2018-01-31

南相馬での「愛とヒューマンのコンサート」

 1月26日の早6時に埼玉県の坂戸を車で出て、高速道路を使い一路南相馬をめざした。「愛とヒューマンのコンサート」を主催する今野夫妻と、アルパ(ハープのスペイン語)の奏者で歌うこともできる池山由香さんとの4人である。今野さんからの依頼で、南相馬の障がい者支援の4か所をセットさせてもらっていた。雪のことを考え、いつもの福島市から飯館村経由でのルートでなく、海岸沿いに走る常磐道を北上した。事故を起こした原発の放射線のかなり高い場所を通るのでできれば避けたいが、11時からの演奏時間には着かなくてはいけない。ところがそれでも一部が雪で通行止めとなり、一般道に降りてから再度高速に入ったので、定刻までに到着することができるか冷や冷やであった。
 その後は順調に走って10時半には南相馬に入り、1番目の会場であるNPO「あさがお」の多機能作業所「ともに」で、約20人の障がい者や職員に1時間の演奏を楽しんでもらった。澄んだアルパの音色と池山さんの声で、素敵な場を共有した。みんなと昼食をいただき、すぐに2番目の作業所「えんどう豆」に移動した。ここでは30分の演奏中で数名の障がい者が、テンポの良いアルパに合わせて楽しく踊りだした。残り30分は、障がい者と職員の約10人で歌とダンスによる演奏へのお礼があって盛り上がった。今野さんのプレゼントしたバラの花束に感激したある女性が、急に泣き出してしまったのには驚いた。
 3番目の作業所「ひばり」では、半円を作った約30人が「コーヒールンバ」などを楽しみ、ここでも途中から踊りだす人が何人もいた。全身で音楽を楽しんでいるから凄い。
 4時45分からの4番目は、「さぽーとセンターぴあ」の職員約15人による学習会の場で、前半30分はアルパ演奏と、後半30分は私から「南相馬における障がい者福祉の一参考に」のテーマで話させてもらった。放射能汚染の最前線で貴重な仕事をされていることや、陸前高田での素晴らしい取り組み、糸賀一雄の福祉思想やフランクルのロゴセラピーなどに触れ、短時間でどの程度伝わったか不安だったが、後の懇親の場で何人からか参考になったと聞くことができホッとした。

2018-01-15

東日本大震災と障がい者報告1 内山節寺子屋にて

 13日の夕方から1月の内山節寺子屋があり、いつもは20人前後だが正月明けであったためか40人ほどで会場は満杯になった。前半の1時間を使い、私から「東日本大震災を生きる障がい者1」として岩手県陸前高田市と宮城県女川町の事例について、スライドを使いながら話させてもらった。震災で健常者より障がい者の死亡率が2倍も高かったこと、フランクルの『夜と霧』が震災後に年間3万部も読まれていること、そして内山節さんの『文明の災禍』で復興哲学が求められていることが、今回の私の問題意識になっているとまず触れた。
 陸前高田では、市長の提唱する「ノーマライゼーションという言葉のいらないまちづくり」に向け、当事者や外部の人たちも市に協力して具体化しつつある。市内の「あすなろ」作業所では、あらゆる境界線のない素敵な取り組みが進んでいる。
 女川では、唯一の作業所「きらら女川」が、津波で場所が確保できずに鳥取県に本体を移し、そこを拠点としつつ3年後で女川に新しい施設を造るなど信じられないほどの力を発揮して頑張っている。
 報告の後で20分ほど質疑応答があり、感想などを4人から聞いた後で、内山さんからのコメントをもらった。
 休憩後の内山さんの話は、「仏教史についてのメモ」を資料にして、インドにおいて原始仏教以前のバラモンから始まり、中国から日本に渡ってきての変遷についてであった。大乗仏教が各地の土着思想と融合し、日本で自然信仰と重なり、やがて顕教や密教へと発展していく。仏教の全体像を理解するうえで大変参考になった。
 後は各自の持ち寄った沢山のつまみとアルコール類で、楽しく懇談することができた。
 次回の2月3日は、「東日本大震災を生きる障がい者2」として放射能汚染下で頑張っている南相馬の事例を報告させてもらう。

