2014-12-16

ケーナ演奏者の八木倫明さんに会って

 久しぶりにケーナ演奏者の八木倫明さんに上野で会い、居酒屋で一杯やりつつ楽しく懇談した。最近のNHKの番組で2回も放映があり、「広い河の岸辺」の訳者であり、被災地でのミニコンサートを含め、各地に出かけて演奏会をしているとのことであった。11月には仙台での日本うたごえ祭典で、歌手のクミコさんと600名の女性合唱団と一緒に舞台へ立ち、6400名の観客を魅了した。以前のグループは解散し、今はハープの若い女性と一緒の演奏会が多いそうで、それも2人の男性のボランティアで運営しているとのこと。さらには月に平均して10万円の収入で生活も苦しく、映像には豊島区のアパートで暮らし、その日の夕食は豆腐が1丁で侘びしく食べていた。
 懐かしくて連絡をとり、3時間ほど話を聞くことができた。スコットランド民謡の「The Water Is Wide」を、なぜ「広い河の岸辺」と訳したのか聞くと、原文だと自分の居場所が分からないので、あえて「岸辺」を付けたとのこと。もらった歌詞の下には、「大きな困難を乗り越えるための小さな希望と絆」と書いてあった。
 このタイトルを見たとき、親しくさせてもらった亡き住井すゑさんの書いた「橋のない川」を思い出した。天皇制と部落問題に楔を打ち込むために書いた名作で、込めた想いは八木さんと同じである。絶望に近い現状の中でも、自らの立ち位置を忘れずに生きることを呼びかけている。
 被災地の演奏には、カンパを集めて年に3回ほど出かけている。ボランティアの車に乗り、3泊4日ほどの旅で、1日に何回も仮設住宅の集会場などで演奏するそうだ。春になればまた出かけるとのことで、ぜひ同乗させてほしいとお願いして了解をもらった。楽しみである。
 写真は、「コンドルは飛んで行く100年記念アルバム」のCDである。「コンドルは飛んで行く」の歌はよく知っていたが、これが炭鉱労働者の闘いの歌とはまるで知らなかった。
 元々八木さんはフルートの演奏であったが、自分には自然の素材のケーナの音色が合っていると切り替えて今日にいたっている。八木さんを通してもっと音楽に触れたいし、音楽を通した被災地の支援にも関わりたいものだ。

2014-11-24

ネパールの旅5

 今回、平和を願って2つの品を日本からネパールへ運んだ。
 1つ目は、庭で育てている被爆ハマユウである。広島に原爆が投下されたとき、市内の比治山にあった暁部隊の兵舎にあり被爆した。育てていた兵士の尾島さんがガレキの中から掘り出し、鎌倉に戻って育てていたものを分けてもらった。
 反核平和のため、広島の平和公園や都内の第五福竜丸の側などで育っており、私はこれまでに沖縄の伊江島や辺野古、韓国、マーシャル諸島、台湾、スリランカなどへも運んできた。ネパールで原爆展などをしている日本人がいると聞き、その方へ寄贈させてもらった。
 写真のように純白の花が咲き、上品な香りが漂う。茨城あたりでは7月の下旬に咲くが、沖縄では4月末には開花する。ネパールではいつ頃になるか楽しみである。
 2つ目は、この8月に広島の平和公園横を流れる元安川で拾った原爆瓦の破片である。以前は、瓦の表面が高温で細かいツブツブになっているものもいくつもあったが、今回はただ黒焦げになっている瓦が多かった。原爆が破裂したときの数千度の熱風によって吹き飛ばされた瓦の一部であり、小さい破片であるが歴史の重さを感じることができる。
 ネパールの地で、平和を考える何かのきっかけになってくれれば嬉しい。

