2011-06-16

被爆ハマユウの花が

 例年だと7月に入って咲くのだが、借りている畑の一角にある30本ほどの被爆ハマユウの1本が、いつもの白い花をもうつけてくれた。福島の原発事故に反応したわけでもないだろうが、なぜかここ取手市は、もっと北にあって原発に近い水戸市などよりも放射能の汚染が高い。
 66年前に広島の比治山で被爆した子孫のハマユウである。反核平和のために沖縄などの日本はもとより、韓国やスリランカやマーシャルなど世界の各地にも運んできたが、まさか自分の住んでいる足元で、原発による放射能汚染に脅かされるとは思ってもいなかった。反核のシンボルとしての被爆ハマユウを、もっともっと拡げたいものだ。

2011-06-15

3人目の孫誕生

 6月14日に予定より3日早く、長女の明美に3人目の子どもが産まれた。今回は本人の希望で、助産師さんを呼んで自宅出産。朝に陣痛が始まったとの電話連絡が本人からあり、妻が駆けつけるとすでに家族に見守られて出産は終わっていたとの超安産であった。やはり家庭での自然分娩が母体にもいいのだろうか。体重は3000g弱で、男の子の名前は伶(れい)。どんな人間に成長してくれるのか楽しみ。


 4月に住んでいる取手市の水道水で、基準以上の放射能汚染があったりしたので心配していたが、無事に産まれてとりあえずはホッとしている。それでも福島第一原発の事故はまだ続いているので、不安はまだまだ続く。

2011-06-11

岩手県の被災地

 6月8日から10日まで岩手県に入り、沿岸部の被災地をまわってきた。まず8日は盛岡市にある「いわて生協」の本部を訪ね、菊池専務や県連の加藤会長などから、震災後の生協の対応などについて聞き取りをした。約2000名いる職員のうち、2名が死亡または行方不明となっている。地震による建物の被害は幸いなことにあまりなく、滝沢村にある本部の入り口前の雨避けが落下した程度。やはり大きいのは津波であった。加藤さんからは、生協だけでなく生産者の復興への取り組みなど、幅広い動きを聞くことができて参考になった。特に漁民を中心とした、県漁連や宮古市にある田老漁協の動きは興味深く、9日と10日にそれぞれの事務所を訪ねることにした。
 9日は8時半にホテルを出て、生協職員の畠山さんの案内でまず宮古市へ。偶然にも田老の出身で、父親は漁業をしていたとのことで詳しい話を聞くことができた。「津波太郎(田老)」の異名を持つ田老地区は、日本一と言われる10mの堤防が集落の入り口に設置してあることで有名だが、今回の津波はそれを超え、いくつかの鉄筋の建物を残して町並みは全てなくなっていた。
 宮古市には生協の店が4店あり、その中でも一番大きなドラ店を訪ね、菅原店長などに話を聞いた。津波で犠牲になった方の遺体にかける浴衣を、被災していない組合員に店内放送で呼びかけた店長でもある。生協らしい人道支援がここでも展開されていた。
 午後は車で南下し、山田、大槌、釜石と廻った。どこも町並みが消え去り、「ここに町がありました」と言われても、想像すらできない。異臭だけでなくハエが大量に飛び交っており、住民の

衛生のことが心配になった。盛岡に帰ってきたのは、夜の8時を過ぎていた。
 10日は、生協の労組や県漁連、そして岩手信用生協の上田専務を訪ね、それぞれ震災への対応などについて聞かせてもらった。

2011-06-05

今崎暁巳さんを偲ぶ会

 4日の1時15分から北とぴあのペガサスホールにて、約140名による偲ぶ会があり、事務局の一員として朝から出掛けた。近くのスーパーでビール264本やツマミ類を大量に購入し、配達を依頼して会場へ。11時から他の事務局とホールを設営し、昼からの偲ぶ会を迎えた。日フィルの四重奏が奏でる中で、参加者による献花から始まり、実行委員長である柳沢さんの挨拶から各界の代表の挨拶など、多彩な話を聞くことができた。久しぶりに会ったケーナ奏者の八木倫明さんは、賛美歌「アメイジング・グレイス」を厳かに演奏してくれた。いい偲ぶ会だった。
 4時前に終え急いで後片付けをし、5時前には無事に終了。二次会はベトナムから駆けつけてくれた小松さんを含めて、ルポ研のメンバー10数名で近くの居酒屋へ。美味しいお酒だった。どうにかしてルポ研の再出発につなげたいものだが。

2011-06-02

水織ゆみチャリティコンサート

 6月1日の7時から北区の「北とぴあ」にて、水織ゆみさんの「東日本大震災チャリティ~小さな祈りの灯コンサート」があり出掛けた。実はこんなシャンソン歌手がいることはまったく知らなかったし、書きかけの原稿は終わってないのでどうしようかと少し迷ったが、3・11に本人の創った「小さな祈りの灯」の詩を見て、これは聴きたいと思って出掛けた。
 はりの有る声量で「青葉城恋歌」からスタートし、「紫の桜」や「マイ・ウエイ」などを熱唱してくれた。途中では彼女が何度か訪ねた被災地の映像も流れ、二部の最後の曲「セ・ラムール」では手話付きで歌い、被災者に寄せる思いがよく伝わってきた。
 それにしてもバイタリティのある女性である。駆けつけた友人の歌手たちと、2時間の舞台でずっと熱く語り、歌い、そして舞っていた。黒いロングドレスから、少しのぞいていた膝には、2枚のバンドエイドが貼ってあった。被災地での支援活動でもで転んだのだろうか。ぜひこれからも素敵な歌をお願いしたい。チケットを贈ってくれたO

さんにも感謝。ありがとうございました。