2013-10-11

宮城県南部の被災地を訪ねて

10月2日から宮城県に入り、これまでは石巻市や気仙沼などは北側は何度か訪ねたが、今回は県南の被災地を中心に見てきた。地域としては、岩沼市、亘理町、山元町である。
 長い海岸線は、どこも10mほどの津波で被災し、松林も無くなるか、もしくは残っていても枯れて見るかげもない。平地は除塩を徐々に終え、山川では稲作ができるようになっていたが、海側はまだ作付けができなく、雑草の伸び放題の土地も少なくない。
 復旧・復興は進みつつあるが、現地で聞くといろいろな問題や課題も見えてくる。1つが防潮堤である。どこも7mほどの高さで工事し、さらには海岸と並行に走っている国道6号などをかさ上げし、二重の堤防にしようとしている。これらは海からの津波には効果的であるが、他方で大雨や台風などの内陸からの排水への配慮が不充分な場所があり地域で問題になっている。
 復興予算の使い方も問題が少なくない。山元町の三大農産物は、米・イチゴ・リンゴだが、復興予算の大半はイチゴにつぎ込み、水耕栽培での植物工場など巨大な施設ができ、農場なのか工場なのか見間違えるような風景に驚いた。均一な農作物ができ、日本の農業がこうなっていくのかと思うと、何か複雑な心境であった。
 ともあれ現地に行ってみないとわからないことは多い。来月も再度宮城県南部に入り、もっと多くの人から現在の被災地の動きを聞くつもりである。写真は植物工場の内部で、肥料は全て水に溶かしてパイプで流し、室内は温度や湿度をコントロールしている。

2013-09-25

「若冲(じゃくちゅう)が来てくれました」展

 9月20日に福島で震災復興支援の交流会があり、前日から福島入りをした。県立美術館で、東日本大震災復興支援特別展として、「若冲が来てくれました」を鑑賞することが1つの目的であった。
 福島駅前のホテルに荷物を預け、徒歩で信夫山ふもとにある美術館へと歩いた。持参した線量計は、0.4μSv/hから0.5を推移し、あいかわらず高い。年間にすれば4~5mSvになり、チェルノブイリの基準であれば移住の権利か義務の対象地である。もう誰もマスクをせず、途中で会った2か所の除染工事をしている人も、ヘルメットはしているがマスクなしの人もいて驚いた。
 プライスコレクションによる展覧会は、-江戸絵画の美と生命ーの副題があり、やはり若冲の作品は見応えがあった。中でも花も木も動物もみんな生きているとした「鳥獣花木図屏風」は圧巻で、小さな桝目を無数に並べた手法も独特で面白かった。他の作者の作にも、白い象と黒い牛を対比させた屏風もあれば、蜂を見上げている猿のリアルな表情など、どれも遊び心をいれたユニークな作品であった。
 江戸時代は、普通に考えるほど窮屈でなく、それなりの独自文化が大きく花開いたとみてよいのではないだろうか。
 20日の午前中は、食のみやぎ復興ネットワークに関わっている内池醸造を福島市郊外に訪ねた。駅から工場までは広いリンゴ畑で、台風18号のせいかいくつもの赤いリンゴが落ちていた。
 午後からの交流会は、全国から170名も集まり、高知からだけで15名もいて驚いた。各地のコヨット企画でお世話になった人も何人かいて、夜の交流の場も福島産の料理やお酒で
楽しく過ごすことができた。
 

2013-08-28

松川事件無罪確定50周年

 8月24,25日と福島大学で所属する日本科学者会議の原子力問題全国シンポがあり参加した。いつものことながら簡易線量計を持っていく。乗り換えた郡山駅から0.2や0.3マイクロシーベルト/時間となり、それは福島大学に入っても同じであった。国際基準である年間1ミリシーベルトは時間にすると0.1であり、住民の健康が心配である。もっとも取手の我が家でも0.13マイクロほどあり、子どもや孫も心配だが。
 「福島原発事故・災害ー2年半後の現実と打開の展望ー」と題したシンポでは、初日の「福島原発事故の評価をめぐって」で4本、2日目は、「除染と廃棄物処分をめぐって」で3本の報告があった。原子力村との協力の在り方や、県が進める健康調査の評価などについて鋭い意見交換があって刺激になった。
 ところで福大では、ちょうど松川事件無罪確定50周年の特別展示をしており、両日覗いてみた。私の生まれた1949年に発生した列車転覆で3名が殺され、地元の国鉄と工場の労組幹部20名が不当に逮捕され、1審や2審で死刑や無期などを受けたが、14年もの全国的な闘いで全員無罪となった。アメリカの特殊部隊と日本政府の仕組んだ戦後の大事件の1つであった。膨大な資料があり、広津和郎の懐かしい本「松川事件」もあった。生協総研時代の友人である林さんがこの6月から福大に移っていたので、初日のシンポの後で会い、車で大学近くの松川事件の列車転覆の現場まで足を運んだ。
 途中で農婦に尋ねてたどりついた小さな公園には、広津による碑文の大きな「松川の塔」がそびえ、列車が転覆した現場の線路際には墓標が立っていた。
 松川事件の後で、広津はこう書き残している。
 「何よりも先に、正しい道理の通る国にしよう。我等の国を」
 汚染水1つをとっても、福島原発の事故がまだまだ収束にほど遠い状態にもかかわらず、原発の再開を準備し、さらには海外への売り込みを首相が進めている。一部に今でも
棄民化されつつある被災者を考えると胸が痛む。どうみても道理の通る国ではない。広津の言葉が、今も輝いている。
 写真は列車転覆近くの「松川の塔」

2013-08-16

福島の子ども保養プロジェクトに参加して

 暑い。故郷の高知では何と41℃を記録したというので驚く。いくら南国土佐とはいえ、風呂の温度で暮らすとは想像もしていなかった。
 そこまでいかなくても、各地で猛暑が続く7月下旬から8月中旬にかけて、いくつもの生協が呼びかけて22もの「福島の子ども保養プロジェクト」が開催となり、やりくりして以下の場に参加させてもらった。
 7/23~25 大阪:大阪府生協連、大阪いずみ市民生協
 7/26~29 奈良:ならコープ
 7/31    茨城県石岡:CSネット、東都生協
 8/2~3   青森:コープあおもり
 8/6     茨城県大子:いばらきコープ
 8/7~9   新潟:パルシステム連合会
 8/9~11  富山:富山県生協連
 それぞれが受け入れの生協の創意工夫によって、楽しい場がいくつもあった。特に今年は福島県生協連から食育を大切にしようとの呼び掛けもあり、各地でより生協らしい取り組みとなった。
 大阪では流しソウメンを食べ、奈良では柿の葉寿司を作り、石岡では田んぼの生き物調査、青森では「ねぶた祭り」のハネトで汗を流し、大子では伝統食のオヤキを作り、新潟では収穫した野菜で食事し、富山では海で釣った魚を食べた。
 いくつかは保護者も参加し、子どもだけでなく大人にとっても久々の保養となっていた。これから来年の3月出版に向けて、ぜひ意味のある

復興支援本の第4冊目に仕上げたい。 
*写真は富山でジャガイモ掘りをする福島の家族と支援者    

2013-07-01

東海第二原発の廃炉を求める全国交流会In茨城

 6月29日は10時から同全国交流会が「ひたちなか市ワークプラザ」であり、200名をこえる参加があった。東海村の村上達也村長の講演「ターニングポイントー原発と改憲ーが圧巻であった。以下は当日のレジメからの一部引用である。
・はじめにー戦後歴史の転換期
  「原子力政策(原発推進)は国策である」 国策とは実にオドロオドロシイ言葉。  日本人の思  考パターンは「現在主義」「大勢順応主義」(加藤周一「私にとっての20正規」岩波現代文庫
・3.11 女川原発から東海原発までの14基は全て危機一髪であった
  東海第二原発は、後70cmで大惨事、SRV操作170回でやっと成功、冷温停止に3日半
・原発異存に未来はないー原発による繁栄は「一炊の夢」後は「無間地獄」
  損害賠償10兆円、除染費用20兆円とも。それでも帰還は困難で悲劇は解消されない
・この国は原発を保有する資格も能力もない。悲劇はまた起こる
  原理原則なしか無視で、目先の利益や損得優先。事故の原因究明ないままに再稼働を急ぐ異 常な精神文化
・原発推進と軍隊保有の心情と勢力は一体。核を保有したい北朝鮮やイランに相似
  憲法9条改定(軍隊創設)は、この国の形を全面的に変える
・寒気を催す自民党の美しい国「憲法改正草案」(2012.4)
  最高法規としては低劣で恥じずべき前文で、知性のカケラもない(法意識の貧困)
 1時間にわたる中身の濃い話しの最後は、「今や国民の知性が問われている」で、私の胸にもグサリと刺さった。
 A4版で両面にビッシリと書かれたレジメである。有名な
人の大半が、レジメなしでどこでも同じことを話しているのに対し、村上村長さんの真面目さがよく出ていて好感が持てた。
 *写真は壇上の村上村長