2014-11-22

ネパールの旅4

 7年前の1回目のネパール旅行で、骨董品屋から直径18cmの古めかしいシンギング・ボールを80ドルで買い、時々鳴らしては楽しんでいた。金や銀や銅など7種類の金属でできた大き目の椀で、チベット仏教においても重要な品で、皮の付いた専用の棒で周囲をゆっくりこすると、ウヲーンという共鳴した音が流れてくる。これが精神を安定させる作用があるとのことで、心地良い音色が私も気に入っていた。
 ところが半年ほど前に棚から落ちて割れ、アロンアルファで補修したが、以前のような音色がしなくなっていた。
 そこで今回は、新しいボールを買うつもりで、店にあると品定めをして小さなものを4個購入した。ところが最後に訪ねたルンビニの現地ガイドの話では、シンギング・ボールより大きなフィーリング・ボールがあり、肩こりや膝などの痛みの改善に効果があるという。パタンのホテルの近くに専用の店があるとのことで、膝の痛い私はそこを案内してもらい、生年月日を伝えて写真のような直径28cmの大きな品を300ドルで購入した。
 これを痛む腰や膝や背中などに乗せ、ゴーンと専用の棒で打つと、細かい振動が体内の水分に伝わり健康に役立つとのことであった。ガイドの話では、現地の裕福な家庭では、1個は持っているとのことでもあった。さらには曼荼羅図を見ながらだと、さらに効果が上がるとのことで、こちらは他の店で90ドル出して購入した。
 まだ効果が自覚できるほどではないが、薬などに頼らずに健康を維持できるのであれば安い買い物である。それにしても仏教で使う道具が、こうして家庭の暮らしに役立っているのは興味深い。

2014-11-18

ネパールの旅3

 3回目のネパールの旅で、はじめてお釈迦様の誕生地であるルンビニを訪ねた。カトマンズの空港から小型のプロペラ機で25分の地にある。延々と2時間ほど空港で待たされてしまったが、上空では7000m級の白い山脈をくっきりと見ることができ圧巻であった。
 ルンビニの周辺には、お釈迦様が幼年期をすごした遺跡がいくつもあり、まず王子時代を過ごしたカピラバストウ城跡で、出家のために通ったという東門を見た。ただし、建物はまったく形をなくし、土台にあった赤レンガのみである。
 広大なルンビニ園の中心は、お釈迦様が産まれた場所で世界遺産となり、お母さんが出産時に使ったという池や、大きな菩提樹もあり、他には日本を含め世界15か国の22寺院が点在する。
 お釈迦様が完成させた仏教は、日本でも広く普及しているが、どうもその教えが私には今ひとつ分からない。昨年、義父が他界したとき戒名代として、「安くしました」と言いつつ70万円もとられたこともあり、葬式仏教と揶揄される日本の仏教には抵抗がないわけではない。
 しかし、2600年も続く仏教の本質は、何か学ぶに値するものがありそうで、いろいろ出発前からにわか勉強をしてみた。すると宗教の1つの仏教に区分されるが、他のキリスト教などとは本質的に異なり、絶対的な神など存在せず、あらゆる物事には原因があり、それを各自が取り除くことを呼びかけている。宗教を意味するReligionは、Re=再び、ligion=結びつけることで、神と人を再び結びつけることであり、キリスト教やイスラム教などがそうである。しかし、神を否定する仏教では、因果関係を見極めて、各自が考えて幸福になる道を歩むように促している。
 どうもかなり仏教を誤解してきたようで、人間の成長にとって大切なことを説く原始
仏教について、その本質をこれからも追いかけていきたいものだ。
 写真はルンビニ園の中心にある池と菩提樹。
 

2014-11-16

ネパールの旅2

 旅の目的の2つ目は、他の里子たちに会うことであった。遠路チョーバス村を訪ねたが、これがまた大変な悪路で、カトマンズから2時間ほどは塗装した道であったが、それから川を渡り山道の2時間は凹凸の激しい山道で、ドライバーは上下に腰を飛ばすながら苦労していた。同時に悪路で窓を開けると土ぼこりが舞い込んできて、せっかくの森林浴を楽しむことができなかった。
 昼に村へ着き、簡単な昼食をとって学校へと入った。歓迎式では、いくつもの金色色のレイを掛けてくれ、子どもから大人まで喜んでいることが理解できた。電気も水道もない村で、助け合いながら質素に暮らしている。
 こうした貧しい村から脱出するためにも、勉強することは極めて重要である。1年間の文具を受け取る子どもたちの眼の輝きが素敵だった。額と頬に赤い印を付けてもらい、里子たちの幸福を祈っていた。

