2013-06-26

福島の被災地・浪江町を訪ね

 23.24と東大生協OB会有志を中心とした福島被災地ツアーがあり、23日の宿泊先である飯坂温泉から合流した。参加者の20名は、運転手や事務局を含めて全員が手弁当で、東京からの2日間のバスや宿泊代を含めて1万1000円という格安であった。宿の「一柳閣」は、地震によって床の傾斜など損傷はあるが、どうにか工夫して営業していた。一番の問題は放射能汚染の影響で、福島駅で0.2から0.3μSv/hの放射能汚染は、20分ほど離れた飯坂温泉駅前でも同じ程度あり、さらに歩いていると徐々に高くなり、何と2μSv/hにもなる場所があって驚いた。ホテルの場所はいくらか落ち着いたが、それでも0.4ほどあり、年間では4mSvとなりチェルノブイリであれば放射線管理区域となる。
 夕食の前に学習会の時間があり、地元の「九条の会」から講師を招き現状について報告してもらった。その場で私の方から、昨日からの子ども保養プロジェクトなどについて簡単に紹介させてもらった。震災関連死の話もあったので、直近のデータで2688名を伝えた。
 24日はラジオ体操をした後で8時に宿を出発し、一路浜通りの南相馬市へ。福島市から川俣町などを過ぎ、山を超えると南相馬市に入る。途中で放射能の空間線量は、高くなったり低くなったりする。道路や田畑などに、放射能を除染したゴミを入れた大きな黒いフレコンバッグが並びだし、持って行き場所のない事や、除染の手抜きの問題や、手当を下請けから孫請けへとピンはねする構造などについて私の方でマイクを使い解説させてもらった。
 南相馬市の役場で現地のガイドである漁師さんが同乗し、線量の高い小高区から浪江町へと案内してもらった。小高は出入りが昨年から自由になっているが、駅前の商店街に人影はまったくない。浪江町の請戸漁港の入口の道には、ガードマンがいて一般人は立ち入りが禁止されている。ガイドが対応し、ナンバープレートを記入して許可を受けて入る。請戸集落で全ての家屋が津波にやられ、双葉郡で一番多い120名もの方が亡くなるか行方不明となっているそうだ。ここはまだ放射能汚染が0.5前後と高く、壊れた家屋や転がっている車なども3・11のままで、まるで時間が止まっているかのような錯覚になった。ガレキや生い茂る雑草の下に、まだ沢山の遺体があるのだろう。いたたまれない気持ちになった。道路脇の一角に観音様を中心とした小さな慰霊碑があり、皆で合掌した。せっかくなのでにわか坊主となった私は、28文字という一番短いお経である「四句請願」を読経させてもらった。南の方向には、エフワン(東京電力福島第一原発)の高い煙突がくっきりと見える。(写真の右上のかすかに見える数本の煙突)
 最後の訪問先は、同じ浪江でも山裾にある「希望の牧場」である。3から4mSv/hと極めて高く、牛や乳を出荷できないが、それでも金でない生き方を求めて300頭の牛を飼育している。浜通りでも唯一原発に反対してきた浪江町が、すでに町役場は二本松の仮役場へ移るなどして多くが避難し、とんでもない苦難を強いられている。59歳の牧場代表の吉沢さんは、「20年かけて原発異存の社会を変える。今私たちが立ち上がらなければ、いつ誰がやるのですか」と熱く語っていた。まさにそうである。
 帰り道がまた大変であった。浪江からいわき市へ抜ける国道6号線は途中で封鎖されておりUターンし、南相馬から山を超えて二本松に出て東北自動車道を使い、都内に戻ったときは夜の10時前になっていた。宿泊先では左右からのイビキで寝られず、長距離のマイクロバスで疲れたが有意義な旅であった。復興
支援の継続と同時に、自らの暮らし方や生き方が問われている。
 

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