 

2013-06-30

東海第二原発を訪ねて

 6月28、29日にかけて、原発問題住民運動全国連絡会センターと同交流会茨城実行委員会による共催で、「東海第二原発の廃炉を求める全国交流集会in茨城」があり参加した。
 28日の1時に東海駅前からバスに乗り、県原子力科学館別館で1999年に2人が被曝して死亡したJOC臨界事故モデル見学などをし、原電(日本原子力発電)・東海ララパークを訪ね、東日本大震災による東海第二原発への影響や対策についての説明を受けた。
 東海第一原発は、日本で一番古くてすでに廃炉となり。2011年3月は解体の作業中であった。第二原発は、1年前に完成した防潮提6mに対し5.4mの津波が押し寄せ、3本の外部電源のうち1本が使用できなくなった。福島第一原発を襲ったと同じ津波であれば、ここも同程度の事故になった可能性があると電源の担当者は話し、同じ県内に住む私は聞いていて背筋がゾッと寒くなった。たまたま福島の浜通りの人が今回は避難しているが、茨城の東海原発やもしくは宮城の女川原発が事故を起こし、その近隣の人たちが避難していてもなんら不思議ではない。
 原電は、カラー刷りの「東海第二発電所の震災時の状況と安全対策強化の取り組み」と題した14ページの冊子を配り説明があった。いろいろと小手先の対応策を書いているが、どれもこれまでの安全神話の域を出ていない。大きな字で、「一部の国では脱原子力発電の方針を決めていますが、世界の大勢では今後も原子力発電はクリーンなエネルギー源として着実に増加する・・」と明記している。ドイツだけでなく世界の大勢は脱原発であり、まったく世界の動きを見ていない。そしてあいかわらず原発こそがクリーンなエネルギーといい切っているが、事故もなく発電するときだけであれば安くてクリーンかも知れないが、自然を破壊して大量のウランを採掘するために、莫大な石油を使ってCO2を出すし、さらには何千年や何万年もかかる(それでも完全に安全になるか不明)核燃料などの廃棄物処理を考えると、経済面でも原発を止めるべきだろう。現にアメリカは、総合的なコストの比較で原発の見直しが財界の中から出つつある。
 原発を再稼働しようとする電源や東電、そして政府の考えは部分最適でしかない。そうではなく、ウランの産出から核廃棄物の処理までの、全てのことを対象にした全体最適を人類は考えなくてはならないだろう。技術開発の見通しがまったくない原発は、廃炉しかないと私も考える。
(写真の正面が東海第二原発で、右が廃炉作業中の第一原発)

2013-06-26

福島の被災地・浪江町を訪ね

 23.24と東大生協OB会有志を中心とした福島被災地ツアーがあり、23日の宿泊先である飯坂温泉から合流した。参加者の20名は、運転手や事務局を含めて全員が手弁当で、東京からの2日間のバスや宿泊代を含めて1万1000円という格安であった。宿の「一柳閣」は、地震によって床の傾斜など損傷はあるが、どうにか工夫して営業していた。一番の問題は放射能汚染の影響で、福島駅で0.2から0.3μSv/hの放射能汚染は、20分ほど離れた飯坂温泉駅前でも同じ程度あり、さらに歩いていると徐々に高くなり、何と2μSv/hにもなる場所があって驚いた。ホテルの場所はいくらか落ち着いたが、それでも0.4ほどあり、年間では4mSvとなりチェルノブイリであれば放射線管理区域となる。
 夕食の前に学習会の時間があり、地元の「九条の会」から講師を招き現状について報告してもらった。その場で私の方から、昨日からの子ども保養プロジェクトなどについて簡単に紹介させてもらった。震災関連死の話もあったので、直近のデータで2688名を伝えた。
 24日はラジオ体操をした後で8時に宿を出発し、一路浜通りの南相馬市へ。福島市から川俣町などを過ぎ、山を超えると南相馬市に入る。途中で放射能の空間線量は、高くなったり低くなったりする。道路や田畑などに、放射能を除染したゴミを入れた大きな黒いフレコンバッグが並びだし、持って行き場所のない事や、除染の手抜きの問題や、手当を下請けから孫請けへとピンはねする構造などについて私の方でマイクを使い解説させてもらった。
 南相馬市の役場で現地のガイドである漁師さんが同乗し、線量の高い小高区から浪江町へと案内してもらった。小高は出入りが昨年から自由になっているが、駅前の商店街に人影はまったくない。浪江町の請戸漁港の入口の道には、ガードマンがいて一般人は立ち入りが禁止されている。ガイドが対応し、ナンバープレートを記入して許可を受けて入る。請戸集落で全ての家屋が津波にやられ、双葉郡で一番多い120名もの方が亡くなるか行方不明となっているそうだ。ここはまだ放射能汚染が0.5前後と高く、壊れた家屋や転がっている車なども3・11のままで、まるで時間が止まっているかのような錯覚になった。ガレキや生い茂る雑草の下に、まだ沢山の遺体があるのだろう。いたたまれない気持ちになった。道路脇の一角に観音様を中心とした小さな慰霊碑があり、皆で合掌した。せっかくなのでにわか坊主となった私は、28文字という一番短いお経である「四句請願」を読経させてもらった。南の方向には、エフワン(東京電力福島第一原発)の高い煙突がくっきりと見える。(写真の右上のかすかに見える数本の煙突)
 最後の訪問先は、同じ浪江でも山裾にある「希望の牧場」である。3から4mSv/hと極めて高く、牛や乳を出荷できないが、それでも金でない生き方を求めて300頭の牛を飼育している。浜通りでも唯一原発に反対してきた浪江町が、すでに町役場は二本松の仮役場へ移るなどして多くが避難し、とんでもない苦難を強いられている。59歳の牧場代表の吉沢さんは、「20年かけて原発異存の社会を変える。今私たちが立ち上がらなければ、いつ誰がやるのですか」と熱く語っていた。まさにそうである。
 帰り道がまた大変であった。浪江からいわき市へ抜ける国道6号線は途中で封鎖されておりUターンし、南相馬から山を超えて二本松に出て東北自動車道を使い、都内に戻ったときは夜の10時前になっていた。宿泊先では左右からのイビキで寝られず、長距離のマイクロバスで疲れたが有意義な旅であった。復興
支援の継続と同時に、自らの暮らし方や生き方が問われている。
 

2013-06-25

福島の子ども保養プロジェクトinぼなり

 6月22日、23日と福島県猪苗代湖近くの中ノ沢温泉にある「リゾート・インぼなり」において、福島県生協連が主催する子ども保養プロジェクトがあり参加した。いつもは福島市や郡山市などからの親子40名が参加してのんびりと遊ぶ企画だが、今回は遠くは大阪いずみ市民生協から22名のボランティアがやってきて、タコ焼きの実演と作ったタコ焼きを一緒に食べ、母親にはオイルマッサージでリラックスしてもらい、子どもと父親には元気に外遊びを楽しんでもらった。
 タコ焼きの具には、タコはもちろんだが、それ以外にもチーズや竹輪やウインナーなどを大阪からのバスで運び、好みに応じていくつもの組み合わせができるようになっていた。親だけでなく子どもたちも興味深々で、たとえ形が丸くならなくても歓声をあげて挑戦し、作ったタコ焼きを美味しく食べていた。
 外遊びでは、これも大阪から持ってきてくれたシャボン玉、いくつものボール、手作りの紙トンボや飛行器などで子どもたちは元気に駆け回っていた。
 夕食の場では、ビンゴゲームで大阪の土産を全員がもらって和やかになり、細長い風船を使うアートバルーンなどもあって子どもたちは大喜びであった。
 23日は9時にホテルを出発し、猪苗代湖の遊覧船で40分ほど観光し、その後で磐梯高原にある南ケ丘牧場に行って、乗馬やヤギへの餌やりなどを楽しんだ。梅雨の時期で天候を心配していたが、両日とも天候に恵まれて企画は無事に終わった。
 外遊びがまだ福島では制限されている子どもたちが多く、ここでは心配せずに走り回り、もちろんおもちゃの取り合いで泣いてしまう子どももいたが、楽しく遊んでいる姿が印象的だった。またストレスの溜まっている親にすれば、外遊びだけでなく温泉やオイルマッサージなどもあってリフレッシュできたことで、また参加したいと話している親が何人もいた。参加した子どもの絵には、タコ焼きの様子や、親子4人が裸で風呂に入り「おんせんきもちいです」と書いたものもあった。ぜひ次の本にもつなげたい。