2014-11-15

ネパールの旅1

 代表をつとめるネパール子ども基金(NCF Nepal Children’s Fund)のスタディツアーで、4人の仲間と11月6日から12日までネパールを旅してきた。6日の10時35分に成田を出発し、香港からダッカを経由し、ネパールの首都カトマンズに着いたのは、その日の22時25分であった。
 今回の第一の目的は、私の可愛い里子であるサンギッタちゃんの元気な顔を見ることで、今回はこれまで2回の学校訪問だけでなく、実家を訪ねて両親にも会うことにした。
 地元の子ども支援のNPOであるHEENEP(Healthy Education and Environment Nepal)を通して、学校での勉学用品を中心に1年に1万1000円を2008年から支援し、元日本生協連の職員などを中心にして2014年度で26人の子どもを応援している。
 カトマンズの市内から車で30分ほど走った、山すその農村で家族は暮らしている。以前はもっと田舎で生活していたが、内紛などの事情があって田畑を売り払い、都市近くまで出てきたが、土地を購入することができず、父親は日雇いの仕事をしつつ家族を養っている。なお16歳で7年生のサンギッタの下には、6年生と1年生の弟がいる。
 父親の日雇い作業を聞くと、農家などがする田植えや稲刈りなど、何でも頼まれればするが、1日500ルピー(日本円で約430円)の仕事は月に10日ほどとのこと。たまには仕事が多くて母親も同じ日雇いに出かけるが、収入は男の半分である。月にすると5000から6000ルピーとのことで、この中から年間2万ルピーの土地代を払い、いくら物価が安いネパールとはいえ、これで5人が満足に暮らせるわけがない。家族の住む小屋と牛小屋の横に、自分たちで食べる野菜を作っている40坪ほどの畑があった。
 父親の建てた小屋は、土の上に太めの竹で骨組みを作り、それに割った竹と土で壁にし、屋根はビニールを被せてある。水道はなく、電気は隣の家からもらい、裸電球が1個ぶら下がっていた。外から見ると、まるで家畜小屋である。
 それでもサンギッタちゃんの元気な笑顔と、真面目そうな両親が救いであった。ぜひこれからも健やかに育ってほしい。

2014-10-29

相川民蔵さんを偲んで

 長年親しくさせてもらった相川民蔵さんが、この10月9日に80歳で急死された。出先の水俣市にいたとき埼玉の家族からの電話連絡を受け、宿泊先のホテルから互いの知人へとメールした。葬儀の日は、福島への取材と重なってやむなく欠席して弔電ですませ、昨日になって所沢の家に線香をあげに行った。
 2000年にフィリピンのルソン島山岳地のアバタン村へ、小型の水力発電装置をNPOのカセッピで設置したとき、お祝いで訪ねたことも想い出の1つである。電気のなかった村で電灯が燈り、小学校に集まった大勢の村人たちと料理した豚などを食べ、地酒も飲んで喜び合った。相川さんにとってアバタン村は、かつての第二次世界大戦のとき軍属で逃げてきたお父さんの最後の地であり、またお母さんが亡くなってからは分骨した場所でもあった。相川さんはいずれ自分の骨も、その傍にぜひ埋めてほしいと言っていたが、こんなに早くその時期が来るとは思わなくて、私はただ笑って聞き流していた。
 9月27日に御嶽山が爆発したとき、夏場は近くの木曽に住んでいる相川さんの家にも灰が降っているのではと思い、久しぶりに電話した。すると木曽でなく、埼玉で入院しているとのことで驚いた。聞くと9月の下旬に仲間と北海道の山奥へ入り、40cm級のヤマメを釣って喜んだが、無理をしたので検査をしていると笑っていた。それからも電話で話したことはあるが、まさかこんなに早く他界するとは思わず、昨日遺影を見るまでは信じられないくらいであった。
 写真は、2011年1月にカセッピの仲間で集まった新年会での場面。お酒とタバコが大好きで、病気をしてからは会うたびにどちらかを止めたらと注意したが、どちらも止めることはなかった。
 まだまだやりたいことがいくつもあったはずである。さぞかし無念だったことだろう。ゆっくりお休みください。合唱

