2018-06-04

金剛般若経に触れ 6月の内山節寺子屋

 6月2日の夕方から、定例の内山節寺子屋が亀有駅から徒歩15分の延命寺であり参加した。前半の一般報告は、立教大ゼミ生だった男性から「世代間コミュニケーションと経験値の伝承」があった。労働観などの価値観が大きく変わり、経験知が高齢者から若者に伝わっていないとの現状報告があった。注目すべき点だが、要は現象面だけでなく何を伝承させるかだろう。
 後半の内山さんは、今回は金剛般若経を取り上げ、中公文庫の般若経典の中から紹介してくれた。紀元150年頃にできた大乗仏教にかかわる般若経の1つであり、仏教において極めて大切なキーワードである「空」の言葉は1つもないが、内容は全て「あっても捕まえることのできない空」についての解説である。
 ところで日本語で書いた仏教経典は沢山あるが、翻訳してあっても意味を理解するのが私のような素人にははなはだ難しい。専門用語が多いし、かつ分かっているつもりの言葉を違う意味で使用していることも少なくないから、読んでも何か胸に落ちない。
 その点で内山さんは、細部にこだわるのでなく、民衆視点で全体の仏教の大きな流れの中で、その経典のもつ意味を解説してくれるので分かりやすい。
 自我を捨てきれずに矛盾の多いシャバで生きて修行する在家仏教こそが、真理をつかみ悟りに近づくことができると大乗仏教の本質を語っていた。
 休憩時間に内山さんに、『哲学者 内山節の世界』(新評論 2014年 かがり火編集委員会)の帯にある「哲学は学問として学ぶためにあるのでなく、美しく生きるためにある」との素敵な一文は、先生の言葉かたずねた。すると『哲学の冒険』で使ったとのことであり、帰ってからその本を読むと、第一章2で「美しく生きるために哲学を」として古代ギリシャで活躍したエピクロスに触れし、哲学こそが「美しく生きるための基礎原理である」との言葉を紹介していた。
 8時半頃に終了し、その後は持ち寄った食べ物での楽しい懇親会。冷たいビールで乾杯し、たくさんの料理を口にしつつ団欒した。今回の寺小屋も刺激になった。

2018-05-28

竹林での薫風(くんぷう)コンサート2018

 5月27日(日)の10時過ぎに家を出て、また折り畳み自転車をさげて千葉県の船橋市を目指す。何度も訪ねている飯島農園の横にある竹林で、11回目となる薫風コンサートが13時から開催となった。12時に会場へ入り、主催者である「おいしい野菜公園2007」の尾上事務局長と園主の飯島さんから、日本科学者会議の仲間と一緒に聞き取りをさせてもらった。
 飯島農園で10坪の畑を借りて作物を作っている人たちが、農と環境などを自分たちで楽しむ場として2007年にクラブ「おいしい野菜公園」を立ち上げ、現在は38人の会員がいる。その活動の1つが今日の野外コンサートで、その準備に約20人の会員が参加し、会場の設営、進行、コンサート後の会食の準備などをしていた。8割は定年退職組で、美味しい野菜を作って家族で食べ、また太陽の下で動くことができ健康にも良いと第二の人生を畑仕事で楽しんでいた。
 コンサートは、千葉のアマチュア・ジャズ・バンドが連続して5年も出演し、アンコールを含めて15曲を奏でてくれた。17歳の高校生から77歳の高齢者まで23人の演奏者が、トランペット、フルート、サックス、トロンボーン、ギター、ベース、ドラムなどを使い、休憩をはさんで曲を流してくれた。ジャズといってもバラードやボサノバ腸もあったし、最後のビートルズの名曲「Hey Jude」ではしんみりと聞かせてくれた。
 周囲には高くて太い孟宗竹がたくさん並び、屋内での音響とはまるで異なって優しい。上空からは木漏れ日が射し、真っ黒いアゲハチョウがそよ風と共に舞ったりしていた。
 150人ほどの観客は、3時半頃まで無料のコンサートを最後まで楽しむことができた。
 後片付けをしてから竹林の横で、「おいしい野菜公園」の会員と演奏者での会食となり、冷たいビールやワインもあれば会員がそれぞれ手作りの1品を持ち寄っており、テーブルには食べきれないほどの料理が並んでいた。そこに参加させてもらい何人もから話を聞かせてもらった。買って食べるだけの農作物でなく、家族などが食べることのできる野菜を無理なく育て、さらにはコンサートや花見などで交流を楽しんでいる。近郊農業の1つの意義ある在り方として注目してよいだろう。
 会食はあたりが暗くなる頃に終えて解散となったが、残りのビールや料理をもって母屋に戻り、夜遅くまで飯島さんから話を聞かせてもらい、結局は泊めさせてもらった。心身ともに楽しい1日だった。

 
 

2018-05-25

年1回の同窓会に参加

 5月20日の日曜日の午後は、東大の五月祭りが本郷キャンパスであり、恒例の東大生協の同窓会があって、昨年と同じく庭からいくつか花を切って持参し各テーブルに飾った。定刻の少し早く出かけ、久しぶりの校内を散策した。以前のように古本を販売したりするテントは皆無で、フランクフルトなどの販売もあれば、安田講堂近くの広場では原宿あたりと見間違えるようなビートのきいた音楽で若者が踊り歌っていた。
 講堂前の地下にある懐かしい中央食堂へ入ると、この春に全面改装し雰囲気が一変していた。私が25歳の常務のとき新設した食堂で、いろいろな想い出があった。もう約40年もたつので新しくするのはいいが、当時300万円もの寄付金を集めて設置した巨大な壁画を、何と生協が廃棄してしまったのには唖然。使いやすいシャープペンが欲しいと第二購買部に行くと、東大の名称の入った文具や菓子などがずらりと並び、どこかの土産屋のようで驚いた。
 1時から第二食堂での同窓会には、各地から約50人が集まって互いの元気な顔を見せ合った。会員は200人近くいるが、参加者はだんだん減少している。定年してすぐの人がなぜか入会しないし、高齢者は毎年のように数名亡くなるか足腰が悪くなるので、参加者が減るのもやむを得ない。85歳になるKさんは、少し前かがみで歩いているし、80歳になった晴さんは車椅子で奥さんの介助で来ていた。
 1年ぶりの懐かしい顔にあれこれと話がはずみ、ビールやお酒もグイグイ進んだ。途中で参加者の近況報告の時間があり、私は昨年11月に開催させてもらった大阪いずみ生協事件シンポの概要と、その報告書が完成したので紹介し、300円で4冊販売できた。
 後半はカラオケタイムで、「四季の歌」や「若者たち」などを一緒に大声で歌った。また来年も元気で参加し、楽しく懇親したいものだ。そのためにも事故にあわず健康管理もしなければ。
 3時半頃に集合写真を撮って解散した。
 徒歩で上野駅に向かう途中で、不忍池の横にある石に腰を掛けほろ酔い気分でスケッチを1枚描いた。

