2015-07-19

高知の旅2 絵金

 幕末の頃に、土佐の高知で絵師の金蔵こと絵金が活躍していた。私の産まれ育った仁淀川の河口近くの村でも、祭りの時には絵金の絵馬がいくつか並び、子ども心には絵の意味は分からずにいたが、ローソクに照らし出される赤や青の強調したおどろおどろしい殺戮の場面は、底知れぬ恐怖心をもったものだ。
 南国市の赤岡町に絵金の資料館があるし、絵金祭りは18、19日だが、その前に町の神社で夜に展示するとのことで15日に兄弟で出かけた。
 資料館の絵金蔵は、いくつもの作品や資料があり見応えがあった。絵の天分に恵まれていた絵金は、とんとん拍子で土佐藩で出世したが、だまされて贋作事件に関わり城下町である高知市を追放される。10年の空白の後、絵馬などの作者として再出発し、今に残る作品を精力的に描いていった。一説ではお酒を飲みつつ、1晩で1つの作品を描いたというから凄いスピードである。
 1枚の絵の中に複数の出来事を描き、ストーリーを楽しむ芝居絵がある。和ろうそくの光に浮かびあがる極彩色が、妖しくゆらめく。墨で一気に描いた下絵は躍動感にあふれ、180cmの巨体を使い勢いよく筆を走らせたことがよく分かる。
 中には男女別での放屁合戦や、夜這いの風景などで性器をリアルに描いた「笑い絵」もあった。権力から離れ自由奔放に描いた絵金のいごっそうぶりがよく分かって愉快であった。
 絵金を保存している赤岡町には敬服するが、あくまでも年に数日の祭りであり、そのときの観光客も知れている。日頃から子どもや高齢者を含めた住民が暮らしやすい地域にすることが町おこしの本命であり、街中の大半の店にシャッターの降りていることが気になった。

高知の旅1 平和資料館草の家

 7月13日に1年ぶりで墓参りに帰省した。時間があったので市内にある平和資料館「草の家」を久しぶりで訪ねると、創立者の故西森茂夫さんの奥さんである遼子さんがちょうどいて、近況などを聞かしてもらった。「草の家」は、平和と教育、環境問題を考える草の根たちの広場として、西森さんが私財を投入して設立した4階建てである。1階の50人収容のホールには、壁面に戦争関連の遺品などを展示し、2階は図書室になっている。
 私が生協総合研究所の研究員だった頃に、まだ健在だった西森茂夫さんを取材させてもらい、「草の家」の取り組みを「生活協同組合」誌に掲載させてもらった。また西山竜平さんが高知へ戻ったときに同行してここを訪ね、1晩泊めさせてもらったことも懐かしい。
 ここを拠点にし、戦争遺跡の保存と調査研究、戦跡めぐりや平和の旅の実施もあれば、記録や草の家ブックレットなどの出版もすれば、ミニコンサートやフォーラム、映画会、学習会なども開催している。これらを全て民間の力で運営しているから凄い。
 遼子さんと話していると、こうち生協の協力で「ぼくの見た高知大空襲」のDVDが完成したとのことで、1部をいただいた。1945年の7月にアメリカ軍のB29の120機が高知市を空襲し、そのとき母と姉を亡くした岡本正弘さんの語りを紙芝居にしていた。子ども向けで、戦争の実態を分かりやすく解説している。市内を流れる鏡川が、焼夷弾で川面も燃えて多数の死傷者を出したことなどを知ることができた。私は中学生の頃にボート遊びや魚獲りした川だが、次に観るときはこの紙芝居をきっと思い出すことだろう。
 かつてここで働いていた金さんが、ソウルの民族問題研究所で活動し
ているという。8月に被爆資料室オープンに参列するためソウルを訪ねるので、時間があえばぜひ会ってきたいものだ。