2014-10-27

NGOのJEN20周年に参加して

10月26日の午後から新木場駅近くの材木会館において、JEN(Japn Emergency NGO)の20周年があり参加した。2000年に「JEN 旧ユーゴと歩んだ2000日」(佼成出版社)を出させてもらい、それからの長い付き合いである。執筆は、当時の旬報社の柳沢明朗社長から、JENの代表であった「金八先生」などで有名な脚本家の小山内美恵子さんに紹介があり実現した。10日間ほど現地へ入り、まだ内戦の傷跡がいたる所に残る場での取材をさせてもらった想い出の深い本である。会場に飾ってあるコソボなどの写真を見つつ、当時を思い出した。
 当時、旧ユーゴで頑張っていた木山啓子さんが、今は事務局長として全体を管理している。
 式典は、第一部でJEN20年の歩みを木山さんが報告した。20年間で世界中の22の地域で1000万人に貢献したというから凄い。旧ユーゴだけでなく、パキスタン、スリランカ、インドネシア、ハイチ、ミャンマー、アフガニスタン、南スーダン、さらには新潟や石巻でも活動している。後で木山さんに、「ここまで活動を広げて凄いけど、マネジメントは大丈夫 ?」と聞くと、人材開発プロジェクトを完成させるなどし、以前に比べると力量を上げてきたとのこと。結婚をして子どもを育てているスタッフも増えたそうで、喜ぶべきことである。ただし、現状が精一杯ですとのことであった。
 第二部のシンポジウムでは、まず文化人類学者の竹村真一さんから、「触れる地球からみる紛争地と気候変動の関係」でデジタル地球儀を使いながらの面白い話があり、その後でパネルディスカッション「今、私たちにできること」が夕方まで続いた。地球規模での捉え方で参考になった。
 5時からの第三部は懇親会で、ビールやワインを片手に80名ほどが和やかに交流した。小山内美恵子さんも来ていて、マイクを握って挨拶をした。以前に比べるとゲッソリと痩せていたが、話し出すと前のままの熱い語りであった。舞台で軽音楽が演奏になると、杖で体を支えたまま踊っていた。今もカンボジアに学校を作る活動を続けているそうで、やはり凄い情熱を持った
女性である。いつまでもお元気で。

2014-10-13

水俣を訪ねて

 以前から一度は水俣市を訪ねたいと考えていた。ある友人が訪問して前向きに頑張っている生産者を訪ねると聞き、ちょうど日程も空いていたので同行させてもらった。10月10日の早朝便で羽田から福岡経由で水俣に入り、11日の最終便で帰ってくる強行軍であった。
 短い時間ではあったが、いろいろな方に会って現場を見させてもらいつつこだわりを聞かせてもらい勉強になった。
 ①水俣市環境モデル都市推進課
   水俣病の発生を止めた後で、汚染した海の一部を埋め立て、さらには環境教育などを 
  し、ハードとソフトの両面で取り組んでいることを聞かせてもらい、関連する資料をいくつも入
  手した。
 ②ちりめん作り
   地下水が海で湧いている美しい入り江を訪ね、漁師さんの杉本さんから話を聞いた。案  内してくれた小さな港には、のぞくといくつものウニが見えた。採ってきたちりめんを独自に  加工する工場も運営している。
 ③柑橘作り
   山の斜面は甘夏の産地でもあり、無農薬で他の柑橘類を含めて育てている。
 ④紅茶作り
   500mの山間部で天野さん親子が無農薬の「天の製茶園」を営んでおり、訪ねて話を
  聞いた。加工・販売までの六次産業だけでなく、さらには市内で専用の喫茶店も経営して提
  供しているから凄い。
 ⑤生協水光社を訪ね
   生協で水俣といえば水光社である。吉永理事長から歴史や生協くまもとになってからの動
  きなどを聞いた。
 ⑥モンヴェール農山
   (有)農山畜産が経営するレストランで、森林の中の40haという広大な敷地にあり、3
  00頭の養豚と、その豚肉の加工や販売も親子でしている。
 ⑦NPOばらん家(ち)
   休耕田を使い20人近い障害者が砂糖きびを栽培し、それを加工して販売している。そこ
  の松原理事長に、作業所でこだわりなどを聞かせてもらった。
 まだ終わっていない水俣病を、ぜひ最後の1人までしっかりと救済してほしい。と同時に、新しい水俣を再生させるための動きはいくつも出ており、そちらも応援したい。