2018-05-16

5月の寺子屋

 5月13日(日)の16時から寺子屋があり、大雨の中をずぶ濡れになったが会場の亀有にある延命寺に出かけた。前半の1時間半は、参加者の一人である谷口さんによる「正しさに居つくをしない活動の地平を求めて」のテーマでの報告があった。障がい者問題に関わる実践と理論化を進める彼女が、私の1月と2月の報告を受けて感じたことを発表するとのことで興味深く聞かせてもらった。パワーポントのイラストを使いながら熱心に説明してくれたが、どうも抽象的すぎて私の頭での理解は今ひとつであった。それでも制度や政治への働きかけの現実的対応と、暮らしを創りつむぐ根本的対応の異なる2つの時空があり、この2つを行き来する実態があって、それらを通して障がい者の問題を自分事にしていこうとする迫り方には共感できた。
 10分の休憩の後は、哲学者内山節さんの時間である。今回はテキストとして、雑誌『かがり火』のこの5月号から、本人の書いた古典を読む第46回の「維摩経」のコピーがあった。経典に書いてある文章の細かい解釈でなく、全体の仏教の変遷の中での「維摩経」の特徴をかいつまんで話してくれるので分かりやすい。なお「維摩経」は、在家仏教者である維摩さんが、出家仏教者よりも真理を理解しているという面白い問答集でもある。
 コピーの1節に、「仏教は、ひとつの教義を守り抜くという信仰ではなく、時代の中で展開する仏教運動なのである。運動だから、常に新しい考え方が付与されてくる」とあり、特に大乗仏教の理解として勉強になった。
 ある仏教学者は、「仏教は言語哲学である」と説明している。まさに哲学であり、キリスト教やイスラム教などのように、絶対的な存在である神を本来の仏教は認めてなく、そのため「神と再びつながる」意味の宗教の枠に入れることが私は間違っていると思うのだが。
 ともあれ一度は「維摩経」の経典を読みたくて、図書館から借りてきてパラパラとめくったが、もちろん簡単に読めるものではない。じっくりと味わってみたい。


2018-05-14

千葉県の農家を訪ね 石井君の畑

 5月11日の昼過ぎに、折り畳み自転車を使って千葉県印西市にある農家を訪ねた。都市近郊の農業の現状を視察し、これからの農業の在り方を考えようとする、私の所属する日本科学者会議食糧問題研究委員会の活動である。
 船橋農産物供給センターから今回紹介してもらったのは、西瓜やメロンなどを栽培している石井さんで、直販所のブランドは「石井君の畑」でりっぱなロゴマークもある。この直販所は20年も前に開設し、10年ほどでファンが定着して、甘い西瓜やメロンの9割がこの直販所で販売しているというから凄い。
 2時に訪ねて白茄子の植え付けを手伝った。1反ほどの畑にマルチのビニールがかけてあり、マルチの切り込みに穴を開けてポットの苗木を入れ土をかぶせて押さえていく。単純な作業の繰り返しだが、とにかく数が多い。中腰になって1時間も作業していると、両膝がガクガクなってしまった。何とか4時頃に作業を終え、一休みしつつ話を聞かせてもらった。68歳の石井さんには、奥さんの他に今の農家では珍しく跡取りとして長女夫婦がいて、4人で畑と水田で働いている。
 石井さんに農業を成功させるポイントを聞くと、第一に土壌の特徴を知ってそれに適した作物を見付けること、第二にその土壌を豊かにして美味しい作物を育てる有機肥料を作ること、そして第三に林などの自然の中で育てるとのことであった。第三の理由がよく分からず聞くと、それは奥さんの意見とのことであった。そこで奥さんに教えてもらうと、都会の騒がしい中でなく林など自然の中の方が、作物のストレスにならず美味しくなるのではないかと感じていますとのことであった。農作物も同じ生き物であり、ストレスの少ない方が伸び伸びと成長するのだろう。
 ところでスーパーなどで販売している農作物は、カットして店に並べて販売しやすくするため、西瓜やメロンなどは堅い果肉の品種になっている。しかし、本当は果肉が柔らかく畑で熟した農作物が一番美味しいのでここではそうしており、それを味わった人はまた翌年も求めてくるとのこと。
 消費者が美味しいと感じる農作物をていねいに育てていて勉強になった。
 

2018-05-10

南相馬を訪ね3 いくつもの巨木が

 今回は時間的なゆとりがあり、取材の合間に持参した自転車で地域を走り回った。鹿島では以前に訪ねた一本松のあたりに行ったが、新しい防潮堤ができ大きな風力発電が4基も回転していて、まるで風景が変わっていた。残念ながら枯れた一本松は伐採し、その一部は南相馬博物館に展示してあって見させてもらい、残りは地元の人たちの表札などにしたそうだ。
 歴史の古い地域であり、巨木がいくつもある。1つが鹿島御子神社の大けやきで、樹齢が何と800年の巨木が2本もあった。800年前とは1200年前後の鎌倉時代であり、親鸞や日蓮などが活躍し、鎌倉の大仏ができた頃でもある。持っていったスケッチブックに、巨木の前と後ろから2枚描かせてもらった。大地にドッシリと根差し、それは圧巻であった。両手を樹木に当て、しばし目を閉じてエネルギーを分けさせてもらった。ふと足元を見ると樹皮の小さなかけらが落ちていたので、記念にいただいてきた。
 2つ目は小高地区にある同慶寺の大イチョウである。江戸時代にこの地域を治めていた相馬家の菩提寺で、16代から27代までの一族が大きな石塔の下に葬られている。あいにくの小雨が降り寒くてかじかむ手で、本堂の軒先に座って静かにスケッチさせてもらった。なおここの住職とは、以前に会って名刺を交換していたので、30分ほどであったが会って人の生き方などの話を聞かせてもらった。
 ところでこうした巨木は、いったいどのようにその時代の動きを見ていたのだろう。そして今回の原発事故という人災を、どのように感じて眺めているのだろうか。きっと愚か者めと、高い上から見下しているのではないだろうか。住んでいる取手市も放射能に汚染されており、その点では私も被害者の一人だが、巨木にとっては人類という加害者の一人にもなってしまう。

2018-05-09

南相馬を訪ね2 グループホーム

 5月3日から南相馬の、あさがおが運営している「いやしの家」のグループホームを訪ねた。ここでは西理事長のこだわりで、障がい者の方たちの職場と住まいをセットにすることを大切にしていることが凄い。
 南相馬の鹿島を中心に実に7軒のグループホームをあさがおは運営し、それぞれに6人前後の利用者がいて、昼と夜を別々の世話人がサポートしている。
 ところで震災後は子どもを連れた若い人が少なくなり、高齢者が高齢者を、または障がい者が障がい者の世話をすることも出てきている。
 そうしたギリギリの中で暮らしていると、思わぬトラブルが発生する。日曜の昼食は、以前からカップヌードルとパンにしてきた。たまたま5月6日にあるグループホームに入所している人が、肉を食いたいと買ってきて4人の仲間で食べた。ところがその1人は肉を喉に詰まらせ、仲間が慌てて救急車を呼んだ。すぐに来た救急隊員も、これは大変とドクターヘリを使って市立病院に搬送したが、脳死状態で亡くなるのは時間とのことになったようだ。
 肉を喉に詰まらせて死亡するとは、私には信じがたいが、これが障がい者の現実である。西さんに聞くと、以前に饅頭の薄い皮がある障がい者の喉奥にくっ付き、慌てて逆さにして背中をドンドン叩いて事なきを得たとのこと。
 こうしたグループホームの世話人に、かなりのしわ寄せがいっている。もう少し広い地域で、互いに助け合う社会を創ることが大切なようだ。

南相馬を訪ね1 常磐線で北上

 5月2日の朝6時42分に、また折り畳み自転車と大きなリュックを背負って取手駅から常磐線に乗り北上した。南相馬へはこれまで上野、福島経由で入っていたが、はじめていわき経由にした。放射線量のまだ一部に高い場所はあって心配はあるが、新幹線を使う福島経由より費用は半分以下で助かるし、現状を見たい思いもあった。
 普通車なので水戸といわきで乗り換え、常磐線の開通している富岡駅に着いたのが11時9分。駅周辺から海岸あたりのガレキは撤去され、真新しい広い道路が伸びていた。ここからは、30分まって代行バスに乗り換えて国道6号を北上する。バスガイドが、「帰還困難区域を通過するため、窓は絶対に空けないように」とアナウンスした。
 6号線を走ると、左右の路地や家屋への入口は全てフェンスで通行止めになっている。富岡駅前で0.2μSv/hだった手元の簡易線量計は、ぐんぐん高くなり12時前に3.94にもなったのには驚いた。呼吸による内部被曝を防ぐには息を止めるしかないが、10分も止めていたら死んでしまい、それでは意味がなくなる。
 車窓から見る風景は、田畑や庭などが一面の雑草で、屋根の崩れた家屋もあれば、窓ガラスなどが割れたままの事務所などもある。もちろん人影や洗濯物は皆無で、人の営みをまったく感じられない異様な空間がしばらく続いた。震災からすでに7年と2か月たっても、時間がここでは止まったままである。
 浪江駅に12時10分に着き、常磐線の電車に乗り換えて鹿島に着いたのは13時5分であった。

