万1000円の金を各里親が出し、経済的に困っている子どもの勉学費を支援している。すでに開始から10年がたち、里子の数も34人になり、首都圏だけでなく九州などにも広がった。
 3時からの打ち合わせには15人が集まってくれた。基金の代表としての私は、皆の協力でいつのまにか無事10年が過ぎ、スタディーツアーの参加者が新たな里親を誘うなど、輪が広がっていることにまず触れて感謝した。その上で、当初はお金がなくて勉学に困っている子どもが可哀想で、支援をしてあげるという上から目線の気持ちだったが、それが対等の「無償の愛」となり、さらには里子やネパールを通して学ぶことがいくつも出てきたことを紹介した。具体的には、経済的には貧しくて日本のような品物や情報があふれていなくても、子どもたちは目を輝かせて生きており、その姿を通し生きる原点を感じることができる。また原始仏教であるチベット仏教に触れることで、仏教について大きく変質した日本仏教とは異なる思想を学ぶことができる。
 2時間ほどかけて、来年春のスタディーツアーも含めて意見交換をさせてもらい、今後の方針などの大枠について決めることができた。
 5時半からは近くの小料理屋に席を移し、15人で忘年会を兼ねた会食をした。飲み放題のセットだったので、孟宗竹に入った日本酒の竹酒を、これも竹の器で会計を気にせずタイムアウトのギリギリまで美味しく味わった。
 

2017-12-10

新鋭のジャーナリストたち 第23回平和・協同ジャーナリスト基金贈呈式 

 12月9日の午後に、第23回平和・協同ジャーナリスト基金賞の授賞式が日本記者クラブ大会議室であり参加した。活字部門35点と映像部門39点の74点から、以下の8点が入賞した。
 基金賞(大賞)1点:RKB毎日放送製作のドキュメンタリー映画「抗い 記録作家林えいだい」 
 奨励賞 
 ①沖縄タイムス社取材班の連載「銀髪の時代『老い』を生きる」
 ②シンガーソングライター、清水まなぶさんの「追いかけた77の記憶 信州全市町村戦争体験聞き取りの旅」(信濃毎日新聞社)
  ③西村奈緒美・朝日新聞記者の「南洋の雪」(朝日新聞高知版連載)
 ④株式会社パワー・アイ(大阪市)製作のドキュメンタリー映画「被ばく牛と生きる」(松原保監督)
 ⑤広島市立基町高等学校創造表現コース・美術部の「被爆者の体験を絵で再現する活動と10年間の作品集」
 ⑥望月衣塑子・東京新聞記者の「武器輸出及び大学における軍事研究に関する一連の報道」 
 審査委員賞 ジャーナリスト、梅田正己さんの「日本ナショナリズムの歴史」全4巻(高文研)
 市民のカンパで成立しているこの基金賞に、私は2012年の第18回で奨励賞を受賞させてもらい、副賞の楯を書斎の棚に飾ってある。
 受賞者の5分ほどの挨拶がいつも楽しみである。
 「伝えられない歴史は繰り返される」
 今年83歳で惜しくも他界された林えいだいさんは、ふるえる指に鉛筆をテープで巻きつけて書いていたとのこと。
 シンガーソングライターの清水まなぶさんは、聞き取りした重い言葉にメロディーを乗せて懇親会で披露してくれた。
 広島市立基町高校の美術の先生も来ていたので、生徒たちが被爆者から聞き取りして描いた絵の冊子を、できれば韓国の原爆資料館に寄贈させてもらえないかと相談して了解を得た。
 たとえ無名でも、ジャーナリストとしてコツコツと事実に向き合っている人が各地にいる。私も志を忘れることなく、これからも文字と歩みたい。

2017-12-07

障がい者の5kmウォーキングに参加

 快晴の続く3日は、朝から「第30回野馬追の里 健康マラソン記念大会」と同時に「第12回ウオーキング大会」があり、後者は子どもや障がい者向けであった。
 7時にホテルを出て自転車を走らせ、7時半には会場の雲雀が原祭場地のすぐ前にある作業所「ほっと悠」に着いた。広い祭場地は毎年のように野馬追の勇壮なレースをする場で、2年前に私はそこで観戦したこともあった。
 ほっと悠で少し待機して準備し、集まった障がい者と職員の17人と一緒に会場へ入った。当日の受け付けがあったので、5kmのウオーキングを申し込んで参加費の500円を払って記帳し、「9482」の緑のゼッケン・記念のタオル、ペットボトルなどを受け取った。
 定刻の8時30分に5kmのグループは出発し、祭場地から西に向かう道に沿い長い列になって歩き出した。中には視力が悪くて白杖を手にして伴走者が横にいる人もいれば、車椅子に乗って後ろから押してもらっている方もいた。
 途中で「苦労して歩いて、どんなことが楽しいですか?」と聞くと、「いつも移動するときは車なので、自然の中を歩くのは嬉しいです」とのことであった。ガラス窓こしでないから、風や香りなども感じることができて嬉しいのだろう。同じウオーキングでも、人によって楽しみ方はいろいろである。
 途中の太田神社でトイレ休憩し、5kmの行程を終えて出発点に戻ってきたときは10時近くになっていた。ずっと歩いていると、防寒着の中は少し汗ばんでいた。
 ゴールすると1人ひとりが完歩証を受け取り、また温かい豚汁があって一息つくことができた。
 
 ウオーキングの後で、精神に障がいを持ちながらも職員としてりっぱに仕事をしている男性の話を聞かせてもらった。今も病気は完治せず毎日のように薬を飲んでいるが、自分の限界を自覚できるようになり、パニックになる前に休んで自己コントロールしている。職場の配慮や環境を整えることで、障がいを持った
人が職員として責任ある仕事をできるわけで、ぜひもっと増えてほしいものだ。

2017-12-06

障がい者のスポーツ交流会 今年最後の取材

 12月1日から南相馬市へ入った。インターネットで検索した格安のホテルは、南相馬市原町の市街地からかなり離れた小高い丘の上にあった。懐中電灯の明かりで持参した折り畳み自転車を走らせるのは注意を要したが、40分ほど走り到着したときはホッとした。1泊3500円でありがたかったが、何と夜と朝の2食付きで驚いた。
 2日の朝から市内の体育館で障がい者スポーツ交流会があり足を運んだ。市内にある7つの作業所から、百数十人ほどの障がい者や職員が集まり、10時から14時までボッチャーや玉入れや車いすリレーを楽しんだ。
 ここに山形の市立第十中学校から、芋煮の差し入れが今年もあって、責任者から聞き取りをさせてもらった。中学の生徒たちは、南相馬のいくつかの作業所で作っている缶バッジを今でも地元で販売し、またたくさんの年賀状を書いて交流している。生徒会だけでなく、PTAや学校もそれぞれ支援で動き、よく継続して活動していると感心する。
 今回は中型のバスにPTAや教師など17人が乗って山形を朝出発し、持参した芋や牛肉やコンニャクなどを使い、体育館の入口に置いた大きな鍋で芋煮を作ってくれた。できた最初の一杯を「どうぞ」と言われたのでいただくと、ダシもよく出ていて冷えた体にそれは美味しかった。
 昼飯のときに、参加者には弁当と一緒に温かい芋煮を食べた。中にはスポーツよりも、この芋煮を楽しみにしている障害者もいた。車椅子の人も玉入れの輪に加わり、投げることはできなくても歓声の中で一緒に楽しんでいた。