2014-10-09

障害者が活躍する洗びんセンター

 断片的な話は何回か聞いていたが、障害者が活躍する洗びんセンターは20周年を迎え、東京の郊外にある昭島市に足を運んで話を聞いてきた。88人もの障害を持った人たちが中心となって、家庭で利用した再利用可能なビンを洗浄し、それをメーカーなどに戻して再び利用している。大きさ、形、色などの違いで80種類ほどあるビンの、まずキャップを外し、大きな洗浄機で洗ってきれいにし、1本ずつ点検して出荷する。環境に優しい大切な仕事を、障害者たちはもくもくとこなしていた。工賃と呼んでいる手取りは、人によって異なるが2013年の平均で月3万9000円というから凄い。一般の給与に比べると少ないが、共同作業所では1万円以下があたりまえであり、経営の工夫をしている結果だろう。
 20周年を記念した単行本『スタート ラインズ』(社会福祉法人きょうされん 萌文社 定価1111円)を読むと、障害を持った人たちがこの洗びんセンターで働くことによって、いかに楽しく成長してきたか良くわかる。7月の同式典では、構成詩「ゆめをかたちに」を発表しているから、文化面でも大きく羽ばたいている。
 運営しているきょうされんの本部を中野区に訪ね、リーダーの1人である藤井常務からも話を聞いた。20年前に東都生協と連携し、全国の仲間にも支援を受けつつ手探りで運営してきたが、協力すればここまでできると大きな自信になっている。ビン商品の減少する中で課題も多いが、環境資源の視点からもぜひこれからも発展してほしい。
 全盲の藤井さんから、著書『見えないけれど観えるもの』(やどかり出版 定価2000円)をいただき一読した。1990年から2000年初頭にかけ障害者問題について書いたもので、それぞれの本質をていねいに紹介している。三流の政治が進む日本において、いかに障害者問題がお粗末にされているか知り深く教えさせ
られた。
 この2冊の本は、ぜひ健常者にも読んでもらいたい。
 