2018-04-30

69歳になって

 4月29日に誕生日を迎え、いよいよ60代最後の69歳になったが、いつもと異なる気分で誕生日を迎えた。28日の夜のことである。20代半ばの頃から親しくしていた2歳下の友人が、亡くなったとの連絡を受けて言葉を失った。3年前に彼が地域生協を退職するまでは、たまに会って話などしていたが、最近は音信もなく元気でやっているものと思っていた。死因はすい臓がんとのことが今日分かった。年上の人が亡くなるのは、悲しいが順番だと考えるのに対し、同年代や年下だと足元をすくわれたようで急に不安になる。嫌が上でも自らの死を考えてしまい、少し落ち込んでしまう。もっともその分、どう今を生きるかに考えが集中するが。
 復興支援本の8冊目を仕上げたいが、まだまったく目途がついていない。2日から8日までの南相馬での取材で、原稿の入口は見付けたいものだが。体力の衰えも気になる。ネパールから帰国してから、現地の土ぼこりのせいか目が充血し、医者から目薬をもらって点眼しているがまだ治らず、これも加齢による免疫力低下かと少し嫌になる。まあ焦っても仕方がないので自然に任せるしかないが、これまで以上に時間と健康を大切にする必要がありそうだ。2日からの取材はまた折り畳み自転車なので、今度はヘルメットを購入した。それもバイク用の丈夫なものにした。
 ところでネパールでは、髪の毛をバッサリ切り少年時代の坊主にした。そのためネパールでは、修行中の坊さんみたいとか、生臭坊主などと散々であったが、何かとサッパリしたものである。髪の毛が短いと、冬は寒いし頭の怪我も心配になる。しかし、シャンプーやリンスで洗う手間はいらず、ドラーヤーで乾かすこともないので電気や電磁波もないし、毎日のように櫛を入れてセットすることもないので時間と経費の節約にもなる。そもそも髪型で恰好をつける齢でももうないだろう。
 そんなわけで4番目の孫と写真を撮ってみたら、すっかり白髪のどこかの齢とったジージになっていた。

2018-04-29

家族農業の拡がりを

 28日午後に所属する日本科学者会議の食糧問題政策委員会の研究例会を都内で開き、「農村で働く人々の権利に関する宣言案と家族農業」のテーマで、全国農民連国際部副部長の岡崎衆史さんから1時間半の詳しい報告を受けた。国連の家族農業の定義では、労働力の

過半を家族がしめている農林漁業をさし、世界では33億人もいて、食糧の7割を生産し

ているし、日本でも98%が家族経営であるからウエイトは極めて高い。
 
 しかし、日本政府のように生産効率だけを問題にすれば家族農業を否定するしかない

が、国際的には環境や雇用安定や農村文化の保持の視点などから家族農業を推進し、国連

もその立場を明確にしている。その1つが国連で検討している「農村で働く人々の権利に関

する宣言案」であり、農民の人権や食糧主権などをうたう素晴らしい内容である
 
 国際的な動きも詳しい岡崎さんからは、日本の食糧を確保するため海外へ政府や商社が進出し

ている話もあった。それによれば、アフリカのモザンピーク北部の1400万haを大豆輸出基地にす

る計画が進行しているとのこと。日本の耕地面積の約3倍もの広大な土地には、すでに原住民が

いて農業や狩りをしている。そこを金と暴力で追い出して日本の食糧基地にするので、これが実施

されると日本人は加害者になってしまう。とんでもないことが知らないところで進んでいる。
 
 休憩をとって後半の1時間は、参加した20人と熱心な意見交換をさせてもらった。
 
 次回の研究例会は、昨年の4月に突然廃止となった種子法関連のその後をテーマにしたいと考

えており、その予備案内もして4時に閉会した。
 
 その後は報告者も含めて8人で、最寄りの駅前の居酒屋に入って冷たいビールで乾杯した後、ま

た楽しく意見交換をさせてもらった。
 

2018-04-23

野原敏雄先生の生前葬(想)に参加

 4月22日に名古屋にて、以前からお世話になってきた野原敏雄先生の生前葬(想)があり参加した。88歳の先生は、地域を大切にした地理学の専門家であると同時に、中京大生協の理事長や協同組合学会の会長などを歴任し、協同組合や生協の理論化にも尽力されてきた。それらは、『現代協同組合論』(1996年)、『友愛と現代社会』(2011年)、『友愛と協同についての覚え書き』(2017年)に収れんされており、それぞれ読み応えがある。
 集いは14時からであったが、12時に会場で先生に会って人生哲学をじっくりと聞かせてもらった。事前に電話やメールで聞き取る内容は相談していたが、何と各項目に応えてA4版1枚のレジメを作ってきてくれていたのには恐縮した。子どもの頃の家庭がたいへん貧しくて苦学したことや、教職となった大学で不当な扱いを受けて仲間と闘ったことなどが、先生の人柄の基礎となり、かつ長年追い求めてきた友愛原理と協同思想にもつながっている。それらを原稿化して6月号のコープソリューション紙に掲載する予定。
 生前葬にはじめて参加させてもらい、100人近い多彩な顔ぶれにまず驚いた。テーブルは、①協同組合、②地理学、③出身の名古屋大学、④教えていた中京大学、⑤住民運動・文化活動、⑥市民運動・まちづくり、⑦中津川市、⑧鷹ノ巣とあり、それぞれに十数名が座った。
 「千の風になって」「平城山」「愛 燦々」の独唱の後、神官と一緒に入場した先生は、自己紹介の中で自分の墓を共同墓地とし、そこの碑文に自作の「仰岳俯峡 生一瞬 真守歳々 人通天」としたことを話していた。
 参加者のスピーチは、生協や大学関係者の他に、太陽光発電ネットワーク、農業小学校、地域の住民運動、文化運動などとそれは多彩であった。
 5時に記念写真を撮って楽しい集いは終わり、近くの会場へ二次会の場を移し、そこに30人ほどと合流した。名刺交換させてもらいながら、8時過ぎまでビールを飲みつつ有意義な交流をすることが出来た。

2018-04-06

ルポルタージュの恩師 柳沢明朗さん逝去

 まだネパール・ツアーの疲れがとれずスッキリしない時に、思いがけない訃報が届いた。所属する現代ルポルタージュ研究会の長年の顧問とし、社会の見方やルポの書き方などについて、それは厳しくもありまた優しく話してくれた柳沢明朗さんであった。
 届いたのは断片的な情報で、関連する人に電話を何本もかけ、やっとだいたいのことが分かってきた。それらによると、柳沢さんは4月5日午前3時に入院先で、肝臓がんのため亡くなった。84歳。本来であれば今後の対応をする奥さんは、何と1月に骨折で入院して7月までかかるというから無理で、とりあえず家族葬を予定しているそうである。
 私がルポ研に入れさせてもらい柳沢さんに会ったのは、1980年に友人が鉄道自殺をしてすっかり落ち込んでいた頃である。それまでは小説などを書いていたが、社会と切り結び事実で語るルポの魅力にはまり、毎月の例会やその後の飲み会がそれは楽しみであった。それらが1986年のルポによる処女作へとつながり、今の私にもなっている。
 あくまで社会の弱者の側に立ち、とにかく足を使って現場へ入って書き続けること。教えてもらったルポの基本を、これからも大切にして東日本大震災の復興などを描き続けたい。
 いつの日か天国とやらで再会したとき、書き方がまだ足りないと叱られずにまた美酒を飲み交わしたいものだ。いや、哲学者の池田晶子の説に従えば、柳沢さんの体は確かになくなったかもしれないが、もともと目に見えない柳沢さんの本質はなくなっていない。少なくとも私の魂の中でこれからも一緒に生きていくので、これからもよろしくお願いします                     
 ともあれほんとうに長い間ありがとうございました。合掌      
(写真は2015年5月に横須賀の柳沢宅で)

