2018-07-27

愛とヒューマンのコンサート  ベッセラ親子の熱演

 7月26日の昼から埼玉県坂戸市役所のロビーで、被災地に思いを寄せようと「愛とヒューマンのコンサート」が開催となり、フランスはパリ・オペラ座のピアニストのベッセラさんが、2人の娘と一緒に熱演してくれた。2年前のときにピアノは聴いていたが、今回は長女のエステル(17歳)がチェロと、次女のエリーズ(15歳)がヴェイオリンとフルートでさらに音楽を盛り上げてくれた。
 一曲目は、私も大好きなカッチーニのアベマリア。「アベマリア」と繰り返す歌がなくてもピアノとチェロとヴァイオリンが、それぞれの音色で美しく歌ってくれ、思わず目頭が熱くなった。最後のオー・シャンゼリーゼでは、2人の娘が軽やかにステップをふみつつ歌いながらロビーを舞ってくれた。
 市役所の後は、市内の障がい者支援施設に移動した。50人が暮らし、20人が通所で利用している大きな施設であった。車椅子やストレッチャーのような台で聴いている人もいた。演奏がはじまると体全体で反応する人もいて、中には足が悪くて特殊な靴をはいているにもかかわらず、ピョンピョンと跳ねまわる女性もいた。喜んでくれるのはいいが、体に影響がないかと心配したほどである。
 遅い昼食をとった後は、4時30分から消防署を訪ねた。エステルが、フランス消防のマスコットガールをしていることもあり、日本の消防を訪ねたい希望もあって表敬訪問となった。指令室や消防自動車などを見学させてもらい、また増える外国人向けに12か国語にも対応できるシステムを使い、フランス語で署員が解説してくれて驚いた。ノリノリだった障がい者とは正反対に、約50人の署員はきちんと座ったままで聞いていた。それでも最後にはベッセラによるタンゴの曲でエステルと踊ったりと、楽しい時間を過ごした。

2018-07-23

原発の学習会で報告

 連日35℃の猛暑で体がだるい。数年前から夏になると蚊に喰われた痕が、衣服でこすれると化膿するのでバンドエイドを貼っているが、今度はそこがかぶれて赤くなり、1週間ほどは痒くて困っている。
 22日の昼から地元の取手市で、「戦争をさせない・9条壊すな!総がかり取手実行委員会」主催の学習会があり、「福島の原発事故の影響は今」と題して私はジャーナリストと日本科学者会議の肩書で、30分ほどパワーポイントを使って話をさせてもらった。なおこの会には、取手市にある19の団体が所属し、そこには共産党と社会民主党も加わっている。
 「お墓に避難します」との遺書を書き自宅で首をつった93歳で南相馬市の女性、57歳で灯油をかぶり焼身自殺した川俣町の女性、「原発さえなければ」と壁に書き、32歳の奥さんや6歳と5歳の子どもを残して首を吊った相馬市の54歳酪農家など、写真を写しながら説明した。こうしたケースを含め昨年までに福島県では99人もの震災関連自殺があり、その多くが放射能汚染が影響し、東電もそれを認めて裁判で賠償金を支払っている。
 にもかかわらず2013年に自民党の当時の高市早苗政調会長は、原発事故による死者はいないと言い切った。原発事故はアンダーコントロールしていると国際舞台で大嘘をついた安倍首相も、ともに人間として失格である。
 3000℃にもなる核分裂の熱を利用して発電する原発は、原理は原爆と同じでコインの表裏であり、脱原発と反核の運動は連携して効果を高めればいいが現実には弱い。そこで反原発の反原爆の統一した運動の輪を拡げ、さらには原発や金に依存しない暮らしの大切さを話して終えた。
 他には「東海第二原発廃炉に向けて」で常総生協から、「放射能と子どもの健康」でとりで生活者ネットワークから、「県議会から見た東海第二原発稼働問題」で県会議員から、それぞれ貴重な報告があった。最後の30分ほどは会場の110人からの質疑応答で、5時前に終えた。
 自転車で持参した『「愛とヒューマンのコンサート」』は、どうにか5冊が売れてサインもさせていただいた。