2013-06-09

ルポルタージュ研究会の仲間と

 6月8日の4時半から、都内の大塚駅近くでルポ研の仲間6名で久しぶりに会った。メンバーの浅利正さんが、結婚50年を祝って本人はルポ3編と、奥さんの小説8編を載せた『たたかいと愛と、これからもー短編小説とルポでつづるふたりの五十年』(一粒書房)を、また三輪純永さんが『グレート・ラブー関藍子の生涯ー』(新日本出版社)をそれぞれ出版し、それを祝うことが目的であった。
 浅利さんのルポは、奥さんの小説と一緒に読むことによって、同じ社会や人の動きがより立体的に見えて面白かった。そもそもルポや小説は、編集する側からの区分であり、読み手にすれば関係ないことである。社会の本質に切り込むため、もっと枠は柔軟であっていいのではないだろうか。
 三輪さんの書いた本では、戦後の社会の変動と、その中での歌声運動や関さんの果たした役割を知る上で参考になる。歌声をルポに読み替えても通じる内容であった。それにしても、200ページの単行本を、丸2日かけ集中して資料を読み込み、首が上がらなくなったことや、通常の仕事をしつつ原稿をわずか1カ月で仕上げたことには驚いた。
 こうした仲間が、私にとっても良い刺激になる。ただただ残念だったのは、お酒の
ドクターストップがかかっていたため、ずっと私は烏龍茶で過ごしたこと。次に会うときは、必ず体調を戻し、以前のように楽しくお酒を飲みつつ議論しようと約束して2時間半後に別れた。
 

シンポ「3・11以降、日本は何が変わったのか」

 6月8日の午後1時から都内四ツ谷の懐かしいプラザエフにて、このシンポがあり参加した。その前に医者へ寄り、血膿の出ていた傷口を診てもらった。5月24日まで訪ねたソウルで、虫に刺された腰の痕が化膿し、市販の塗り薬で対応していたらだんだん悪化し、6月3日にどうしようもなく医者を訪ねると、とんでもない素人処置でなぜもっと早く来ないのかと怒られてしまい、ステロイド剤と抗生物質をもらって飲んでいた。もちろんきつく禁酒を厳命されて。医者に言わせると主な原因は、抵抗力の低下しているときに、虫刺されの痕に入った雑菌が繁殖したとのこと。64歳にもなったので、歳を考えて無理をするなということのようだ。深く反省。
 さてNPO現代女性文化研究所主催のシンポでは、写真家の大石芳野さん、作家の森まゆみさん、城南信用金庫理事長の吉原殼さんがパネリストとして登場し、コーディネートはルポライターの鎌田慧さんであった。それぞれが著名な方で、すでにいくつもの本や雑誌などで原発関連の大切な発信をしており、その貴重なエキスを解説していた。3・11以降ですでに2年以上がたち、文化や祭りなども大切にして前に進みつつある人や、脱原発にあの小泉純一郎や小林よしのりなども賛同して動いていると聞いて驚いた。これも脱原発の拡がりと喜ぶべきことなのだろうか。

2013-06-04

脱原発の大行動に参加

 6月2日(日)の11時に、久しぶりの明治公園へと足を運んだ。「原発ゼロをめざす中央集会」が午後1時からあり、全国から関連する団体がテントによるブースを出しており、そこでまず話を聴いたり資料をもらった。「地球の子ども新聞」では、関東以外の全国でも放射能汚染が広がっているカラーの地図を発行していた。「さよなら原発いばらきネットワーク」では、東海第2原発の危険性を、分かりやすい図にして展示してあり参考になった。
 以前の天気予報では曇りもしくは雨とのことだったが、晴天となった会場には次々に人が集まり、集会の開始の頃にはほぼ公園は満杯になっていた。
 福島の被災地からの訴えに続き、京都・長崎・愛媛・新潟・島根・埼玉などにおいて、脱原発に向けて運動を展開している諸団体からの元気な報告があった。大人はもちろんだし、学生などの若者の発言もあり、各地で創意工夫した運動の進んでいる様子がよくわかり頼もしかった。
 会場には色とりどりの旗や幟が見える。各地の土建や新婦人などと一緒に、いくつもの医療生協や同労組の幟もあって嬉しかった。
 なおこの日は、芝公園において「6.2つながろうフクシマ!さよなら原発集会」が同じ時間で開催され、明治公園の集会には代表の1人が連帯の挨拶に来ていた。それは結構なことだが、なぜ同じ主旨であれば同じ会場でしないのかと、いつものことながら残念な話である。
 2時過ぎに集会を終えて、参加した1万8000名は3方向に向けてデモ行進し、最後の人が公園を出たのは3時半頃であった。
 4時から国会の周辺では国会大包囲の行動が、上記の2つの集会の主催団体と、首都圏反原発連合の呼びかけで行われて、そちらにも合流した。こちらは狭い歩道などに8万5000人も集まり、駅からすでに人があふれる大混雑であった。音楽や踊りなどのパフォーマンスもあり、これまでにない熱気に包まれていた。少しでも政治に反映させてほしいものだが。
 すっかり汗をかきつつ歩きまわり、夜の冷えたビールが五臓六腑に心地良く染み渡った。

2013-05-28

「たのしい講談・やくだつ鍼灸」

 5月26日(日)の2時から会津若松の鶴ヶ城側にある市文化センターにおいて、避難者が講談と鍼灸を学んで元気になるイベントが生協パルシステム連合会の協賛で開催となり出かけた。タイトルは「共に頑張ろう!会津 たのしい講談・やくだつ鍼灸」で、講談にはANA寄席でおなじみにの神田紅さん、鍼灸は深山(みやま)すみ子さんが話してくれた。
 神田さんは、大きな声を出すことによって元気になると、自作の「八重の桜」の原稿を皆に配布し、強弱を付けての発声を練習させてくれた。講談の構成や、「メリハリ・ツッコミ・うたい調子」も分かりやすく解説してくれたので、講談が身近になった。また元気な講談「貝原益軒と養生訓」も楽しく勉強になった。
 深山さんは、ようじの束や火を使わないお灸も含めて、いろいろな形でツボを刺激する方法を教えてくれたし、ツボについて書いた自著も全員にプレゼントしてくれたので、これも大いに参考になる。
 120名ほどの参加で広い会場は少し寂しかったが、笑いや熱気があたりに一杯であった。集いの後での交流会にも、2人は参加して気さくに懇談していた。
 なおパルシステム連合会は、マイクロバスとバンで東京から駆けつけ、仮設住宅と会場の送り迎えをして後押しをしていた。お疲れ様でした。
 なお写真は舞台でお灸の実演をしている場面で、奥の左は深山さんで右は神田さん。
 27日は、前日の集いを企画した二瓶さんにお願いし、大熊町の仮設総学校を訪ねて校長さんに会って、子どもの現状や課題などについて話を聞かせてもらった。2011年の役場が会津若松へ避難するときに、2校の小学校と1校の中学校も移転させた町で教訓的であった。その後、楢葉町からの仮設住宅や、現代的な仏壇屋と会津木綿の工房も見学させてもらった。復興支援と同時に地域興しも大きな課題である。またゆっくりと会津若松を訪ねたいものだ。

ネパールの子ども支援

 5月24日の夕方6時半から、渋谷のコーププラザにおいて「ネパール子ども基金・里親の会」があり、韓国より戻った成田空港から直行した。以前から日本生協連の職員を中心とし、私を含めて26名の里親が年1万2000円の会費で、地元のNPOであるHEENEPを通して子どもの勉学を中心に支援している。
 この日はやっと届いた決算書を私が説明し、そのあとに話し合った。いったい支援金のどれくらいが子どもに渡っているのか分からず、不信感もいくらかで初めていた。収支決算書をみると、2010年度は79%、2011年度は75%が子ども関連の費用であり、後は組織で活用している。これくらいであれば引き続き支援しようとなり、他の里親にもこれで案内することになってホッとした。会費の半分以上が組織の経費になっているNPOなどもあり、それに比べれば健全な運営といえる。もっとも子どもに渡る割合が低下しているので、高める努力をしてほしいと翌日にHEENEPの責任者へメールした。

2013-05-25

韓国の旅2

 5月23日にソウル特別市にあるホ・ジュン博物館を訪ねた。私はまったく知らない人であったが、韓国ドラマで日本でも放映され熱心なファンもいるようだ。1610年に東医宝鑑という本をまとめるなど、薬草や鍼灸などによって人々の健康を守る活動の総合的な体系を作った人である。
 薬草といっても、野山に行けばどこにでも生えているような草花から、樹木の皮、根、金属、石、玉などにも及び、それも中国の翻訳だけでなく、あくまでも韓国の現状に合わせて調査して効能のあったものを編集しているから凄い。朝鮮は中国の文化が日本に渡ってくる途中の地域程度の認識しかしない人もいるが、独自の高度な文化を形成していることがこの一例からもわかる。
 食事にもそうした独自の健康を守る考えは活かされ、夜に食べた豆腐専門店では、味の濃い寄せ豆腐だけでなく、黒ごまで灰色になった豆腐や、人参で黄色になった豆腐などもあって美味しくいただいた。なお火を通していないマッコリ酒も味が良くて、2リットルほどの陶器の容器で出てきたマッコリでも上質のトントン酒を飲み干した頃は、ほぼ出来上がってしまいフラフラになって帰った。いくら体の良いものでも、量は限度がある。

