2018-12-14

伊江島の謝花悦子さんを訪ねて

 10日の辺野古から本部港に出て、11時発のフェリーで30分かけ伊江島に渡った。ときおり小雨が強い風とともに降ってくなる中で、沖縄本島と伊江島の間の先に東シナ海が広がっている。第二次世界大戦の末期に、鹿児島を飛び立った特攻機の多くがアメリカ軍の艦船に向け散華した場所である。
 伊江島港も改修され、新しい建物が出迎えてくれた。1948年8月のことである。この港から米軍の船で運び出そうとしていた爆弾がさく裂し、実に102人もが死んでいる。近くで泳いでいた子どもたちも巻き込まれたから痛ましい。
 第二次世界大戦時に伊江島には、約3000人の日本兵と同数の民間人で計6000人がいて、米軍は約5000人を殺したとしているからその悲惨さが想像できる。島中が根こそぎ焼き尽くされ、戦後は0からの出発であった。ところが今度は米軍基地に島の6割を銃剣とブルドーザーで奪われ、島民は生きることができず米軍基地反対の闘いに立ち上がる。そのリーダーが阿波根昌鴻(アハゴン ショウコウ 1901-2002)さんで、永年側で支えてきたのが足に重い障がいのあって歩行困難な謝花悦子さん(81歳)である。
 食べ物や日用品がないなかで伊江島生協を阿波根さんは立ち上げ、そこの店長を謝花さんがしていた。やがて生協は経営が厳しくなってやむなく閉めてしまうが、反戦平和資料館としてのヌチドゥタカラの家の自費開設など、2人の功績は大きなものがある。今でも国内はもとより海外からも見学者が続き、謝花さんはその対応に忙しい。
 私は20年ほど前に阿波根昌鴻さんの本を書きたいと島にしばらく滞在して取材を重ね、10万字ほどの原稿を書かせてもらったが残念ながら形にすることはできなかった。その後も何回か島を訪ねていたが、今回は伊江島生協のことを聞いてコープ・ソリューション紙の連載記事にすることが目的であった。庭には以前に持参した被曝ハマユウがしっかり根付き、春には白い花を毎年咲かせていると謝花さんも喜んでいた。
 謝花さんの大切にしているのは命・健康・平和の3つであり、1時間半ほど熱く語ってくれた。別れるときに、「私も齢なので次にいつお会いできるかわかりませんが、西村さんもお元気で」と謝花さんは言って、私の両手をしっかりと握ってくれた。柔らかい手であったが温かかった。
 港の近くにある阿波根昌鴻さんの亀甲墓を訪ねて手を合わせ、16時のフェリーで伊江島を離れた。戦中戦後の日本の
歴史が凝縮した伊江島には、人間らしく今も生きる人間が確かにいる。

 下の服は資料館の入口に展示してある子ども服で、戦争中に日本兵が泣き声をおさえるため母親の抱いている少年を殺したときのもの。

2018-12-13

日本の矛盾の焦点である辺野古

 12月9日の早朝にホテルを出て、友人の車で久しぶりの辺野古へ入った。小雨が少し寒かった。昨日までの日本科学者会議のある分科会でも、辺野古の現状と問題点について詳し報告があった。
 広い埋め立て地は、3ブロックに分けて政府の強引な計画と施行が進んでいる。ところで県の条例では、3つをセットしたアセスと許可が必要だが、政府が浅瀬の多い1つをまず完成させようとしている。それには訳がある。深い海底の一部にマヨネーズ状と表現するほどの軟弱な基盤があり、ここにも土砂を埋めて飛行場を完成させるためには2兆円をこえるとの県の試算もある。それも埋め立てを実施してみないと分からないそうだから、どれだけの巨額になるか誰も予測できない。全て国民の税金である。そんな工事を日本政府は、警備人の日当9万円で多数配置し、民意を排して強行しようとしている。消費税の値上げをする前に、こうした無駄を見直しすることがまずは必要だろう。
 辺野古の海岸にあるテントでは、懐かしい2人に会った。毎週の土曜日にゲート前でキャンドルを使って抗議行動をしている渡久知さんのお母さんと、10年ほど前に長野から支援に入ってそのまま帰らずに頑張っている男性の金さんである。それにしてもよくこれだけの長期間、新しい基地反対でがんばっていると頭が下がる。今回は金さんと楽しくお酒を飲む時間は残念ながらなかったが、次の再会を約束して別れた。
基地前のゲート前にも行ったが、日曜日は基地の工事が休みのため抗議行動はなくて誰もいなくて静かであった。目つきの良くない白い合羽の警備員の10人ほどが、写真をとっていた私の方を見張っていた。

2018-12-12

琉球大での日本科学者会議第22回総合学術研究集会

 12月7日から9日まで、沖縄にある琉球大学において日本科学者会議第22回総合学術研究集会があり参加した。3年ぶりの沖縄は、ときおり小雨が降っていたが20℃近くあり暖かった。
 7日の全大会の「沖縄に持続可能な社会を築くために」では、前衆議院でオール沖縄として活躍した仲里利信さんが登壇した。なぜ自民党で県会議長まで務めた仲里さんが、翁長前知事と共にオール沖縄の先頭に立ったのは、かつての戦争において日本軍によって強要された集団自決を教科書問題で歴史から抹消されそうになったとき、沖縄の人間の尊厳を守るために当然の動きであったとのこと。沖縄の動きは、政治闘争の前に基本的人権のあることがよく理解できた。沖縄から学ぶべき点である。
 8日の全大会「若者と一緒に考える私たちの社会」で、4人の若者が登壇して話があった。その1人である高校2年の女生徒の報告を聞いていて驚いた。8年前に辺野古を取材したとき、ゲート前で毎週土曜日にキャンドルを使って家族で基地反対をしていた小さな子どもの一人で、その後もずっと続けているという。『闘いのルポルタージュ15号』で書かせてもらったが、まさかここで会うとは思ってもみなかった。
 その日の3時15分からの「日本の食と農を考える」分科会で、司会進行と同時に「意欲的な農家の挑戦」のテーマで、他の4人と同じく25分間の報告をさせてもらった。15人ほどの参加であったが、意見交換を含めて有意義な場となった。

2018-12-06

12月のルポルタージュ研究会

 12月5日の午後に池袋のワーカーズ・コープのフロアを借りて、8人で現代ルポルタージュ研究会を開催した。来年4月末に発行予定の『たたかいのルポルタージュ16号』に掲載する作品の合評では、まず沖電気を明るくする会の事務局長をしている相原さんの、「安心して人間らしく働ける職場を目指して」を取り上げた。障がい者の雇用を守った労働組合らしい画期的な取り組みである。
 私の作品『原爆死哀歌 -続く原爆関連自殺ー』は、今年の9月までに発生した原発事故関連自殺者218人の中から5人を取り上げ、ご遺族や担当した弁護士などから集めた情報を紹介した。「お墓にひなんします」の遺書など、どれもがショッキングな内容で印象深いとのことであったが、タイトルやまとめ方などでいくつも意見があって書き直しの参考になった。
 なお作品創りでは、他のメンバーが「住み慣れた地域で最期まで生ききるために」などを準備しており、来年の1月末までにはそれぞれが仕上げるので楽しみである。
 現代ルポルタージュ研究会が主催する「柳澤明朗さんと共に歩む会」は、2019年5月18日(土)14時から16時に池袋で開催することにした。今年の4月に他界した柳澤さんは、当研究会の顧問を長年していただき、また「ぞうれっしゃがやってきた」の全国展開にも大きく貢献した「ぞうおじさん」でもあった。ぜひ準備をきちんと進め、5月には楽しくて有意義な場にしたい。
 5時過ぎに近くの居酒屋へ移り、遅れてきた2人も合流して10人で忘年会をした。それぞれの関わっている取り組みなどを出しながら、美酒を楽しく交わした。
 明朝から久しぶりの沖縄へ入る。琉球大における日本科学者会議の総合学術研究集会で「食と農」の分科会の運営と報告をし、せっかくなので足を伸ばして辺野古と伊江島を訪ねる。しばらく日本酒を離れ泡盛を楽しみたい。

2018-11-25

ネパールの旅4

 半年ぶりのネパールであったが、2つ驚いたことがあった。
 第一が不安的な政情である。2006年に「カトマンズの春」が起こり、王制が倒れて議会制を中心とする連邦民主共和国となり、憲法が発布したのは2015年のことである。日本でいえば明治維新と第二次世界大戦の敗戦後が一度に起きているようなものである。昨年の総選挙で政権が新しくなり、その第一党には共産党がいるので、これから国民のための新しい政治になると私も期待していたが、何と汚職がこれまでになく拡がり、一部の政治家だけが超裕福になっているという。ロシアや中国で散見する「赤い貴族」で、4年後の総選挙まで現政権はもたないだろうとの意見もあった。小さな協同組合やNPOなどは、まだしばらく不安定な政治に振り回されるのではないだろうか。
 今回のツアーの目的の1つが、日本の医療生協が20年ほど前から支援している民主的な医療組織PHECTの聞き取りがあり、2日間通って話を聞いた。できれば本にしたいと思っているが、現状では聞き取りして文字にした段階で、現実が大きく変化している危険性がある。
 第二に物価の高騰である。4月には日本食レストランで150ルピー(150円)前後だったの朝食類が、今回は300ルピー台になっていた。また美味しかったウイスキーを買いたいと同じスーパーに入ると、4月に1500ルピー前後で3種類買うことのできたたくさんのボトルがなくなり、3000ルピー以上の品が数種類並んでいたので購入を諦めた。
 里子の支援のために地元のNPOへ1人当たり年間に11000円を渡しているが、子どもの勉学に必要な文房具やバッグや制服などにも、来年には影響を受けて支援金値上げの話が来るのではないだろうか。数千円の値上げですめばいいが、大幅な額になれば日本からの支援の在り方にも影響する。
 
 それでも大変なネパールに関わる意義はこれからもある。激動する社会の中では、ますます協同して暮らし生きることが求められるので、協同組合の原点を再確認することができる。さらには物や金の乏しい中で、生きる原点を確認することができる。
 上の写真は、PHECTの幹部の聞き取りをしている場へ、人口約7万人のキルティプル市の市長が来た。
 下はカトマンズ市内の土ぼこりをかぶったたくましい街路樹。ネパール人の力強さに重なって私には見えた。


 

2018-11-24

ネパールの旅3

 今回のツアーの目的の1つが、この4月から里子になった1人の母親が、夏に自殺したとのことで、理由や里子のその後を知るためであった。カースト制の最下層であるダリットの子どもで、若い夫婦は大きなスワヤンブナート寺院、猿が多いので別名は猿寺院といわれている境内の数か所あるトイレの清掃をし、そのチップで親子4人が暮らしていた。住まいは、トイレの前にある寺の建物の軒下に造った小部屋であった。ダリットの里子支援をお願いしているバラット夫妻の話では、夫がアル中で暴力を妻にふるい、さらには妻の妹にも手を出すなどしたため生きる希望をなくし自殺したとのことであった。
 可愛く幼い子ども2人を残しての自殺は、どれほど辛く切ないことだっただろう。きっと何回も迷ったと思う。子どものためにもどうにかして生きていてほしかったが、これが現実である。
 小部屋を訪ねると、無精ひげをはやした夫がいた。2人の子どもは遠くの施設に預けているため、里子支援は今年で残念ながら終わりにするしかない。4月に撮った下の写真を渡すと、悲しそうな顔でジッと見つめていた。母親が首をつった木は、そこから見える場所に立っていた。笑顔の消えたであろう2人の子どもを思うと、何ともいたたまれない重い気持ちになって寺を降りた。

