2017-03-20

陸前高田訪問記4

 市の復興には市役所が大きな役割を果たしている。特に陸前高田市では、「ノーマラーゼーションという言葉のいらないまちづくり」をスローガンにし、障がい者や高齢者にとっても住みやすい街にするという復興哲学をきちんと持って復興をすすめているから凄い。
 そのため復興に直接関わってきた民生部や街づくり戦略室など担当職員に事前に連絡し、経過や課題などについても聞かせてもらった。多忙な市長にも会いたいと思っていたが、事前の連絡はしてなかった。
 14日の昼に少し時間があったので、図書館のことを知りたいと思い高台にあるプレハブの仮市役所を訪ねた。1号棟の玄関を入ろうとすると、中にいた中年の男性がドアを開けてくれて、「いらっしゃい!」と明るい声と笑顔で迎えてくれた。レストランや居酒屋では当たり前の出迎えだが、ここは市役所である。驚いて顔を見るとどこか見覚えがある。
 「もしかして戸羽市長さんですか?」
 聞くと「はい、私です」とのことであった。これはラッキーとすぐ陸前高田に入っている用件を伝え、翌日の昼に会う約束をさせてもらった。
 約束した15日の12時に市長室を訪ね、約40分ほど貴重な話をいくつか聞かせてもらった。
 若い頃に訪ねたアメリカで下半身のない明るい障がい者との出会いや、震災で市職員の4分の1や奥さんを亡くした悲しみなどをふまえ、誰もが暮らしやすい新しい陸前高田を創ろうとする熱い情熱は、言葉や表情からも伺うことができた。「何かあればここに電話をください」と、名刺に携帯電話の番号まで書いてくれた。
 こうした素敵なリーダーがいれば、きっと陸前高田は素晴らしい街によみがえることだろう。次の本でもその支援の1つにぜひつなげたい。
市長室の戸羽太市長
 

2017-03-19

陸前高田訪問記3

 もう一つの福祉作業所の青松(せいしょう)館も訪ねた。ここもいくらか高台にあるが、いくらか低く津波が押し寄せて被害があった。1955年に法人化した太陽会という長い歴史のある社会福祉法人の運営する1つである。
 対応してくれた米田館長に名刺を渡すと、「取手(とりで)からですか」と正確に読んでくれた。普通は取手を「とって」と読むので驚くと、何と取手市で働いたことがあるとのことで二度びっくりした。
 そのこともあり親しく話を聞かせてもらった。その1つが震災をきっかけに、何と新たな事業を立ち上げている。それも震災で消えそうになった伝統の椿油で、後日その新しい作業所を自転車で1時間ほどかけて訪ねた。作業所の名前は、青松館せせらぎである。椿油を私は知っていたが、それは女性が髪に付ける程度であった。ところがここでは、食用をはじめとして大工道具や家具の手入れなど多様な使い方をしていた。そのため専用の製油所が震災前は陸前高田に1軒だけあったが、そこも震災で壊滅し、さらに跡継ぎの長男も犠牲になり、石川夫婦は再開をあきらめていた。そこに太陽会からの相談があり、夫妻はやがて喜んで協力することになる。
 元JAの建物での作業所では、まず2人の障がい者が椿の実を選別し、それを焙煎→圧搾→濾過して製品化していた。作業所の清水さんも側にいるが、機械とはいえ微妙な職人技の操作が必要で、全ての作業は石川夫妻がコツコツとこなしていた。
 純度100%の透明な黄金色の「北限の特産品 気仙椿油」には、上品でほのかな香りの中に、地域に根差した長い伝統文化と、震災後の今を生きる人々の優しさを感じることができた。
青松館せせらぎ搾油工房の前で石川ご夫妻と清水さん。横は唯一発見された奇跡の看板。

