2014-09-05

みかん

 9月3日は、母八重の命日である。まだ39歳で、私が小学3年で弟が小学1年であった。1958年(昭和33年)のことで、幼子を残してさぞかし後ろ髪を引かれたことだろう。
 高知の小さな農村で、戦争から戻ってきた傷痍軍人の父と農業を営み、姉を含めた家族5人で暮らしていた。稲作と河原での西瓜栽培や、タバコの葉を作ったりしていたが、西瓜は一晩の大水で全滅するなどし、貧しい暮らしから少しでも収益を高めようと、私が学校へ通う前からビニールハウスによる園芸作物へと移行した。人工的に高温多湿の空間を作り、露地物より早くトマトやキューリなどを育てて出荷する。このため室内は野菜の病原菌が広がり、常に強力な農薬を散布しなくてはならなかった。当時は有機リン系も多く、野菜を守ると同時に、働く人の健康も著しく害し、1つの病気だけでなく複数の疾病を発生させた。園芸が拡がるにつれて、作業者の健康被害も増加し、これをビニールハウス症候群、略してハウス病と村人は呼んでいた。
 母もこれにかかり入退院を繰り返していたが、亡くなる年の夏前からは、高知市内の小さな病院のベッドで寝たきりになっていた。冷房もなく扇風機を傍に置いたが、病人には良くないとのことで家族は団扇をよく使ってそよ風を送っ
た。複数の癌などが発生して進行し、すでに医者の手には負えず、父は祈祷師を連れてきたこともあった。
 暑い日に父が、「何か食べたい物は?」と聞くと、母は弱い声で「みかん」とつぶやいた。しかし、当時はどこの店にもみかんがない。困った父は、缶詰のみかんを買ってきたが、甘いシロップ漬けのそれを、母は口にしなかった。やっと父が手に入れて持ってきたのは、まだ緑の小さなみかんであった。子どもの目にも酸っぱそうであったが、父から一房を割って口びるに当ててもらった母は、静かに微笑んでいた。
 
 56年目の今年の命日に、みかんを買ってきて書斎の一角にある本棚の位牌に備えた。ビニールハウスで農薬を使って育てた綺麗で高価なものでなく、太陽や雨風を直接受けた沖縄育ちのみかんは、外見はあまりよくないが味はしっかりしていた。きっと天国で亡き母は、あのときと同じく静かに微笑みつつ口にしていることだろう。
 

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