2018-11-23

ネパールの旅2

 チョーバス村からはヒマラヤ山脈を見る事ができ、楽しくいくつものスケッチをすることができた。
 次の日にカトマンズに帰り、サーランギの師匠がミニコンサートをしてくれたので楽しいひと時をすごすことができた。サーランギとはヴァイオリンの原型のようなもので、素朴な音色を奏でる。民族楽器には、伝統的な思いが詰まっていて味わいがある。

ネパールの旅1

 14日の深夜に羽田空港国際ターミナルへ6人が集合し、バンコック経由で15日の昼過ぎにネパールの首都カトマンズに予定通り入った。今年の4月以来だから約半年ぶりであった。
 市内の銀行で両替をし、夕方からは現地のNPOであるHEENEPの世話役の2人と会って、日本からの里子の支援金と新たに設けたHEENEPの支援金を手渡した。同時に翌朝からのチューバス村視察についてなど相談し、疲れもあって早めに寝た。
 16日は早朝にホテルを出て、2台のチャーター車でチョーバス村に入った。今回は里子への文具の手渡しの他に、持参した折り紙とサッカーボールでの交流があり子どもたちに喜んでもらった。他に段ボール箱4本の古着を持参し、里子たちに選んでもらった。
 天候が良く村から7000m級の山々を望むことができ、何枚ものスケッチをすることができた。夜は前回と同じ民家で泊めさせてもらい、満天に輝く星空の下で、地酒を飲みつつ村の方たちとネパールと日本の歌で踊り楽しく交流した。

2018-11-11

11月の寺子屋

 10日の夕方から寺子屋が開催となり、亀有にある寺へ出かけた。前半はゼミ形式の参加者報告で、今回は雑誌「かがり火」に連続対談「そんな生き方あったんや!」を連載している杉原さんからであった。30年近く続くこの雑誌は、地域社会に生きる無名人を取り上げ、全国にいる260人もの支局長も大きく支えている。これまでに連載した8人の紹介を聞くと、やはり人間っていいなと再確認できた。
 後半は哲学者内山節さんから、法華経の第14求法者たちが大地の割れ目から出現した、第15如来の寿命の長さについて、岩波書店の本をテキストにしての解説があった。法華経は釈迦が亡くなって400年ほどたってからできた経典で、普通は法華経というと日蓮宗を思い浮かべるが、聖徳太子が大切にしたり曹洞宗などでも重視しているとのこと。経典の現代訳を読んでも、私にはどうもピンとこないことが多々あるが、内山さんの解説がおもしろい。今の日本社会は西洋文化を取り入れ何事も個で成立っているが、仏教は全体が繋がっているとし、これからの日本や世界を考えるうえで大きなヒントにあるとのこと。さらには哲学について、以前は観念論と唯物論との分け方であったが、そんな単純なものでなく、あえて分けるとすれば人間信用を前提にするか、人間不信を前提にするかで、仏教は前者になるとのこと。観念論と唯物論を対比させていた私はギクリとした。
 8時からアルコールも入ったいつもの懇親会となり、内山さんとしばし話をさせてもらった。日本の仏教界が、仏教を変化する運動体としてとらえずに衰退している中で、世界の平和をめざしている日本山妙法寺の動きは評価していた。また福島の原発事故による自殺者への寄り添い方について聞くと、とにかく大変お疲れ様でしたと心底から弔うしかないとのことで納得できた。

 14日の夜から22日までネパールへ半年ぶりに飛ぶことにした。私の8人いる里子の中で、4月に会ったある里子の若い母親が自殺したとのことで、詳しい事情を聞くことと、日本の医療生協が20年前から支援しているカトマンズのモデル病院での聞き取りがメインである。

2018-10-25

鹿児島の魅力

 3日間と短い時間であったが鹿児島の各地をまわり、あらためていくつかの魅力を見付けた。
 第一は、元気な有機農業である。2017年の全国の有機認定事業者は県別でみるとトップが北海道の271戸で、二位が鹿児島の259戸で、勢いは鹿児島が上で近く一位になるそうだ。研修制度を整え若い就農者を支援しているので、いずれそうなるだろう。鹿児島は、桜島からの火山灰が今も降り、土地もそんなに肥えていないので農業の環境としては厳しいだろうが、いろいろな工夫と協力で有機農業という新しい可能性を追求しているから素晴らしい。
 第二は、美味しい本格焼酎である。地元の焼酎を1日目もかなり飲んだが、2日の夕食時に有機農家も連携する「地球畑カフェ・草原をわたる船」では、PBの有機栽培米全量使用本格米焼酎「地球畑」が最高だった。同席した生産者に聞くと、お湯6に対し焼酎4で、まずお湯から入れると一番美味しいとのこと。料理の野菜は全てパリパリの有機だし、近海の魚は全部天然物。いくらでも食べて飲むことができ、団欒もはずみ何杯も空にした。飲み放題だったので、最後に少し残った4合ビンをもらって帰った。
 第三は、自然の雄大さである。坂本龍馬が新婚旅行に訪ねた高千穂峰や、知覧から特攻機が飛び立つときに目指した開聞岳など、歴史を重ねるとさらに興味深くながめることができる。鹿児島空港で出発まで少し時間があり、ロビーで地球畑の焼酎を飲んだ。気持ちが良くなり、ふとロビーの壁を見ると大きな屋久杉のパネルがあり、横に輪切りが飾ってある。その年輪は2600年なので、日本の歴史が始まる前である。鼻を近づけると我が家の書斎においてある縄文杉の文机と同じ香りがした。横のビデオでは屋久島の映像を流し、杉や焼酎なども詳しく紹介していた。心地良い酔いもあり、ぜひ訪ねてスケッチしたいと思った。

障がい者の働く作業所と生協コープかごしまの連携

 鹿児島での3日目である21日は、生協の谷山店を訪ねて、作業所を運営している麦の目福祉会とコープかごしまとの30年にもわたる連係がメインの視察であった。
 「ゆりかごからお葬式・お墓までの安心」をうたう麦の目福祉会では、11ものグループホームの他に10の事業所や子ども支援センター2、保育園2などがあり、200人近い障がい者が暮らしたり働いたりして利用しているそうだ。さらに医療関連にまで事業領域を広げ、今年の8月に福祉生協を設立し、診療所を開設したというので驚く。医療なので医療福祉生協連に加盟するのかと聞けば、そうでなく労働者生産協同組合連合会(ワーカーズ・コープ)とのこと。ここが少し気になった。
 コープかごしまからは、産直事業や麦の目との関連について詳しい説明があった。特に印象的だったのは、中山専務スタッフによる話で、目的と手段の区別が大切で、ややもすると店や共同購入の手段に職員や幹部も目はいくが、そもそも生協の目的をあいまいにしたらダメで注意しているとのこと。
 経営の規模拡大や収益の向上も大切ではあるが、それらはあくまで手段の1つであり、目的である地域や組合員の豊かな暮らしづくりがメインである。
 2021年にはコープかごしまが設立50周年になるとのこと。地域にさらに根差し、麦の目福祉会との連携がさらに発展することだろう。
 写真は麦の目と生協との連携事業である移動販売車。イラストも全て利用者さんの作品。

農福連携の白鳩会「花の木農場」を訪ねて

 鹿児島での視察の2日目である20日の午前中は、大隅町にある花の木農場を訪ねた。ここでは茶・養豚・稲作・ニンニク・露地野菜・水耕栽培・食品加工を障がい者もしており、驚くのはその規模である。全体で45haもあり、最大の花の木農場の耕作面積だけで27.6haもあり、高台から見ても全体像をつかむことができない。
 そこで働いている障がい者も多く、農業と製茶の花の木ファームで90人、農業・ハムとソーセージ製造・惣菜・パンのセルプ花の木で40人、豆乳・豆腐などの製造の花の木大豆工房は20人、ジェラード製造の花の木菓堂は20人、調理・カフェ・石鹸作りなどの花の木カノンは20人と全体で定員190人が、職員と一緒にそれぞれできる作業で関わっているから凄い。
 1972年に設立したときはまだ小さく、「来る人を拒まず」の考えで、どんな障がい者でも何か働くことができれば、それに合った仕事を探して少しずつ規模を増やしてきた。作物も変化させて試行錯誤し、主力のお茶も途中からで、それまではミカンなどを栽培したこともあるがこの土地に合わなかったそうだ。
 障がい者の人たちが暮らすグループホームやレストランなども、個性豊かな建物として農場に点在して絵になる風景であった。数千人が利用できるイベント会場まであり、お祭りなどを含めて地域の人たちとの接点を作っている。
 農業と福祉が繋がり、それも生産からレストランと六次化が進んでいる。ぜひこれからも発展してほしいものだ。
 

2018-10-22

鹿児島県の有機農業を訪問

 19日から21日まで「食糧の生産と消費を結ぶ研究会」(生消研)の40回夏の現地学習交流集会があり、久しぶりに参加した。開催テーマは、「協同の力で持続的社会を構築する~地域再生と協同組合2.0」である。参加費4万4000円に九州を往復する飛行機代がかかるので、年金生活者に決して安くはないが、障がい者が農業に関わる農福連携や、地元のコープかごしまとの連携も視察に入っていたので興味を持った。内容の濃い楽しい3日間であった。
スケジュールは下記。
10月20日(土)    JAそお鹿児島ピーマン部会 国民宿舎ボルベリアダグリ泊
10月21日(日) 午前  鹿児島県肝属郡南大隅町の白鳩会         午後  かごしま有機生産組合
       かごしま有機が直営するレストランカフエ草原をわたる船 交流会
       鹿児島サンロイヤルホテル泊

10月22日(月) コープかごしま谷山店

      「生協と社会福祉法人との連携で展開する誰もが生きていける社会づくり」

初日はIターン就農者育成と産地の将来の発展に賭ける取り組みについて、ピーマンの生産を通して説明を聞き、その後で作業の現場を見せてもらった。大阪で建築関係の仕事をしていた30代の男性は、奥さんと一緒に昨年から移住して働いていた。近くに産婦人科の病院がなくて不便だが、農業に切り換える願いが実現して喜んでいた。ここでは農業公社とJAが連携し、異業種からの農業就農者へ丁寧な研修制度をしている。
写真はピーマンを育てているビニールハウスの内部で、中央の白い花は、ピーマンにつく害虫の天敵が寄ってくる植物である。こうした研究もすすめ、より安全なピーマン作りをしているので感心した。

2日目の「かごしま有機生産組合」の話でもそうで、一人前になって独立するためには、やる気だけでなく必要な知識と技術を修得しないと前に進まない。
都会の高いストレスから離れ、農業をしつつ自然の多い地方で暮らしたい人はこれからも続くだろう。そうしたときに研修制度は大きな役割を発揮する。