2018-01-12

アウシュビッツを訪ねて(下) ポーランドの旅3

 アウシュビッツ訪問は、かつてベトナムで蛇牢獄やおびただしいホルマリン漬けの奇形児を観たときと同じくそれは重たかったが、同時にどんな困難な中でもそれらを、人間らしく乗り越えようとする人が少数でもいたことは、やはり人間は素晴らしいと感じる。
 殺されそうになった妻子のある男性に替わり、私は独身だからと身代わりになって殺されたコペル(コルペ)神父がいた。
 個人での抵抗だけでなく組織的な秘密組織もでき、内情を外部に知らせるとか、さらには昼間働いていた軍需工場から火薬を少しずつ運び、たとえば第二収容所の第4焼却炉を壊したとのことでもある。もちろん見つかればすぐに処刑で、多数の抵抗者が殺されたが、それでも抵抗は続いた。
 虫けらのようにただ殺されることなく、人間的に生き延びた一人が精神科医のヴィクトール・エミール・フランクルであった。収容される前に完成させていたロゴセラピー(意味中心の療養法)に基づき、どんなに肉体的や精神的に追い詰められても、人生から何かを私は求められていると考えれば、人間らしく生き抜くことができることを実証した。フランクルの著『夜と霧』や『それでも人生にイエスという』は、東日本大震災の後もより多くの人が愛読しているというから、やはり一人ひとりの人間は素晴らし力を持っている。フランクルの人間性尊重の共生思想で、ぜひ復興支援本8冊目を書いてみたい。今の私に人生から求められている1つであり、ぜひ全力で応えたいと旅の最後の晩に安いワインを飲みつつ念じた。

アウシュビッツを訪ねて(上) ポーランドの旅2

 世界の負の遺産であるアウシュビッツ訪問は、ぜひ1度は訪ねたいと考えていた。7日目の10日朝に、氷雨の降る中をまずアウシュビッツ第一収容所に到着し、運良く唯一の日本人公式ガイドである中谷剛さんが案内してくれた。中谷さんの平和への熱い願いは、事前に読んだ『ホロコーストを次世代に伝える』や『アウシュビッツ博物館案内』に詳しい。73年前の過去の話だけにせず、日本での沖縄問題やヘイトスピーチなどにもつながるので、ぜひ現実を直視して各自の頭で考えることを何回も強調していた。
 有名な「ARBEIT MACHT FREI(働けば自由になる)」のゲートをくぐり、レンガ造りの建物などを見学した。おびただしい数の靴、メガネ、櫛、食器、義足、そして髪の毛などが山積みしてある。4歳の孫がはいている程の小さな靴もあり、思わず胸がつまる。さらには毒ガスを使った部屋や、餓死させた狭い独房もある。そうしたレンガや木製のドアなどに、爪で引っ掻いた傷跡がいくつもあり、どこからか叫び声が聞こえてくるようであった。銃殺に使った死の壁や殺した死体の焼却炉もあり、ここで多数の人々をモノ扱いしたかと思うとやりきれない。
 バスで5分ほど移動し、第二収容所のビルケナウも訪ねた。こちらは貨車で運んで来た人たちの終着場で、レールにまたがる「死の門」が有名である。少人数であったこともあり、中谷さんのカードを使い「死の門」の上の見張り台に特別登ることができた。鉄条網に囲まれた広大な敷地を一望することができ、あらためてその広さに驚く。
 こうした負の世界遺産は、同じ悲劇を絶対に起こさないためにも決して忘れてはいけないことだろう。愛用の数珠を掛けている首が重かった。
    第一収容所入口