2015-07-10

会津地方を訪ねて

 7月6日から8日まで会津を訪ね、天気が良かったので、スケッチブックを持って喜多方の蔵めぐりもした。大和川酒造などの酒蔵がいくつかあり、それぞれが無料で見学させてくれ、自慢のお酒の試飲もできるから最高である。
 会津坂下にある8.5mもの立木千手観音は、その名の通り根のある大木を彫った仏像で、日本一の立像観音とのことで迫力があった。808年に彫刻したそうだから、実に1200年以上もたっていることになる。それぞれの樹木にも命が宿るという日本古来の自然観に、仏教の教えを重ねて彫ったものだろう。奈良や京都とは異なった自由な会津仏教の1つであり、おもしろい流れである。
 いろいろな方にも会ってきた。スクールソーシャルワーカーをしている女性の話では、東日本大震災で震災して会津地方に避難している家族で、補償金を使いはたし、子どもの食費にも事欠くケースがあるとのこと。特に長い休みの後は、痩せた状態で登校する子がいたりして、格差社会がより深刻になっているとも話していた。
 この6月に出版させてもらった『協同の力でいのち輝け』の取材でお世話になった、会津美里の農民詩人前田新(あらた)さんも訪ね、今回は書斎なども見させてもらいながら話を聞かせてもらった。本を贈るとすぐに、「冥土への最高の土産ができました」とのていねいな礼状が届き恐縮した。
 脳梗塞をおこして町会議員を降りてから前田さんは、1年に1冊は出版すると決意し、農作業をしつつこれまでに詩集や小説や評論集など15冊を出しているから凄い。80歳になる今も、会津の近代史における農民の動きなどを研究し、いずれ本にする準備をしている。
 蔵を改造して造った書斎は、壁面に本が整然と並び、さらには気分転換に描いている絵もいくつかあった。広い窓から見える磐梯山の雄大な姿も、100号ほどののびやかな絵になっていた。訪ねた日は朝5時から奥さんや娘さんと農作業でキューリもぎなどをされ、疲れた体であっただろうが笑顔で10時から3時前まで楽しく懇談させてもらった。
 後遺症で片腕しか自由に動かすことのできない体で、トラクターを運転し、パソコンや絵筆も動かしている。農民詩人というより、宮沢賢治が強調した農民芸術家そのものである。

2015-07-01

ジャーナリスト高杉晋吾さんに会って

 6月30日の昼過ぎに、電車を乗り継いで池袋線の入間駅へ向かった。社会派のジャーナリストである高杉晋吾さんに会って、ルポの方法などについて聞くためである。約束の15分前に改札口に出ると、すでに82歳の高杉さんが立っていて恐縮した。5分ほど歩いて集合住宅のお宅へ向かう。
 高杉さんの『袴田事件・冤罪の構造』(合同出版)を読んで、その取材の丁寧さに驚いた。いかにでたらめな「証拠」によって袴田さんが死刑囚にされたのか解きほぐし、事実でもって再審無罪へと読者を案内してくれる。他にも古書店で入手できる6冊をインターネットで購入し読んだ。教育、水力ダム、廃棄物、障害者問題など、多面的なテーマで出版し、そでに60冊ほど出しているから凄い。それも年によると2冊だけでなく3冊も出している。小説やエッセイであればわかるが、「足で書く」とも言われるルポルタージュにおいて、年に3冊も仕上げるとなるとかなりのスピードと体力が必要である。
 5月に「愛とヒューマンのコンサート」でカメラ担当として高杉さんの奥さんは同行して面識があり、電話して今回の面会をお願いした。
 キッチンのテーブルに座ると、「何もありませんが」と言いつつビールとつまみを出してくれ、乾杯してから親しく質問に答えてくれた。
 「高杉さんの原点は?」に対して、11歳のとき満州の自宅庭の防空壕でアメリカ空軍の直撃弾を受け、母と姉など6人が即死し、高杉さんは母の下で奇跡的に助かったことと話してくれた。後で近所の人から、姉は首が飛び、内臓が破裂して腸が枕木にかかっていたと聞かされたそうだ。大学時代に社会の仕組みについて学び、母や姉の殺された戦争の背景などを考え、社会にある差別をえぐり出すことに情熱をかたむけるようになった。私の父親が自分で片目をつぶして傷痍軍人として帰国したことが、私の1つの原点になっていると話すと、「よく分かりますよ」とうなずいていた。
 取材は全てテープに録音し、それを後でコツコツと文字にしているとのこと。テープおこしは、話した時間の数倍かかる。そんなに時間をかけるのは大変なので、私は大学ノートに要点をメモするようにしているが、忘れてしまうこともあって困ることがある。高杉さんの本には、細かい会話がよく出てくるが、全て会話を記録しているからできることである。6畳ほどの書斎を見せてもらうと、一面の本棚にはテーマ別にA4版の紙製ファイルがずらりと並び、関連する資料などをきちんと綴じ几帳面さがよくわかった。
 テーブルの上にビールの空き缶が6本並び、今度は焼酎を出してくれた。
 「ミクロを積み上げていけば、やがてマクロになります。私も歳をとってきたので、これまでの総仕上げとして個別のテーマを横串にした本を書くつもりです」とのことであった。もちろんルポではないが、ぜひ読みたいものである。
 奥さんは数日前に転倒して骨折し入院していたので、2人で駅前のそば屋へ入って夕食をとり、ビールで2人の健康と次の作品に向け乾杯した。楽しく有意義な時間だった。