2014-09-05

みかん

 9月3日は、母八重の命日である。まだ39歳で、私が小学3年で弟が小学1年であった。1958年(昭和33年)のことで、幼子を残してさぞかし後ろ髪を引かれたことだろう。
 高知の小さな農村で、戦争から戻ってきた傷痍軍人の父と農業を営み、姉を含めた家族5人で暮らしていた。稲作と河原での西瓜栽培や、タバコの葉を作ったりしていたが、西瓜は一晩の大水で全滅するなどし、貧しい暮らしから少しでも収益を高めようと、私が学校へ通う前からビニールハウスによる園芸作物へと移行した。人工的に高温多湿の空間を作り、露地物より早くトマトやキューリなどを育てて出荷する。このため室内は野菜の病原菌が広がり、常に強力な農薬を散布しなくてはならなかった。当時は有機リン系も多く、野菜を守ると同時に、働く人の健康も著しく害し、1つの病気だけでなく複数の疾病を発生させた。園芸が拡がるにつれて、作業者の健康被害も増加し、これをビニールハウス症候群、略してハウス病と村人は呼んでいた。
 母もこれにかかり入退院を繰り返していたが、亡くなる年の夏前からは、高知市内の小さな病院のベッドで寝たきりになっていた。冷房もなく扇風機を傍に置いたが、病人には良くないとのことで家族は団扇をよく使ってそよ風を送っ
た。複数の癌などが発生して進行し、すでに医者の手には負えず、父は祈祷師を連れてきたこともあった。
 暑い日に父が、「何か食べたい物は?」と聞くと、母は弱い声で「みかん」とつぶやいた。しかし、当時はどこの店にもみかんがない。困った父は、缶詰のみかんを買ってきたが、甘いシロップ漬けのそれを、母は口にしなかった。やっと父が手に入れて持ってきたのは、まだ緑の小さなみかんであった。子どもの目にも酸っぱそうであったが、父から一房を割って口びるに当ててもらった母は、静かに微笑んでいた。
 
 56年目の今年の命日に、みかんを買ってきて書斎の一角にある本棚の位牌に備えた。ビニールハウスで農薬を使って育てた綺麗で高価なものでなく、太陽や雨風を直接受けた沖縄育ちのみかんは、外見はあまりよくないが味はしっかりしていた。きっと天国で亡き母は、あのときと同じく静かに微笑みつつ口にしていることだろう。
 

2014-09-02

不思議な体2

 9月になり、平たん部での歩行はだいぶ楽になったが、まだ階段の上下で膝が少し痛み、また床に座ることができずにいる。
 それでも8月初旬に原因がやっとのことで分かり、回復への目途がついてきてホッとしている。ベテランの整体師を訪ねると、足の筋肉が運動不足で低下し、膝の上と下の筋肉が萎縮したため膝を引っ張る形になって痛みが発生しているとのこと。8kgも体重が低下したのも運動不足で筋肉が減ったためである。改善するには両足の筋肉を鍛えることで、屈伸運動が何よりも重要とのことであった。やっと納得できる診断を受け、助言に沿って週2回の通院と、毎日時間をつくっては膝を曲げて筋肉を鍛え、膝の痛みも軽くなり少しずつではあるが回復に向かっている。
 73歳になる整体師の先生から、いろいろ教わっている。人体を支える骨は、もちろん大切な役割をしているが、それ以上に重要な役割を果たしているのが筋肉だという。ところが西洋医学では、レントゲンで見ることのできる骨に注目するが、血管や神経やリンパ腺の通っている筋肉にあまり関心をもたない。私の6月から7月に受けた整形外科や整形内科がまさにそうであった。
 骨に注目していると、今回の私の症状では有効な治療を見出すことはできないと整体師は断言し、上記の筋肉鍛錬で改善策を示してくれた。
 人体に骨は200本あり、他方で筋肉は約600本もあるそうだ。内臓に付いている筋肉もあるから、単純に骨と筋肉を数で比較できないが、人体の各部に多数の筋肉が付いて、柔軟な体の動きや血液の流れを正常にし、かつ神経の働きにも大きく貢献している。
 これらの筋肉は、常に動かしていないと加齢とともに劣化し、やがては車椅子での移動や、それもできなくなるとベッドで寝たきりとなってしまう。高齢者の施設で車椅子を使うのは、骨折などのごく限られたケースのみとし、屈伸運動などを続ければずっと自分の足で歩くことは可能だとのことであった。日々筋肉を鍛えて膝の痛みは早急に改善させ、今回の苦い教訓を忘れずに過ごしていきたい。
 なお上半身の筋肉も鍛えなくてはならず、2リットルのペットボトルや握力を増すためのグリップを愛用している。
 薬を一切使わず、自らの体に備えている筋肉を鍛錬することにより、自分の足で歩くなどの健康を維持することができる。親のくれた体に感謝である。