2013-05-24

2年ぶりのソウル

 22日から一人で成田から韓国の仁川(インチョン)空港に飛び、2年ぶりにソウルの奉仕団太陽会の本部を訪ねた。台湾へ「原爆の火」を灯す運動が進んでおり、その中心になっている太陽会の代表である高橋公純さんと相談することがメインであった。親日が多い台湾で、3つの市に働きかけて灯す計画を出しており、そこに提出する日本の取り組みの文書を持参して相談した。来年には1つは実現させたいものである。
 夜は前回同様に歓迎会をしてくれて、たくさんの美味しい手料理や地酒の「百年酒」もあったし、
 私は挨拶で、3・11に対する2度の募金に感謝し、被災地の復興の現状と同時に、原発からの避難者が帰るあてもなく、不安の中ですごしておりこれまで以上に助け合いが大切になっていることにも触れた。
 後半からはカラオケや踊りもあって楽しく懇親することができた。年配の女性の「アリラン」は圧巻であった。
写真は、カラオケも終わり全員での記念写真。(仁川国際空港にて投稿)

2013-05-21

福島の子どもの絵

 徳間書店から出た『ふくしまの子どもたちが描く あのとき、きょう、みらい』(2011年10月31日)を観た。福島相馬の小学生たちの絵を使い、蟹江杏、佐藤史生編の素敵な本である。
 本にはたくさんの絵がカラーで掲載され、その子の想いなども添えてあるので、どんな気持ちで描いたのかよく分かる。
 その1枚が、本の表紙となった「つなみがくるこうけい」である。描いた男の子は、「つなみで友だちの家とかぼくのおばあちゃんがながされたからつなみがきたこうけいをかきました。つなみでサーフィンしているのは、しょうらいのぼくです」と添えている。
 祖母が犠牲になるほどの被害を受けた憎い津波である。それを大人になったときは、サーフィンで乗り越えてやるという気持ちが凄い。
 こうした子どもが成長し、ぜひ形は違ってもサーフィンで社会の壁を乗り越えていってほしいし、そのために今の私たち大人のすべきことはいくつもあるだろう。

2013-05-20

TPPと自民党農政の行方

 5月18日(土)1時半から4時半まで、文京区民センターの会議室において、所属する日本科学者会議食糧問題研究委員会の公開研究会を開催した。報告者は、日本農業新聞社の藤井庸義さんで、昨日首相が発表した農家の所得倍増計画の「攻めの農林水産業の具体化の方向」もあり、参加した20名と一緒に興味深く聞いた。
 そもそもTPPは、環太平洋の国々で貿易を活発化させるとしているが、アメリカの国益を守るためのものであるし、すでに交渉は進んでいるが、どのような内容なのか秘密裏に議論がされているので、確認事項もよく分からない。藤井さんの話では、国民やマスコミだけでなく、政府の中でも農林水産省にも情報が流されていないとのこと。都合の悪いことは全て秘密にし、公になったときは決まった後になるとのことで、これでは民主主義の完全な否定でもある。
 これまでの人類の叡智は、民衆の議論も含めて民主的に進めることであったが、農業だけでなく金融や医療などの多方面のあり方に大きく影響を及ぼすことに、時代錯誤もはなはだしく秘密で進めるとは言語道断である。
 日本の農林水産業が壊滅すると言われているTPPを安倍首相は進めつつ、昨日は農家の所得倍増計画を発表した。2つの方針が両立することは絶対にありえないことで、政府もそれぞれ別のものとして発表しているが、これほど人を馬鹿にした話は
ない。今後ともTPPの動向を注目する必要がある。

広島・長崎の火

 久しぶりに都内にある「下町人間の会」を訪ね、燃える「広島・長崎の火」を見てきた。1990年に私も参加し、福岡県星野村で山本達雄さんが燃やし続けていた広島の原爆の火をもらい、長崎市では原爆瓦にドリルを当てて彩火し、それぞれを東京に運んだものである。上野東照宮の境内に大きなモニュメントを作製し、広島の火は8月6日に点火し、9日に長崎の火を重ねた。その火の下には、「核兵器をなくし、永遠に平和を誓う広島・長崎の火」と刻んでいる。
 この火は2011年の「上野の森に広島・長崎の火を灯す会」の集計で、国内は北海道から沖縄までの45カ所と、海外ではニュージランドとカナダで市民団体などが平和への願いを込めて灯している。他にも孫火が拡がり、たとえば韓国でも灯っているので、実際はもっと多い。
 こうした平和を願う火を台湾に灯す運動が現地でおき、以前に「被曝はまゆう」
を台湾に運んだ関係で、今回も私は協力させてもらっている。
 なお写真の右が広島・長崎の火で、左は10万人が殺された東京大空襲によって焼けた材木から彩火したものである。

2013-05-09

映画「シェーナウの想い」

 パルシステム連合会を訪ねた打ち合わせの後で、会議室にて映画「シェーナウの想い〜自然エネルギー社会を子どもたちに〜」を上映していたので一緒に観させてもらった。ドイツの2500人の小さなシェーナウ市で、チェルノブイリにおける原発事故を受けて、わずか10名の母親が中心となって「原子力のない未来のための親の会」をつくり、協力しあって放射能から身を守る情報を発信するスタンドや、家庭からの意識変革のため節電キャンペーンや節電コンテストもした。
 さらには市と独占的に契約していた電力会社に対し、原発に頼らない電力供給や、エコ電力の利用を申し込むが軽くあしらわれる。怒った母親たちは、それでは自分たちで電力会社を立ち上げようと運動を展開し、いくつもの妨害や困難などを乗りこえて1997年に何と望んだ電力を流し始める。そうした感動的な実話の映像であった。
 上映の後で、一緒に鑑賞していたルポ作家の鎌田慧さんが、ドイツでできたことは日本でもできるとコメントしていた。同感である。やる気もなければ能力もない政治屋や大企業に全てを任せるのでなく、私たちが協力してできることはいくつもある。一人でも多くの方にぜひ観てほしい映画である。

2013-05-06

公開フォーラム「子どもたちの未来のために」

 5月5日の1時半から4時半まで、都内の日比谷図書館の地下の大ホールで、公開フォーラム「子どもたちの未来のために・・・健康被害の未然防止と支援法の早期実施を求め1mSvを守ろう」があり参加した。主催は、放射線被ばくと健康管理のあり方に関する市民・専門家委員会で、それは多彩な話があり勉強になった。話のテーマだけを並べても以下である。①原発事故子ども・被災者支援法の現状と今後、②なぜ1mSvか? 国際的な研究が示す低線量被ばくの健康への影響、③福島県県民健康管理調査の問題点、④チェルノブイリからの教訓、⑤子どもたちの健康を守るためにとあった。そして後半は会場からの質問や意見を交えてのパネル討論であった。
 子どもの健康や命を守ることよりも、金儲けや経済成長に今も走っている残念な現実を再認識することになった。
 集会の後は「こいのぼりウォーク」となり、日比谷公園から厚労省や東電本社前などを経由して1時間ほどのデモ行進であった。デモがあるとは知らずに革靴で参加していたので少し足は疲れたが、小さな鯉のぼりを私も持って久しぶりのデモやシュプレヒコールを楽しんだ。それにしてもデモの様変わりには驚く。太鼓やトランペットなどの楽器を鳴らし、ピンクのメイド姿の若い女性は、軽やかにステップを踏みつつ、「福島の子どもを守ろう!」、「放射能から守ろう!」と明るく呼び掛けていた。
 なお集会やウォークに生協からは、パルシステムの仲間が4名参加していた。お疲れ様でした。

2013-04-25

映画「二十四の瞳」

 久しぶりにビデオで、木下恵介監督の映画「二十四の瞳」を観た。インターネットで無料鑑賞できるから、便利になったものだ。
 第二次世界大戦の前と後で、瀬戸内海の小豆島に生きる高峰秀子さん演じる大石先生が、時代に翻弄されながらも12人の教え子の成長と相まって、社会と正面から向き合い人間らしく生きていく感動作である。何回も熱い涙を流しながら画面を追った。
 作者の壺井栄さんは、小豆島出身だが小学校しか出てなく、子どもから大人までを読者の対象とした家庭小説としての創作ではあるが、事実を積み上げるノンフィクションやルポよりも、社会の動きや人間の在り方の本質を見事に描いている。1952年で栄さんが52歳のときに仕上げた本だから、それまでの全人生をつぎ込んで仕上げたのだろう。「戦争反対!」と声高に叫んでいるわけではないが、田舎の1女性の素直な生き様を通し、いかに戦争が非人間的であるかを描き、じんわりと静かであるが力強く反戦を訴えている。
 東電福島第一原発により、これまでになく不条理な核社会となった我が国において、「二十四の瞳」のように政治スローガンを全面に出すのでなく、人間性や倫理のレベルから反核を拡げることは意味がありそうだし、その精神は次の福島をテーマのルポの本にぜひ
活かしたい。

