2016-05-27

5月飯舘村訪問記2 震災後に次々と死ぬ仔馬

 偶然にも25日の朝に福島駅で、飯舘村にある細川牧場の細川徳栄さんに会った。午後から都内で裁判があり、これから出かけるとのことで、私は夕方に帰る予定を繰り上げて同行した。
 震災の後で飯舘村にいた牛は、全て村の外に出たが、なぜか馬は規制から外れ、細川牧場ではたくさんの馬を牧場で飼育していた。細川さんの話では、最高時は130頭もいて、どれも元気に牧場を走り回っていた。
 原発事故により、やむなく観光牧場や乗馬クラブに87頭を寄贈し、1頭200万円として餌代を含め2億1000万円を東電に請求しているが、わずか200万円の一時金が届いただけ。汚染された牧草を使うことができず、餌代だえでも月に100万は使っているとのことで、牧場の経営は大変なことになっている。そこで東電を相手に訴訟を続けている。
 ところが高い放射能の汚染が続き、生まれる仔馬は次々と死に、さらには親馬も急に歩くことができなくなって死んでいる。牧場の経営者にとって、世話をしている家畜は家族も同然である。そうした家族が次々に死んでいくものだから、細川さんの奥さんは心を病んで体調を崩している。
 最近ではこの4月22日に、写真のアメリカミニチィアホースでオスのレエンボが死亡した。生まれたのは今年の1月18日だから、わずか3か月の子どもである。獣医の診断書を見せてもらうと、病名の「不明」に続き、「検案するにチアノーゼが著しく苦悶病状あり、外傷、腹部膨満、天然腔からの出血等異常所見無く、心不全による死亡と診断する」とあった。
 こうした不審な死亡は震災以前にはなく、震災後にすでに40件にもおよんでいる。解剖し血液検査をしても、死んだ原因をなぜか特定できていない。以前にある大学から解剖に来て、いくつもの部位や血液などを持ち帰ったが、その結果はなぜか細川さんに届いてない。
 国際的な空間放射線は年間1mSvであり、1時間にすると24hと365日で割って0,11μSvになる。国の言っている0.23は、いくつもの仮定を前提の非科学的な数字である。飯舘村は、除染した場所は細川牧場を含めて0.5から数mSv/hも今でもあり、除染してない草むらや森林はその数倍高く、人や家畜の住む場所ではない。そうした危険な場所での馬の死亡だから、放射能の影響があると考えることが普通である。獣医の診断書がなければ残念ながら水掛け論になってしまうが、同じ動物である人間にも、何らかの形で影響が出ると考えることが常識であるし、少なくとも来春に規制解除して帰村を自由にすることは、村民の健康や命を守る上では大問題である。
 マスコミにも流れない現実が、飯舘村にはいくつもある。

 

2016-05-26

5月の飯舘村訪問記1

 5月21日から25日まで、飯舘村の隣にある飯野町の佐藤八郎さん宅に泊めさせてもらい、資料の整理をしつつ飯舘村や仮設住宅を訪ねるなどしてきた。
 22日は飯舘村の小宮地区に入り、「モニタリングじいさん」こと伊藤延由さんを訪ねた。元は村にあった農業研修所の管理人であったが、震災後は研修所近くの山菜などの放射能汚染を独自に調べ発信している。原発を止める集会などで報告もし、その113枚もの膨大な資料もいただいた。ちょうど協力している独協医科大の木村真三さんが調査で来ていて、名刺交換させてもらい夕方まで懇談させてもらった。木村さんは放射能汚染について、100mSv/yを安全だという御用学者はもちろん大問題だが、20mSv/yを黙認する「民主的」な医師や学者についても、誰のための研究かぶれていると批判的で、私も同感であった。その中には私と同じ日本科学者会議所属の著名な学者もいて、誠に残念な話である。少なくとも私は謙虚さを忘れず、誰のための研究や文筆であるか少しでもぶれないようにしたいものだ。
 24日は、飯舘村の避難者が住んでいる伊達東仮設住宅を訪ねた。管理人に挨拶をして最近の状況を聞かせてもらい、まずは何回も会っている安齋徹さんを訪ねた。カメラが趣味で膨大な写真を持ち、震災後の飯舘村の変化や仮設住宅などを見せてもらった。震災前は健康な体で農業を営んでいたが、震災後は体調を崩して今も医者通いをしている。
 映画「飯舘村の母ちゃんたち 土とともに」に出ていた菅野榮子さんと菅野芳子さんにも会って話を聞いた。映画では大変な困難を笑いで吹き飛ばすようなバイタリティある場面がいくつもあり、実際の2人も同じ前向きな姿勢で笑い声が絶えなかった。それでも仮設に来た当初の榮子さんは、生きる意欲をなくして湯たんぽを抱いて泣きながら寝込んでいたとか、バイクに乗るほど元気な祖父が震災後に埼玉へ避難してすぐに亡くなり、また祖母も後を追うように他界した苦労話を芳子さんからも聞いた。笑いの裏には、たくさんの苦労があることをここでも再認識した。伝統食の1つである手作りみそも食べさせてもらい、楽しい有意義な時間であった。
 
