2018-11-25

ネパールの旅4

 半年ぶりのネパールであったが、2つ驚いたことがあった。
 第一が不安的な政情である。2006年に「カトマンズの春」が起こり、王制が倒れて議会制を中心とする連邦民主共和国となり、憲法が発布したのは2015年のことである。日本でいえば明治維新と第二次世界大戦の敗戦後が一度に起きているようなものである。昨年の総選挙で政権が新しくなり、その第一党には共産党がいるので、これから国民のための新しい政治になると私も期待していたが、何と汚職がこれまでになく拡がり、一部の政治家だけが超裕福になっているという。ロシアや中国で散見する「赤い貴族」で、4年後の総選挙まで現政権はもたないだろうとの意見もあった。小さな協同組合やNPOなどは、まだしばらく不安定な政治に振り回されるのではないだろうか。
 今回のツアーの目的の1つが、日本の医療生協が20年ほど前から支援している民主的な医療組織PHECTの聞き取りがあり、2日間通って話を聞いた。できれば本にしたいと思っているが、現状では聞き取りして文字にした段階で、現実が大きく変化している危険性がある。
 第二に物価の高騰である。4月には日本食レストランで150ルピー(150円)前後だったの朝食類が、今回は300ルピー台になっていた。また美味しかったウイスキーを買いたいと同じスーパーに入ると、4月に1500ルピー前後で3種類買うことのできたたくさんのボトルがなくなり、3000ルピー以上の品が数種類並んでいたので購入を諦めた。
 里子の支援のために地元のNPOへ1人当たり年間に11000円を渡しているが、子どもの勉学に必要な文房具やバッグや制服などにも、来年には影響を受けて支援金値上げの話が来るのではないだろうか。数千円の値上げですめばいいが、大幅な額になれば日本からの支援の在り方にも影響する。
 
 それでも大変なネパールに関わる意義はこれからもある。激動する社会の中では、ますます協同して暮らし生きることが求められるので、協同組合の原点を再確認することができる。さらには物や金の乏しい中で、生きる原点を確認することができる。
 上の写真は、PHECTの幹部の聞き取りをしている場へ、人口約7万人のキルティプル市の市長が来た。
 下はカトマンズ市内の土ぼこりをかぶったたくましい街路樹。ネパール人の力強さに重なって私には見えた。


 

2018-11-24

ネパールの旅3

 今回のツアーの目的の1つが、この4月から里子になった1人の母親が、夏に自殺したとのことで、理由や里子のその後を知るためであった。カースト制の最下層であるダリットの子どもで、若い夫婦は大きなスワヤンブナート寺院、猿が多いので別名は猿寺院といわれている境内の数か所あるトイレの清掃をし、そのチップで親子4人が暮らしていた。住まいは、トイレの前にある寺の建物の軒下に造った小部屋であった。ダリットの里子支援をお願いしているバラット夫妻の話では、夫がアル中で暴力を妻にふるい、さらには妻の妹にも手を出すなどしたため生きる希望をなくし自殺したとのことであった。
 可愛く幼い子ども2人を残しての自殺は、どれほど辛く切ないことだっただろう。きっと何回も迷ったと思う。子どものためにもどうにかして生きていてほしかったが、これが現実である。
 小部屋を訪ねると、無精ひげをはやした夫がいた。2人の子どもは遠くの施設に預けているため、里子支援は今年で残念ながら終わりにするしかない。4月に撮った下の写真を渡すと、悲しそうな顔でジッと見つめていた。母親が首をつった木は、そこから見える場所に立っていた。笑顔の消えたであろう2人の子どもを思うと、何ともいたたまれない重い気持ちになって寺を降りた。

2018-11-23

ネパールの旅2

 チョーバス村からはヒマラヤ山脈を見る事ができ、楽しくいくつものスケッチをすることができた。
 次の日にカトマンズに帰り、サーランギの師匠がミニコンサートをしてくれたので楽しいひと時をすごすことができた。サーランギとはヴァイオリンの原型のようなもので、素朴な音色を奏でる。民族楽器には、伝統的な思いが詰まっていて味わいがある。

ネパールの旅1

 14日の深夜に羽田空港国際ターミナルへ6人が集合し、バンコック経由で15日の昼過ぎにネパールの首都カトマンズに予定通り入った。今年の4月以来だから約半年ぶりであった。
 市内の銀行で両替をし、夕方からは現地のNPOであるHEENEPの世話役の2人と会って、日本からの里子の支援金と新たに設けたHEENEPの支援金を手渡した。同時に翌朝からのチューバス村視察についてなど相談し、疲れもあって早めに寝た。
 16日は早朝にホテルを出て、2台のチャーター車でチョーバス村に入った。今回は里子への文具の手渡しの他に、持参した折り紙とサッカーボールでの交流があり子どもたちに喜んでもらった。他に段ボール箱4本の古着を持参し、里子たちに選んでもらった。
 天候が良く村から7000m級の山々を望むことができ、何枚ものスケッチをすることができた。夜は前回と同じ民家で泊めさせてもらい、満天に輝く星空の下で、地酒を飲みつつ村の方たちとネパールと日本の歌で踊り楽しく交流した。

2018-11-11

11月の寺子屋

 10日の夕方から寺子屋が開催となり、亀有にある寺へ出かけた。前半はゼミ形式の参加者報告で、今回は雑誌「かがり火」に連続対談「そんな生き方あったんや!」を連載している杉原さんからであった。30年近く続くこの雑誌は、地域社会に生きる無名人を取り上げ、全国にいる260人もの支局長も大きく支えている。これまでに連載した8人の紹介を聞くと、やはり人間っていいなと再確認できた。
 後半は哲学者内山節さんから、法華経の第14求法者たちが大地の割れ目から出現した、第15如来の寿命の長さについて、岩波書店の本をテキストにしての解説があった。法華経は釈迦が亡くなって400年ほどたってからできた経典で、普通は法華経というと日蓮宗を思い浮かべるが、聖徳太子が大切にしたり曹洞宗などでも重視しているとのこと。経典の現代訳を読んでも、私にはどうもピンとこないことが多々あるが、内山さんの解説がおもしろい。今の日本社会は西洋文化を取り入れ何事も個で成立っているが、仏教は全体が繋がっているとし、これからの日本や世界を考えるうえで大きなヒントにあるとのこと。さらには哲学について、以前は観念論と唯物論との分け方であったが、そんな単純なものでなく、あえて分けるとすれば人間信用を前提にするか、人間不信を前提にするかで、仏教は前者になるとのこと。観念論と唯物論を対比させていた私はギクリとした。
 8時からアルコールも入ったいつもの懇親会となり、内山さんとしばし話をさせてもらった。日本の仏教界が、仏教を変化する運動体としてとらえずに衰退している中で、世界の平和をめざしている日本山妙法寺の動きは評価していた。また福島の原発事故による自殺者への寄り添い方について聞くと、とにかく大変お疲れ様でしたと心底から弔うしかないとのことで納得できた。

 14日の夜から22日までネパールへ半年ぶりに飛ぶことにした。私の8人いる里子の中で、4月に会ったある里子の若い母親が自殺したとのことで、詳しい事情を聞くことと、日本の医療生協が20年前から支援しているカトマンズのモデル病院での聞き取りがメインである。