2018ネパール・スタディ・ツアー4 チベット難民キャンプを訪ねて

 カトマンズ市の隣の町パタンには、チベット難民のキャンプがあり訪ねた。故郷のチベットを迫害からのがれるためやむなく離れ、危険なヒマラヤ山脈を越えてきた人々が、助け合って集団で暮らしている。その数はネパール全体で2万人もいるとのこと。10年ほど前に訪ねたポカラの同キャンプもそうであったが、羊の毛から糸を紡ぎ、染色して織物を作って販売し生活費にあてている。落ち着いた色と素朴な柄のしっかりした織物で、孫娘が1つ欲しいとのことで買ってあげた。
 工房では、年配の女性たちが担当の作業を黙々とこなしていた。毛の塊から糸を紡ぎながら廻している糸車に巻いていた70歳の女性は、この作業を55年間も続けていると話していた。インドにいるダライ・ラマ14世のいる地をこれから目指すのかと聞くと、すでに会ってからこのネパールにまで引き返してきたとのことで驚いた。チベットに戻りたいだろうが、戻ればばどんな仕打ちを受けるか分からないので、このままネパールで過ごすのだろう。
 それにしても月収の平均が1万円ほどの貧しいネパールにおいて、さらに経済的に困っているチベット難民を受け入れて共存している。なかなかできることではないが、これが人間のあるべき助け合いだろう。

 

2018ネパール・スタディ・ツアー3 山村での水供給施設

 30人ほどの里子が暮らすチョーバス村では、2年前の大地震によって谷の湧き水を溜めて集落へ流す施設が壊れて困っていた。子どもを支援しているNPOのHEENEP(Healthy Education and Environment Nepal)に聞くと、50万円あればとのことであった。箱物だけの支援に私は抵抗があるが、水運びは子どもや高齢者の役目であり、施設ができれば子どもの遊びや勉学の時間も増えるので意義があり、この金額を2年前に私は預けていた。
 ところがなかなか着工せず、昨年の打ち合わせでハッキリしないのであれば私は支援を止めるつもりであったが、村の行政の支援と村人の労力提供が決まって工事は昨年の秋から一気に進んで完成した。湧き水用と中間用のコンクリート製タンクを設置し、樹脂製の親指ほどの長いパイプをはわせて集落の近くまで水を運んでいた。
 式典に集まった村人に施設の感想を聞くと、ある男性の老人は、これまで水運びで30分かかっていたのが5分ですむようになって助かっているとのことであった。子どもの勉強時間が増えたかは分からないが、少しでも暮らしに役立っているようで安心した。
 HEENEPからタンクにプレートを付けたいとの提案が半月ほど前にあり、文面を送付してきた。そこにはHEENEPのロゴマークの下に、HEENEPと私の支援とあったので、村人を加えた3者での協同によって完成したとの文面にしてもらった。
 もっとも今は乾期であり学校を含めて朝の3時間ほどしか給水はできないが、5月からの雨季になるといつでも水が流れるとのことであった。施設には、これから永い期間のメンテナンスが必要である。ぜひ協同して大切に管理してほしいものだ。

 
 

2018-04-05

2018ネパール・スタディ・ツアー2 貧困の中でも元気な子どもたち

 ダリットとは、ネパールにおけるカースト制の最下層であり、法律では禁じられているが現実には身分差別として色濃く残り、仕事が制約を受けて収入も少ない。そうしたダリットの子どもたちが通う小学校を訪ね、昨年も会った女性の校長先生に子どもたちの話を聞いた。昨年からここの学校で3人の子どもを支援していたが、新たに3人を支援したいと申し出ると、最初に紹介を受けたのが学校の女性用務員さんが育てている捨て子であった。何と2年前に酔っ払いの男性が来て、学校の前に幼い少女を捨てていき、それからというもの用務員さんが世話をしている。学校裏の境内にある用務員さんの小屋を訪ねた。狭い1室には、用務員さんの弟が寝ていて、風貌からダウン症のようであった。姉と弟だけの暮らしでも安月給で大変だろうに、それに捨て子を加えた3人だからかなり質素な食事をしていることだろう。1年生の幼い子どもは用務員さんを「お姉さん」、用務員さんは子どもを妹とそれぞれ呼んでいて、それを目の前にしたとき思わず私は涙が流れそうになった。用務員さんは、まるで観音様のような優しい顔をしていた。素敵な女性はどこにでもいるものである。

 2人目として紹介を受けた少女は、両親が広い寺のトイレ掃除をしていた。何か所かあるトイレの1つの横に、4畳ほどのレンガ造りの部屋があり、そこで親子4人が暮らしていた。収入はトイレの利用者が手洗い場に置いていく5円や10円といった小銭で、さすがに聞けなかったが月によくても数千円程度であろう。日本から持参した鯉のぼりを、同行した私の孫娘が少女にプレゼントすると、母親の抱いている妹が欲しがっていたので少女は渡してあげた。鯉のぼりは、子どもの健やかな成長を願う日本の伝統的なシンボルであり、ぜひ部屋に飾ってくださいと両親に伝えた。


2018-04-04

2018ネパール・スタディ・ツアー1 元気な子どもたち

 3月27日から4月4日まで、今度中2になる孫娘を含め8人で今年のネパールスタディツアーをしてきた。
 今回の旅では、以下のことが私にとっての目的であった。
 ①11年間支援してきたサンギッタちゃんが、この春に無事12年生を卒業するので、新しい里子2人を紹介してもらい決める。
 ②材料費を提供させてもらったチョーバス村の水供給施設の完成を確認する。
 ③カースト制の最下層の独自子ども支援で、昨年決めた3人の子どもに会う。
 ④これらの里子支援をしている現地の2つの市民団体との打ち合わせをする。
 ⑤こうした取り組みを13歳の孫娘にも触れてもらい、社会を考える1つにしてもらう。
 
 いろいろと工夫して私は、2つの市民団体を通してこの春から計8人の子どもをサポートすることになった。2つの団体にそれぞれ75万円の基金を積み、銀行に預けて年利が10%と12%もあり、所得税は10%かかるが、受け取る金利がどちらも約7万円にもなる。児童の1年間の勉学費は、服や靴などを含めても約7000円であり、これだけの金利でかなりの里子を支援することができる。多くの里親は、年間1万1000円で支援を継続しているが、私は自らに何かあったときにでも里子や市民団体に迷惑をかけたくないので基金にさせてもらっている。
 カトマンズから車で30分ほどのキルティプル市郊外にある山村では、2人の少女の里子ができた。はげ山で湧水もなく、雨水だけで荒れた畑において育つのはトウモロコシと少しの野菜。それも育ちが悪く、狭い畑で自給できるのは家族の数か月分だけ。後は平地の大きな農家の手伝いで日当が300ルピー(約300円)や、家造りのレンガ運びなどで500ルピーなどの収入を使って必要な食費などにしている。それも雨が降ると仕事はなく、月収にすればせいぜい5000ルピーほどだろう。これではいくら物価が安くても、4人や6人の家族を養うのは大変である。ある子の家では、水も電気もまったくなかった。小屋の中に台所らしき場がないので母親に聞くと、外にある薪を積んだトタン屋根の下に、鍋が2つ転がっていた。一段下の場にあるブロック積みの小さなトイレには、ドアはなかった。
 そんな中でも子どもたちは、瞳をキラキラさせながら元気いっぱい暮らしていた。