陸前高田訪問記2

 定員20人の小さな福祉作業所あすなろは、高台にあったので津波の被害はなかったので、直後は近くの保育園などからの避難者を受け入れて避難所とし、4月から作業を再開している。地元のゆずや塩を使い、独自の菓子を製造している。好評のため工房を新築中で、4月には完成するという。
 ここで障がいを持って働く利用者さんの中には、創作した詩を書にする人もいれば、50号もの大作をアクリル絵の具で描く人もいる。それぞれが辛い震災の中から、自ら描くものを見出し、素晴らしい作品にしている。それも作業所の中だけでなく、特に絵画は市内での展覧会などで地域社会にも発信し、さらには週末に奈良県生協連の協力で奈良においてのイベントも予定していて嬉しくなった。
 自転車で片道1時間ほどかけ、田崎飛鳥さんの自宅にあるいくつかの絵を観させてもらった。津波で亡くなった方たちのため、顔やフクロウや花などをいくつも描いている。丸い顔はどれも明るく笑っているのが心をうつ。枯れた一本松は、熱い生命力を愛しむように濃いピンクで描いてあった。凄い感受性である。
 詩を書にしている熊谷正弘さんは、神田葡萄園の家族の一員で、優しいご両親もいて震災の悲しみを乗り越え、活き活きとした書を描き続けているから驚いた。
 西條一恵施設長からも素敵な話をいくつか聞くことができた。訪ねた日の朝にぎっくり腰となって欠勤して会えず、最初に顔を会わせたのは16日の夕方前であった。震災直後に行方不明者を探して遺体の見回りに一人でずっと行って体調を崩したことや、親の介護や障がいをもった息子たちの対応などでの心労もあったが、そんなときいつも利用者さんがそっと傍に来て、何も言わずに優しく肩をポンポンと叩いてくれるなどした。それだけで前向きに生きる希望につながった。
 17日の午後に再び西條さんから話を聞かせてもらい、お礼を伝えてバス停へ自転車で向かおうとすると、「少し待って」とのことで玄関に入った。すぐに戻ってきた手には小さなビニール袋があり、帰りの電車で食べてくださいとのこと。バスの時間がせまっていたので、リュックに入れ頭を下げて別れた。
 バスを降り気仙沼で電車に乗り換え、お腹もすいたのでもらったビニールを取り出した。オリジナルの紅茶のシホンケーキや「北限のゆずケーキ」などが入っていて恐縮した。工賃の元になる大切な商品で、本来であれば私が代金を支払わなければいけなかった。ふと袋を見ると、赤と緑のペンで花を描き、裏には「ありがとうございました」と書いてある。思わず目頭が熱くなった。このお礼も込めて、これまでにない8冊目の復興支援本を書こうと決心した。
 

 

陸前高田訪問記1

 3月13日の早朝に家を出て常磐線で上野に出て、東北新幹線に乗って北をめざし、一ノ関経由で気仙沼に入り、そこからJRのバス乗り換えて昼過ぎに目指す陸前高田市の高校前で下車した。
 「奇跡の一本松」で有名は当市は、震災前に人口24246人いた市民の実に6.7%が津波の犠牲になり、障がい者手帳の保持者に限定すればさらに高く8.0%にもなっている。3年ほど前に通ったことはあるが、風景は一変していた。震災直後の自衛隊のヘリから、壊滅していると情報が流れた市街地は、近くの山を切り崩し、津波の来た平地を5、6mほどのかさ上げするため、ダンプや起重機の動きが激しい。
 このため道路も変わり以前の地図はまったく役立たず、インターネットで訪問先の地図を個別に打ち出していたが、まるで道順がわからない。バスから降りて持参した折り畳み自転車を組み立て、リュックを背負ってペタルを踏み出した。
 地図を見ると高台にある高校の裏手で、プリントの道を見つつ登っていくと、そのまま進む道がない。元にもどり高台を廻っていくと、ダンプが何十台も並ぶ広い造成場に出た。しかし、そこも先に進む道がなく、また元に戻る。約束の時間になり力を入れてペタルを踏んでいると、防寒コートや手袋の中は汗だらけになった。
 訪問先に電話して場所を確認し、やっと最初の訪問先の福祉作業所を訪ねたときは約束の時間を30分まわっていた。今度は濡れた下着のままで聞き取りをしたので、部屋に暖房は急に体温が下がり、不覚にもすっかり風邪気味になってしまった。
 今回の17日までの旅の目的は、「障がい者と震災復興」をテーマにする復興支援本の8冊目の関連で、「ノーマライゼーションという言葉のいらないまちづくり」を進める陸前高田市の今を知ることであった。そのため複数の福祉作業所の責任者や障がい者、それに市役所の担当する職員などからの聞き取りを考えていた。

