2017-02-25

2月下旬の被災地訪問2

 21日は、石巻にある織音(おりおん 旧こころ・さをり)、22日は女川に入り「きらり女川」、23日は南三陸を訪ねて「のぞみ」の各作業所をそれぞれ訪ねた。どこも津波の被害を受けて施設は崩壊し、はたして同じ地域で再建できるか当人たちも不安だった時期はあるが、見事に新しい施設を建て、障がいを持った利用者さんも増え、新しい事業も拡大させているから凄い。どこも全国からの支援のおかげと感謝を言っていたし、もちろんそのウエイトは低くないだろうが、やはり核になる施設長さんなどの努力があってのことである。さらにそれらのリーダーたちは、再建を望む障がい者の声に後押しされたというから、素敵なお互い様の関係である。
 「泥の中から光をみつけましょう」
 復興を目指す障がいを持ったある女性は、手記でこう仲間や自らに呼びかけている。凄い発信で、障がい者だけでなく全ての被災者にも聞いてほしいし、さらには生きている全ての人々が噛みしめる価値がある言葉だと私は思う。
 町の中心地が全滅した女川や南三陸では、まったく新しい地域づくりがダイナミックに進みつつあった。障がい者や高齢者も、安心して暮らすことのできる地域にぜひなってほしいものだ。

2月下旬の被災地訪問1

 2月20日(月)朝にいつもの大きなリュックサックを背負い、取手駅を出て上野経由で宮城県へと入った。山元町、石巻市、女川町、南三陸町をそれぞれ1日かけて廻った。交通の不便な地域なので、以前に訪ねたときは折り畳み自転車を持参したが、今回は天気予報で雪との表示もあり持っていくのはやめた。
 最初の山元町は、福島県との境にある海岸地域で、仙台駅から常磐線で40分ほどの地にある。線路を山際に移すなどして大がかりな開発が進んでいた。宮城県全般の共同作業所における震災後の復興に関わっていた方から全体像を聞かせてもらった。
 東日本大震災による死亡率は、3県で健常者の1%に対して障がい者は2%となっているが、県によって差があり、宮城では健常者0.97%に対して障がい者は2.5%にもなっている。さらに詳しく障がい者の死亡率を見ると、女川15.6%、南三陸13.3%、山元町5.9%。東松島5.8%、石巻5.2%にもなっている。数字だけでも驚くが、それぞれに尊い名前のあった一人ひとりの障がい者の方がたくさんいたわけで、本人の無念さやご家族の悲しみを考えるとそれは
胸が痛む。
 山元町の障がい者福祉施設である「地球村」を訪ね話を聞いた。こぎれいな木造のカフェを震災後に開設し、近くの仮設住宅の被災者にも利用してもらっている。
 夕方から山元に住む知人に3年ぶりに会い、街中を車で案内してもらって復興の状況を案内してもらった後で、2人で食事をしながら話を聞いた。名物料理の美味しいほっき飯などを食べつつ、冷い日本酒を互いにグイグイあおった。
 いい気分になって常磐線の駅まで送ってもらい別れたが、強風で電車は2時間ほどストップ。寒いホームに立ちっぱなしで、おかげで酔いはすっかり醒めてしまい、仙台のホテルに入ったのは12時近くになっていた。
 
 

2017-02-19

ネパール・スタディ・ツアー壮行会を開催

 2月17日の夕方から、渋谷にあるコーププラザの会議室において、3月1日から7日までおこなう2017年のネパール・スタディ・ツアー参加者7名の壮行会があり、福島から大宮経由で大きなリュックを背負って直行した。
 今年で10年目になるこの取り組みでは、ネパールの貧しい子どもに対し、輪が拡がってすでに34人もの里子の勉学を支援している。
 今回も団長として参加する私は、乾杯の音頭の後で今年の期待として、元気な里子に会うことはもちろんだが、それ以外にカースト制の最下位に位置するダリットの子ども向けの支援制度を1年前に立ち上げ、その運用がどうなっているのかと、あわせて首都カトマンズから車で4時間ほど離れた山間部にあるチョーバス村の水道工事資金として、前回渡した金の使い方についての点検がある。
 1年4カ月ぶりに明るい里子たちとの再会と、チョーバス村の空一面に広がる無数の星が楽しみ。宇宙の無限の大きさを実感することができる。
 