 

2018-03-25

花見に想う

 桜の花の季節となった。各地から開花の便りが届き、中でも故郷の高知からの日本いち早い知らせは嬉しかった。昨日、夕方から上野で知人と会う用事があったので、少し早く出かけて上野公園を散策した。満開の桜も素敵だったが、とにかく凄い人だかりに驚いた。
 いつもであれば私も缶ビールでも飲みつつ桜を愛でたいところだが、今年はそのような気分になれなかった。この2月に亡くなった石牟礼道子さんの、「花の文をー寄る辺なき魂の祈り」を想い出したからである。水俣病で亡くなった少女きよ子の母親が、石牟礼さんに語ったという内容である。歩くことのできない少女が庭にはって降りて、泥まみれになった不自由な手で桜の花びらを愛でていたことがある。そのことを石牟礼さんに、母親はこう話したという。
 「それであなたにお願いですが、文ばチッソの方々に書いてくださいませんか。いや世間の方々に、桜の時期に花びらば一枚、きよ子のかわりに拾うてやって下さいませんでしょうか。花の供養に」
 世間の一人である私も、母親の痛いほどの気持ちを感じたし、桜の花びらを通して水俣病で亡くなったきよ子とその母親、そして石牟礼さんの魂に触れることができた。

 公園で人の波を避けてたたずんでいると、大きな石碑の陰にホームレスの男性が座っているのに気付いた。すぐ目の前で酒盛りしつつ楽しんでいる人々は、誰一人として気にしていない。ボストンバックと白いビニールを被せた手押し車が横にあった。どんな人生を過ごしてきた方なのだろうか。

 
 

2018-03-19

船橋・野良しごと楽校(がっこう)

 3月19日の10時から15時まで、千葉県船橋市の飯島農園において、コープみらい千葉本部の主催する第11回目の「船橋・野良しごと楽校2017」があり、18日の午後から現地の農家へ入って準備などを手伝った。
 愛用の折り畳み自転車を電車で運び、最寄りの北総線小室駅から30分ほどの地まで走った。荷物を農家に置き、軽トラで林を抜けながら畑に向かっているときである。正面の道を真っ直ぐにこちらへ駆けてくる小さな動物がいた。見ると犬に追いかけられた狸で、正面衝突する直前に狸が林に飛び込んでくれたのでホッとした。地元の人に聞くと、狸だけでなく猪なども増えて農作物の被害も増えているとのことであった。
 畑ではホウレン草の収穫を手伝った。根本から20cm以上になったものを根から切り、他の男性がコンテナに入れた。有機農業で育てたホウレン草で、ときどきテントウ虫が出てきて目を楽しませてくれた。畑の畝に沿ってしゃがんだり立ったりの繰り返しで、30分もすると両膝がガクガクしだす。その度に立って両手で膝をトントン叩いたり、グイグイと押したりした。
 夜は農園主の飯島さんと日本酒を飲みながら、こだわりの農業に関わるいろいろな話を深夜まで聞かせてもらった。
 19日も天候にめぐまれ、6時前には起床してウグイスのいくつもの鳴き声を聞くことができた。9時から生協の女性職員4人と農園側からの男性4人で今日の打ち合わせ。生協職員には1人顔見知りがいて、取材の話も早く了解してもらった。
 10時には17家族の約60人が集まり、4つのグループに分かれて広場のテーブルを囲んだ。車で来たそれぞれは、長靴に履き替えて子どもも軍手をしていた。午前中は、ビニールハウスの中で枝豆の苗を、黒いビニールシートであるマルチの穴に沿って家族で植えていった。小さな女の子が、「はやく大きくな~れ、はやく大きくな~れ!」と言いながら泥だらけの手を動かしていた。他には以前に植えたホウレン草と小松菜の収穫で、家族でいくつものビニール袋をかかえていた。
 昼食はお楽しみのバーベキューで、グループ別に火をおこして、鉄板や網で野菜や肉を焼きながら団欒した。食後に家族毎で1年間の感想を出してもらった。野菜嫌いの子が食べるようになったとか、野菜の購入は安さだけだった大人が、産地や農法にも気になるようになったとのことであった。
 どの顔も楽しそうであった。持ち帰ったホウレン草や小松菜の料理を家族で食べつつ、農場での話に花が咲いたことだろう。 

2018-03-12

フクシマを忘れない 3・11 STOP原発茨城県南総行動in取手

 東日本大震災から8年目となった昨日、取手の駅前にある広場で、「フクシマを忘れない 3・11 STOP原発茨城県南総行動in取手」があり、約100人ほどの市民と一緒に参加した。
 1:30に勇壮な太鼓で幕開けとなり、実行委員会の代表が挨拶した後で私は、「東電福島事故と被災地のその後ー知られざる真相を語るー」とのタイトルで15分間マイクを握った。
 冒頭に「福島の震災は決して終わっていません」と強調し、以下の点に触れた。
 ①避難者はまだ全国で7万3349人もいるし、さらにカウントされない方々も少なくない。その中で震災関連死は全国3647人で、特に福島では津波で亡くなった1848人をこえる2202人にもなっている。さらに震災関連自殺は、全体で166人いて、その半分の87人が福島で、仮設住宅や支援の廃止などとの関連で今後増えることが心配である。
 ②事故を起こした2号機からは、損傷した核燃料のデブリが宙ぶらりんになって高い放射線を今も放出し続けている。
 ③被災地では、除染したゴミを入れた1トンのフレコンバックが1650万個も並び、それに3兆円もかけている。除染ゴミの約7割をしめる土や砂は、防潮堤などの内部に埋める実証実験をはじめ、3割の草木などは各地で焼却している。その中でも飯舘村の1つの大焼却炉では、できた灰を建築資材に加工する施設を併設し、いずれ全国の公共施設で使う予定である。
 ④そもそも今回の原発事故には、いくつもの闇がある。どれも水素爆発とのことだが、1号機は白い煙が左右に流れるのに対し、3号機は上空に向かい黒い煙が舞い上がり、それも国内の映像では3回の爆発音が全て消されている。また1000年に1回の大津波が原因とのことだが、津波の前に地震で内部に多数の損傷が発生している。津波のせいにすると、後1000年はおこらないだろうとの印象を与えるが、地震だとするといつ起こるか分からないので東電や政府にとっては都合が悪い。
 ⑤取手市の空間線量は今、0.05μSv/hから0.11μSv/hであり、政府のいんちきな除染基準である0.23μSv/hより少ないので安心している人もいるが、決して安全ではない。国際基準でもある年間1mμSvは、時間に換算すると約0.1μSvとなるが、これは内部被曝と外部被曝の合計であり、ドイツなどでは半々としているので外部被曝の基準となる空間線量は0.1÷2で0.05μSv/hとなる。
 時間がもっとあれば原発の背景や目的などにも触れたかったが、スケジュールに沿って15分で終えた。
 県議などの話の後はバンド演奏などもあり、まだ風は寒かったが集会は熱気に包まれていた。

 

