2015-01-27

イタリアを旅して

 1月19日から26日の日程で妻とイタリアを旅してきた。私にとっては大学生協連の頃に訪ねてからのなので、約20年ぶり。それにしても安いツアーで、燃油代を含めて1人16万円。普通は燃油代が5万円ほどするので、11万円でフライトとホテルと全ての食事代を賄っていることになる。どうやってこのようなツアーができるのだろうか。ともあれ年金生活者には、寒いけど安いこの時期の旅に限る。
 イタリアでは全てバスによる移動で、ミラノ、ベネチア、ピザ、フィレンテェ、ローマ、バティカン市国、ボンベイ、ナポリと廻り、一番長い距離は280kmもあり、5時間ほど座り疲れた。
 それでも行く先々で遺跡や絵画や彫刻などを観ることができ、また短時間ではあるが自由時間にはスケッチもすることができたので旅を満喫できた。スケッチは10分ほどで仕上げ、夜ホテルでワインを飲みつつ水彩を乗せていった。
 「遺跡の上に遺跡がある」と表現されるほど、イタリアは古い歴史を持っていて興味深く、1つの都市に1週間でも滞在したいほどであった。地元のワインを飲みつつ本場のカンツオーネを聴くのも楽しかった。「サンタ・ルチア」や「フニクラ・フニクリ」の風景を観ると、歌のリズムや歌詞がより身近になった。
 他方で気になったこともある。ブランドで着飾った若い女性などが、世界遺産に登録されている建物の前で、タバコの投げ捨てを平気でしている。石畳の境目には、タバコの吸い殻が散乱していた。
 安いツアーのせいか料理にあまり野菜がなく、ナポリの海岸で路上販売のミニトマト1kgを5ユーロ(約700円)で買った。ホテルで食べようとすると、パックの上一列は新鮮であったが、下の全てが腐っていて食べることができなく頭にきた。ふざけた人は残念ながらどこにもいるものだ。
 帰国の前日から右膝が痛くなり、帰国して今日医者に診てもらうと、雑菌が入って化膿しているとのこと。抵抗力が弱っているようで、昨年は腰が化膿して1週間ほど抗生物質を飲んだ。
 写真はボンベイの遺跡。後ろに見えるベスビオ火山が2000年ほど前に噴火し、わずか2日で6mの火山灰に埋もれてしまった都市である。自然の脅威
を改めて感じた。
 

2015-01-18

阪神淡路大震災20周年

 早いもので阪神淡路大震災から、もう20年経った。あの時も信じられなくて、震災翌月の2月上旬に神戸を訪ねて驚いた。
 20年前の同じ場所を早朝の5時に訪ね、神戸市役所の前にある東遊公園で、竹の中に浮かべたロウソクに火を灯し、犠牲者の冥福を多くの人たちと一緒に祈った。あまりにもたくさんの人で、足元も見えないくらいの中だったが、見上げると夜空に美しい三日月がクッキリと見えた。
かなり寒く、ボランティアの人たちがカイロを配り、また粕汁を提供していた。その粕汁も器に一杯入っていて、体の芯から温かくなった。
 9時に三宮駅前に出かけ、明るい中で再度公園を訪ねた。すると人出も少なくなり、1万本も並べてある竹筒を見ると、1・17と1995と置いてあった。他にも雪地蔵が何体も置いてあり、これも初めて見たので感激した。
 これからもずっと震災の記憶を伝えていきたい。

2015-01-15

ネパール・スタディツアーの報告会

1月14日6時半から渋谷のコーププラザにおいて、昨年11月に実施したネパーツ・スタディツアーの報告会をもち、里親を中心に約25名が参加してくれた。
 ネパールの女性協同組合でもらった帽子をかぶった私は、開会の挨拶・乾杯と、ツアーの概要や里子であるサンギッタちゃんの実家を訪ねた様子を話した。竹で骨組みを作り、屋根にはビニールシートをかけた小屋が里子の住まいであり、報告する後ろに映像が流れ、破れた屋根などが映し出されていたので、参加者は驚いて見ていた。
 ツアーに参加した他の人からは、子どもたちや村の様子などを、何枚もプロジェクターで写しだし、現地の様子をよく伝えてくれたり、女性協同組合や人身売買から少女を守るNPOなどの報告もあった。さらにはネパールでのジャイカの仕事を終えて帰国した元日本生協連職員の関谷さんからは、ネパールの協同組合について報告してもらった。また無事に卒業した里子を支援してきた人には、HEENEPからの感謝状が届き手渡した。
 水道や電気もなく、今の日本では考えられないほど貧しいネパールで暮らす子どもたちは、日本から年1万1000円の支援で安心して勉強をすることができ、貧困から抜け出す希望となっている。そうした話を強調して伝え、参加者から後半で感想を聞いたところ、新たに4人が里親になりたいと意思表示があり、さっそく現地のNPOであるHEENEPから届いた新しい里子リストより選んでくれた。
 働いている現役の里親が少ないなど、運営上に改善課題はあるが、食べて飲んでマジックシューもあり、何より新しい里親が増え楽しく有意義な報告会となった。ぜひこれからも素敵な仲間とネパールの貧しい子ども支援を
継続させたい。

2015-01-12

福島の被災地を訪ね

 1月7日から福島へ入り、各地で暮らす被災者やその支援者を訪ねた。最初の福島市では、ささき牧場の佐々木智子さんに会い、近くの仮設住宅などへ作った野菜などを届けている話を聞いた。「支援するなどという気負いはなく、家の畑で少し余分にできた野菜を届けているだけです」と話す姿が清々しかった。テーブルの皿にあったカボチャの煮物は、それはほくほくして美味しく、こんな野菜をもらった被災者も、きっと喜んで食べていることだろう。近くの仮設住宅の周囲には、20cmほどの雪が積もっていた。
 夕方に高速バスで会津若松へ向かう。福島駅では晴れていたが、二本松を過ぎた頃から雪になり、若松に着くころは凄い吹雪になっていた。
 8日は、早朝にまず猪苗代を訪ね、支援している年配の夫婦から話を聞いた。自分たちにできることをコツコツとしているとして、原発反対の100万人署名は知り合いに用紙をお願いして集めてもらい、被災者へは毎年暮に2升の餅をついて届けている。
 午後は、農民詩人の前田新(あらた)さんを会津高田に訪ねた。昼までは晴れていたが、高田の駅に降りた時は、荒れ狂う吹雪になり、かつ駅前にタクシーは1台もない。やっとのことで前田宅を訪ね、大きな柱の家の居間でコタツに足を入れた。
 「名刺替わりです」
 前田さんは、4冊の本を出してくれた。その1冊は、『詩集 一粒の砂ーフクシマから世界にー』とあり、震災後に詠んだ詩がいくつも並んでいた。その1つ「言葉」の最後では、次のように叫んでいた。
 「奪われた土地を取り戻すために
  私はこの地に生きて死にたい
  わが祖先とともにここでたたかいたい
  それはいのちがけのたたかいになる
  たたかいを挑む私の手に
  武器とよぶものは何もない
  精神の目 すなわち
  言葉だけだ」
 研ぎ澄ました言葉が、詩集の中で輝いていた。
 こうした福島に生きる人たちの息吹を、震災復興本の6冊目となる次作に反映させ
、ぜひ私の言葉で埋め尽くしたいと強く感じた。
 *写真は福島市内のある仮設住宅