2018-10-07

原発事故による放射能被害に立ち向かう

 6日の夕方から、都内で「わたしは あの日ひばくした」の集いがあり参加した。主催は「ふくしまと全国の集い」であり、各自の初期被曝と累積被爆を明らかにし、事故の加害者責任を問い、政府と原子力マフィアによる国民総被爆推進政策を止め、原発の全廃をするため昨年から大同団結を呼び掛けてきた。
 集いでは、①「被曝被害。こうやれば誰でも割り出せる」:科学者の山田國彦さん、②「被曝被害の立証で加害者の特定と告発へ」:飯舘村議の佐藤八郎さん、③「日本国際放射線委員会の設立めざして」:広野町議の阿部憲一さん、④「子ども住民を急増する健康被害から守るために」:小山潔さんから貴重な話がそれぞれあった。
 山田さんからは、いつものように詳細なデータに基づき、初期被曝を各自が具体的に算出して、その結果で一人ひとりが考えることの大切さを強調していた。飯舘村の村役場の樹木で、雨に直接当たっているものと当たっていないものの変化を写真で示し、放射能の影響を可視化していた。
 飯舘村の細川牧場からは一人娘の美和さんが来ていた。牧場でここしばらく馬の死ぬことはなかったが、9/28に41頭目が犠牲になったとのこと。後で彼女に聞くと、心労で倒れた母親は、入院したままだがだいぶ元気になってきたととことで少しホッとした。
 9時過ぎに集いを終え、東京駅方向に帰る5人で1時間ほどビールを飲みつつ交流した。放射能検診を実現するため100万人署名を進めている大阪の人、東日本大震災について映像で追いかけている千葉の人、子どもを被ばくから守るための脱被ばく実現ネットの埼玉の女性、生徒に真実を伝えたいとがんばっている保健の都内高校の女性
教諭など、それぞれの熱い胸を聞かせてもらい勉強になった。いろいろな方が、各方面で工夫しつつチャレンジしている。できるところから手をつなぎたい。

2018-09-26

廃棄物を使った素敵な作品

 24日の夜だった。上野公園で中秋の名月を友人とながめ、ほろ酔い気分で取手駅にて下車し、ギャラリーのある地下道に入った。そのとき強烈な印象の作品が目に飛び込んできて、思わず足を止めた。広島や長崎での原爆か、東日本大震災での被災地の焼け跡を一瞬イメージした。
 「私のためのコンポジション2018」のタイトルにある案内板には、「焼却炉から出てまもない鉄くずは、微かにぬくもりがあり青く光ってとてもきれいです。社会で果たしてきた製品としての役割りや機能を失ってこその清浄だろうと思うことがあります」とあった。
 よく見ると、つぶした空き缶、ゼンマイ、パイプ、スパナなどなど、どれもが茶色に錆びた金属片であった。コンポジションとは構図の意味であり、10数点のどれもがおもしろいイメージを醸していた。
 26日の朝に作品を撤去するとのことで再び訪ね、作者である1956年北海道生まれの阿部真理子さんに会って少し立ち話をさせてもらった。東京藝術大学大学院を出ているとのことで、どこかの学校で美術の教師でもしているかと思ったら、まったく関係のないパート仕事をしつつアトリエで作品創りをしているとのことだから、よほど創作が好きなのだろう。それも以前は彫刻であったが、5,6年前に近くの焼却炉で出てきた金属片を見てこの作品化をし始めたそうだ。
 作品もさることながら、焼却した後の金属片に再び命を吹き込み、りっぱな美術品に仕上げる阿部さんの考えが素敵だ。
 感激しつつ、少し気になったこともあった。1つ目が単純な木の額である。作品の世界を囲んで強調する大切な額は、杉であればバーナーを当ててこすればおもしろい文様になるし、古い板や竹などを使っても味わいは高まる。2つ目がそれぞれの作品の横に、般若心鏡の小さな英文を添えてあったが、その意図がよく分からなかった。作者のイメージを、例えば漢字の1文字にして大きく書いて添えるとかすれば、作品により興味をもつことができたのではないだろうか。たしかに般若心鏡は日本人の好きな経典の1つではあるが、日本仏教の構造的な衰退をみるとき、漢文を英語にしてここで意味を伝える必要がどれだけあるのか疑問である。もし仏教に関連させるとすれば、あらゆるモノに命が宿るとの大乗仏教の教えを、まさにこの作品は示しており、素直に作者の気持ちを簡潔な日本語で表現すれば充分だと思う。
 ともあれ刺激的な作品で、私も何か真似て小作品を創り暮らしに彩りを添えたいと思った。

2018-09-20

地域を元気にする農業

 9月14日の午後に、折り畳み自転車を使って千葉県印西市の有機農家を訪ねた。インターネットで地図を調べておいたが、駅から農家に進む道を1本間違えてしまい、約束の時間に少し遅れてしまった。
 訪ねたのは44才の櫻井修一さんが経営する櫻井農園。両親の他に13人ものパートさんを雇用し、水田1町7反、畑は路地で5町、ビニールハウスは1000坪で、米、小松菜、枝豆、ブロッコリーなどを育てている。畑の4町は他人の耕作放棄地の借地である。また3反の栗林を開墾し、ナス畑にするなど積極的である。
 年間の売り上げは約3500万円で、いずれ1億円を目指すとのこと。
 もらった名刺や枝豆を入れる袋には、「農業で地元地域を笑顔にします」と印字してあった。地域から耕作放棄地をなくし、元気な高齢者にも働いてもらい時給を渡す。こうして地域に笑顔を増やしつつあり、その思いは働く全員に伝えて共有しているから凄い。もちろん家計が黒字にならなければいけないが、あくまでも目的は地域の笑顔であり、そこに皆の働く動機をもっていっているので、農業の経験のない近くの新興住宅地の若いお母さんたちも楽しく働いている。
 9年間のサラリーマン生活をした修一さんは、働く人の気持ちがよく分かり、規格外作物を帰るパートさんに持たせたり、月2回の定休日を定め、昨年から全員を連れて1泊の温泉旅行にも行き親睦を深めている。
 日本の農業は、生産者の高齢化や後継者不足などで危機に直面している。しかし、すでに全国で約40万haという耕作放棄地があり、田畑は充分にある。若い専業農家は少ないが、高齢者や成人の女性は多くいる。さらには働きたくても働く場のない障がい者も多い。各自の条件に応じた働く場や作業を工夫すれば、新しく農作物を生産することは可能だろう。
 問題は、再生産のできる価格で消費者に届ける物流と販売先を確保することである。櫻井農園では、3から4割は船橋農産物供給センターを通して生協に流し、他は近くのスーパーなどに直接運んでいる。近郊農業の1つの在り方としてとても参考になった。
 下の写真は、ユンボを使って栗林を開墾し作ったナス畑

2018-09-15

映画「Workers(ワーカーズ) 被災地に起つ」

 13日に映画「Workers(ワーカーズ) 被災地に起つ」を都内の試写会で観た。東日本大震災で大きな被災のあった宮城県登米町と岩手県大槌町などを中心にして、日本労働者協同組合(ワーカーズコープ)が、地域復興のため新たな仕事おこしに取り組んでいる。
 ワーカーズコープでは、一人ひとりの願いと困ったことに対して、同じ志を持った者が協力して新たな仕事を立ち上げている。
 大槌の地域共生ホーム「ねまれや」では、地域の人たちのより所として定着しつつある。「人口は減っているが、困っている人は減っていない」と頑張る若い女性の所長さんは、目がキラキラしていた。
 登米市の地域福祉事業所「きねづかの里」では、高齢者デイサービスと障がい者福祉の「はっぴぃデイ」、障がい者の就労支援事業「心♡りっぷる」障がい児支援、放課後等デイサービス「ぽっかぽか」が地道に活動している。
 それぞれの取り組みもさることながら、登場人物の顔が輝いていた。
 ワーカーズコープの幹部の知人がいたので、映画の後で少し立ち話をした。「福島の被災地がなかったので残念だね」と私が言ううと、浜通りでの取り組みはないとのことであった。
 ところで私の住む取手市で、ワーカーズコープの準備会ができているとのこと。4番目の孫が発達障がいであり、その子の将来のためにも新しい働く場をぜひ創りたいと考えているので、この準備会の動きを詳しく知りたくて連絡先を教えてもらった。時間や費用はかかるだろうが、動ける間に何かしたいものだ。

2018-09-03

種子法廃止とこれからの農業を考える

 9月1日に都内で、私の所属する日本科学者会議食糧問題研究会主催で、元農林水産大臣の山田正彦さんを講師に「種子法廃止とこれからの日本の農業」を開催した。後援はパルシステム生協連合会、生協パルシステム東京、東京ワーカーズ・コレクティブ協同組合、日本協同組合学会、東都生協、日本労働者協同組合連合会で、71名もの参加があり、1時半から4時半まで熱気あふれた場となった。
私たちの食に直結する日本の農業が、これまでになく多国籍企業の儲けの対象となって大きな岐路に立たされている。20184月に主要農作物種子法(種子法)が廃止になった。
1952年に制定された種子法は、餓死者もでる食糧難を経験した日本が、稲・大麦・はだか麦・小麦・大豆の主要作物について、安定して供給する責任が国にあると定め、優良な種子の生産と普及を明記している。地域に適した良質な種子が公共財として生産者へ届くように、各地の農業試験場などで必要な経費は国が担ってきた。
 そうした日本の農業を支える骨格が崩されたのだから大変である。講演では、野菜の種子は国産100%からすでに海外生産が90%に、種苗法21条第3項によって自家採種ができなくなるかも、すでに日本でも日本モンサントの米を栽培、遺伝子組み換えの米の種子が用意されているなどとあって、多くの参加者も驚いていた。
 休憩の後は、参加者との意見交換をさせてもらった。

「種子が消えれば食べ物も消える。そして君も」は、スウェーデンのスコウマンの名言である。日本国憲法第十二条では、「国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない」とある。私は司会をしつつ、たいへんな状況ではあるが、まだ志のある人との連携をより強めることによって変えることができると強く
感じた。
 写真は熱く1時間半も語ってくれた山田正彦さん。

2018-08-30

これからの日本を考える

 8月28日の午後1時から5時半まで、都内で「激論!これまでの日本、そしてこれからの日本を考える」集会があり参加させてもらった。主催は一般社団法人日本フロンティアネットワークで、日本労働者協同組合と企業や団体が協力して新しい仕事おこしなどをしている。
 集いの前半は「民主主義の可能性を考える」として、作家の北原みのりさんが女性の目線で男社会を痛烈に批判した。
 後半では「今の日本と世界を考える」としてジャーナリストの斎藤貴夫さんから、政界だけでなくジャーナリズムの問題点など鋭く解説していた。たとえば来年秋に予定している消費税10%への値上げでは、食品と新聞が軽減対象となり、新聞がますます政権批判をしなくなるとのこと。魂を金で売り渡しているわけだ。
 鼎談の1人は広島市立基町高校の卒業生の富田葵天(そら)さんで、彼は昨年の平和・協同ジャーナリスト基金の授賞式に、「原爆の絵」の作者の一人として参加しており私も会っていた。「忘れられない~あの目」と題してある被爆者の証言をもとに、下敷きになった中年の女性が、通りかかった少年の足先をつかみ、助けをこう瞬間を描いていた。一番苦心したのは女性の目で、1年間で10回も書き直したとのこと。平和をテーマにしてその後も毎年のように作品を仕上げており、絵にかける情熱は凄い。
 6時からの懇談の場で富田さんの隣に座り、いろいろ意見交換させてもらった。ソウルでの原爆資料館や平和の集いの話もし、2年後の8月6日には韓国での原爆の絵の展示と講演についても相談し内諾を得た。取手市の東京芸大大学院の2回生で、藤代市に妹と一緒に住み、彼女は別の大学でやはり絵を専攻しているとのこと。母親が絵を描いており、画家一家でもある。呉市の実家にこれまでの作品があるとのことで、広島市でも次に訪ねたときに足をのばして観てみたいものだ。