2017-02-18

2月上旬の被災地訪問

 2月13日から17日にかけて福島県南相馬市に入った。今回は、全国にある小規模共同作業所の全国組織である「きょうされん」の支援者5名に同行させてもらっての取材である。
 浜通りにある人口約7万人の南相馬市では、地震や津波だけでなく放射能の影響もあって、住民が安心して暮らすためには、まだまだ厳しい状況が続いている。そのためきょうされんでは、長崎・福岡・兵庫・神奈川・京都から男性3と女性2の幹部を選んで定期的に支援し、今年度は3か月に1回の研修会を3日間開催して人材育成を進めている。
 南相馬にあるデイケアの施設に泊まり込み、午前中は市内の各地にある作業所を見学して施設長さんなどから話を聞き、午後は主任・所長・職員と日替わりの研修会を傍聴させてもらった。
 市内ではまだ除染作業がおこなわれており、約1万人の市民が今も避難している街である。そうした厳しい状況下で作業所が閉鎖になってもおかしくないが、逆に事業を拡大させているところもあるから凄い。障がいをもった利用者の1カ月間の作業による手取りは、全国的にみても平均は1万7,8千円あたりだが、南相馬では弁当など付加価値の高い商品を提供し、3万円とか6万円の作業所もあって驚いた。
 何人もの女性の責任者に会った。元は家庭をきりまわすだけの普通の女性が、震災で作業所も大変になり、利用者や職員も散りじりバラバラになった後で、「また一緒に働きたい」との声に応えて歩みはじめている。共通しているのは底抜けの明るさである。

 
 

2017-02-07

1月の被災地訪問4

 31日の朝に一ノ関駅で待ち時間があり、ふらりと駅前へ出てみた。街中の掲示板があり、「世嬉(せき)の一」の酒蔵跡に造った民俗文化博物館酒蔵があり、その日本一小さな文学館にゆかりの作家の資料を展示しているとあった。ただし、火曜日が休館日とのことで、運悪く今日は火曜日である。それでも他に面白そうな場所もなし、外形だけも見ておこうと雪道を歩いていった。10分ほどで着いて施設の案内を見ていると、中年の女性がやってきて「こんにちは!」と笑顔で会釈して建物を開けて入っていった。もしやと思ってその後から入り、「見学はできますか」と尋ねると「どうぞご覧ください」とのこと。それも文学館は無料とのことで、喜んで入らせてもらった。 

 10畳ほどの狭い部屋に、12人の作家の作品や写真などを飾ってあった。その1人が大好きな井上ひさしさんで、代表作「吉里吉里人」が一ノ関をモデルにしていると大きな手製の地図もあった。中学生の頃にここで一家が住んでいたとのことで、当時の壁が崩れた蔵の写真もあった。同じ敷地に映画館があり、そこにも井上少年は頻繁に出かけて、切符ちぎりなどもしつつ映画を楽しんでいた。一家の暮らしがどうしようもなくなり、やがて泣きながら井上さんは、ここから仙台のキリスト教の施設へと車で運ばれていくことは、何かの作品で読んだ記憶がある。貧困と映画の華やかな世界。多彩な井上さんの原点に触れたような気がした。

 同じ部屋には、沢内村を舞台にした及川和男さんの
名著「村長ありき」の生原稿の束が積んであった。故深沢村長をモデルにした感動の作品で、映画にもなった。
 敷地内には島崎藤村の文学碑が建ち、藤村の失恋を癒やした地にちなんだとして初恋神社まである。67歳にもなって今さら初恋もないだろうが、誰も見ていなかったのでこっそり両手を合わせてきた。さてどんなご利益があるのやら。
 ともあれ歩いていると、どこかで思わぬ場面に出くわすもので楽しい。
 

1月の被災地訪問3


 2月1日は、朝から和田さんの車に乗せてもらって二本松へ移動し、午前中はアクセスホームさくらを訪ね、作業所の見学の後で渡邊幸江理事長から話を聞かせてもらった。元は浪江町にあったため、原発事故で避難する中で再開を諦めたこともあるが、二本松に来て再度、障害者が地域の中で安心して生活を営むことができるよう、社会参加活動や就労支援をしている。ガーリックや黒糖などでの特徴あるラスク菓子作りもしており、通販で全国にも流している。いくつものラスクを土産に買わしてもらい、帰ってからいただいた。
 昼飯は、同じ就労継続支援B型事業所のNPO法人コーヒータイムが運営する二本松駅前にあるカフェで浪江焼きそばを食べ、その後で橋本由利子理事長から話をうかがった。ここも元は浪江にあった施設で、使っている木製の大きなテーブルとイスは、浪江からわざわざ運んだ思い出のつまった家具でもある。
 働いている中年の女性からも話を聞いた、精神面でいくらか障がいを持ち、定期的に医師を訪ねて薬を今も服用しているが、外見ではまったく健常者と同じであった。福島だけでなく全国から講演の依頼があり、震災後の話をしているから凄い。カフェでの接客だけでなく、紙製のボールペンに滑り止めの色糸巻きなどの作業もある。どれも仕事は楽しいとニコニコした顔で話していて印象的であった。両親と妹が南相馬の仮設住宅で暮らし、今度そこの集会所へコーヒータイムが出張して、温かいコーヒーと美味しいお菓子を提供する計画があり、そこに参加して親や妹を喜ばせたいと明るく話していた。きっと両親も大喜びすることだろう。作業して受け取る利用者さんたちの工賃と呼んでいる収入は、どこも月に1万円から良くて2万円ほどである。これに障害者年金の月7万円ほどを加えても、自立した生活はかなり難しい。それでも明るい顔で働いている。あらためて人にとって働くとは、いったいどういう意味があるのか考えさせられた。
 2人の女性理事長の素敵な笑顔も印象的であった。放射能の汚染からの避難という大変な中でも、障がい者を含めた仲間の信頼をさらに強め、新たな地で役割りをさらに拡げている。
 