写真は飯舘村にあるモニタリングの1つ。周辺は除染を繰り返し、空間線量は山や草地に比べれば低くなっているが、それでも0.30μSv/hを表示し、国際基準である0.1μSv/hからすれば3倍の高濃度。他の場所では1や2μSv近くもいくつかあった。

 

2016-05-14

「文章表現」の講義をスタート

 「人助けして」との知人の依頼を断わりきれなくて、ある看護師養成学校で「文章表現」の講座を半年間することになった。週1回90分の15コマで、5月13日は初日であった。27人の学生は、女性26人の男性1人で、20歳から50歳までいる准看護師である。学卒から社会経験のある人の混在で、どの層に向かって説明すればいいのか迷ってしまう。
 初回はオリエンテーションとして、効果的な文章表現のためにも、まず自らが何を発信したいかが大切であり、そのため自分の頭できちんと考える必要性を説いた。その学校の教育目標に、「主体的に学び続ける姿勢を養う」とあり、それにも通じる。
 ところで明治政府が富国強兵政策で訳した教育との言葉は、元は英語のeducationやドイツ語の erziehungであるが、この意味は個人の内部から素晴らしい個性や力を引き出すことであり、上から教科書を伝え教え育てる「教育」ではなく、この講義も皆さんと一緒に楽しく進める「共育」でいきたいと強調した。
 今の日本に正看護師は約150万人いて、毎年5万人の新しい正看護師が誕生している。ところが毎年15万人もが退職している。定年もいるだろうがかなりの数であり、それだけ仕事や職場環境も大変なのだろう。それでも問題を社会や他人任せにするのでなく、個人でできることや仲間と一緒に改善していくことの大切さにも触れた。
 話しながら学生を見ていると、半分くらいは熱心にメモをとっているが、うつろな目をしている人も少なくなかった。以前にある大学で90分の特別授業を広い階段教室でしたときは、最初から寝ているとか、メールのやり取りをしている学生が何人もいてガッカリしたが、それに比べればまだいい方である。
 ともあれせっかくの機会なので、自らの文章力の点検や、考えていることを効果的に相手へ伝える方法などについて、残りの14コマで楽しんでみたい。

2016-05-10

映画「飯舘村の母ちゃんたち 土とともに」を観て

 5月8日に東中野駅前のポレポレ坐を訪ね、前日から封切となっているドキュメント映画「飯舘村の母ちゃんたち 土とともに」を鑑賞させてもらった。全村民避難となっている(実際は13人が村にずっと残って暮らしているが)飯舘村から、伊達市の仮設住宅に入り生活している菅野榮子さん(79歳)と菅野芳子さん(78歳)の物語である。
 農家出身の2人は、仮設住宅の近くの畑を借り、土に触れて大根やカブなどの農作物を育て、それを漬物などにして美味しく食べている。身内を亡くし、また自分の病気などがあっても、土とともに生きる2人の姿をていねいに描いている。声高に原発反対とか、放射線が危ないとこぶしを振り上げているわけでなく、淡々と2人の日々をカメラは追いかけている。
 猫の踊り狂う姿も描いた熊本の水俣病の映像は、悲惨な現実をリアルに出して衝撃的であった。同時に、自然の中で暮らす3人の仕事を通して、誰にも現状を問いかけた新潟水俣病のドキュメント映画「阿賀に生きる」も印象的であり、今回の作品は後者の流れである。
 菅野榮子さんは、映画の中で「百姓は芸術家だ」と表現し、上映後の監督との舞台スピーチでは、何回も「ヒコのため」と話していて印象的であった。「子どもや孫のため」とはよく話すが、そのさらに先のひ孫のことも視野に入れているから凄い。
 2人が暮らしている伊達東仮設住宅は、「愛とヒューマンのコンサート」で何度か訪ねており、木造の仮設や顔見知りの人なども映像に出て懐かしく観ることができた。
 ぜひまた仮設を訪ね、2人からも今後についての話を聞きたい。