2018-07-20

驚きの高裁 細川牧場裁判の二審判決

 7月19日の13:15より東京高等裁判所において、細川牧場裁判の二審の判決があり傍聴した。猛暑の中で駆けつけたので、法廷に入ってもしばらく汗をハンカチでぬぐった。
 時間になり黒服姿の3人の裁判官が入ってきた。座るなり中央の初老の小柄な裁判官は、書類を確認した後で「主文。棄却する」と無表情に話し、「後は書面で」と付け加えて終わった。時間にすると10秒ほど。20人ほどの支援者の中からは、「それでも人間か!」「恥を知れ!」などの罵声が飛んだが、裁判官はとくだん表情を変えることはなかった。
 細川牧場裁判は、3・11の被災後に原発事故の放射能汚染により、全村に避難指示が出た飯舘村で、なぜか対象にならなかった馬約100頭をずっと守り飼育してきた細川さんが、餌代などを東電に求めた裁判である。汚染した牧草を食べさせるわけにいかず、餌代だけでも莫大な金額になるが、今年のはじめに出た一審の判決は信じられない0円であった。 
 すぐに控訴し、4月に控訴理由の書面を出して、もうこの7月で結審であった。地裁で不十分な点を高裁では新たに調べて判断するものと私は思っていたら、まったくせずに「却下!」である。地裁の判決文には事実誤認が、いくつもあったにもかかわらずである。聞くとこうした乱暴なケースが最近はあるそうだ。こんな国民をバカにしたことをしていると、法曹界は内部から必ず崩壊する。
 実は細川牧場では震災後に原因不明で馬が急死し、何と40頭近くも続いている。その中には仔馬もたくさんいて、ある朝のこと奥さんが牧場にいくと、カラスが仔馬の目の玉をくり抜いていてショックを受けた。そんなこともあり優しい奥さんは心を病み、今は福島市内にある精神病の病院で治療を受けている。
 参加した支援者での相談の場で私は、被災者の自殺が福島県ではすでに99人にもなって岩手と宮城の合計に近いことに触れ、馬だけでなく人の命をも守る取り組みへの拡大を訴えた。
 運動を組み立てなおすとなると、多くの時間や費用も必要になってくる。改めて8月7日に有志で相談することになった。困難は少なくないが、こんな理不尽なことをそのままにするわけにはいかない。
弁護士会館地下のレストランにて細川さんを囲んだ激励会 
 

2018-07-15

岩手で被災した漁民の苦悩

 大船渡から越喜来(おきらい)をまわり、何人かの漁民にあって話を聞かせてもらった。3年ぶりの大船渡は、大きな魚市場やホテルなどが完成し、すっかり街並みがかわっていた。復興が順調かと思ったが、実状はそうでもなかった。
 一つが貝毒の発生である。原因が不明で昨年も今年も発生した地域があり、主要なホタテの養殖による収入が皆無で困っていた。共済に加入していて保障はそれなりにあるが、それも3年間だけなので、来年も被害があるとそれ以降は打ち切られてしまう。毒の発生に地球温暖化による海水の温度上昇もあるようだが、同時に地元で聞いたのは防潮堤などのコンクリートの影響である。強アルカリ性のコンクリートが多くの海岸線に使われており、沿岸の汚染につながっているのではとのこと。同時に岩手県では集落の前に高さ12.5mの防潮堤を築き、この重みでもって山から流れてきた地下水をおさえ、沿岸の湧水が少なくなってプランクトンの増殖に影響しているとの指摘である。
 二つ目は、小規模な漁民無視の行政で、その一例が岩手サケ裁判である。隣の宮城や青森では小規模な漁民でもサケを獲ることはできるが、岩手では資源管理ができるとして大手の水産会社と漁協だけに限定されている。100人の漁民が「浜一揆」として訴えて、今も裁判を続けている。さらにはマグロについては、全国規模で大手水産会社の利益優先の政策が進行し、このまま推移すれば漁業をあきらめる人が続出するのではとの声がいくつもあった。農業だけでなく漁業でも、企業優先の動きが強まっている。生産者だけでなく、消費者も含めた国民的な課題である。