2018-03-11

有機でひらこう!子どもの未来 -全国有機農業の集い2018in東京

 3月9日(金)の午後から10日(土)の夕方まで、都内の国立オリンピック記念青少年総合センターにおいて、日本有機農業研究会が主催し、「有機でひらこう!子どもの未来 -全国有機農業の集い2018in東京」があり両日参加した。
 呼び掛け文には、「有機農業は、環境を守りながら、生産者と消費者が一緒になって、『いのちの糧』を育む支え合いの農業です。子ども世代へ、今以上の負の遺産をのこすことのないように、私たちに何ができるのか、明日の行動を考えませんか」とあった。まずドキュメンタリー映画「遺伝子組み換えルーレットーー私たちの生命のギャンブル」が上映された。アメリカで遺伝子組み換え(GM)の大豆やトウモロコシなどが大量に出回り、その結果、多くの人々にアレルギー、自閉症、不妊、出生障がいなどの慢性疾患が急増しているとして、各地の医師などが登場して警鐘乱打していた。全体的に貴重な内容であるが、GM食品が人の腸に穴を開けると断定するなど過剰宣伝も一部にあった。
 続く講演では、「食卓の危機ー遺伝子組み換え食品の現状」として市民バイオテクノロジー代表の天笠啓祐さんから1時間の貴重な話があった。モンサント社に代表される多国籍企業の利益のため、日本を含めて世界中の種子が独占されつつある。企業は農薬とセットにしてさらなる利益を追求し、遺伝子組み換えやゲノム編集の技術を駆使し、それは食料支配戦略に通じる。こうした結果、人体や自然環境に多大の害をもたらしているが、日本の政府を含めて国民の健康でなく企業の利益を守っている。
 夕食は懇親を兼ねてセンター内のレストランで、各地の有機生産者の作物を料理してもらい飲み食いした。ホウレン草のおひたし、スティック状の大根、おにぎり、茹でたじゃがいも、ゴボウとレンコンの空揚げ、生レタス、豚肉の角煮、生ハムなどが、大皿に山盛りになって並んでいる。飲み物は、生ビール、ワイン、純米酒などがあり、それぞれ自由に利用できた。どれも有機だから味がしっかりしていて、美味しくいただいた。2時間で満腹になり、まだ1升ビンに貴重なお酒が残っていたので、500ミリのペットボトルに移し替えて後の車座分散会でも飲ませてもらった。
 10日は午前中にワークショップで若い生産者と意見交換し、午後は6人の実践報告を聞いた。全国各地で有機農法に関わり、農作物だけでなく地域の文化や自然や人々の健康を守っている素敵な姿に触れることができた。

2018-02-15

ネパール・スタディー・ツアー壮行会

 14日の18時から渋谷のコーププラザにおいて、今年3月28日からのネパール・スタディー・ツアーの壮行会があり17人もが参加してくれた。興味をもって見に来てくれた1人の女性以外は里親で、これまでの関わりや里子への想いなどを紹介して交流した。
 ネパール子ども基金として現地の貧しい子どもを支援しはじめて11年目になる今年は、私の中1の孫を含めて8人にもなった。その内4人は事前に現地入りし、トレッキングを楽しむのでうらやましい。8人の中には初めてネパールを旅する人が1人いて、まだ少し心配そうだったが、行きも帰りもサポートするからきっと大丈夫だろう。
 500円の会費でおにぎりやお菓子などをつまみつつ20時まで打ち合わせをし、その後はいつもの安い中華料理屋で二次会。そこにも14人集まり、ビールと温かい紹興酒で乾杯し、美味しい餃子や焼きそばなどをつまみながら22時頃まで楽しく懇談した。かなり飲み食いしたが、それでも1人2500円で勘定は済み、最後にみんなで記念写真を撮ってからいい気分で帰路についた。

 

2018-02-13

お聴きください 福島からの訴え


 2.12の午後1時半から埼玉県坂戸市にて、表題のタイトルで地元「生活と健康を守る会」主催の集会があり、飯舘村の佐藤八郎村議と一緒に約70人へ話をさせてもらった。
 佐藤さんは、いつもの方言で東電や行政のしている嘘やごまかしをいくつも面白おかしく紹介していた。放射能汚染は人の健康や命にも直結するので、もちろん笑ってすませる問題ではないが、笑い飛ばさないとやっていられない側面もある。
 私は、「福島の人々は今」とのテーマで以下について、約30枚のパワーポイントの写真を使って説明させてもらった。         
1、福島の人々
・追い詰められた震災関連自死
  ・福島で天災死より多い震災関連死 
2、福島の被災地
  ・時間の止まった浪江
  ・規制解除の飯舘村  
3、埼玉県の原子炉と放射性廃棄物
  ・三菱マテリアル
  ・埼玉にも放射能汚染地が 
4、福島に寄り添う
  ・福島の現実を知り、できれば現地を観る
・明日は我が身
・共に生きる
冒頭に触れたのは、南相馬で93歳の女性が震災の年の夏に自死するときの手紙で、「さようなら お墓にひなんします ごめんなさい」であった。心中を想像するとたまらなく胸が苦しくなる。岩手や宮城よりも福島では、震災関連自死が倍ほど多く、残念ながらまだその傾向は続くだろう。
 けっして震災は終わってなく、明日は我が身にも形を変えて災害は起こりうるので、福島に寄り添って生きることをお願いして終えた。
 4時過ぎに無事集会を終え、主催者の1人である今野宅で10人ほどとごくろうさん会をした。冷たい濁り酒と今野和子さんによる柚子味噌付きのボイル玉ねぎなどお手製の料理が合い、すぐに1升ビンが空になった。

       
 佐藤八郎さんと

2018-02-05

2月の寺子屋

 2月3日(土)17時からの寺子屋に参加し、パワーポイントを使って「東日本大震災を生きる障がい者2 福島県南相馬市編」として1時間報告させてもらい、その後で30分ほど約30人の参加者と意見交換をした。1月報告の岩手・宮城の続編だが、今回は放射能汚染下での取り組みで、時間がたっても解決の目途がたたない惨禍での頑張りでもある。そうした中で全国からの支援者が、行政と協力していち早く障がい者の実態調査をして現状を把握し、そして缶バッジの仕事おこしでいくつもの作業所の運営に協力して工賃確保にも貢献してきた。
 南相馬での事例を通し、①障がい者の日常の生活と仕事の大切さ、②仕事に人を合わせる→人に仕事を合わせる、③矛盾の中でも生きる、④答えがない=いくつもの答えがある、⑤南相馬市での人災や天災は、形を変えて全国でもおこる可能性があるとまとめさせてもらった。
 内山節さんからは、地域の歴史から復興を考えることも大切とのコメントをもらった。
 10分の休憩の後は内山さんの連続講座で、1月に配布した「仏教史についてのメモ」と原始経典に関する本のコピーなどを使って1時間ほどの話があった。仏教を大別するときに、大乗仏教と小乗仏教があることは知っていたが、ここではそれぞれの教義にこだわる教団仏教と、各地の庶民の求めに応じて自由に変化していく庶民仏教があるとし、後者についても具体的に解説してくれるので、仏教の全体像を理解することができそれは面白い。日本古来の自然崇拝と、仏典が来る前から渡来していたであろう人を通しての仏の教えが融合し、日本独自の仏教の発展を繰り返してきたという。仏教を通して社会や自らの精神構造などを考える上で、新しい目線が見付かって楽しい。
 8時半からは、参加者が持ち寄ったつまみや飲み物で楽しく懇談した。

 *下の写真は、元気に歌い踊る南相馬「えんどう豆」のみなさん
 
         

