2016-06-29

美術展「いま、被災地から」を観て

 6月26日に上野公演にある東京藝術大学を訪ね、同美術館で開催している「いま、被災地から -岩手・宮城・福島の美術と震災復興ー」を観させてもらった。
 ところで駅からの途中に黒田記念館があり、ちょうど開館していたので寄った。黒田清輝の代表作の「湖畔」や「知・感・情」を鑑賞したいと思ったが、残念ながらいつもは展示してなく、秋の限定とのこと。無料だから仕方がない。
 さて被災地の美術である。絵画や彫刻など100点が展示してあり、それは見応えがあった。高さ240cmあるブロンズの「岩頭の女」は、両足や片手がもぎ取られ、膝には穴があいて痛々しい。
 萬鐡五郎や関根正二や松本俊介など、教科書や画集で親しんだ作者の作品もあった。しかし、大半は聞いたこともない名前であったが、作者の熱意が強烈に伝わってくる作品がいくつもあって、しばし足を止めてながめた。大きなカンヴァスの「失業者」や「野良」などからは、人物の息遣いが聞こえてくるようだったし、桂の1本の木を使った等身大の「海の三部作 潮音 黒潮閑日 漁夫像」は潮の香りが漂ってくるようであった。
 著名でなくても凄い作品はいくつもある。下手をすると、名前でもって作品を評価する傾向が私にもたぶんにあるが、やはり1つひとつのもつ表現力や輝きで判断すべきだろう。
 以前にスペインでピカソの絵を観た時、初期の作品には何か感じたが、後期の作は世間で騒ぐほど感銘を受けなかった。
 表現する形は違って私の書いているルポルタージュでも、1つひとつの作品を大切にして残していきたい。

2016-06-28

映画「圧殺の海 第2章 辺野古」を観て

 6月25日に都内のポレポレ坐にて、映画「圧殺の海 第2章 辺野古」の上映がスタートし、トークショーもあるとのことで大学生協の同窓会の後で足を運んだ。
 107分のほぼ全編が、辺野古の基地反対運動による海とゲート前の、それは激しい闘争の場面で圧倒された。ナレーションもあまりなく、2014年11月の知事選で扇長さんが当選してから今年の3月までの現地の激しい攻防を、ドキュメントでつないでいる。辺野古の美しい海などを少し期待していたが、そうした場面はなくただ怒号が続いた。何回も辺野古を訪ね、以前に抗議のカヌーにも乗ったことがあり、その後の情報も注意していたので流れは理解できたが、辺野古の闘争をあまり知らない人にはどう伝わっただろうか。
 上映後の舞台で白髪の藤本幸久監督と、辺野古でのゲート前の責任者である山城博治さんのトークがあった。藤本さんは、かつて水俣での映像創りもし、その流れで今は沖縄に入っているとのこと。元気一杯の山城さんは、大きな手振りもしつつ、辺野古の現状や福島の原発問題などにも触れた。
 別の会場で500円会費の懇親会があり、そちらにも参加させてもらった。山城さんに、「沖縄の闘争で活躍した阿波根 昌鴻(あはごん しょうこう)との接点はありましたか?」と質問させてもらった。大先輩として尊敬し伊江島を今も訪ねているが、阿波根さんのように相手を諭すことができず、怒鳴り散らしていますとのことである。ただし、非暴力でかつ音楽など文化を大切にすることでは共通している。
 藤本さんに、水俣病を告発する強力な訴えの映像は見応えはあったが、同時に新潟の水俣病を描いた静かな「阿賀に生きる」も感銘を受けたけど、後者のような映像は考えなかったのかたずねた。監督それぞれの考えでどちらがいいとか言えず、自分は強烈な場面をつないでメッセージにしたかったとのこと。
 購入したパンフレットに、2人からサインをもらった。山城さんは「戦争反対!平和こそ命こそ宝 辺野古新基地建設必ず止めよう!」、藤本さんは、恩師の土本典昭監督の言葉「記録なくして事実なし」と書いてくれた。読み応えのある冊子である。

 

2016-06-27

内部被曝を無視して帰村の準備が 6月下旬の飯舘村訪問記

 6月18日から22日まで飯舘村の隣にある飯野町の知人宅に泊まり、飯舘村へも2回足を運んだ。
 22日の午前中は、飯野町にある飯舘村仮役場の閉所式があって傍聴させてもらった。5年前のこの日に、飯舘村役場がここに移ってきた。来年春の帰村をめざし、7月1日から元の場所で役場機能を果たすために、村民より一足早く帰る準備をするという。
 式典では村長や避難を受け入れた福島市長などの挨拶があり、後半はこの5年間を映像で映していた。震災当時の大混乱をくぐり抜け、よく5年間も苦労し、やっと来春の帰村ができるようになったと皆は喜んでいた。
 しかし、そこに帰村する村民や職員への健康上の配慮は一言も聞こえなかった。村の空間線量は、今も毎時1から2マイクロシーベルトである。この公表のデータは、除染を繰り返したコンクリート道路のモニタリングによる計測値であり、少し離れた雑草などでは2から3倍の数値になる。これらは年間に換算すると、公表値で約10から20ミリシーベルトとなり、さらに雑草地になると約20ミリから60ミリにもなり、国際や我が国の基準でもある1ミリに比べると異常な高さである。さらにチェルノブイリでの1ミリには、内部被曝を考慮するので、許容される空間線量はさらに低くなる。
 こうしたことを考えると、手放しで飯舘村への帰村の準備を喜ぶわけにはいかない。