2018-08-24

メメント・モリ

 ラテン語のメメント・モリは、「死の記憶」とか「死を想え」などと訳され、人は必ずだれでもいつかは死ぬので、必至になって自分らしく生きろという願いを込めている。このため仏教の念死にも通じる。
 昨日の23日の11時から、都内の斎場である親類の「お別れ会」があり参列した。私と同じ齢である義兄には、一人娘に2人の子どもがいて、鬼籍に入ったのはその下の子であった。脳腫瘍の手術を2年間に9回も繰り返し、10歳と11カ月でついに旅だった。
 クラスメイトとその親、地域のサッカーチーム、それに学校や保育園の先生など約200人が集まり、無宗教で各自が想い出を話す良いお別れ会だった。棺桶の中に花を入れるとき頬に触れると、氷のように冷たかった。
 2時間ほどのお別れ会の最後は、出棺する車を子どもたちの緑の風船で見送った。

 親族で火葬場に行き、少し待った後で骨壺に長い箸を使って小さくなった白い骨を納めた。頭がい骨に直径1cmほどの丸い穴があり、よく頑張ったと思うとその日何度目かの涙があふれ出た。10歳の子どもを亡くした両親や、仲良しだった2歳上の姉の心中を想うと、私には慰める言葉もなかった。
 先週、ネパールからある里子の母親が自殺したとの連絡があった。4月に訪ねた新しい里子の小柄な可愛い母親で、夫婦でお寺のトイレ掃除をしつつ幼い2人の女の子を育てていた。また来るから元気でと握手して別れたので、再会することを楽しみにしていただけに驚いた。いったい何があったのだろうか。
 辛い別れは、他にも私にはいくつかあった。その1つが小学3年のときの母であった。始まったばかりのビニールハウスによる農業で、今では禁止されている農薬を使い、いくつもの病気を併発し長く入院生活をしていた。いよいよダメとなった最後の頃に、父に「みかんが食べたい」と母は頼んだ。8月の終わりで当時はハウス栽培のみかんはなかった。青い小さなみかんを父は持っていったが、もちろん食べれたものではない。それからというもの私は、みかんを口にするたびに優しかった母を想い出す。朝晩は、書棚に飾ってある位牌に手をあわせている。
 死者は肉体的にたとえ消えても、心の中でいつまでも生きていく。メメント・モリをこれからも忘れずに歩んでいきたい。
 
 

2018-08-21

8月の田んぼの学校

 8月18日(土)は朝5時に起きた。前日から千葉にある船橋農産物供給センターの飯島代表宅に泊めさせてもらい、深夜まで日本酒やビール・焼酎を飲みつつ話を聞いたりした。その深酒と、前日に手賀沼から印西まで1時間半ほど自転車で走ったことでの疲れが残り、少し体がだるかった。
 飯島さんが、30kgの玄米を近くの自動精米所で5kgの白米の袋詰めにし、それを船橋の団地に届けるのに同行した。その後は、センターの倉庫から野菜類を直販所に運ぶので少し手伝った。
 それがすむと飯島さんは、京成線臼井駅近くのレンタカー会社でマイクロバスを借り、駅前で待っている約15人の親子を乗せて運んだ。
 10時からの東都生協による田んぼの学校では、車での参加を含め約30人が集まった。畑と林の間の道を進んでいくと、落ち葉の上に黒いクワガタがいたので捕まえた。4歳ほどの女の子に見せると、「キャー!怖い」とのこと。噛みつくわけでもないから安心だが、本人が嫌っていてはやむを得ない。今度は小学の低学年ほどの男の子に渡すと、大喜びして母親にも見せていた。後で捕まえたトンボも、やはり女の子は怖がってダメだった。
 春に植えた稲はりっぱに育ち、大きくなった穂が垂れてきていた。参加者は、田んぼの周囲の畔や、里芋や大豆などの畑で草取りを午前中にして汗をかいた。
 拡げたビニールシートなどに皆が座って昼食をとっているときに、横の中年の男性に話を聞いた。銚子から片道1時間半かけて来たという男性は、以前に飯島さんが企画した田舎の学校で農作業が楽しくなり、ITの会社を早期に退職して、今は2.5反の水田で米作りをしていると楽しそうに話してくれた。会社勤めは収入も多かったが、生きている意味を感じることができずに悩んでいたが、農作業することで楽しい人生を送っているとのこと。2.5反の米では収入も知れたものだろうが、くったくのない笑顔が輝いていた。種から芽が出て、丁寧に育てるとりっぱな農作物を収穫することができる。自然の素晴らしさや、その一員としての自分を実感できる。農の魅力を再確認でき私も嬉しくなった。

 午後の水鉄砲作りなども終えて2時過ぎに解散したので、折り畳み自転車に乗って北総線の印西牧の原駅をめざし、30分ほど走った。その途中にあったのは、サバイバル・ゲームの施設で、迷彩服を着た男女がエアーガンを手にして楽しんでいる。そこは小さなテーマパークのような施設であったが、他に森林の中で撃ち合うなど4か所もあるとのこと。撃っている大豆ほどのプラスチック製の弾が、たまに施設外に飛んでくることもあるそうだ。田んぼの学校でほんのりとした気持ちになっていたが、急にどんよりとなった。
 

2018-08-20

千葉の有機米生産者を訪ねて

 8月17日の昼に愛用の折り畳み自転車をさげて、取手駅から常磐線と成田線を使って千葉県の中ほどにある有機農家を訪ねた。船橋農産物供給センターで米生産部長の梅沢さん(72歳)から、農業のこだわりを聞き、あわせて田畑を見せてもらうためである。かつては広大な手賀沼の広がっていた場所に、江戸時代から昭和の戦後にと続く干拓事業でできた地域の1つでもある。奥さんと2人で、米以外にもトマト・甘長唐辛子・ピーマンなどを育てている。24歳から45歳まで町議をしていたときもあるが、それ以降は農業一筋で働いている。同じ唐辛子でも品種はいろいろとあって、収穫が少なくなると、翌年は別のものに替える。すると植える時期や栽培方法なども変化することがあり、いつも頭を使って工夫をしている。それだけ大変だけど、だから楽しいと笑っていた。
 近くの畑を案内してもらった。ビニールハウスの横で甘長唐辛子を栽培している畑は、周囲を2mほどの背丈の草であるソルゴーを生やして風除けにしていた。また畑の中央には、特殊な街灯をつけて夜間に害虫を駆除していた。作物を守るためいろいろと工夫をしていることがよく分かった。
 梅沢さんのこだわりというか楽しみの1つは、農作業から出てくる俳句創りである。センターで季刊に発行している「おいしい野菜通信」には、野良爺の名前でいつも素敵な俳句が載っていて私も読んでいた。最近だと以下である。
 ・泥靴と 畑に別れ 春の月
 ・線香の けぶり掻き分け 茗荷の子
 手帳にでも書いているかと聞くと、ひらめいたときに携帯電話へすぐ入力し、今は70首ほど保存していると見せてくれた。こんなにして農業を暮らしの中で楽しんでいる生産者がいると、私も嬉しくなる。

2018-08-09

ソウルを訪ねて2

 「韓国の原爆被爆者に会ってきた」というと、よく「えっ、朝鮮でも原爆が投下されたんですか?」と驚く人がいる。そうではなく日本の広島と長崎で被爆した朝鮮半島出身の方々が、戦後に帰国して暮らしている。その数は、韓国の被爆者の協会に表で以下のように示している。
     韓国人   原爆死亡者   帰国
広島   7万人   3.5万人     3万人
長崎   3万人   1.5万人     1.3万人
計   10万人   5万人     4.3万人
 やっとのことで帰国した人たちは、「日本で金儲けしてきた」とか「日本を手助けした」などと非難され、今でも経済的にも健康面でも苦労されている方は多いが、社会からの支援はほとんどなく苦しい生活を余儀なくされている。
 そうした中で高橋公純さんは、毎年8月6日にソウル市内で支援の集会を開き、原爆で亡くなった韓国人の慰霊を祀り、苦労されている被爆者の慰安の場を提供している。10時半からはじまった集会には、釜山などからを含め約200人が集まっていた。舞台に設けた祭壇の横にある平和の鐘を、地元の子どもの男女2人が叩いて開演した。韓国、日本、台湾の3人の女性が民族服でお茶を捧げ、公純さんや被爆者のソウル支部長などの挨拶が続く。私も檀上に立ち、「被曝ハマユウの祈り」と題して、原爆の熱線・放射線・衝撃波の被害、平和のシンボルとしての被曝ハマユウの経過、福島の原発事故で自殺者の続いている現状に触れ、原爆も原発も原理は同じことなどを話させてもらった。
 後半は、死者の霊を慰めるため白いチマチョゴリでの踊りや、韓国の国民的な歌でもある哀愁をおびた「アリラン」も流れた。
 3年ぶりに参加した心のこもった集会であった。


  

2018-08-08

ソウルを訪ねて1

 4月の早朝にリュックサックを背負って家を出て、成田空港10:50発で韓国の仁川空港13:20着で飛んだ。6日に開催となる被爆者支援の集会参加が目的であった。格安の航空会社を使ったため、機内食は簡単なパン1個とヨーグルトだけ。アルコールも有料なので夜まで我慢した。
 今回は迎えの車が来ていたので、仁川からソウル市内のお寺へ直行したので楽であった。数日前にソウルは40℃近い猛暑で、日本と同じく熱中症での死亡が社会問題になっていた。
 4時頃に住職の高橋公純さんと会い、しばし懇談させてもらった。そのとき私は、『大乗起信論を少し読んでいるが難しいですね」と話すと、驚いた顔をした公純さんは、関連する本を何冊か出してきた。法華経についても同じで、また何冊かテーブルに積み上げてくれた。その場で公純さんが強調したのは、経典を理解することも大切だが、それ以上に大切なのは実践する応用とのこと。また重要なことを教わった。日本で日蓮正宗の幹部として活躍していた公純さんは、教団と創価学会に挟まれて本来の仏教に生きることができないと、日本を出て韓国に帰化し、奥さんと子ども3人で、ソウル・釜山・台湾などの寺を運営し、貧しい人や原爆被爆者の支援などにも精力的にされている。
 3年前は広島の原爆ドーム前の川で採った原爆瓦と、千葉の被爆者の聞き取りした冊子
を運んで公純さんが私費で新設した原爆展示館に寄贈した。今回は広島市立基町高校の美術部の生徒たちが、2007年から2016年までに被爆者から聞き取りして描いた「原爆の図」116枚を紹介した冊子を持参して手渡した。この貴重な絵は、広島平和記念資料館の協力で実現し、同館のHPで公開されている。被爆した朝鮮の方の証言を描いた生々しい6枚も含まれており、公純さんは2020年にでもソウルで展示会をし、描いた生徒にも話しに来てもらえれば嬉しいとのことであった。冊子を提供してくれた美術部の先生に、お礼と一緒にその意向を伝えたいと考えている。
 写真は韓国原爆展示館で館長も兼ねる公純さんに手渡しているところ。横の男性は、韓国の原爆被爆者団体でソウル支部長さん。