2018-07-13

久しぶりの陸前高田と大船渡

 10日と11日にかけ、被災地のワカメを仕入れにいく知人に同行させてもらった。朝6時に家を出て取手駅前で車にピックアップしてもらい、高速道路の常磐道と東北道を使い、一ノ関経由で陸前高田に着いたのは13時半であった。寿司屋に入り昼食をとっていると主人が出てきて、住民不在の復興が進んでいると話してくれた。7年もかかってかさ上げした場所に、今さら大半の住民は帰ってこないが、それでもここの寿司屋は新しい商店街に新店を出すとのこと。
 陸前高田にある民間の生態総合研究所を訪ね、自然の環境を丁寧に調査している話を聞いた。ここでも行政の進める復興についての指摘があった。
 何回か訪ねている障がい者の作業所「あすなろホーム」を訪ね、持参した大きな西瓜を2個渡してきた。あいにくいつも対応してくれた所長は不在であったが、いくつもの詩を書いているマー君は、元気にワカメ切りの作業をしていた。本創りはもう少し時間がかかるが、いつかはきっと仕上げるとの所長への伝言を顔見知りの職員に頼んだ。
 広田湾で牡蠣養殖をしている60代後半の漁師さん夫妻を訪ね、86歳でまだ現役の男性を含め近況を聞かせてもらった。原因不明の貝毒によってホタテの出荷はまだストップしたままで不安そうだったが、広い庭や裏山に花や紫陽花などを沢山植えて暮らしを楽しんでいた。庭に置いてあった面白い形の流木と、養殖したホヤをいただいた。
 宿は大船渡の湾を一望する高台にあり、露天風呂のある温泉で長旅の疲れを癒した後、ウニや刺身などの海の幸を、冷たい地酒で心ゆくまで堪能することができた。
 ずっと運転してきた知人は、疲れもあって早めに寝たのはいいが、イビキがうるさくてしばらく私は眠ることができない。地酒をチビリチビリ愛でつつ、部屋の電気を全て消してしばしベランダから満天の星空を見上げ、星座を目で描いた。
 そこで一句。
 「海面に 灯台光る 大船渡
          地酒愛でつつ 星と遊ぶや」

2018-07-09

柳澤明朗さんを偲ぶ会に参列し

 7月8日も朝から暑かった。昼に電車を乗り継ぎ横浜の先にある金沢八景の横浜市立大に出かけた。「神奈川ぞうれっしゃ」のメンバーに加えさせてもらい、14時からはじまる偲ぶ会のため生協食堂の横で歌の練習をした。30年ほど前に大学生協東京事業連合で食堂の責任者をしていた頃に、何回か訪ねていたがまったく記憶になかった。認知症でもはじまっているのかと一瞬不安になったものだ。
 全国から集まった140人ほどが、狭い会場を熱気でつつんだ。オープニングは本人も大好きだった「この灯をとわに」の心にしみる合唱と、途中で87歳になる堀喜美代さんがカイロを手に「祖母・キクの独唱」を熱演してさらに花を添えてくれた。あとの懇談のとき掘さんの自伝的な本『大地に種(うた)を蒔く』にサインしてもらうと、「うたごえは平和の力」と書いてくれた。
 家族で創った20分ほどのスライドには、子どものときからの元気で明るい柳澤さんが登場して何回も会場を沸かした。交際の広かった方なので、在りし日の柳澤さんに触れたスピーチは何人も続き、やっと献杯となって冷たいビールを五臓六腑に染み込ませたのはもう16時が近かった。青春そのもの・顔中が口のような人・ぞうれっしゃおじさんなど、どれもがそうであった。
 12番目の最後のあいさつとしてマイクを握った私は、現代ルポルタージュ研究会で柳澤さんに永く顧問をしていただき、お礼として来年4月の1周忌には池袋で「柳澤明朗さんと共に歩む会(仮称)」をするため、同人誌の特集を準備していること、また私は本人から「共に未来を創ろう」という熱い言葉をもらい、この間は東日本大震災の被災地へ入って取材を続け、今は8冊目の単行本の準備をしていることなどに触れさせてもらった。
 予定の時間を大幅にこえた会は無事に終え、名古屋から参加していた「ぞうれっしゃがやってきた」の作詞者の清水則雄夫妻と、作曲した藤村さんのパートナーである菊子さんと、帰りの横浜駅で降りて4人で楽しく懇親させてもらった。名曲のできる裏話をいくつも聞くことができたし、大きな仕事の陰には素敵な女性の支えのあることなどがよく分かった。
 暑い1日だったが、おかげさまで楽しく有意義な時間を過ごすことができた。もっともこれで終わりでなく、本人も言っていた「超戦争少年」が、どのようにして平和の使者の1人である「ぞうれっしゃおじさん」になったのかの、柳澤さんの思想遍歴をルポで来春までにぜひまとめたい。