2018-02-03

仙台フランクル文庫を訪問

 27日(土)は福島駅前のホテルで泊まり、28日(日)の朝に仙台へ移動し、昼食は仙台駅の1つ手前の長町駅近くにあるレストラン「びすたーり」(ネパール語でゆったりとの意味)へ。障がい者支援の「ほっぷの森」が運営する150年の古民家を改装した店で、障がいを持った方が何人も働いているが、ほとんどそれを感じさせない。魚のランチを注文すると、サーモンが2切れも付き、それもていねいに皮を除けてある。野菜は自前の畑産で、それも障がい者が育てた安全なものだけである。ゆったりとした雰囲気で、これで850円とは安い。心身ともに満腹となった。
 午後から夕方までは、「きょうされん」宮城支部の主催する工賃向上のセミナーに参加した。宮城県でも工賃の平均は全国とほぼ同じ月に1万数千円で、それもかなりがんばってのことである。これをさらに向上させるためにどうするかで、全国的な課題でもある。商品に福祉を付けて出すことの限界があり、ドラッカーが強調したように障がい者福祉でも事業として維持するマネジメントが求められている。
29日(月)にみやぎ生協本部を訪ねて最新の動きを聞き、午後に広瀬通りにある「ほっぷの森」を訪ね、理事長から心理学者フランクルの提唱するロゴセラピーを、どのように障がい者支援に使っているのか教えてもらった。職員であるパートナーにロゴセラピーの基本的な考えを教え、それに沿って障がいをもったスタッフに日々接しているか見守っているとのことであった。要はロゴセラピーが心理療法という術や形でなく、一人ひとりの生き方であるとの説明に納得できた。
 事務所の一角にはいくつもの本棚があり、フランクルやロゴセラピーに関する書籍などが置いてあった。中には、下の写真のように1946年に出したフランクルの原書あった。また訪ねて学びたい場所である。

2018-02-01

福島市での「愛とヒューマンのコンサート」

 27日の朝に南相馬を出発し、飯館村を経由して伊達市に入った。東電に損害賠償をしている裁判が、この31日に結審となる細川牧場に途中で寄りたかったが、牧場の入口に雪が積もっていたのであきらめた。
 11時からの1番目は、飯館村の避難者が暮らしている伊達の仮設住宅で、仮設では珍しい木造の建物が並び、100世帯ほどあるが今は20世帯ほどで閑散としていた。人気になった映画「飯舘村の母ちゃん」の主役をつとめた元気な2人もここで暮らし、15人ほどと集会場での演奏会に参加してくれていた。面識があったので挨拶し、この春から村に帰るのか聞くと、帰ってもすることがないからまだ決めていないと少し投げやりに話していた。顔見知りの会長の話では、仮設住宅の廃止が1年先延ばしになったので、この春にはまだ10世帯が転居先が決まらず残るとのこと。それでも自治会は解散するそうだから、仮設住宅としてどのような自治をしていくのだろうか。
 14時からの2番目は、ある女性グループの新年会のような場で、100人ほど集まってアルパの演奏を楽しんだ。
 17時からの3番目は、福島市内のある復興住宅の集会所で、ここは浪江出身の被災者が多く、ここの自治会長は近くにあった浪江の仮設住宅にずっと住んでいた。
6時に全ての日程を無事に終え、新しい会長宅で手作りの夕食を御馳走になった。具のたくさん入った温かい汁が、冷えた体の五臓六腑にしみわたり、2杯も御替りさせてもらった。夕方からまた雪が降り始め、早めに今野さんたち3人は車で帰路についたが、私は残って会長夫妻と美酒をしこたま飲みつつ、近況を聞いたりした。浪江にある奥さん経営の美容室と、ご主人経営の小料理屋は、もう帰ることもできないので解体し、福島市内に腰を据えることにしたと淡々と話していた。浪江町は部分的に規制解除となったが、まだまだ放射線は高く住民のほとんどは帰還していない。住むことが難しければ、ましてや商売もできるはずがない。
 9時頃にタクシーを呼んでもらい、会長宅を出るとき食卓では日本酒の1升ビン1本と4合瓶2本が空になっていた。近くの飯坂線の駅に着いたはいいが、電車がしばらく来なくて強い横殴りの雪の中にしばらく立っていると、すっかり酔いが醒めてしまった。
 割り切って復興住宅に移った人、仮設住宅で移転場所をまだ決めかねている人、どこにも行き場所がなくてまだ放射線量の高い故郷にもどった人など、それぞれでどんな新しい共同体をつくり、どう暮らしていくかの模索が続いている。

2018-01-31

南相馬での「愛とヒューマンのコンサート」

 1月26日の早6時に埼玉県の坂戸を車で出て、高速道路を使い一路南相馬をめざした。「愛とヒューマンのコンサート」を主催する今野夫妻と、アルパ(ハープのスペイン語)の奏者で歌うこともできる池山由香さんとの4人である。今野さんからの依頼で、南相馬の障がい者支援の4か所をセットさせてもらっていた。雪のことを考え、いつもの福島市から飯館村経由でのルートでなく、海岸沿いに走る常磐道を北上した。事故を起こした原発の放射線のかなり高い場所を通るのでできれば避けたいが、11時からの演奏時間には着かなくてはいけない。ところがそれでも一部が雪で通行止めとなり、一般道に降りてから再度高速に入ったので、定刻までに到着することができるか冷や冷やであった。
 その後は順調に走って10時半には南相馬に入り、1番目の会場であるNPO「あさがお」の多機能作業所「ともに」で、約20人の障がい者や職員に1時間の演奏を楽しんでもらった。澄んだアルパの音色と池山さんの声で、素敵な場を共有した。みんなと昼食をいただき、すぐに2番目の作業所「えんどう豆」に移動した。ここでは30分の演奏中で数名の障がい者が、テンポの良いアルパに合わせて楽しく踊りだした。残り30分は、障がい者と職員の約10人で歌とダンスによる演奏へのお礼があって盛り上がった。今野さんのプレゼントしたバラの花束に感激したある女性が、急に泣き出してしまったのには驚いた。
 3番目の作業所「ひばり」では、半円を作った約30人が「コーヒールンバ」などを楽しみ、ここでも途中から踊りだす人が何人もいた。全身で音楽を楽しんでいるから凄い。
 4時45分からの4番目は、「さぽーとセンターぴあ」の職員約15人による学習会の場で、前半30分はアルパ演奏と、後半30分は私から「南相馬における障がい者福祉の一参考に」のテーマで話させてもらった。放射能汚染の最前線で貴重な仕事をされていることや、陸前高田での素晴らしい取り組み、糸賀一雄の福祉思想やフランクルのロゴセラピーなどに触れ、短時間でどの程度伝わったか不安だったが、後の懇親の場で何人からか参考になったと聞くことができホッとした。

2018-01-15

東日本大震災と障がい者報告1 内山節寺子屋にて

 13日の夕方から1月の内山節寺子屋があり、いつもは20人前後だが正月明けであったためか40人ほどで会場は満杯になった。前半の1時間を使い、私から「東日本大震災を生きる障がい者1」として岩手県陸前高田市と宮城県女川町の事例について、スライドを使いながら話させてもらった。震災で健常者より障がい者の死亡率が2倍も高かったこと、フランクルの『夜と霧』が震災後に年間3万部も読まれていること、そして内山節さんの『文明の災禍』で復興哲学が求められていることが、今回の私の問題意識になっているとまず触れた。
 陸前高田では、市長の提唱する「ノーマライゼーションという言葉のいらないまちづくり」に向け、当事者や外部の人たちも市に協力して具体化しつつある。市内の「あすなろ」作業所では、あらゆる境界線のない素敵な取り組みが進んでいる。
 女川では、唯一の作業所「きらら女川」が、津波で場所が確保できずに鳥取県に本体を移し、そこを拠点としつつ3年後で女川に新しい施設を造るなど信じられないほどの力を発揮して頑張っている。
 報告の後で20分ほど質疑応答があり、感想などを4人から聞いた後で、内山さんからのコメントをもらった。
 休憩後の内山さんの話は、「仏教史についてのメモ」を資料にして、インドにおいて原始仏教以前のバラモンから始まり、中国から日本に渡ってきての変遷についてであった。大乗仏教が各地の土着思想と融合し、日本で自然信仰と重なり、やがて顕教や密教へと発展していく。仏教の全体像を理解するうえで大変参考になった。
 後は各自の持ち寄った沢山のつまみとアルコール類で、楽しく懇談することができた。
 次回の2月3日は、「東日本大震災を生きる障がい者2」として放射能汚染下で頑張っている南相馬の事例を報告させてもらう。