 8月下旬に3泊4日で、2人の孫を連れて志賀高原の安い温泉宿でのんびりした。朝と夕に温泉で膝の屈伸運動をし、昼間は近くの山を散策した。

 

 

2014-08-12

広島を散策

 8月4日の午後に久しぶりの広島へ空路で入った。いつものように猛暑の広島をイメージしていたが、今年は台風の影響で雨は降るは雷は鳴るはで趣きはすっかり異なっていた。
 4日(月) ホテルに生協の知人が迎え来てくれて、魚とお酒の美味しい小料理屋で再会を祝った。以前と同じく元気そうであったが、聞くと癌の手術をして療養中とのこと。さらには手術が成功してホッとしたのに、今度は被爆二世の旦那が癌の手術をした。旦那さんの兄弟2人と被爆した父親が現在癌の治療中とのことで、あらためて原爆の被害は今も続いていることを実感した。
 5日(火) 小雨の中で朝から市内を散策し、途中で以前に植えたWMCAの建物の前で被爆ハマユウに再会した。平和大橋の下の元安川にも行き、今回の目的の1つである原爆瓦を探した。丸焦げになった瓦はいくつもあるが、放射能を浴びた表面に凸凹のあるものはない。やっと原爆ドームの前の河原で1つ見つけた。
 午後からは生協の「虹のステージ」へ参加。全国から1200名が集まり交流した。会場のいくつものブースには、復興をすすめる福島と宮城もあり、ありがたいことに私の本をそれぞれに置いてあったので顔見知りに薦めた。4時半からは、全国の生協九条の会の交流会へ参加し、各地の取り組みを知ることができた。会場で福岡県連の専務に会い、夕方から美酒を交わしつつ11月の講演について打ち合わせをした。
 6日(水) 雨の中を平和公園の式典に向かう。途中で菊の花を受け取り、会場では座ることができず少し濡れながら立っていた。雨雲に鐘の音が響いた。公園を横切り原爆ドームへ行ったときは、ちょうど雨もあがり今回の目的でもあるスケッチを2枚した。
 1時に県連を訪ねて高田専務とお好み焼きの昼飯を食べ、しばし意見交換。生協以外とのネットワークも活かし有意義な取り組みをしている。3時半からNPO主催の集会に参加し、各地で核に反対している情報を得ることができた。
 7日(木) はまゆうが校花になっている市立井口中学の瀧口先生とロビーで会う。何と放送部員の3人の女の子もマイク持参で同席し、私のインタビューをして「はまゆう」をテーマに8分のビデオにしたいとのこと。「私に協力できることであれば喜んで」と、平和大通りのベンチに座り、被爆ハマユウの歴史や私の願いなどを30分ほど話させてもらった。
 昼の飛行場へ向かう頃には、照りつく太陽が見送ってくれた。