今どきの学生は

 7月7日の昼から大学生協のOB・OGで構成する「友の会」総会が都内であり参加した。1年ぶりの懐かしい顔は、白髪が増えたり痩せたりして誰もが齢を感じさせた。もっとも私もその一人であるのだが。
 会では大学生協連の昨年秋に実施した第53回学生実態調査の概要報告があって、興味深く聞いた。
 第一に学生の経済状況である。1カ月の自宅生の生活費は6万2590円で、前年比1900円増となり、その半分はバイト代で補っている。下宿生では月12万750円必要で、仕送りと奨学金で足りずに、ここでもバイトのウエイトが大きい。「授業が選択でバイトは必修」の状態が残念ながら続いているようだ。
 第二に就職である。4年生の内定は高くなっていていいのだが、職場に求める条件では、金銭的保障の第一に続き、有給休暇、残業がない、勤務時間、勤務地などが続き、安定志向がそれなりに強い。
 第三に日常生活である。学生だから読書は当然だと思うのだが、1日の読書時間0が53%もいて、5年間で19ポイントも増えているから驚く。読書に比べて多いのは、スマホの177分である。ゲームなど内容も気になるが、それ以上に私が心配するのは電磁波の脳への悪影響である。
 ところで別のある調査で読書時間は、小中では横ばいだが、高校から減少傾向にあるとのこと。もっと本を読んでほしいが、書き手の方にも問題があるのだろうか。
 13時から懇親会となり、ビールで乾杯して30人ほどの参加者と楽しく懇親した。

2018-07-04

久しぶりの歌「ぞうれっしゃがやってきた」

 7月1日に神奈川の「ぞうれっしゃネットワーク総会&交流会」があり参加させてもらった。平和を願って大人も子ども一緒になって楽しく歌うことのできる組曲「ぞうれっしゃがやってきた」は、今も全国各地で流れている。その1つが神奈川で、かつて地元のアリーナで3000人が歌うなどの凄い勢いがあった。メンバーも高齢化し、当時からすると動きは弱くなってきてはいるが、それでも会場には20人ほどが集まり、2017年度の反省をし2018年度の計画を話し合った。
 休憩の後、「ぞうれっしゃがやってきた」の練習があり、久しぶりに私も歌った。1986年の初演からすでに32年もたっているが、いつ聞いても胸が熱くなるいい歌である。作曲した藤村紀一郎さんが、音楽の勉強を正式にしていないなどとして、この曲を評価しない「専門家」もかつていたが、これだけ長年にかけ多くの人々から親しまれているのは名曲の証拠である。
 とにかくこの組曲は、聴くこともいいが、自分の口だけでなく全身を使い歌うことである。今回は時間の関係で、軽やかなテンポの10番「ぞうれっしゃよはしれ」と、締めくくりとしての11番「平和とぞうと子どもたち」だけだったが、1番の「サーカスのうた」からの全曲は魅力がいっぱいである。