2018-01-12

アウシュビッツを訪ねて(下) ポーランドの旅3

 アウシュビッツ訪問は、かつてベトナムで蛇牢獄やおびただしいホルマリン漬けの奇形児を観たときと同じくそれは重たかったが、同時にどんな困難な中でもそれらを、人間らしく乗り越えようとする人が少数でもいたことは、やはり人間は素晴らしいと感じる。
 殺されそうになった妻子のある男性に替わり、私は独身だからと身代わりになって殺されたコペル(コルペ)神父がいた。
 個人での抵抗だけでなく組織的な秘密組織もでき、内情を外部に知らせるとか、さらには昼間働いていた軍需工場から火薬を少しずつ運び、たとえば第二収容所の第4焼却炉を壊したとのことでもある。もちろん見つかればすぐに処刑で、多数の抵抗者が殺されたが、それでも抵抗は続いた。
 虫けらのようにただ殺されることなく、人間的に生き延びた一人が精神科医のヴィクトール・エミール・フランクルであった。収容される前に完成させていたロゴセラピー(意味中心の療養法)に基づき、どんなに肉体的や精神的に追い詰められても、人生から何かを私は求められていると考えれば、人間らしく生き抜くことができることを実証した。フランクルの著『夜と霧』や『それでも人生にイエスという』は、東日本大震災の後もより多くの人が愛読しているというから、やはり一人ひとりの人間は素晴らし力を持っている。フランクルの人間性尊重の共生思想で、ぜひ復興支援本8冊目を書いてみたい。今の私に人生から求められている1つであり、ぜひ全力で応えたいと旅の最後の晩に安いワインを飲みつつ念じた。

アウシュビッツを訪ねて(上) ポーランドの旅2

 世界の負の遺産であるアウシュビッツ訪問は、ぜひ1度は訪ねたいと考えていた。7日目の10日朝に、氷雨の降る中をまずアウシュビッツ第一収容所に到着し、運良く唯一の日本人公式ガイドである中谷剛さんが案内してくれた。中谷さんの平和への熱い願いは、事前に読んだ『ホロコーストを次世代に伝える』や『アウシュビッツ博物館案内』に詳しい。73年前の過去の話だけにせず、日本での沖縄問題やヘイトスピーチなどにもつながるので、ぜひ現実を直視して各自の頭で考えることを何回も強調していた。
 有名な「ARBEIT MACHT FREI(働けば自由になる)」のゲートをくぐり、レンガ造りの建物などを見学した。おびただしい数の靴、メガネ、櫛、食器、義足、そして髪の毛などが山積みしてある。4歳の孫がはいている程の小さな靴もあり、思わず胸がつまる。さらには毒ガスを使った部屋や、餓死させた狭い独房もある。そうしたレンガや木製のドアなどに、爪で引っ掻いた傷跡がいくつもあり、どこからか叫び声が聞こえてくるようであった。銃殺に使った死の壁や殺した死体の焼却炉もあり、ここで多数の人々をモノ扱いしたかと思うとやりきれない。
 バスで5分ほど移動し、第二収容所のビルケナウも訪ねた。こちらは貨車で運んで来た人たちの終着場で、レールにまたがる「死の門」が有名である。少人数であったこともあり、中谷さんのカードを使い「死の門」の上の見張り台に特別登ることができた。鉄条網に囲まれた広大な敷地を一望することができ、あらためてその広さに驚く。
 こうした負の世界遺産は、同じ悲劇を絶対に起こさないためにも決して忘れてはいけないことだろう。愛用の数珠を掛けている首が重かった。
    第一収容所入口


    第二収容所 死の門
 

ショパンに触れて ポーランドの旅1

 格安ツアーを使い、1月4日から11日まで寒いポーランドを旅してきた。南国育ちの私は68歳になっても寒さに弱く、昨年のロシアと同じく完全防寒で臨んだが、地球温暖化のせいか暖冬で雪はちらほらと数回降っただけで助かった。
 成田からの直行便は、ワルシャワのショパン空港へ。2日目にショパンの生家へバスで出かけた。ある貴族の広い敷地の一角でショパンの父が家庭教師をしており、生後6か月しかいなかったが、ワルシャワで学んでいたとき休暇の度に家族と訪ねていた。広い庭園にはいくつもの足元のスピーカからショパンの曲が絶えず流れてくる。ふと「子犬のワルツ」は、ここの想い出ではないかと空想もした。少し時間があり、曲を聴きながらスケッチを3枚描くことができた。
 6日目の夜にはショパンコンサートがあり、年代ものの部屋で1時間ほどピアノ演奏を楽しんだ。演奏した10曲に好きな「ノクターン」は残念ながらなかったが、最後は「英雄」を力強く高らかに演じてくれてショパンの情熱に触れることができた。
 7日目にはワルシャワ市内の聖十字架教会で、ショパンの心臓を埋め込んでいる柱に両手を当てた。20歳でポーランドを離れたショパンは、39歳でパリで死ぬまで帰ることはなく、死後に心臓だけ帰国させてほしいと遺言していた。
 旅の最後は、ショパンが通っていたレストラン「ポノカトラ」で素朴なランチをいただいた。
 「ピアノの詩人」としての短命だったショパンは、私を含めて今でも多くの音楽ファンを魅了している。人生を本に例えれば、ページ数の多さが重要ではなく、内容の濃さであることを再確認できた。


2018-01-03

スーパームーンを仰ぎつつ

 2018年がやってきた。今晩も、取手市の我が家の窓からも大きな満月を観ることができる。楕円形の軌道を廻っている月が、地球と接近するため普段より大きく観え、夜でもあたりがいつもより明るい。持っているカメラで記念に写したかったが、残念ながら安物では無理。
 この4月に私はもう69歳になる。男性の健康寿命が71歳だから、もし平均的に私の体が老いていけば、自分の足で自由に各地を歩き回ることのできるのは後2年少しである。どうにかしてその限られた間に、したいことはいくつもある。
 第一は、昨年から毎月取材している東日本大震災の障がい者の取り組みを、復興支援本の8冊目としてまとめること。岩手、宮城、福島と、それぞれで素敵な動きはいくつもあって、取材ノートもだいぶページ数は増えてきた。もっとも1冊で全てを書ききるのはとても無理と分かり、分割して書きやすい県から仕上げたい。
 第二は、昨年の夏から参加している哲学者内山節さんの寺子屋における学びで、民衆の目線で地域や労働や暮らしなどを観る鋭い視線が刺激的である。この1月と2月にその寺子屋で私は、被災地における障がい者の現状と課題について報告させてもらい、皆と議論をさせてもらう予定で楽しみ。
 第三には、生協の専門新聞であるコープソリューション紙の毎月の連載で、93号になるこの1月の紙面には、大阪いずみ市民生協問題20周年で昨年11月に仲間と開催したシンポを書かせてもらった。順調に掲載すれば今年の8月には100号の記事となり、1回が3200字だから累計すると32万字にもなる。これからも生協の最先端での動きの取材や、先輩たちの人生をかけた伝言シリーズの聞き取りもぜひ続けたい。
 第四には、海外でのボランティア活動である。3月には中一の孫を連れてネパールの里子訪問をし、8月には韓国の原爆記念
館を訪ねて交流を予定している。昨年はできなかったスリランカの子どもたちにも会い、現地の友人に預けてある基金を有効に使ってきたいものだ。
 他にも町内会の自主防災会代表の役割りなどあれこれあるが、どれも心身が健康でなければしたいことも楽しくできない。明日から11日までのポーランドの旅でリフレッシュし、今年をゆっくり自分の足で歩みたい。
    *写真は昨年12月27日に伊東の小室山にて孫たちと