    第二収容所 死の門
 

ショパンに触れて ポーランドの旅1

 格安ツアーを使い、1月4日から11日まで寒いポーランドを旅してきた。南国育ちの私は68歳になっても寒さに弱く、昨年のロシアと同じく完全防寒で臨んだが、地球温暖化のせいか暖冬で雪はちらほらと数回降っただけで助かった。
 成田からの直行便は、ワルシャワのショパン空港へ。2日目にショパンの生家へバスで出かけた。ある貴族の広い敷地の一角でショパンの父が家庭教師をしており、生後6か月しかいなかったが、ワルシャワで学んでいたとき休暇の度に家族と訪ねていた。広い庭園にはいくつもの足元のスピーカからショパンの曲が絶えず流れてくる。ふと「子犬のワルツ」は、ここの想い出ではないかと空想もした。少し時間があり、曲を聴きながらスケッチを3枚描くことができた。
 6日目の夜にはショパンコンサートがあり、年代ものの部屋で1時間ほどピアノ演奏を楽しんだ。演奏した10曲に好きな「ノクターン」は残念ながらなかったが、最後は「英雄」を力強く高らかに演じてくれてショパンの情熱に触れることができた。
 7日目にはワルシャワ市内の聖十字架教会で、ショパンの心臓を埋め込んでいる柱に両手を当てた。20歳でポーランドを離れたショパンは、39歳でパリで死ぬまで帰ることはなく、死後に心臓だけ帰国させてほしいと遺言していた。
 旅の最後は、ショパンが通っていたレストラン「ポノカトラ」で素朴なランチをいただいた。
 「ピアノの詩人」としての短命だったショパンは、私を含めて今でも多くの音楽ファンを魅了している。人生を本に例えれば、ページ数の多さが重要ではなく、内容の濃さであることを再確認できた。


2018-01-03

スーパームーンを仰ぎつつ

 2018年がやってきた。今晩も、取手市の我が家の窓からも大きな満月を観ることができる。楕円形の軌道を廻っている月が、地球と接近するため普段より大きく観え、夜でもあたりがいつもより明るい。持っているカメラで記念に写したかったが、残念ながら安物では無理。
 この4月に私はもう69歳になる。男性の健康寿命が71歳だから、もし平均的に私の体が老いていけば、自分の足で自由に各地を歩き回ることのできるのは後2年少しである。どうにかしてその限られた間に、したいことはいくつもある。
 第一は、昨年から毎月取材している東日本大震災の障がい者の取り組みを、復興支援本の8冊目としてまとめること。岩手、宮城、福島と、それぞれで素敵な動きはいくつもあって、取材ノートもだいぶページ数は増えてきた。もっとも1冊で全てを書ききるのはとても無理と分かり、分割して書きやすい県から仕上げたい。
 第二は、昨年の夏から参加している哲学者内山節さんの寺子屋における学びで、民衆の目線で地域や労働や暮らしなどを観る鋭い視線が刺激的である。この1月と2月にその寺子屋で私は、被災地における障がい者の現状と課題について報告させてもらい、皆と議論をさせてもらう予定で楽しみ。
 第三には、生協の専門新聞であるコープソリューション紙の毎月の連載で、93号になるこの1月の紙面には、大阪いずみ市民生協問題20周年で昨年11月に仲間と開催したシンポを書かせてもらった。順調に掲載すれば今年の8月には100号の記事となり、1回が3200字だから累計すると32万字にもなる。これからも生協の最先端での動きの取材や、先輩たちの人生をかけた伝言シリーズの聞き取りもぜひ続けたい。
 第四には、海外でのボランティア活動である。3月には中一の孫を連れてネパールの里子訪問をし、8月には韓国の原爆記念
館を訪ねて交流を予定している。昨年はできなかったスリランカの子どもたちにも会い、現地の友人に預けてある基金を有効に使ってきたいものだ。
 他にも町内会の自主防災会代表の役割りなどあれこれあるが、どれも心身が健康でなければしたいことも楽しくできない。明日から11日までのポーランドの旅でリフレッシュし、今年をゆっくり自分の足で歩みたい。
    *写真は昨年12月27日に伊東の小室山にて孫たちと