2018-08-01

台風を追いかけて孫たちと帰省

 29日の昼前に羽田から高知行きの飛行機に、娘や孫たち8人で乗った。直前の案内では台風12号が広島付近にあり、着陸できないときは大阪の伊丹かもしくは羽田に引き返すこともあるので、それを了承したうえで搭乗するようとのこと。1人だけならどうにかなるが、障がいをもった幼子も含め8人もいる。どうするかかなり迷った。高知の弟に電話して聞くと、雨も風もないとのことで搭乗を決め検査場を急いだ。
 高知の空港へ無事に着陸したときは、本当にホッとした。弟と妹の車に分乗し、まずは96歳の母がいる施設へ。大きくなった孫たちに会って喜んだ母は、「南国土佐を後にして」を歌いながら踊ってくれた。
 「100歳のときにまた皆で集まってお祝いをするから」
 そう約束して別れた。ぜひ実現させたいものだ。
 スーパーで買い物をしていると、空が晴れてきたので実家近くの海に行き、娘や孫たちと泳いだ。特に発達障害のある4歳の孫は大喜びしたが、20分ほどでドシャブリの雨になりやむなく中断。
 2日目の朝も残念ながら大雨で、鍾乳洞の龍河洞へ全員で出かけ、石灰の長い洞窟を40分近く見学した。4歳の孫は少し歩いたが、すぐに怖がってしがみついてきた。やむなく私と娘が交替で抱っこやおんぶで進んだ。狭い場所もいくつかあり、孫の頭などに注意しながらゆっくりと歩いた。私が幼少のとき、リューマチのような病気で歩行ができなかった。村の旅行でこの龍河洞に来たとき、今は亡き父が私を背負ってくれてずっと廻ってくれた。滑る足場や階段でさぞかし大変だっただろうと、今さらながら父のありがたさを感じた。
 それにしても今回の台風12号は異常である。普通は西から東へ向かうが、今回は逆に関東から関西や九州へと進み、種子島では一回転した。また台風が過ぎた後は快晴に普通はなるが、2日間も雨交じりであった。これも地球温暖化の影響だろうか。各地の大雨による被害や、猛暑による熱中症の死亡者など、原因はよく分からないが自然界の変化が進みつつあることは事実のようだ。

2018-07-27

愛とヒューマンのコンサート  ベッセラ親子の熱演

 7月26日の昼から埼玉県坂戸市役所のロビーで、被災地に思いを寄せようと「愛とヒューマンのコンサート」が開催となり、フランスはパリ・オペラ座のピアニストのベッセラさんが、2人の娘と一緒に熱演してくれた。2年前のときにピアノは聴いていたが、今回は長女のエステル(17歳)がチェロと、次女のエリーズ(15歳)がヴェイオリンとフルートでさらに音楽を盛り上げてくれた。
 一曲目は、私も大好きなカッチーニのアベマリア。「アベマリア」と繰り返す歌がなくてもピアノとチェロとヴァイオリンが、それぞれの音色で美しく歌ってくれ、思わず目頭が熱くなった。最後のオー・シャンゼリーゼでは、2人の娘が軽やかにステップをふみつつ歌いながらロビーを舞ってくれた。
 市役所の後は、市内の障がい者支援施設に移動した。50人が暮らし、20人が通所で利用している大きな施設であった。車椅子やストレッチャーのような台で聴いている人もいた。演奏がはじまると体全体で反応する人もいて、中には足が悪くて特殊な靴をはいているにもかかわらず、ピョンピョンと跳ねまわる女性もいた。喜んでくれるのはいいが、体に影響がないかと心配したほどである。
 遅い昼食をとった後は、4時30分から消防署を訪ねた。エステルが、フランス消防のマスコットガールをしていることもあり、日本の消防を訪ねたい希望もあって表敬訪問となった。指令室や消防自動車などを見学させてもらい、また増える外国人向けに12か国語にも対応できるシステムを使い、フランス語で署員が解説してくれて驚いた。ノリノリだった障がい者とは正反対に、約50人の署員はきちんと座ったままで聞いていた。それでも最後にはベッセラによるタンゴの曲でエステルと踊ったりと、楽しい時間を過ごした。

2018-07-23

原発の学習会で報告

 連日35℃の猛暑で体がだるい。数年前から夏になると蚊に喰われた痕が、衣服でこすれると化膿するのでバンドエイドを貼っているが、今度はそこがかぶれて赤くなり、1週間ほどは痒くて困っている。
 22日の昼から地元の取手市で、「戦争をさせない・9条壊すな!総がかり取手実行委員会」主催の学習会があり、「福島の原発事故の影響は今」と題して私はジャーナリストと日本科学者会議の肩書で、30分ほどパワーポイントを使って話をさせてもらった。なおこの会には、取手市にある19の団体が所属し、そこには共産党と社会民主党も加わっている。
 「お墓に避難します」との遺書を書き自宅で首をつった93歳で南相馬市の女性、57歳で灯油をかぶり焼身自殺した川俣町の女性、「原発さえなければ」と壁に書き、32歳の奥さんや6歳と5歳の子どもを残して首を吊った相馬市の54歳酪農家など、写真を写しながら説明した。こうしたケースを含め昨年までに福島県では99人もの震災関連自殺があり、その多くが放射能汚染が影響し、東電もそれを認めて裁判で賠償金を支払っている。
 にもかかわらず2013年に自民党の当時の高市早苗政調会長は、原発事故による死者はいないと言い切った。原発事故はアンダーコントロールしていると国際舞台で大嘘をついた安倍首相も、ともに人間として失格である。
 3000℃にもなる核分裂の熱を利用して発電する原発は、原理は原爆と同じでコインの表裏であり、脱原発と反核の運動は連携して効果を高めればいいが現実には弱い。そこで反原発の反原爆の統一した運動の輪を拡げ、さらには原発や金に依存しない暮らしの大切さを話して終えた。
 他には「東海第二原発廃炉に向けて」で常総生協から、「放射能と子どもの健康」でとりで生活者ネットワークから、「県議会から見た東海第二原発稼働問題」で県会議員から、それぞれ貴重な報告があった。最後の30分ほどは会場の110人からの質疑応答で、5時前に終えた。
 自転車で持参した『「愛とヒューマンのコンサート」』は、どうにか5冊が売れてサインもさせていただいた。

2018-07-20

驚きの高裁 細川牧場裁判の二審判決

 7月19日の13:15より東京高等裁判所において、細川牧場裁判の二審の判決があり傍聴した。猛暑の中で駆けつけたので、法廷に入ってもしばらく汗をハンカチでぬぐった。
 時間になり黒服姿の3人の裁判官が入ってきた。座るなり中央の初老の小柄な裁判官は、書類を確認した後で「主文。棄却する」と無表情に話し、「後は書面で」と付け加えて終わった。時間にすると10秒ほど。20人ほどの支援者の中からは、「それでも人間か!」「恥を知れ!」などの罵声が飛んだが、裁判官はとくだん表情を変えることはなかった。
 細川牧場裁判は、3・11の被災後に原発事故の放射能汚染により、全村に避難指示が出た飯舘村で、なぜか対象にならなかった馬約100頭をずっと守り飼育してきた細川さんが、餌代などを東電に求めた裁判である。汚染した牧草を食べさせるわけにいかず、餌代だけでも莫大な金額になるが、今年のはじめに出た一審の判決は信じられない0円であった。 
 すぐに控訴し、4月に控訴理由の書面を出して、もうこの7月で結審であった。地裁で不十分な点を高裁では新たに調べて判断するものと私は思っていたら、まったくせずに「却下!」である。地裁の判決文には事実誤認が、いくつもあったにもかかわらずである。聞くとこうした乱暴なケースが最近はあるそうだ。こんな国民をバカにしたことをしていると、法曹界は内部から必ず崩壊する。
 実は細川牧場では震災後に原因不明で馬が急死し、何と40頭近くも続いている。その中には仔馬もたくさんいて、ある朝のこと奥さんが牧場にいくと、カラスが仔馬の目の玉をくり抜いていてショックを受けた。そんなこともあり優しい奥さんは心を病み、今は福島市内にある精神病の病院で治療を受けている。
 参加した支援者での相談の場で私は、被災者の自殺が福島県ではすでに99人にもなって岩手と宮城の合計に近いことに触れ、馬だけでなく人の命をも守る取り組みへの拡大を訴えた。
 運動を組み立てなおすとなると、多くの時間や費用も必要になってくる。改めて8月7日に有志で相談することになった。困難は少なくないが、こんな理不尽なことをそのままにするわけにはいかない。
弁護士会館地下のレストランにて細川さんを囲んだ激励会 
 

2018-07-15

岩手で被災した漁民の苦悩

 大船渡から越喜来(おきらい)をまわり、何人かの漁民にあって話を聞かせてもらった。3年ぶりの大船渡は、大きな魚市場やホテルなどが完成し、すっかり街並みがかわっていた。復興が順調かと思ったが、実状はそうでもなかった。
 一つが貝毒の発生である。原因が不明で昨年も今年も発生した地域があり、主要なホタテの養殖による収入が皆無で困っていた。共済に加入していて保障はそれなりにあるが、それも3年間だけなので、来年も被害があるとそれ以降は打ち切られてしまう。毒の発生に地球温暖化による海水の温度上昇もあるようだが、同時に地元で聞いたのは防潮堤などのコンクリートの影響である。強アルカリ性のコンクリートが多くの海岸線に使われており、沿岸の汚染につながっているのではとのこと。同時に岩手県では集落の前に高さ12.5mの防潮堤を築き、この重みでもって山から流れてきた地下水をおさえ、沿岸の湧水が少なくなってプランクトンの増殖に影響しているとの指摘である。
 二つ目は、小規模な漁民無視の行政で、その一例が岩手サケ裁判である。隣の宮城や青森では小規模な漁民でもサケを獲ることはできるが、岩手では資源管理ができるとして大手の水産会社と漁協だけに限定されている。100人の漁民が「浜一揆」として訴えて、今も裁判を続けている。さらにはマグロについては、全国規模で大手水産会社の利益優先の政策が進行し、このまま推移すれば漁業をあきらめる人が続出するのではとの声がいくつもあった。農業だけでなく漁業でも、企業優先の動きが強まっている。生産者だけでなく、消費者も含めた国民的な課題である。

