2016-02-25

原発事故被害者の救済求め

 2月24日午後3時から参議院議員会館地下の会議室で、「原発事故被害者の救済を求める全国運動」の総会と、続く国会議員との討論会があり参加した。FoEJapanによる第三期全国運動キックオフ集会でもあり、避難の権利を求める全国避難者の会、原発事故被害者団体連絡会、放射能からこどもを守ろう関東ネット、さよなら原発1000万人アクションの鎌田慧さん、反貧困ネットの雨宮処凛さんなどと、それは多彩な顔ぶれでそれぞれの活動や課題などを出していて刺激になった。
 原発事故に責任のある行政や東電は、2017年3月に仮設住宅や見なし仮設への補助を打ち切り、2018年3月には保障金を切るとの方向性を出している。これでは子連れなどで故郷を離れざるをえない被災者は暮らしていくことができず、各地でいくつもの運動が立ち上がっている。それまで政治に直接関わったことのないごく普通のお母さんたちが、我が子のために仲間と一緒に立ち上がりつつある。被災者による新しい協同組合づくりの構想もあるようで、何かの応援もしたいものだ。
 集会は、①原発事故避難者の住宅支援の打ち切り撤回、②避難指示区域の早期解除方針の撤回と被害者への賠償の2018年3月打ち切り撤回、③福島県内外における健診の充実・拡大と医療費の減免を求め、第三期に入ることを確認した。
 5時過ぎからは、国会議員も含めた集会となり、社民党の福島みずほ、民主党の菅直人、維新の川田龍平、共産党の紙智子さんたちが参加し、議論はさらに熱くなった。原発事故は明らかに人災であるが、自然災害と同じ枠で補償をしているので限界があるとの指摘は考えさせられた。
 私の座っているテーブルの前に、鋭い目つきでメモや録音をしている年配の男性がいた。フォトジャーナリストとして著名な広河隆一さんである。世界中を駆け巡り、貧困や紛争などで弱者に寄り添った鋭い写真を撮り、写真月刊誌「DAYS JAPAN」などで発表しつつ、チェルノブイリ基金や福島の子どもの保養のための「沖縄・球美の里」の運営など、カメラマン以前に人間として行動している凄い人である。100名ほどの会場には、福島原発告訴団の武藤類子さんもいて、最後までじっと聞いていた。
 被災者に寄り添った復興支援本をこれからも書くつもりの私としても、こうした全体の動きもきちんと知り理解しなければならないと痛感した。

 

2016-02-23

日本の社会を根底から変えるTPP(環太平洋経済連携協定)

 22日にTPPフォーラム「日本の農業と食の安全、協同組合の行方」が衆議院第一議員会館であり、古巣の生協総研からの案内もあって参加した。内容はタイトルと少しずれていたが、サブにある「海外の専門家が指摘する影響と問題点」を2人から聞き、TPPの本質を知る上でたいへん役立った。
 これまでTPPは関税の撤廃であり、その関連で日本の農業がより疲弊するのではと私は心配していたが、農業問題は24ある作業部会の1つでしかない。メインは金融と投資にあって、一言で表現すればアメリカの一部の金持ちに役立つように、日本の社会制度を根本から変更することである。それは韓国でポイズン(毒)条項と表現している「投資家と国家間の紛争解決」(ISDS)条項において、投資家が期待した利益を投資先国の規制で得ることができなかったとき、投資先国を訴えることができることを見ても明らかである。その訴えを受けて決済するのは、アメリカの作った世界銀行の傘下にある国際投資紛争解決センターであり、投資家の利益を守ることを目的にしているから、TPP以前にもこの条項を入れた協定をアメリカと結び、これまでもカナダやエクアドルなどの政府が敗け、アメリカの投資家へ多額の賠償金を支払う判決をいくつも出しているから構造はわかる。
 このフォーラムは2時半から5時半までで、その後続いて「TPP交渉差止・違憲訴訟の会」による第3回口頭弁論の報告会となり、1時間ほど聞かせてもらった。この会は、TPPが①憲法25条の生存権、②憲法13条の幸福追求権、③憲法76条の司法主権、④憲法21条の知る権利に違反しているとして裁判を闘っている。
 こうしたTPPが締結になれば、日本の法律はもちろんのこと憲法までが大きく変質させられる。お金の役割りはもちろん認めるが、他人の犠牲によってさらに金儲けをする制度は、どう考えてもすべきでない。そんなにTPPが重大な問題をはらんでいると私は知らず、もっとTPPを注意しなければと痛感した。

 