2013-04-22

「合唱団この灯」20周年演奏会

 4月21日の午後に、錦糸町にある「すみだトリフォニーホール」の大ホールで、「合唱団この灯」の20周年演奏会があり、歌っている東大生協OGの知人がいて妻と足を運んだ。1000人ほど入る大ホールがほぼ満席で驚いた。「浜辺の歌」で始まり、荒木栄の「仲間の歌」や「百万本のバラ」などもあった。「浜辺の歌」を聞くと、100歳で亡くなった新藤兼人さんの自伝でもある映画「愛妻物語」を想い出す。
 休憩の後は、カンタータ「この灯を永久に」より、「3 祖母キクの独唱」と「10合唱」があった。「この灯」とは広島で燃えていた原爆の火であり、それを祖母からもらった懐炉で九州にまで運んだ山本達雄さんをテーマにした組曲である。キクさんに会ったことはないが、山本達雄さんには生前に九州の星野村で会ったことがあり、当時を想い出しながら聞かせてもらった。
 特別出演で、福島県立いわき海星高校生によって、太鼓と鐘を打ちつつ震災の犠牲者にも捧げる鎮魂の
「じゃんがら念仏踊り」があった。
 「3.11に心寄せて」では、「私がそだった町」、「ふるさとは、今」、「ぼく外で遊びたいなあ〜」、「ぼくはわたしは生きる」、「雲に人間を殺させるな」と続いた。どれも新しい歌で始めて聞いた。それぞれ3・11の犠牲者や避難者に心を寄せたいい歌である。「ぼく外で遊びたいなあ〜」を歌ったのは、地元の「すみだ どんぐり森モリモリーズ」の親子約100名で、放射能汚染で外遊びのできない福島の子どもたちの気持ちを伝えていた。
 最後は出場者全員が、会場の参加者と一緒に「故郷」を歌って終えた。いい時間を過ごすことができた。

2013-04-21

みらいに向かって、広がれ市民活動の輪

4月20日(土)に、さいたま市民文化センターにて、コープみらい埼玉県本部主催の市民活動助成金活動交流会があり足を運んだ。100名をこえる参加者に対して、以下の6団体からリレー発表があった。①ふじみ野市避難者活動及び交流会(ふじみ野市避難者支援活動実行委員会)、埼玉県内視覚しょうがい者の移動支援(NPOことばの道案内)、お母さん達の声を生かした遊び場づくり、(さいたま冒険遊び場・たねの会)、ネパールの教育現状を考える国際協力活動(NPOミランクラジャパン)、ひだまりの小さな書作展(障害者書道クラブ)、農地再生と有効活用(NPOここ街クラブ)。どれもが志を同じくする市民が協力し、試行錯誤しながらも楽しく活動している。盲人の歩行支援や障がい者の書道支援など、こんなにも弱者に寄り添った丁寧な取り組みがあるのかと感心し嬉しくなった。民意度の高い埼玉である。
 講評と「コープみらい」の地域社会づくりについての話があり、休憩をはさんで12の各テーブル別に交流会をしたので、全員が話をする機会があった。テーマは異なっても、若者への訴え方や地域への宣伝など、他の運動から学ぶことはいくつもあって熱心に交流していた。
 この3月に出版した『3・11 忘れない、伝える、続ける、つなげる』で取材させてもらった、「おあがんなんしょ」や「一歩会」や「にんじん」の元気な方たちも参加していたので、本のお礼を伝えた。「各団体を客観的に描いているので、励みになります」との声をもらい、とりあえずホッとしている。
複数の方から、この本はどこで購入できるのか聞かれた。日本生協連出版部なので、生協内部でしか流通してないと受け止めているようだが、一般書店やアマゾンでも入手可能なので、ぜひ1人でも多くの方に読んでほしい。
 ともあれ埼玉における市民力が、こうして生協も関わって楽しく拡がっていることはワクワクする。たくさんのドラマを、どこかで本にしたいものだが。

2013-04-15

映画「先祖になる」

 都内のポレポレ東中野において、「先祖になる」を観た。岩手県陸前高田市で被災した77歳の佐藤直志さんの生き様を、寄り添って丁寧に描いたドキュメント映画である。消防団だった一人息子を津波で流された佐藤さんは、被災して壊すことになった実家の跡に、津波で立ち枯れする近くの気仙杉を使って家を新築した。半分農家で、後の半分は木こりとして働いていた佐藤さんは、仲間の協力も得て、自分で大きな杉を何本も切って準備する。津波が来た場所に建物はダメという行政や、再び同じ高さの津波が来ればと心配する奥さんもいれば、自らの病のことなど、悩み事はいくつもある。それでも生きている間は、自らの力で前に進もうとする佐藤さんの情熱が良く伝わってくる。頑固な姿と同時に、神社に奉納してある背丈よりも高い自作の男根を紹介するなど、ユニークに生きるたくましさも紹介していた。
 「人間は働かないとダメになる」
 ガレキの残る畑には、蕎麦の種をまいて育てて収穫する佐藤さんの言葉は重い。
 私が3年前に建てた小さな平屋には、全て国産の木材にこだわり、柱や床や梁は近くの栃木産を使い、全ての腰板には気仙杉をはった。もしかすると佐藤さんが切り出した気仙杉かも知れず、映画を観つつかってに想像を膨らませていた。震災だけでなく、どう人間は生きていくかを考える上でも参考になるいい映画である。

2013-04-12

旧騎西高校の避難所を訪ねて

 3カ月ぶりに埼玉県加須市にある旧騎西高校の避難所を訪ねた。全国で唯一残った東日本大震災の避難所で、双葉町から一時期は1400名もいたが、今は高齢者を中心に125名とのことであった。当初から旧さいたまコープが、週に1回の木曜日だが夕食時に合わせて味噌汁などの炊き出し、11日も約30名のボランチアの方々が頑張っていた。旧さいたまコープだけでなく、パルシステム埼玉の方もいて、辺鄙なここで継続して活動されていることに、本当に頭が下がる。その日のメニューは、ジャガイモ・玉ねぎ・人参・豚肉の豚汁に、大根の田楽、そしてパルシステムPBのヨーグルトであった。3時過ぎから準備し、5時から各廊下で手渡して、受け取った避難者が喜んでいた。  それにしても教室などの間仕切りのない畳の上で、プライバシーもない生活が今も続いている。古里の双葉町は放射能の汚染が高く、いつ帰ることができるか不明である。先の見通しのまったく立たないまま、棄民化された避難者の苦労がまだまだ続く。ここに私は、来るたびに日本の縮図を見る。その様子は、この3月に出版した『3・11 忘れない、伝える、続ける、つなげる』の1章でも書かせてもらった。  4時半から、先の町長選で選出された新しい伊澤史朗町長の話を聞くことができた。被災当時の話をしている途中で、思わず込み上げるものがあって唇をかんで目頭を熱くした伊澤さんに、町長としての誠実さを感じた。勉強した麻生獣医大で生協の学生委員として活動し、双葉町ではパルシステムを利用していて生協には親近感を今でも持っているとのことで嬉しかった。6月には、復興バブルに沸く福島県いわき市へ役場が移る。引き続き大変な状況は続くが、町長が健康に留意されて、協同を大切にした復興が一歩でも前に進んで
ほしい。

2013-04-09

捕まえた鯉

 昨日のことである。犬の散歩で近くの水田を歩いていると、一昨日の大雨で増水している小さな水路が波立っていた。蛙かと思ったが背びれがあって違う。よく見ると大きな鯉が数匹いた。「これはしめた」と捕まえて家に運び、庭に置いた大きなタライに水をはって放した。写真がその鯉で、全長50cmほどもある。子どもの頃に高知の田舎の小川などで、よく魚を獲っていたことを思い出した。あの頃は、50cmほどのフナも捕まえて食べたものだ。貧しい農家だったので炭で魚を焼き醤油を付けて食べただけで最高に美味しかったし、何より魚を追いかけた興奮は今も鮮明に覚えている。この経験から食べる喜びとは、皿の上の料理を味わうだけでなく、素材を手に入れるときから始まると私は自覚している。もっともここでは放射能の汚染が高くて食べるわけにいかず、孫たちの観賞用である。近所の人に見せたらよく素手で捕まえたと驚き、その1人が「死んだ鯉は柿の木に埋めると、柿がそれは甘くなる」と教えてくれた。庭に2本の柿の木があるので、できればそうしたいものだが、これも鯉で濃縮した放射能が影響するので助言にそうわけにはいかない。孫たちが見て楽しんだ後は、いずれ近くの小川に放すつもりである。  陸上の放射線において問題視されているのは2種類のセシウムである。セシウムはもちろん危険であるが、原発の汚染水には64種類もの放射性核種が含まれているとのことであり、骨や肉により付着しやすいストロンチウムなども、陸上を汚染していると考える方が自然ではないだろうか。大変な世の中になったものである。