2018-07-13

久しぶりの陸前高田と大船渡

 10日と11日にかけ、被災地のワカメを仕入れにいく知人に同行させてもらった。朝6時に家を出て取手駅前で車にピックアップしてもらい、高速道路の常磐道と東北道を使い、一ノ関経由で陸前高田に着いたのは13時半であった。寿司屋に入り昼食をとっていると主人が出てきて、住民不在の復興が進んでいると話してくれた。7年もかかってかさ上げした場所に、今さら大半の住民は帰ってこないが、それでもここの寿司屋は新しい商店街に新店を出すとのこと。
 陸前高田にある民間の生態総合研究所を訪ね、自然の環境を丁寧に調査している話を聞いた。ここでも行政の進める復興についての指摘があった。
 何回か訪ねている障がい者の作業所「あすなろホーム」を訪ね、持参した大きな西瓜を2個渡してきた。あいにくいつも対応してくれた所長は不在であったが、いくつもの詩を書いているマー君は、元気にワカメ切りの作業をしていた。本創りはもう少し時間がかかるが、いつかはきっと仕上げるとの所長への伝言を顔見知りの職員に頼んだ。
 広田湾で牡蠣養殖をしている60代後半の漁師さん夫妻を訪ね、86歳でまだ現役の男性を含め近況を聞かせてもらった。原因不明の貝毒によってホタテの出荷はまだストップしたままで不安そうだったが、広い庭や裏山に花や紫陽花などを沢山植えて暮らしを楽しんでいた。庭に置いてあった面白い形の流木と、養殖したホヤをいただいた。
 宿は大船渡の湾を一望する高台にあり、露天風呂のある温泉で長旅の疲れを癒した後、ウニや刺身などの海の幸を、冷たい地酒で心ゆくまで堪能することができた。
 ずっと運転してきた知人は、疲れもあって早めに寝たのはいいが、イビキがうるさくてしばらく私は眠ることができない。地酒をチビリチビリ愛でつつ、部屋の電気を全て消してしばしベランダから満天の星空を見上げ、星座を目で描いた。
 そこで一句。
 「海面に 灯台光る 大船渡
          地酒愛でつつ 星と遊ぶや」

2018-07-09

柳澤明朗さんを偲ぶ会に参列し

 7月8日も朝から暑かった。昼に電車を乗り継ぎ横浜の先にある金沢八景の横浜市立大に出かけた。「神奈川ぞうれっしゃ」のメンバーに加えさせてもらい、14時からはじまる偲ぶ会のため生協食堂の横で歌の練習をした。30年ほど前に大学生協東京事業連合で食堂の責任者をしていた頃に、何回か訪ねていたがまったく記憶になかった。認知症でもはじまっているのかと一瞬不安になったものだ。
 全国から集まった140人ほどが、狭い会場を熱気でつつんだ。オープニングは本人も大好きだった「この灯をとわに」の心にしみる合唱と、途中で87歳になる堀喜美代さんがカイロを手に「祖母・キクの独唱」を熱演してさらに花を添えてくれた。あとの懇談のとき掘さんの自伝的な本『大地に種(うた)を蒔く』にサインしてもらうと、「うたごえは平和の力」と書いてくれた。
 家族で創った20分ほどのスライドには、子どものときからの元気で明るい柳澤さんが登場して何回も会場を沸かした。交際の広かった方なので、在りし日の柳澤さんに触れたスピーチは何人も続き、やっと献杯となって冷たいビールを五臓六腑に染み込ませたのはもう16時が近かった。青春そのもの・顔中が口のような人・ぞうれっしゃおじさんなど、どれもがそうであった。
 12番目の最後のあいさつとしてマイクを握った私は、現代ルポルタージュ研究会で柳澤さんに永く顧問をしていただき、お礼として来年4月の1周忌には池袋で「柳澤明朗さんと共に歩む会(仮称)」をするため、同人誌の特集を準備していること、また私は本人から「共に未来を創ろう」という熱い言葉をもらい、この間は東日本大震災の被災地へ入って取材を続け、今は8冊目の単行本の準備をしていることなどに触れさせてもらった。
 予定の時間を大幅にこえた会は無事に終え、名古屋から参加していた「ぞうれっしゃがやってきた」の作詞者の清水則雄夫妻と、作曲した藤村さんのパートナーである菊子さんと、帰りの横浜駅で降りて4人で楽しく懇親させてもらった。名曲のできる裏話をいくつも聞くことができたし、大きな仕事の陰には素敵な女性の支えのあることなどがよく分かった。
 暑い1日だったが、おかげさまで楽しく有意義な時間を過ごすことができた。もっともこれで終わりでなく、本人も言っていた「超戦争少年」が、どのようにして平和の使者の1人である「ぞうれっしゃおじさん」になったのかの、柳澤さんの思想遍歴をルポで来春までにぜひまとめたい。

今どきの学生は

 7月7日の昼から大学生協のOB・OGで構成する「友の会」総会が都内であり参加した。1年ぶりの懐かしい顔は、白髪が増えたり痩せたりして誰もが齢を感じさせた。もっとも私もその一人であるのだが。
 会では大学生協連の昨年秋に実施した第53回学生実態調査の概要報告があって、興味深く聞いた。
 第一に学生の経済状況である。1カ月の自宅生の生活費は6万2590円で、前年比1900円増となり、その半分はバイト代で補っている。下宿生では月12万750円必要で、仕送りと奨学金で足りずに、ここでもバイトのウエイトが大きい。「授業が選択でバイトは必修」の状態が残念ながら続いているようだ。
 第二に就職である。4年生の内定は高くなっていていいのだが、職場に求める条件では、金銭的保障の第一に続き、有給休暇、残業がない、勤務時間、勤務地などが続き、安定志向がそれなりに強い。
 第三に日常生活である。学生だから読書は当然だと思うのだが、1日の読書時間0が53%もいて、5年間で19ポイントも増えているから驚く。読書に比べて多いのは、スマホの177分である。ゲームなど内容も気になるが、それ以上に私が心配するのは電磁波の脳への悪影響である。
 ところで別のある調査で読書時間は、小中では横ばいだが、高校から減少傾向にあるとのこと。もっと本を読んでほしいが、書き手の方にも問題があるのだろうか。
 13時から懇親会となり、ビールで乾杯して30人ほどの参加者と楽しく懇親した。

2018-07-04

久しぶりの歌「ぞうれっしゃがやってきた」

 7月1日に神奈川の「ぞうれっしゃネットワーク総会&交流会」があり参加させてもらった。平和を願って大人も子ども一緒になって楽しく歌うことのできる組曲「ぞうれっしゃがやってきた」は、今も全国各地で流れている。その1つが神奈川で、かつて地元のアリーナで3000人が歌うなどの凄い勢いがあった。メンバーも高齢化し、当時からすると動きは弱くなってきてはいるが、それでも会場には20人ほどが集まり、2017年度の反省をし2018年度の計画を話し合った。
 休憩の後、「ぞうれっしゃがやってきた」の練習があり、久しぶりに私も歌った。1986年の初演からすでに32年もたっているが、いつ聞いても胸が熱くなるいい歌である。作曲した藤村紀一郎さんが、音楽の勉強を正式にしていないなどとして、この曲を評価しない「専門家」もかつていたが、これだけ長年にかけ多くの人々から親しまれているのは名曲の証拠である。
 とにかくこの組曲は、聴くこともいいが、自分の口だけでなく全身を使い歌うことである。今回は時間の関係で、軽やかなテンポの10番「ぞうれっしゃよはしれ」と、締めくくりとしての11番「平和とぞうと子どもたち」だけだったが、1番の「サーカスのうた」からの全曲は魅力がいっぱいである。

 

2018-06-24

咲いた被爆ハマユウ

 今年も狭い庭の被曝ハマユウに大きな白い花が咲いたし、株分けさせてもらった東京や千葉などからも、開花した写真が届いたりしている。
 広島市の比治山にあった暁部隊の兵舎横で育てていたインドハマユウで、1945年8月6日に原爆の被害を受けたが兵舎の瓦礫の中からよみがえり、大怪我をした兵士が実家の鎌倉に持ち帰って育てて、戦友がなくなると慰霊のため墓前に植えるなどして拡げてきた。
 以前に私は、兵士の息子さんから株分けをさせてもらい、反核・平和のシンボルとして長崎、沖縄の辺野古や伊江島などに運び植えてきた。さらには韓国、台湾、マーシャル諸島、スリランカ、ネパールなどにも運び、平和を考えるきっかけの1つにさせてもらっている。
 生命力の強い植物で、肥料はいらずに雨水で充分に育つ。茨城県あたりでは越冬も大丈夫だが、雪の積もる地域では鉢植えで冬期は部屋に入れておけば問題なく育つ。世界中にはまだ約1万発の核兵器があるとのことだし、さらに言えば同じ核分裂を原理にする原発による事故の影響はまだ続いているので、安心して暮らすことのできる世の中にすることを願う1つのシンボルとして、ぜひもっと多くの地で咲いてほしい。
 この8月6日には韓国のソウルで反核の集いがあり、被曝ハマユウクラブの事務局長として私は参加させてもらい、ハマユウに替わって平和への願いを話してくる予定である。ただし7分との短時間なので、よほどポイントを鮮明にした簡潔文にする必要があり、主催者に送る原稿を何回も推敲しているところである。

2018-06-04

金剛般若経に触れ 6月の内山節寺子屋

 6月2日の夕方から、定例の内山節寺子屋が亀有駅から徒歩15分の延命寺であり参加した。前半の一般報告は、立教大ゼミ生だった男性から「世代間コミュニケーションと経験値の伝承」があった。労働観などの価値観が大きく変わり、経験知が高齢者から若者に伝わっていないとの現状報告があった。注目すべき点だが、要は現象面だけでなく何を伝承させるかだろう。
 後半の内山さんは、今回は金剛般若経を取り上げ、中公文庫の般若経典の中から紹介してくれた。紀元150年頃にできた大乗仏教にかかわる般若経の1つであり、仏教において極めて大切なキーワードである「空」の言葉は1つもないが、内容は全て「あっても捕まえることのできない空」についての解説である。
 ところで日本語で書いた仏教経典は沢山あるが、翻訳してあっても意味を理解するのが私のような素人にははなはだ難しい。専門用語が多いし、かつ分かっているつもりの言葉を違う意味で使用していることも少なくないから、読んでも何か胸に落ちない。
 その点で内山さんは、細部にこだわるのでなく、民衆視点で全体の仏教の大きな流れの中で、その経典のもつ意味を解説してくれるので分かりやすい。
 自我を捨てきれずに矛盾の多いシャバで生きて修行する在家仏教こそが、真理をつかみ悟りに近づくことができると大乗仏教の本質を語っていた。
 休憩時間に内山さんに、『哲学者 内山節の世界』(新評論 2014年 かがり火編集委員会)の帯にある「哲学は学問として学ぶためにあるのでなく、美しく生きるためにある」との素敵な一文は、先生の言葉かたずねた。すると『哲学の冒険』で使ったとのことであり、帰ってからその本を読むと、第一章2で「美しく生きるために哲学を」として古代ギリシャで活躍したエピクロスに触れし、哲学こそが「美しく生きるための基礎原理である」との言葉を紹介していた。
 8時半頃に終了し、その後は持ち寄った食べ物での楽しい懇親会。冷たいビールで乾杯し、たくさんの料理を口にしつつ団欒した。今回の寺小屋も刺激になった。