2016-02-17

「京都市特別支援教育の歩み」展を観て

 京都で用事があり、1月につづいて2月も訪ねた。16日に少し時間があり、以前から訪ねたいと思っていた京都市学校歴史博物館に足を運んだ。明治維新によって、多くの貴族が天皇と一緒に江戸へ移り、戦禍もあって京都は大きく疲弊していた。そこで町おこしのためには、まず子どもの教育が大切であるとして、国が動く前の1869年(明治2年)に町民が協力して独自の番組小学校を64校も設立しているから驚く。
 それに続き、障がい者のための特別支援教育も京都ではいち早く進み、1874年(明治7年)には京都盲唖院が開設となっている。その後、知的障害などにも対象を広げて発展させ、今では障がいの種別をこえた総合支援学校へと、内容も充実させている。
 その間に多くの人たちによる先駆的な取り組みがあった。その1人である田村一二(いちじ 1909-1995)の功績は大きい。「茗荷村見聞記」の著者としても有名だが、障がい者教育の実践者であることはここで知った。障がい者の教育で、知育、情育、意育を大切にしたと後の人は高く評価している。
 展示場には、京都府広報映画「人」が上映されており、これも障がい者教育を考えるうえで見応えがあった。
 ところで展示場は全て「教育」と表記しているが、英語のeducationやドイツ語の eruzuhungの訳語ができたのは明治時代に入って少したってからである。語源のラテン語は、「中から引き出す」意味で、本来からすれば共育がまだ真意に近い。それを上から教え育てる教育にしたのは、当時の国策である富国強兵のために必要であった。
 小説「茗荷村見聞記」が話題となって映画「茗荷村見聞録」ができ、それがきっかけとなって滋賀県に障がい者も健常者と一緒に暮らす茗荷村ができ、さらに被災地の宮城では、石巻や岩沼でも新たな茗荷村づくりが進みつつある。ぜひこちらも訪ねてみたい。

2016-02-07

ネパールツアーの報告会

 昨年12月に実施したネパール・スタディー・ツアーの報告会を、東京では1月29日にコーププラザの会議室で、博多では2月5日に日本生協連九州地連会議室でおこない、それぞれに18名と17人が参加してくれた。
 東京では、ツアーに参加した4人がそれぞれ感じたことを15分ずつ話し、1000円の参加費で買ってきたビールや寿司などで懇親した。九州では私一人だったことと、労組の学習会との位置付けであったこともあり、6時から7時半までの時間を使い、ネパールに触れる前に自己紹介や生協への問題意識などを披露させてもらった。可哀想だからネパールでの貧しい子どもの勉学支援をするだけでなく、物や金がない中でも前向きに生きている姿や、宗教を大切にするなどの異文化から学ぶことはいくつもあると話した。
 写真は九州で使った3つの資料。限られた時間であったが、二次会にも多くが参加してくれて楽しく懇親することができた。参加していた一人の友人が、25万円をネパールの子ども支援で出してくれるとのことで、新たに設置した低カーストであるダリットの子ども支援の基金を増資することで了解してもらった。
 USBで持っていったレジメがなぜか開くことができずに困ったりしたが、はじめての九州でのネパール報告会は、みなさんの協力でどうにか終わることができた。





2016-02-03

雪の飯舘村仮設住宅を訪ね

 1月30日の昼前、新幹線を使い上野から郡山駅まで行き、在来線に乗り換えて松川駅で3時頃に降りた。前日の夜に埼玉で宿泊して車で向かう予定であったが、大雪になるとの予報で電車に変更した。駅から徒歩で20分ほどに目指す飯舘村松川第一仮設住宅があった。村民6000人が、村を離れて久しい。すっぽりと雪におおわれ、200世帯ほどの仮設が並び、雪かきをしていない通路もあった。
 4時前に集会所へ入り、自治会の高齢者の方たちと5時からの合唱団の発表に向けた会場設営で、テーブルや椅子を並べる。「愛とヒューマンのコンサート」であるが、今回は大阪の合唱団27名が来て、元気な歌声を1時間ほど聞かせてくれた。6時からは、仮設の30名ほどの住民の間に大阪の人たちも入って、弁当やオードブルを前にしてビールやお酒を飲みつつ楽しく歓談した。ギターによる生オケもあり、懐かしい歌がいくつも出た。合間に私は、『南国土佐を後にして」を歌わせてもらった。
 
 仮設に住む80歳の男性は、来年春からの帰村のときに、どうするのか迷っていると胸の内を語ってくれた。2haの水田があり、田植え機やコンバインもあるが、7年も使わなければ錆びついてメンテナンスに多額の費用がかかる。それ以上に、田畑の除染はしてないので、そこでもし作物ができても、安心して販売できるのか不安でもあった。子どものいる家庭も帰村は不安で、すでに帰らないと決めている人も少なくない。来年に向けて、仮設住宅はこれまでになく揺れるだろう。仮設住宅からお手製の濁り酒が何本も届き、美味しくいただきながら、定刻の8時まで交流が続いた。