2013-04-05

桜の下で

 過日に上野公園を横切った。いたるところが満開の桜で、それは見事であった。小鳥が桜の花を口にして蜜を吸い、終わると花びら落とす。そよ風にも花びらが、優雅に舞い始めていた。寒い冬から温かい春になったことが誰にでもわかり、知らず知らずに心が浮き浮きとする。朝の9時過ぎであったが、すでにブルーシートなどを敷いて、夜の花見の場所取りをしている人たちもいた。それほど桜の花を愛でる人が日本では多い。  それはそれで結構なことだが、ふと見るとホームレスの姿が桜の下にいくつかあり、その1人は女性であった。夜になればまだ冷えるし、まして雨でも降れば雨宿りする場所探しも大変である。飲めや歌えの花見の傍で、こうした社会的弱者が存在する。日本の経済力は世界の第3位であるにも関わらず、未だにホームレスの姿はなくならないし、むしろ増えている地域すらある。社会の何かがおかしい。  形は異なるが、アベノミクスによる円安で自動車などの輸出産業は浮かれていても、石油などの輸入産業はたいへん困っている。また日本にプラスとなったとしても、相手国には逆の効果を及ぼすのでマイナスになる。1つの価値観だけで判断する危険性がここにもあると私は心配する。

2013-04-01

「原発災害と生物・人・地域社会」シンポジウム

 3月30日(土)の10時から夕方まで東大農学部にてタイトルのシンポがあり参加した。上野駅から東大へ向かうため横切った上野公園は桜が満開で、朝から花見客で賑わっていた。熱気にあふれた東大の会場では、福島第一原発からの放射能汚染による現地の生物への影響について興味深いデータがいくつかあった。猿や蝶や鶯などで、明らかな影響が出ており、これらがいずれ形を変えて人間にも出てくるのではないかと心配だ。福島県飯館村の住民3名からの貴重な報告もあった。どうにかして前向きに生きていこうとされているが、仕事や住まいなどいくつもの課題があり困っていることがよくわかった。その一人は、放射能の情報がまったくない中で2カ月も放置されたことに対しての憤りを話していた。南相馬の親類の家族が、わざわざ線量の高い飯館村に避難してきて、一緒に2カ月も生活し、この結果として20mSvもの放射能を浴びたとのことであった。とんでもない被曝量で、すぐに正確な汚染情報を流していれば、こんなことには決してなっていない。政府の怠慢の何ものでもない。

2013-03-28

映画「東京家族」

 やっとのことで昨日この映画を鑑賞することができた。期待した通りのいい映画である。小津安二郎監督による60年ほど前の映画「東京物語」をモチーフにし、2011年3月の震災直前にシナリオは完成していたが、それを山田洋次監督はストップさせ、震災を関連させて練り直した。周吉の次男の昌次と恋人の紀子が出会った場を被災地のボランティアとしたことや、昌吉がしたたかに酒を飲んで心の通じる場面の少なくなる東京での家族の在り方を通して、今の社会を「このままではいかん!」と独白することなどに、深刻な震災後の世相を反映させている。それにしても、東日本大震災を声高に「大変だ!」とか「がんばれ!」などと叫ぶのでなく、身近な家族の有り様を通して、一人ひとりの生き方をじんわりと考えさせてくれる。戦後すぐの「東京物語」では、次男の戦死や戦争未亡人を登場させ、第二次世界大戦が背景にあり、こうした社会性が物語に深味を付けている。これからも震災のルポルタージュを書くつもりの私にも、いろいろと考えるヒントをくれた映画であった。  1つ気になったのは「東京家族」というタイトルで、そもそも東京家族という名詞があるのか疑問で、どうも私にはわかりづらい。素直に「新東京物語」でいいのではないかと思うのだが、何か山田監督に意図があったことだろう。

2013-03-26

つながろう!パルシステム福島&東京こども交流会

 3月23日から25日まで表記の交流会が都内であり、24日の昼からパルシステム東京本部における昼食を兼ねた交流会に参加させてもらった。11時過ぎに新大久保のパル事務所を訪ね、医療福祉生協連のバンダナを頭に巻いて、まずは昼食用のカレー作りの手伝いをした。パルの産直の野菜と肉とオリジナルのカレーを使い、子ども用の甘口と大人用の辛口を作っていたので、焦げ付かないように鍋をかき混ぜたり、出来上がった65人分の料理を会場の会議室まで運んだりした。  福島から大型バスで来たのは、19世帯の親子45人で、12時に到着した一行は、歓迎の挨拶の後にセルフサービスで昼食のカレーを食べ、デザートや飲み物も口に入れた。食事の後は伝言ゲームや歌やプレゼントの交換などがあった。歌の1つが、子どもの大好きな「アンパンマンのマーチ」で、「今を生きることで あつい 心 もえる・・・」など大きな声でみんなと歌った。何回となく歌っていた歌詞だが、改めて福島の子どもたちと歌うと、これまでと違った意味を感じた。

2013-03-25

さいたまシティマラソン みんなのフェスティバル

 3月23日の午前中に孫の悠の卒園式があり、それを楽しんでから埼玉へと向かった。スーパーアリーナの隣にある「けやき広場」で、明日のさいたまシティマラソンのためのイベントがあり、ここに復興支援としてコープみらい(3月21日にさいたまコープがちばコープとコープとうきょうと合併した)からいくつかのテントを出していた。岩手県宮古市からの「かけあしの会」は、鮭ラーメンやホタテの串焼きなどで2テント、みやぎ生協は1テント、福島県のなみえ焼きそばで1テント、コープ復興支援の取り組み写真展で1大型テント、コープみらいの物販販売で1テントなどがあった。  夕方6時からはコープみらい主催で、参加した約30人ほどで懇親会。かけあしの会の世話人4名(今回も遠路を車で参加し、毎回のことながら頭が下がる)、みやぎ生協の生活文化部4名、相双ふるさとネットの大田代表、それに旧さいたまコープの佐藤理事長以下の元気な組合員理事や職員などで楽しく飲みつつ交流した。挨拶の指名を受け、2週間前に出させてもらった『3・11 忘れない、伝える、続ける、つなげる』のお礼と、その後は福島をテーマの本創りに入っていることを話させてもらった。

2013-03-20

おおさかパルコープ・よどがわ生協・ならコープのバスボランティア参加者交流会

 3月17日の1時から4時まで、大阪で交流会が開催となり参加した。参加者のテーブルを囲むように、会場の左右には被災地で提供したタコ焼き・お好み焼き・うどん・そば・お汁粉などの屋台が並び、参加した生協職員が手際よく調理をしていた。岩手の漁師さんから借りた10枚近い大漁旗が、会場の前後に飾ってあり、被災地とつながった集いである雰囲気をよく出していた。舞台の大きなスクリーンには、被災地の岩手県陸前高田市の風景や、ボランティアで訪ねたときの様子などが映し出されていた。それにしても中学生やら80歳までの幅広い人たちが、関西から岩手まで片道14時間もかけてこれまでに700人以上が参加しているから驚く。そしてこれまでと同じペースで、3生協は2013年度もボランティアバスでの支援を継続する予定なので頼もしい。昨年の10月に出版させてもらった『被災地にとながる笑顔ー協同の力で岩手の復興をー』(日本生協連出版部)で、取材し書かせてもらった遠野まごころネットの齋藤さんも報告に来ていたので、取材のお礼を伝え、その後の動きなども含めて聞かせてもらった。被災地への関心が3年目となって急激に低下し、かつ資金の援助も大幅に少なくなっているので、まごころネットも方針を大幅に変更するそうだ。被災者自らが助け合って自立しつつある地域も一部にはあり、希望の火となっている。また現地を訪ねたい。

2013-03-19

南医療生協の10万人会議

 名古屋にある南医療生協では、より多くの組合員の声を運営に反映させるため、以前は1000人会議から6万人会議へと発展させ、今では10万人会議と称して月に1回の楽しく有意義な会合を開催している。実際に参加している人は100名ほどだが、そこへくるまでに地域の多くの人との意見交換をし、1人が1000人を代弁しているとの気構えである。3月16日のその会議に参加し、南医療生協を舞台にして2011年に書かせてもらった本『協同っていいかも?』(合同出版)が、昨年12月に平和・協同ジャーナリスト基金奨励賞を受けた報告とお礼をのべさせてもらった。写真はそうした10万人会議の1コマで、寸劇によって仲間増やしの強化を楽しく訴えていた。  中庭には、病院が建ったときに寄贈した被曝はまゆうが元気に育っていたし、ロビーにあるコンビニショップの本売り場には『協同っていいかも?』が5冊ほど並べてあるし、お世話になった組織部長の話では、まとめて購入した1000部が足りなくなり、最近も50冊を出版社へ注文したとのことで感謝、感謝である。  夕方からは、調理施設のある「だんらん」において手作りの歓迎会をしてくれて、顔見知りの10数名が集まって楽しく懇談することができた。一人ひとりの組合員を大切にし、暮らしやすい地域を仲間の力で今も築いている。また機会を作って訪ね、南医療生協の取り組みからまた学びたいものだ。