2018-05-28

竹林での薫風(くんぷう)コンサート2018

 5月27日(日)の10時過ぎに家を出て、また折り畳み自転車をさげて千葉県の船橋市を目指す。何度も訪ねている飯島農園の横にある竹林で、11回目となる薫風コンサートが13時から開催となった。12時に会場へ入り、主催者である「おいしい野菜公園2007」の尾上事務局長と園主の飯島さんから、日本科学者会議の仲間と一緒に聞き取りをさせてもらった。
 飯島農園で10坪の畑を借りて作物を作っている人たちが、農と環境などを自分たちで楽しむ場として2007年にクラブ「おいしい野菜公園」を立ち上げ、現在は38人の会員がいる。その活動の1つが今日の野外コンサートで、その準備に約20人の会員が参加し、会場の設営、進行、コンサート後の会食の準備などをしていた。8割は定年退職組で、美味しい野菜を作って家族で食べ、また太陽の下で動くことができ健康にも良いと第二の人生を畑仕事で楽しんでいた。
 コンサートは、千葉のアマチュア・ジャズ・バンドが連続して5年も出演し、アンコールを含めて15曲を奏でてくれた。17歳の高校生から77歳の高齢者まで23人の演奏者が、トランペット、フルート、サックス、トロンボーン、ギター、ベース、ドラムなどを使い、休憩をはさんで曲を流してくれた。ジャズといってもバラードやボサノバ腸もあったし、最後のビートルズの名曲「Hey Jude」ではしんみりと聞かせてくれた。
 周囲には高くて太い孟宗竹がたくさん並び、屋内での音響とはまるで異なって優しい。上空からは木漏れ日が射し、真っ黒いアゲハチョウがそよ風と共に舞ったりしていた。
 150人ほどの観客は、3時半頃まで無料のコンサートを最後まで楽しむことができた。
 後片付けをしてから竹林の横で、「おいしい野菜公園」の会員と演奏者での会食となり、冷たいビールやワインもあれば会員がそれぞれ手作りの1品を持ち寄っており、テーブルには食べきれないほどの料理が並んでいた。そこに参加させてもらい何人もから話を聞かせてもらった。買って食べるだけの農作物でなく、家族などが食べることのできる野菜を無理なく育て、さらにはコンサートや花見などで交流を楽しんでいる。近郊農業の1つの意義ある在り方として注目してよいだろう。
 会食はあたりが暗くなる頃に終えて解散となったが、残りのビールや料理をもって母屋に戻り、夜遅くまで飯島さんから話を聞かせてもらい、結局は泊めさせてもらった。心身ともに楽しい1日だった。

 
 

2018-05-25

年1回の同窓会に参加

 5月20日の日曜日の午後は、東大の五月祭りが本郷キャンパスであり、恒例の東大生協の同窓会があって、昨年と同じく庭からいくつか花を切って持参し各テーブルに飾った。定刻の少し早く出かけ、久しぶりの校内を散策した。以前のように古本を販売したりするテントは皆無で、フランクフルトなどの販売もあれば、安田講堂近くの広場では原宿あたりと見間違えるようなビートのきいた音楽で若者が踊り歌っていた。
 講堂前の地下にある懐かしい中央食堂へ入ると、この春に全面改装し雰囲気が一変していた。私が25歳の常務のとき新設した食堂で、いろいろな想い出があった。もう約40年もたつので新しくするのはいいが、当時300万円もの寄付金を集めて設置した巨大な壁画を、何と生協が廃棄してしまったのには唖然。使いやすいシャープペンが欲しいと第二購買部に行くと、東大の名称の入った文具や菓子などがずらりと並び、どこかの土産屋のようで驚いた。
 1時から第二食堂での同窓会には、各地から約50人が集まって互いの元気な顔を見せ合った。会員は200人近くいるが、参加者はだんだん減少している。定年してすぐの人がなぜか入会しないし、高齢者は毎年のように数名亡くなるか足腰が悪くなるので、参加者が減るのもやむを得ない。85歳になるKさんは、少し前かがみで歩いているし、80歳になった晴さんは車椅子で奥さんの介助で来ていた。
 1年ぶりの懐かしい顔にあれこれと話がはずみ、ビールやお酒もグイグイ進んだ。途中で参加者の近況報告の時間があり、私は昨年11月に開催させてもらった大阪いずみ生協事件シンポの概要と、その報告書が完成したので紹介し、300円で4冊販売できた。
 後半はカラオケタイムで、「四季の歌」や「若者たち」などを一緒に大声で歌った。また来年も元気で参加し、楽しく懇親したいものだ。そのためにも事故にあわず健康管理もしなければ。
 3時半頃に集合写真を撮って解散した。
 徒歩で上野駅に向かう途中で、不忍池の横にある石に腰を掛けほろ酔い気分でスケッチを1枚描いた。

2018-05-16

5月の寺子屋

 5月13日(日)の16時から寺子屋があり、大雨の中をずぶ濡れになったが会場の亀有にある延命寺に出かけた。前半の1時間半は、参加者の一人である谷口さんによる「正しさに居つくをしない活動の地平を求めて」のテーマでの報告があった。障がい者問題に関わる実践と理論化を進める彼女が、私の1月と2月の報告を受けて感じたことを発表するとのことで興味深く聞かせてもらった。パワーポントのイラストを使いながら熱心に説明してくれたが、どうも抽象的すぎて私の頭での理解は今ひとつであった。それでも制度や政治への働きかけの現実的対応と、暮らしを創りつむぐ根本的対応の異なる2つの時空があり、この2つを行き来する実態があって、それらを通して障がい者の問題を自分事にしていこうとする迫り方には共感できた。
 10分の休憩の後は、哲学者内山節さんの時間である。今回はテキストとして、雑誌『かがり火』のこの5月号から、本人の書いた古典を読む第46回の「維摩経」のコピーがあった。経典に書いてある文章の細かい解釈でなく、全体の仏教の変遷の中での「維摩経」の特徴をかいつまんで話してくれるので分かりやすい。なお「維摩経」は、在家仏教者である維摩さんが、出家仏教者よりも真理を理解しているという面白い問答集でもある。
 コピーの1節に、「仏教は、ひとつの教義を守り抜くという信仰ではなく、時代の中で展開する仏教運動なのである。運動だから、常に新しい考え方が付与されてくる」とあり、特に大乗仏教の理解として勉強になった。
 ある仏教学者は、「仏教は言語哲学である」と説明している。まさに哲学であり、キリスト教やイスラム教などのように、絶対的な存在である神を本来の仏教は認めてなく、そのため「神と再びつながる」意味の宗教の枠に入れることが私は間違っていると思うのだが。
 ともあれ一度は「維摩経」の経典を読みたくて、図書館から借りてきてパラパラとめくったが、もちろん簡単に読めるものではない。じっくりと味わってみたい。


2018-05-14

千葉県の農家を訪ね 石井君の畑

 5月11日の昼過ぎに、折り畳み自転車を使って千葉県印西市にある農家を訪ねた。都市近郊の農業の現状を視察し、これからの農業の在り方を考えようとする、私の所属する日本科学者会議食糧問題研究委員会の活動である。
 船橋農産物供給センターから今回紹介してもらったのは、西瓜やメロンなどを栽培している石井さんで、直販所のブランドは「石井君の畑」でりっぱなロゴマークもある。この直販所は20年も前に開設し、10年ほどでファンが定着して、甘い西瓜やメロンの9割がこの直販所で販売しているというから凄い。
 2時に訪ねて白茄子の植え付けを手伝った。1反ほどの畑にマルチのビニールがかけてあり、マルチの切り込みに穴を開けてポットの苗木を入れ土をかぶせて押さえていく。単純な作業の繰り返しだが、とにかく数が多い。中腰になって1時間も作業していると、両膝がガクガクなってしまった。何とか4時頃に作業を終え、一休みしつつ話を聞かせてもらった。68歳の石井さんには、奥さんの他に今の農家では珍しく跡取りとして長女夫婦がいて、4人で畑と水田で働いている。
 石井さんに農業を成功させるポイントを聞くと、第一に土壌の特徴を知ってそれに適した作物を見付けること、第二にその土壌を豊かにして美味しい作物を育てる有機肥料を作ること、そして第三に林などの自然の中で育てるとのことであった。第三の理由がよく分からず聞くと、それは奥さんの意見とのことであった。そこで奥さんに教えてもらうと、都会の騒がしい中でなく林など自然の中の方が、作物のストレスにならず美味しくなるのではないかと感じていますとのことであった。農作物も同じ生き物であり、ストレスの少ない方が伸び伸びと成長するのだろう。
 ところでスーパーなどで販売している農作物は、カットして店に並べて販売しやすくするため、西瓜やメロンなどは堅い果肉の品種になっている。しかし、本当は果肉が柔らかく畑で熟した農作物が一番美味しいのでここではそうしており、それを味わった人はまた翌年も求めてくるとのこと。
 消費者が美味しいと感じる農作物をていねいに育てていて勉強になった。
 

2018-05-10

南相馬を訪ね3 いくつもの巨木が

 今回は時間的なゆとりがあり、取材の合間に持参した自転車で地域を走り回った。鹿島では以前に訪ねた一本松のあたりに行ったが、新しい防潮堤ができ大きな風力発電が4基も回転していて、まるで風景が変わっていた。残念ながら枯れた一本松は伐採し、その一部は南相馬博物館に展示してあって見させてもらい、残りは地元の人たちの表札などにしたそうだ。
 歴史の古い地域であり、巨木がいくつもある。1つが鹿島御子神社の大けやきで、樹齢が何と800年の巨木が2本もあった。800年前とは1200年前後の鎌倉時代であり、親鸞や日蓮などが活躍し、鎌倉の大仏ができた頃でもある。持っていったスケッチブックに、巨木の前と後ろから2枚描かせてもらった。大地にドッシリと根差し、それは圧巻であった。両手を樹木に当て、しばし目を閉じてエネルギーを分けさせてもらった。ふと足元を見ると樹皮の小さなかけらが落ちていたので、記念にいただいてきた。
 2つ目は小高地区にある同慶寺の大イチョウである。江戸時代にこの地域を治めていた相馬家の菩提寺で、16代から27代までの一族が大きな石塔の下に葬られている。あいにくの小雨が降り寒くてかじかむ手で、本堂の軒先に座って静かにスケッチさせてもらった。なおここの住職とは、以前に会って名刺を交換していたので、30分ほどであったが会って人の生き方などの話を聞かせてもらった。
 ところでこうした巨木は、いったいどのようにその時代の動きを見ていたのだろう。そして今回の原発事故という人災を、どのように感じて眺めているのだろうか。きっと愚か者めと、高い上から見下しているのではないだろうか。住んでいる取手市も放射能に汚染されており、その点では私も被害者の一人だが、巨木にとっては人類という加害者の一人にもなってしまう。