1月の被災地訪問2

 1月31日に福島県郡山に移動し、2月1日まで郡山と二本松での取材をさせてもらった。2日間は、社会福祉法人「にんじん舎の会」の職員でJDF福島支援センターで事務局長の和田さんに案内役を含めてすっかりお世話になった。
 にんじん舎は、①就労継続支援B型事業所:共働作業所『にんじん舎』(しもしらいわ養鶏場・かたひら農場)、②生活介護事業所:ディセンターにんじん倶楽部、③自立訓練(生活訓練)事業所:にんじん舎トレーニングセンターを離れた場所で運営し、障がい者である利用者さんが、相互に行き来できる仕組みになっていることが特徴である。それぞれの作業所を廻り、大葉の袋詰めや鶏の餌づくりなどで、障がいをもった人たちが明るく働いている姿を見させてもらった。
 31日の夜は、脳性まひで電動車いすでの移動でありながら、福島での復興の先頭に立って精力的に活動している白石清春さんに会った。障がいを持った当事者が主体になり、自立をすすめる生活センターが県内に5か所あり、その運動の中心的な方である。口の筋肉にも障がいがあり、ゆっくりした会話をしばらくさせてもらった。少し話をしていると、白石さんの人間的な幅の広さに驚かされた。運動に関して不自由な手を使いながら、パソコンを使い自分で書いた文書がいくつもある。それだけではない。詩も書いて詩集もあるし、市販の絵本を3冊も出している。さらには色付けした粘土を貼り合わせた独特の絵画や、和紙に勢いよく描いた一文字もある。健常者でもここまで幅広く創作している人は少ないだろう。凄い人はどこにでもいるものだ。
 作品を手にしてながめていると、「どれか好きな物があればどうぞ」とのことで、遠慮なく「陽」と描いた書をもらい、今は私の書斎に飾ってある。
 


1月の被災地訪問1

 昨年暮れから正月明けにかけては訪ねることができなかったが、1月30日から2月1日まで岩手県と福島県に入った。今回は「障がい者と震災」をテーマにし、被災地における共同作業所などで、障がい者とその仲間たちによる震災復興の取り組みを取材した。この震災における死亡率で、健常者より障がい者が2倍も高く、障がい者の目線で復興を追いかけ、社会の在り方にも迫る予定である。
 30日は早朝に家を出て上野駅から一路北上し、一ノ関駅で新幹線から在来線に乗り換えして粉雪の舞う水沢駅で下車した。駅前のホテルに荷物を預け、20分ほど歩くと目的の「ひまわり会すてっぷ」に着いた。一般雇用契約のない就労継続支援B型事業所で、市内に3店舗の喫茶店営業や、パッカー車を使った廃品回収もあれば、餅屋ぷくぷくでの餅類製造もしている。
 施設長の小山さんから、岩手県における震災後の取り組みについて詳しく聞かせてもらった。メインは一本松で有名な陸前高田市である。私も何度か震災後にこの街を訪ねたが、あまりもの被害に言葉もなかった。町が壊滅した中で、「ノーマライゼーションという言葉のいらない町」を目指して、市長を先頭にして頑張っている。ここでは建前の抽象的な議論ではなく、障がい者の当事者も議論に参画し、具体的な政策を立案して実行に移しているから凄い。小山さんたちJDF(日本障害者フォーラム)の取り組みもさることながら、それ以外にも理論的な方向を示した学者もいれば、市役所の担当職員、東京に事務所があって障害がある人の権利と働く場を守りながら、社会の一員としての自立をめざしてきた一般社団法人ゼンコロ、地元の共同作業所、そして障がい者などが熱い志で協力して進めている。小山さんからそれぞれ関わった方を紹介してもらい、今後の取材先の目途を付けることができた。