2013-03-16

つながろうCOOPアクション交流会

 第2回の同交流会が、3月14、15日と福島市であり、前日から線量計を持って市内に入った。14日は全国から集まった約150名で交流し、夜は食事を兼ねた懇親会。サブタイトルは、「つどい・つむぎ・つなげる・未来」で、被災3県の取り組みだけでなく、各地の貴重な経験も交流して有意義であった。出版部が出したばかりの本を平積みしてくれ、夜の懇親では同じテーブルに座った10名ほどの全員が買ってくれ、お礼を言いつつサインさせてもらった。  15日はバスで南相馬市や相馬市の被災地の視察。まだガレキや横転した車などが放置されたままの場所もいくつかあり、3.11の傷跡をここでも見ることができた。写真はその1つの子どもの靴。履いていた子どもは、無事だったのだろうか。そうあってほしいと祈りながらシャッターをおした。

2013-03-13

新刊『3・11 忘れない、伝える、続ける、つなげる』の出版

 ほぼ1年の取材を終え、『3・11 忘れない、伝える、続ける、つなげるー協同の力で避難者の支援を』(日本生協連出版部 定価1400円)を出させてもらうことができた。震災復興支援の本では、2012年3月の宮城県をテーマにした『悲しみを乗りこえて共に歩もうー協同の力で宮城の復興をー』(合同出版 定価1400円)、2012年10月の岩手を舞台とした『被災地につなげる笑顔ー協同の力で岩手の復興をー』(日本生協連出版部 定価1400円)に続く3冊目となった。  さいたまコープを中心とし、唯一残っている加須市の旧騎西高校の避難所における炊き出しなど、被災地でなくても全国にいる避難者を地元で支えている取り組みを紹介させてもらった。各地でコミュニティーが崩壊している今日、避難者を含めて新しいコミュニティーを創ることは全国的な課題でもあり、その1つのヒントにつながれば幸いである。  本の表紙には、双葉町婦人部による相馬流山踊りを使わせてもらった。伝統文化を守りつつ、埼玉の皆さんへ感謝の気持ちを込めて踊っている。1日も早く全ての被災者が安心して暮らすことのできるようになってほしいものだ。

2013-03-10

原発シンポin福島2

 シンポの2日目は、朝8時半から大型バス2台で浜通りの1つである川内村の視察に入った。東電の原発事故により約3200名もの村民が避難していたが、2012年1月にいち早く帰村宣言して役場を戻して対策を講じ、この1月25日現在で帰村者436名と週4日以上滞在する人は約800名ほどになっている。テレビでは何度も見ることのあった遠藤村長から歓迎の挨拶があり、復興の具体的な内容については復興対策課長の井出さんからパワーポイントを使った詳しい説明を受けた。村は盆地のため周囲の山は放射能に高く汚染されているが、役場や農地のある場所は比較的低く、かつ1年目の除染もあって国の規準からみると安全とする場所や農地に大半がなっている。ここで新しい村づくりを積極的にすすめ、除染実施と雇用の場の確保で、①企業誘致と定住構想、②農産物栽培工場、③再生可能なエネルギー導入、④健康・医療・福祉の充実、⑤教育環境の充実を掲げ取り組んでいる。それらの現場をいくつか案内してもらい見せてもらった。写真はその1つの仮設住宅にあるサポートセンターで、カラオケなど住民のたまり場となっている。写真中央のネクタイ姿が井出さん。村の住民に寄り添った独創性は、仮設住宅を含め建物の基礎をしっかりと造り、永く住むことのできる建物にしていることにも現れていた。1戸につき数百万円もかけ、2年とか3年で使えなくなる仮設住宅はもったいないと以前から私も思っていたが、ここでは数十年住むことができる。また1棟は2戸建てで、いずれは中央の壁を取り払って1世帯が暮らすことも想定している。阪神・淡路大震災のときは、1棟に4戸が普通であったが、壁が薄くて特に両隣が他人の部屋になっている場所では、声や音が気になって寝ることのできない人が多くいた。このため95年以降の仮設住宅では2戸建てにすることにしていたが、今回の震災では急いで多数を建てなくてはいけないとのことで多くが4戸建てとなって音の悩みが出ている。こうした住民サイドに立った配慮をしている川内村の取り組みは素晴らしい。まだ課題はいくつかあるが、村の前向きな姿勢が印象的であった。  

2013-03-09

原発シンポIn福島1

 3月8、9日と日本科学者会議が主催する表記のシンポが福島県の飯坂温泉であり、線量計を持って参加した。8日の午後は記念講演と3つの分科会があり、多面的な議論があって勉強になった。記念講演は「福島第二原発差し止め訴訟の経験と教訓をどう現代に活かすか」のテーマで安田純治弁護士が話し、分科会は第二「原発災害と地域産業」に参加し、①「原子力災害に伴う『風評』被害対策と検査体制の体系化」(福島大 小山良太)と「中小企業の被害状況と復興に向けた課題」(福島大 初澤敏生)の有意義な報告があり参考になった。まだわからないことがいくつもあり試行錯誤の状態だが、被災者に寄り添ってできることを模索しているそれぞれの姿が印象的であった。なお参加者は北海道から沖縄まで約120名も手弁当で集まり、夜の懇親を含めてお互いの考えや取り組みを交流して楽しい場であった。

2013-03-06

原発事故に関する4つの事故調査報告書について

 東電福島第一原発事故について、民間、東電、政府、国会の4つもの報告書が出ているのは知っていたが、どれも膨大な量で関心はあっても読み込むことはできずに気になっていた。図書館で、『4つの「原発事故調」を比較・検証する 福島原発事故13のなぜ?』(日本科学ジャーナリスト会議 水曜社 2012年12月)を見つけ一気に読んだ。凄い本で、ここで比較検証している13項目とは以下である。 Q.00  福島第1原発事故の全体像・推移と4事故調 Q.01  地震か津波か? なぜ直接的な原因が不明なのか? Q.02  ベントは、なぜ遅れたのか? Q.03  メルトダウンの真相は? なぜ発表は迷走したのか? Q.04  事故処理のリーダーは、なぜ決まらなかったのか? Q.05  東電の「全員撤退」があったか、なぜはっきりしないのか? Q.06  テレビ会議の映像に、なぜ音声がないのか? Q.07  なぜ「原子力ムラ」は温存されたのか? Q.08  なぜ個人の責任追及がないのか? Q.09  住民への情報伝達は、なぜ遅れたのか? Q.09+ 放射線被曝情報の誤解と混乱は、なぜ生じたか? Q.10  なぜ核燃料サイクル問題の検証がないのか? Q.11  原子力規制への提言が報告書によって違うのは、なぜか? Q.12  なぜ4報告書がこのまま忘れ去られようとしているのか? Q.13  なぜ4報告書には「倫理」の視点が欠けているのか?  読んでいてそら恐ろしくなったのは、事故の原因やその背景がどれでもきちんと解明してなく、これでは一番大切な原発事故の再発防止にはならないことである。その中でも一番まともな国会事故調は、せっかく15億円もかけた640ページもの貴重な報告書であるにも関わらず、すでに国会の神棚に飾られて埃が積もりつつあるのに等しい。民主党にせよ自・公政権にせよ、真面目に正面からこの原発事故に向きあおうとしていない証拠である。  この本でまだ足りないのは、原子力ムラは日本だけで存在するのでなく、1950年代からアメリカにおいて大きくなった国際原子力ムラが存在すること、そして日本を含めてそうした原子力ムラを支えている多くの人々の存在や価値観まで踏み込むことだろう。そうしないと本質にメスが入ることにはならないのではないだろうか。