2016-06-16

ふくろうこども食堂を訪ねて 

 2012年頃から各地で、家庭の事情などで食事の不充分な子ども向けの子ども食堂が誕生して話題になっている。育ち盛りの子どもの夕食が、カップラーメン1個とかバナナ1本だったり、もしくは欠食ということもある。
 そうした子どものために、無料か100円~300円ほどの低価格で作りたての食事をボランティアで提供している。場所は自宅もあれば、集会場や教会やお寺などさまざまだし、開催頻度も月1から週1などとまちまちである。要は主催する人たちの責任持てる小さな範囲で、メミューや食数も異なる。
 そうした1つが、都内の池袋にある労働者生産協同組合(労協)本部で開催している「ふくろうこども食堂」である。月1回のペースで3回目となる6月14日に、エプロンとバンダナをさげて訪ねた。
 3時から呼びかけ人に概要の話を聞き、4時から会場にある厨房で調理の手伝いをさせてもらった。メニューは、鳥の空揚げ、大根・あぶらげ・インゲンの煮物、ポテトサラダ、キャベツの千切り、卵のスープ、ご飯であった。いくつかの食材は寄付で賄い、肉などは募金や参加費などで集めた資金から購入している。ボランティアは労協の職員で、女性4人と男性が3人で、調理と会場設営などで動いていた。予定の利用人数は40人とのことで、レシピカードを見ながらの作業が1時間ほど続き、開店の5時になると子ども連れの親子などがやってきて食べ始めた。
 40席ほどあるホールでは、窓際におもちゃや絵本などを置いてあり、食事を終えた子どもの遊び場になっている。また労協の女性組合員の2人が、席での傾聴役として参加し、子育ての相談などにものり親の支援にもつながっていた。
 8時に食堂を閉め、約30人ほどの利用があった。ボランティアで関わっていた2人の労協職員から話を聞くと、「地域とのつながりを実感できる」とか、「子どもから感謝されて嬉しかった」など、デスクワークでは得られない達成感を喜んでいた。
 すでに労協では、北海道や沖縄などでも開催している。また同じ取り組みをスタートさせた地域生協や医療生協もあり、さらに拡がっていきそうで楽しみである。

2016-06-10

飯舘村に帰村していいのか -6月前半の飯舘村訪問記ー

 6月5日から9日まで飯舘村の隣にある飯野町に宿泊させてもらい、8日に飯舘村を1日かけてまわった。2017年3月末を目途に、帰還困難区域の長泥地域を除き、飯舘村の規制を解除するとの国からの発表が6日にあり、地元の新聞では1面で大きく報道していた。
 これで村長をはじめとして帰りたい人は大いに喜んでいるが、同時に帰りたくても放射能の汚染がいまだに高くて帰村を躊躇し、さらには行政への不信を強めている人も少なくない。
 放射能の空間線量を測定する機器を持って飯舘村を廻ると、いたるところで驚く数値が今回もあった。すでに除染したある民家の庭で、雨どいの下が写真のように17.4マイクロ・シーベルトもあって一瞬足がすくんだ。年間にすると×24×365で152ミリ・シーベルトにもなり、これは国際基準1ミリ・シーベルトの152倍であり、大人の37兆個の全細胞が152回も破壊されるほどの高汚染で、重い病気になる危険性が極めて高い。
 そこまでいかなくても、1や2マイクロは村内にざらであった。危険で通行止めになっている長泥地域との境にある通行止めの場所も訪ねた。舗装した道路は2マイクロで、すぐ傍の草むらは5マイクロ近かった。小さなボックスから40歳ほどのガードマンが出てきたので、ボックスの中の線量を聞くと、「1.5マイクロ・シーベルトだから安心です」と平気で言うから驚いた。年間にすると約13ミリ・シーベルトにもなり、国際基準の13倍である。注意すると、「基準の20ミリより少ないから安心です」と笑顔で応えてきたので、開いた口がふさがらなかった。
 どうみても残念ながら飯舘村は、来年の春に村民が安心して帰村できる地域ではない。「風評被害を助長する」などと非難されるだろうが、現実はデータにもとづき直視するしかない。何よりも被災した村民の健康と命を守り、同時に日本国憲法に明記した基本的人権や幸福追求権を大切にし、それは我が身や家族の為にもなるから決してあいまいにできない。