2017-03-12

福島を忘れない3・11反原発取手駅前行動で報告

 7年目の3・11がやって来た。政府やマスコミは、原発事故はすでに収束し、2020年のオリンピックやパラリンピックを過剰に宣伝しているが、被災地ではそれどころでない。憲法で保障された居住権や幸福追求権などが、ないがしろにされている被災者は多い。
 そうした被災者に少しでも寄り添うことを目的に、取手市でも有志が動き、いつも金曜日の行動だが、今回は翌日の3・11にあわせて開催し、毎週金曜日の行動で今回が142回目になるとのことだから凄い。
 駅前の小さな広場に100人ほど集まり、オープニングはトランペットの高い音であった。主催者の挨拶の後に各界からの報告があり、依頼を受けていた私は以下の2点に触れた。
 第一に危険な除染ゴミの焼却で、完全に放射能を除去することができずに空中に拡散させている。原子力規制委員会が発表しているように、福島以外においても、茨城や東京などの水道水で微量ながらセシウム137が検出されている原因の1つと考えられる。さらに飯館村の巨大な焼却炉の2台のうちの1台では、焼却灰を整形化して全国の公共施設で使用しようとしている実態に触れた。
 第二は、除染労働者の現状である。外国人をだまして使っていることは新聞報道にもあったが、それだけではない。先月に南相馬の障がい者支援をしている人から聞いた話では、1人当たり1日働かせると6000円ほどのピンハネができるので、何と障がい者までどこからか集めてきている。ところが除染作業は集団でするものだから、すぐに障がい者は外され、同時に寮も追い出されるからホームレスになっている。
 こうした実態に触れ、福島は決して終わっていないことを報告させてもらった。
 後で2人から、「どんな本を出していますか」と聞かれて、1冊持っていたので買ってもらい、他は名刺を渡して本屋かインターネットで調べるように説明させてもらった

 

2017-03-11

2017年ネパールの旅5

 今回のツアーで楽しんだこと。
 ①7000m級の山々を堪能
 標高2600mほどのチョーバス村から望んだランタの7000m級の山々。打ち合わせが終わった後で、昼前から冷たいビールを飲みつつゆっくりとながめることができた。夜に観た満天の星空とともに、大自然の中で生きていることを実感することができる。
                                       
②民謡レッサン・ピリリを踊る                          
 今回のチョーバス村にはじめて同行してくれた若い女性が、モデルさんでダンスも教えているとのことで、村でたき火を囲み村人と交流するときも民謡レッサン・ピリリを披露してくれた。「絹の旗が風にゆれている」との題で、歌詞や踊りは各地に寄って異なるようだが、シンプルで素敵な歌であった。最後の食事会にには美しい民族衣装で来てくれたので、
お願いしてツーショットを撮らせてもらった。

③スケッチ
 ツアーの合間をぬって4枚のスケッチをし、ホテルに戻ってからビールを飲みつつ水彩絵の具を乗せていった。特別に今回は、土産屋で買った黒岩塩の薄茶色の粉末を、水彩がまだ乾いていないときに少し降り掛けてみた。面白い風合いを出すことができた。



2017年ネパールの旅4

 5日に信用事業を展開している女性協同組合を今回も訪問し、震災後の取り組みなどについて聞かせてもらい、その後で観光する一行と別れて、カースト制度の最下層であるダリットの子ども支援のグループに会いにいった。グループの名称はシュリジャナ・サムハ。
 これも前回の訪問時に依頼を受けて立ち上げたもう一つのプロジェクトで、震災で世界の各地から支援はネパールに入っているが、ダリットの子どもには届いていないとのことであった。そこでヒーネップに相談したところ、ダリットだけで枠を作るのは難しいとのことであったので、新たな支援組織を別に作った。こちらには75万円を提供し、年率4~5%の利子として3万円ほどになるので、年1万円の勉学費であれば3人のダリットの子ども支援ができる。
 このプロジェクトで2016年の春から2人のダリットの子ども支援をしていたが、実は保護者から支援金が足りなく、もっと多く出してほしいとの要望が来て困っているとの連絡を事前に受けていた。公立でなく私立の学校に通っているため、少なくとも4万円はかかるとのこと。事情はわかるがこちらの支援では無理なので、どうしようかと悩んでいた。
 5人の役員で事前に相談し、ダリットの子どもが多く通う公立の学校(保育園と小学校を兼用)の先生に相談し、校長が推薦する子どもを支援することにしたいとのことであった。そこで翌6日の午後半日を使い、学校を訪ねて校長や先生たちから話を聞き、学年別に年間の必要経費を聞くと6000~8000円ほど。そこで優先度の高い子ども3人を紹介してもらい、その子や迎えにきた母親にも会った。ダリットの家庭では、夫が荷担ぎで妻は掃除婦などをし、合わせても月に5000円ほどとのこと。サラリーマンの平均収入1万数千円に比べてもかなり低い。
 1人目の6歳の男の子は、足の骨に癌があって手術をしていた。手術した右足の骨の成長はなく、いづれ歩行できなくなるそうだ。2人目の4歳の女の子は、母子家庭で暮らしている。瞳の愛らしい子だがそれは小柄で、3歳の私の孫より低く痩せていた。3人目は5歳の大人しそうな男の子。3人の住まいも訪問させてもらった。小さな売店の後方をカーテンで仕切って暮らしていたり、太陽の光がまったく入らない6畳ほどの1部屋で、4人で生活している。極めつきは母子家庭の家で、悪臭のするドブ川の側に土嚢を積み上げ、学校の塀との間に並ぶバラック小屋の1つであった。
 ネパールの社会制度を変えないと解決しない貧困だが、私にできるごくささやかな支援も3人の家庭にとっては意味がありそうだ。