2013-02-28

生協ライター講座

 定年後に現役の生協職員に少しでも何か貢献できないかと、2013年1月からスタートさせたのがこの講座である。文章力をアップさせて、各自が楽しく有意義な人生をおくるように願っている。日本生協連から7名集まった1月に使ったレジメは下記である。 文章と人生を楽しむ   生協ライター講座(仮)のスタートにあたり               2013年1月23日 西村一郎                          1、はじめに   ①私のこだわり   ②ここで何をしたいのか 2、文章の素晴らしさ:文は人なり   ①相手に自分の気持ちを伝える1つの優れたスキル   ②一生の宝   ③人を変え社会を変革する力を秘めている 文(ふみ)霊(だま) 3、文術から文道へ   ①文術:効果的に伝える術   ②文道:私の人生を豊かにする 4、大切な主語   ①主語のない言葉   ・「一人は万人のために 万人は一人のために」   ・「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」   ②日本生協連2020年ビジョンにおける5つのアクションプランの主語は?     (1)組合員の願いを実現するために、食を中心にふだんのくらしへの役立ちをより一層高めます。事業革新に不断の努力をつづけ、組合員のくらしに貢献し信頼を培います。     (2)地域のネットワークを広げながら、地域社会づくりに参加します。     (3)平和で持続可能な社会と安心してくらせる日本社会の実現をめざし、積極的な役割を果たします。     (4)組合員が元気に参加し、職員が元気に働き、学びあい成長する組織と、健全な経営を確立します。     (5)全国の生協が力を合わせ、組合員のくらしに最も役立つ生協に発展させます。 5、読書の薦め   ①書物を読む    新聞、雑誌、本、インターネット情報   ②日本や世界を読む 6、世界の動き   ①人類は発展し豊かになっているのか?   ②富の集中   ③オイル・ピーク論   ④エネルギー資源の変遷  木材→石炭→石油→? 7、東日本大震災が問いかけたもの   ①核時代:人類が共存できない放射能と生きていく社会   ②原発安全神話以外にも神話が     コンクリート神話、科学神話、エリート神話、生協にも神話が・・・   ③首都圏が第2のフクシマになる危険性:30年間に震度6以上の地震:東海第二原発67.5%、浜岡原発95.4%、横浜71.0%   ④収奪先の拡がり  地方・弱者  海外  未来 8、変革の主体は?   ①所属部署の変革の主体は?   ②日本生協連の変革の主体は?   ③社会の変革の主体は? 9、自分の文を書く   ①自分の生きた言葉で   ②修飾語は少なく   ③言葉へのこだわり   ④継続  2月の講座までに参加者から5本の作品が届き、その中の1本を8名で講評した。大半が20代で、若い感性のあふれる文で楽しくなる。  写真は上野公園にある国立西洋美術館の前庭で、梅の花がいくらかほころび始め、かすかに甘い香りがしていた。ロダンの「カレーの市民」と奥には「地獄門」が見える。

2013-02-27

「「東電福島第一原発事故による放射能汚染の現状と課題」(生井兵治)

 私の所属する日本科学者会議の食糧問題研究会では、1月26日に公開研究例会として「東電福島第一原発事故による放射能汚染の現状と課題」(生井兵治)を開き、始めての試みとして下記のユーチューブで配信している。  http://www.youtube.com/watch?v=XO1rKquR0eY  この会の委員長として、冒頭に少し挨拶した私が映像に入っている。こんな便利な時代になったものかと、あらためて驚く。  政府が「収束宣言」を出したりしているが、その後も大気や海水の放射能汚染は進んでいるし、子どもを含めた住民の健康の不安は決して消えていない。人々が注目しているのはガンマ線のセシウムだけだが、より猛毒のアルファ線やベーター線のプルトニウムやウランなどの核種については、放出されているがデータがない。そもそも危険と安全の境界線である「しきい値」が人工の放射能にはないのだから、100ミリシーベルトは論外にしても、20ミリシーベルト以下であれば安全というのも意味がない。それとよく聞くのは、「大人であればガンになるのは10年も先だから」であるが、チェルノブイリ原発事故による影響をみると、事故の直後から血液や心臓の病気が子ども以外でも多く発生している。広島や長崎の原爆によって、直後から何事もやる気の出ない「ぶらぶら病」が出たことも忘れてはいけない。  こうした分からないことがまだまだ多いことを考えると、「正しく怖がりましょう」という一見正論のような呼びかけも、何が正しいのか分からない現状では虚しく聞こえるし、問題を過小評価するだけである。

2013-02-21

円空展を観て

 上野公園の東京国立博物館で円空展があり、2月20日の午後に足を運んだ。上野公園の改修工事が終わり、噴水付近は綺麗になっていたので良かったが、以前に多くいたホームレスの人たちの姿が見えないので、この寒い空の下でどこへ行ったのか気になった。  17世紀の後半に飛騨を中心にして、遠くは北海道まで足を伸ばした円空は、実に12万体もの仏像を彫ったとのことであるが、現在はその約5000体が残っている。その中の飛騨の千光寺を中心とした100体が会場に陳列してあった。手の平に乗るような小さなものから見上げるほどのものもあり、どれも表情や雰囲気が違うので1体ごとに楽しむことができた。ナタ彫りという荒々しい彫刻で、木目や節も活かし、彩色はしていないので樹木の肌がそのままである。もちろんナタだけで仕上げたわけでなく、杉や檜の丸太を縦に割り、それに鋸やナタで大まかな形を作り、ノミを使って仕上げをしている。その荒々しさや線の勢いがどれも生きているから凄い。  円空が訪ねた村で木を削り、それは村や個人の守り神になったり、時には子どもの遊び相手にもなったという。木に宿る仏を、円空は無心で形にしてきたのだろう。丁寧に仕上げて金箔をはった仏像とはおおよそ趣は異なるが、生きる力をどれもが伝えてくれる。なお写真のポスターにある像は、2つの顔を持つ両面宿儺(すくな)坐像で、両手でもつ斧と一緒に見る者を圧倒する気迫をかもしていた。  時間ができたら私も彫刻をしたいと考え、以前から材木を集め道具も準備した。しかし、定年になったが他のことで飛び回っているので、大小の材木は残念ながら埃をかぶったままである。ぜひ円空のように自由な像に挑戦したいものだが。  

2013-02-19

トルコの想い出

 2013年1月28日から2月4日にかけ、格安のトルコ遺跡巡りツアーがあり妻と参加した。全ての食事と燃油サーチャージ(4万5000円ほど)込みで10万円を割るのだから、どんな仕組みになっているのか理解に苦しむが、年金の半分で暮らしている身にとってはありがたい。もっとも出発の日が大雪で、家は1時間ほど余裕を持って出たが、途中のJRの線路に雪で竹が倒れて不通となり、どうにかして成田にたどり着いたのは集合時間を大幅に遅れ、搭乗の手続き時間締め切りを過ぎていたが、事前に電話をしていたので滑り込みセーフとなり、寒い中にもかかわらず冷や汗をかいた。  初のトルコの旅は、実質6日間で現代と古代を長距離バスで忙しく廻った。トルコの玄関は、アジアとヨーロッパの接点にあるイスタンブール。70年代にヒットし大好きだった「飛んでイスタンブール」の歌の世界である。もっとも歌詞にある砂漠はトルコのどこにもなく、歌と現実の世界の違いはいくつかあった。かつてクリミア戦争のときに、ナイチンゲールが活躍した場所で、看護婦の始まった地でもある。シルクロードの中継地でもあり、アジアとヨーロッパの文化が融合した面白い街でもある。1例が書である。中国や日本などの筆の書に対して、こちらはブラシで書いているが、自由に勢いよく走る線は同じであった。  歴史の教科書で学んだトロイの木馬(改修中で写真しか見えず)や、鉄製品を最初に使ったフィッタイ人の遺跡などもあれば、古代ローマ人による水道の遺跡などもあり、時間を超えてスケッチも楽しむことができた。いくつかの遺跡ではまだ発掘中のものもあり、かなえるものなら何年か後に再度訪ねたいものだ。  毎日のように4から500kmほどバスで移動し疲れたが、その新しいバスにも驚いた。トルコで生産してヨーロッパにも広く輸出している最新の大型バスでゆったりし、Wifiの設備を備え移動中に持参したパソコンでインターネットのメールを見て、急ぎの返事を何本も日本へ発信することができた。昨年の経済成長は、中国についで2番目というのもうなづける活気が市内にあった。ただ、その経済成長を支えるため、日本からの原発輸入を検討しているとの話を聞き、まだ放射能の汚染が心配な取手市で暮らしている者としては、喜ぶ気分にはとてもならなかった。  

2013-02-18

原発災害とアカデミズム

 2月11日に東大本郷において、「原発災害とアカデミズム」をテーマのシンポジウムがあり参加した。福島大学原発災害支援フォーラム(FGF)と東京大学原発災害支援フォーラム(TGF)のメンバーによる同名の出版を記念しての催しであった。 10時から6時までの長丁場で、午前中は2つの報告、午後は討議Aで「住民支援と教育・研究」で4名の報告、続く討議Bは「研究者と被災者・市民との交流」で5名の報告があり、どれも現場の動きに即したそれは充実した内容であった。詳しくは本を読んでもらうしかないが、東電福島第一原発の事故によって今も続く事態は、これまで人類の経験したことがないことであり、政治的な国際放射線防御委員会(ICRP)のみの評価で上から判断するのでなく、現場を共有して模索することの必要性を強調していた。別の表現をすれば「無知の知」を知り、最終判断は避難者を含めた国民の一人ひとりであることを謙虚にうけとめることでもあう。3月から本格的に福島の被災地へ入る準備をしている私には、いくつも大切な切り口や姿勢を考える場になった。