*後日談 広島の一人旅を満喫するこはできたが、完治してない膝には少し負担になったようで、帰宅した後はすぐ横になって熟睡してしまった。

2014-07-30

不思議な体

 この4月に65歳の高齢者となった歳のせいか、どうも体調の変化が激しくて困っている。春先から両膝などが少し痛みだしていたが、毎朝のストレッチや散歩などもこなしていたのでさほど心配していなかった。それが6月になった頃から痛みが激しくなって歩行が遅くなり、特に階段では手すりにつかまり、1段ずつ上下するようになった。正座もできず、布団から起きるときも一苦労である。
 やむなく整形外科を訪ねて、膝や腰の間接のレントゲン写真を撮ったが、「部品は正常」とのこと。湿布薬と痛み止めが出た。次は整形内科に行き、血液検査やMRIの検査を受けたが、心配していたリューマチなどの疑いはなかった。さらに別の角度からと、今度は大学の付属病院にある血液内科を紹介され、1カ月ほどいくつもの検査をしたがどれも問題なし。
 平行して受診したのは、食事療法で有名な都内にある御茶ノ水クリニック。血液の汚れが間接部に影響しているとのことで、玄米雑穀と野菜を食事とし、胚芽や葉緑素などの健康食品と、何種類もの薬草茶を使うようになった。
 あわせてビワの葉温灸と温泉が良いとのことで、それらも取り入れた治療を進めている。もっとも温泉地まで出かけるのは毎日とはいかず、家の風呂に富山のヒスイ海岸から拾ってきた薬石を沈め、朝と夕に入っては汗をたくさん流している。
 こんなこともあってか63kgの体重が、何と8kgも減って骨皮筋衛門になってしまった。腰の肉がなくなったため、椅子に座わるとすぐに骨が痛くなる。
 食事療法するととにかく痩せるそうで、体重の減少は気にしなくても良いとのこと。また日によって下半身や上半身が痒くなるのは、好転反応の1つでもあるらしい。他に納得できる方法もないので、ぜひ今の食事療法を続けて1日も早く完治させたいものだ。無理な暮らしをしないようにと、貴重なシグナルをもらったと受け止めている。
 写真は、この5月末に帰還困難区域へ防護服で入ったとき。空間線量で毎時10μSVあった場所もあり、3・11で時間が止まっていた。震災は決して終わっていない。

2014-07-13

宮城県における食の復興本を出版

 この7月4日に、「宮城♡食の復興ーつくる 食べる ずっとつながるー」(生活文化社 定価1500円+税)を出版させてもらった。私の震災本としては5冊目である。なお4冊までは下記である。
 ①「悲しみを乗りこえて共に歩もうー協同の力で宮城の復興をー」(合同出版 2012年3月)
 ②「被災地につなげる笑顔―協同の力で岩手の復興をー」
                   (日本生協連出版部 2012年10月)
 ③「3・11忘れない、伝える、続ける、つなげるー協同の力で避難者
           の支援をー」 (日本生協連出版部 2013年3月)
 ④「福島の子ども保養―協同の力で被災した親子に笑顔をー」
                          (合同出版 2014年3月)
 震災直後から宮城県では「食のみやぎ復興ネットワーク」を設立し、みやぎ生協を中心にして235団体もが現在協力して、震災から食の復興をめざしていくつものプロジェクトを立ち上げて貴重な成果もあげている。その取り組みを現地で1年間取材し、この本に書かせてもらった。
 白菜プロジェクトでは、大正時代から品種改良をコツコツと進めている地元の採種場もあれば、菜種プロジェクトでは、ミツバチを使った蜜採りがあり、あまり知られていないミツバチと人間の共生でも多くを教えてもらった。
 この本は、「被災地宮城において、生協・農協・漁協はじめ食品の製造業や流通ベンダーなどが、多数のネットワークをつくり食の復興をすすめています。食と農を守る協同の輪を地域でさらに拡げるためにも、この本をぜひお読みください」との推薦文を、全中、全農、日本生協連の3会長からいただくことができ、本の帯に掲載させてもらった。
 日本の食を地域において協同で守るためにも、ぜひ多くの方に読んでもらいたい。
 


 

福島の子ども保養

 2014年3月に、「福島の子ども保養―協同の力で被災した親子に笑顔をー」(合同出版定価1400円+税)を出版させてもらった。震災本としては4冊目で、福島県生協連の取り組みを中心に、パルシステムなども取材させてもらった。
 まだ放射能の空間線量が高い福島県の浜通りや中通りに住む子どもや保護者は、過剰なストレスの中で暮らしており、少しでも安心して遊んだりできる場所でリフレッシュすることが大切である。各地の生協や市民団体などが協力し、多様な取り組みを展開している。
 ところで震災以前から、国連人権委員会が日本政府に対し、子どもが過度の競争下におかれており、極めて問題であるとの指摘を3回にもわってしている。しかし、政府が無視していることは、続くいじめや自殺などで残念ながら証明している。
 こうした中で福島の子ども保養を地域で支えることは、全国での子育てにも大きなヒントとなる。震災から4年目となった今日、福島の子ども保養を、各地の子育ての実践にぜひ引き付けて学んでほしいものだ。