2017-03-10

2017年ネパールの旅3

 3日は朝7時にホテルを出て、32人の里子たちが暮らすチョーバス村を目指した。カトマンズから2時間ほどの平地は舗装されているが、その先の2時間ほどは凸凹の多い山道で、ここでも土煙になやまされた。今回の訪問は、里子に会って村人と交流する他に、私は水道プロジェクトのつめがあった。
 3日に水道プロジェクトについて議論する予定だったが、村の責任者に急用ができて、明朝に急きょ変更になった。ネパールではよくあるケースである。
 村には山の湧水を集め、それを集落にまでパイプで流して村人は使っていたが、2年前の地震で亀裂が入り、子どもたちが長い道のりを使って水運びをし、勉学や遊びの時間も制約を受けていた。
 そこで支援をしているNPOヒーネップを通して話があり、地震の後で50万円を私は渡してあった。ところが前回2015年12月の訪問時には、2つのタンク造りや水道パイプの施工などの労賃分まで追加して出してほしいとの話があった。私は全てを寄贈で賄うのでなく、村人も協同で造ることを提案して話は止まっていた。もし今回も労賃を出してくれと言うのであれば、話をなかったことにして50万円は子どもの勉学支援にまわそうかとも思っていた。
 4日の朝に村の事務所で、水道プロジェクト責任者、副村長、小学校の校長などの関係者の他に一般の村民も含め10人ほどが集まり打ち合わせを1時間ほどした。結論は、全体で85万円ほどかかり、支援する50万円のほか25万円分の労賃は、村人が協力してねん出し、それでも足りない10万円は村の財政などで処理することで合意した。そこで覚書を作ってもらったが、ネパール語であったため持ち帰って確認することで別れた。
 ゴーサインを出せば約2か月で工事を終えることができるという。完成すれば53軒の村人約250人や、小学校にも水道はひくから300人の児童も飲みたいときに水を口にすることができる。英文の訳が届けばすぐ判断し、1日も早くチョーバス村に水道施設を完成させたいものだ。

2017-03-09

2017年ネパールの旅2

 2日の午前中は、カトマンズ市の隣にある人口20万人のキルティプル市に入り、まずは日本の医療福祉生協連が支援しているフェクトの新病院を見学。ほぼ完成しているが、まだ一部は工事中であった。近くの6000人を組織して運営している総合病院で、バイオマス発電や野菜の栽培もし、そこで育てた有機野菜は館内の食堂で料理にして提供していた。
 11時から里子としてもう10年ほど支援している11年生のサンギッタちゃんの家を訪ねた。両親と兄弟3人の5人家族で暮らし、2年前の地震で建物は倒壊し、すぐ横に建て直しをした。借りた畑の上に竹で骨組みを造り、壁は割った竹を組んで内側から泥を塗り、屋根は稲わらをかぶせてある。L字になった小屋は、家族と牛3頭も住んでいる。父親の手造りで、総費用は10万円ほど。前回の2015年12月のとき、地震での被害のあった里子の親に対してトタンを寄贈したが、人の住む小屋の屋根の半分しかトタンはなく、後は稲わらだけで野ネズミが食べて雨漏りがして困るとのことであった。前回のツアーの最後の日に、手持ちの3万円ほどを地元のNPOの責任者に渡し、トタン8枚を購入して届けるようにお願いしてあった。きちんとトタンをはった屋根を確認できた。
 すっかり成長したサンギッタちゃんに、文具や手動発電式のライトなどを渡し、薄暗い部屋の中で少し将来のことなどで話を聞いた。来年の12年生で当面の義務教育を終え、将来のことを決めなくてはならない。希望は先生とのこと。できれば看護師になってくれると、フェクトの病院かもしくは日本の医療生協で働くことも可能性はあるが、残念ながらそれだけの学力はないようだ。それにしても教師となると、12年生の後で4年間は大学に通う必要があり、最低でも年間3万円は必要とのこと。ところで私たちが支援している地元のNPOのフィーネップは、12年生までの支援として年間1万1000円の里親を募っている。今のままでは来年でサンギッタちゃんの支援は終了する。もし大学を卒業して教師の資格をとっても、コネ社会のネパールで女性が教師として働くことはかなり難しい。先の支援をどうするか1年後には判断するしかない。
 ところで
今回は驚いたことに、ライスとカレーにゆで卵を1個付けた食事をふるまってくれた。5人家族が食べるだけでも大変な中で、日本からの7人とフィーネップの4人分を含めた食事で、学校を休んだサンギッタちゃんが作ってくれた。小屋の側に座り、感謝しつつゆっくり食べさせてもらった。