2018-05-09

南相馬を訪ね2 グループホーム

 5月3日から南相馬の、あさがおが運営している「いやしの家」のグループホームを訪ねた。ここでは西理事長のこだわりで、障がい者の方たちの職場と住まいをセットにすることを大切にしていることが凄い。
 南相馬の鹿島を中心に実に7軒のグループホームをあさがおは運営し、それぞれに6人前後の利用者がいて、昼と夜を別々の世話人がサポートしている。
 ところで震災後は子どもを連れた若い人が少なくなり、高齢者が高齢者を、または障がい者が障がい者の世話をすることも出てきている。
 そうしたギリギリの中で暮らしていると、思わぬトラブルが発生する。日曜の昼食は、以前からカップヌードルとパンにしてきた。たまたま5月6日にあるグループホームに入所している人が、肉を食いたいと買ってきて4人の仲間で食べた。ところがその1人は肉を喉に詰まらせ、仲間が慌てて救急車を呼んだ。すぐに来た救急隊員も、これは大変とドクターヘリを使って市立病院に搬送したが、脳死状態で亡くなるのは時間とのことになったようだ。
 肉を喉に詰まらせて死亡するとは、私には信じがたいが、これが障がい者の現実である。西さんに聞くと、以前に饅頭の薄い皮がある障がい者の喉奥にくっ付き、慌てて逆さにして背中をドンドン叩いて事なきを得たとのこと。
 こうしたグループホームの世話人に、かなりのしわ寄せがいっている。もう少し広い地域で、互いに助け合う社会を創ることが大切なようだ。

南相馬を訪ね1 常磐線で北上

 5月2日の朝6時42分に、また折り畳み自転車と大きなリュックを背負って取手駅から常磐線に乗り北上した。南相馬へはこれまで上野、福島経由で入っていたが、はじめていわき経由にした。放射線量のまだ一部に高い場所はあって心配はあるが、新幹線を使う福島経由より費用は半分以下で助かるし、現状を見たい思いもあった。
 普通車なので水戸といわきで乗り換え、常磐線の開通している富岡駅に着いたのが11時9分。駅周辺から海岸あたりのガレキは撤去され、真新しい広い道路が伸びていた。ここからは、30分まって代行バスに乗り換えて国道6号を北上する。バスガイドが、「帰還困難区域を通過するため、窓は絶対に空けないように」とアナウンスした。
 6号線を走ると、左右の路地や家屋への入口は全てフェンスで通行止めになっている。富岡駅前で0.2μSv/hだった手元の簡易線量計は、ぐんぐん高くなり12時前に3.94にもなったのには驚いた。呼吸による内部被曝を防ぐには息を止めるしかないが、10分も止めていたら死んでしまい、それでは意味がなくなる。
 車窓から見る風景は、田畑や庭などが一面の雑草で、屋根の崩れた家屋もあれば、窓ガラスなどが割れたままの事務所などもある。もちろん人影や洗濯物は皆無で、人の営みをまったく感じられない異様な空間がしばらく続いた。震災からすでに7年と2か月たっても、時間がここでは止まったままである。
 浪江駅に12時10分に着き、常磐線の電車に乗り換えて鹿島に着いたのは13時5分であった。

2018-04-30

69歳になって

 4月29日に誕生日を迎え、いよいよ60代最後の69歳になったが、いつもと異なる気分で誕生日を迎えた。28日の夜のことである。20代半ばの頃から親しくしていた2歳下の友人が、亡くなったとの連絡を受けて言葉を失った。3年前に彼が地域生協を退職するまでは、たまに会って話などしていたが、最近は音信もなく元気でやっているものと思っていた。死因はすい臓がんとのことが今日分かった。年上の人が亡くなるのは、悲しいが順番だと考えるのに対し、同年代や年下だと足元をすくわれたようで急に不安になる。嫌が上でも自らの死を考えてしまい、少し落ち込んでしまう。もっともその分、どう今を生きるかに考えが集中するが。
 復興支援本の8冊目を仕上げたいが、まだまったく目途がついていない。2日から8日までの南相馬での取材で、原稿の入口は見付けたいものだが。体力の衰えも気になる。ネパールから帰国してから、現地の土ぼこりのせいか目が充血し、医者から目薬をもらって点眼しているがまだ治らず、これも加齢による免疫力低下かと少し嫌になる。まあ焦っても仕方がないので自然に任せるしかないが、これまで以上に時間と健康を大切にする必要がありそうだ。2日からの取材はまた折り畳み自転車なので、今度はヘルメットを購入した。それもバイク用の丈夫なものにした。
 ところでネパールでは、髪の毛をバッサリ切り少年時代の坊主にした。そのためネパールでは、修行中の坊さんみたいとか、生臭坊主などと散々であったが、何かとサッパリしたものである。髪の毛が短いと、冬は寒いし頭の怪我も心配になる。しかし、シャンプーやリンスで洗う手間はいらず、ドラーヤーで乾かすこともないので電気や電磁波もないし、毎日のように櫛を入れてセットすることもないので時間と経費の節約にもなる。そもそも髪型で恰好をつける齢でももうないだろう。
 そんなわけで4番目の孫と写真を撮ってみたら、すっかり白髪のどこかの齢とったジージになっていた。

2018-04-29

家族農業の拡がりを

 28日午後に所属する日本科学者会議の食糧問題政策委員会の研究例会を都内で開き、「農村で働く人々の権利に関する宣言案と家族農業」のテーマで、全国農民連国際部副部長の岡崎衆史さんから1時間半の詳しい報告を受けた。国連の家族農業の定義では、労働力の

過半を家族がしめている農林漁業をさし、世界では33億人もいて、食糧の7割を生産し

ているし、日本でも98%が家族経営であるからウエイトは極めて高い。
 
 しかし、日本政府のように生産効率だけを問題にすれば家族農業を否定するしかない

が、国際的には環境や雇用安定や農村文化の保持の視点などから家族農業を推進し、国連

もその立場を明確にしている。その1つが国連で検討している「農村で働く人々の権利に関

する宣言案」であり、農民の人権や食糧主権などをうたう素晴らしい内容である
 
 国際的な動きも詳しい岡崎さんからは、日本の食糧を確保するため海外へ政府や商社が進出し

ている話もあった。それによれば、アフリカのモザンピーク北部の1400万haを大豆輸出基地にす

る計画が進行しているとのこと。日本の耕地面積の約3倍もの広大な土地には、すでに原住民が

いて農業や狩りをしている。そこを金と暴力で追い出して日本の食糧基地にするので、これが実施

されると日本人は加害者になってしまう。とんでもないことが知らないところで進んでいる。
 
 休憩をとって後半の1時間は、参加した20人と熱心な意見交換をさせてもらった。
 
 次回の研究例会は、昨年の4月に突然廃止となった種子法関連のその後をテーマにしたいと考

えており、その予備案内もして4時に閉会した。
 
 その後は報告者も含めて8人で、最寄りの駅前の居酒屋に入って冷たいビールで乾杯した後、ま

た楽しく意見交換をさせてもらった。
 

2018-04-23

野原敏雄先生の生前葬(想)に参加

 4月22日に名古屋にて、以前からお世話になってきた野原敏雄先生の生前葬(想)があり参加した。88歳の先生は、地域を大切にした地理学の専門家であると同時に、中京大生協の理事長や協同組合学会の会長などを歴任し、協同組合や生協の理論化にも尽力されてきた。それらは、『現代協同組合論』(1996年)、『友愛と現代社会』(2011年)、『友愛と協同についての覚え書き』(2017年)に収れんされており、それぞれ読み応えがある。
 集いは14時からであったが、12時に会場で先生に会って人生哲学をじっくりと聞かせてもらった。事前に電話やメールで聞き取る内容は相談していたが、何と各項目に応えてA4版1枚のレジメを作ってきてくれていたのには恐縮した。子どもの頃の家庭がたいへん貧しくて苦学したことや、教職となった大学で不当な扱いを受けて仲間と闘ったことなどが、先生の人柄の基礎となり、かつ長年追い求めてきた友愛原理と協同思想にもつながっている。それらを原稿化して6月号のコープソリューション紙に掲載する予定。
 生前葬にはじめて参加させてもらい、100人近い多彩な顔ぶれにまず驚いた。テーブルは、①協同組合、②地理学、③出身の名古屋大学、④教えていた中京大学、⑤住民運動・文化活動、⑥市民運動・まちづくり、⑦中津川市、⑧鷹ノ巣とあり、それぞれに十数名が座った。
 「千の風になって」「平城山」「愛 燦々」の独唱の後、神官と一緒に入場した先生は、自己紹介の中で自分の墓を共同墓地とし、そこの碑文に自作の「仰岳俯峡 生一瞬 真守歳々 人通天」としたことを話していた。
 参加者のスピーチは、生協や大学関係者の他に、太陽光発電ネットワーク、農業小学校、地域の住民運動、文化運動などとそれは多彩であった。
 5時に記念写真を撮って楽しい集いは終わり、近くの会場へ二次会の場を移し、そこに30人ほどと合流した。名刺交換させてもらいながら、8時過ぎまでビールを飲みつつ有意義な交流をすることが出来た。

2018-04-06

ルポルタージュの恩師 柳沢明朗さん逝去

 まだネパール・ツアーの疲れがとれずスッキリしない時に、思いがけない訃報が届いた。所属する現代ルポルタージュ研究会の長年の顧問とし、社会の見方やルポの書き方などについて、それは厳しくもありまた優しく話してくれた柳沢明朗さんであった。
 届いたのは断片的な情報で、関連する人に電話を何本もかけ、やっとだいたいのことが分かってきた。それらによると、柳沢さんは4月5日午前3時に入院先で、肝臓がんのため亡くなった。84歳。本来であれば今後の対応をする奥さんは、何と1月に骨折で入院して7月までかかるというから無理で、とりあえず家族葬を予定しているそうである。
 私がルポ研に入れさせてもらい柳沢さんに会ったのは、1980年に友人が鉄道自殺をしてすっかり落ち込んでいた頃である。それまでは小説などを書いていたが、社会と切り結び事実で語るルポの魅力にはまり、毎月の例会やその後の飲み会がそれは楽しみであった。それらが1986年のルポによる処女作へとつながり、今の私にもなっている。
 あくまで社会の弱者の側に立ち、とにかく足を使って現場へ入って書き続けること。教えてもらったルポの基本を、これからも大切にして東日本大震災の復興などを描き続けたい。
 いつの日か天国とやらで再会したとき、書き方がまだ足りないと叱られずにまた美酒を飲み交わしたいものだ。いや、哲学者の池田晶子の説に従えば、柳沢さんの体は確かになくなったかもしれないが、もともと目に見えない柳沢さんの本質はなくなっていない。少なくとも私の魂の中でこれからも一緒に生きていくので、これからもよろしくお願いします                     
 ともあれほんとうに長い間ありがとうございました。合掌      
(写真は2015年5月に横須賀の柳沢宅で)

2018ネパール・スタディ・ツアー4 チベット難民キャンプを訪ねて

 カトマンズ市の隣の町パタンには、チベット難民のキャンプがあり訪ねた。故郷のチベットを迫害からのがれるためやむなく離れ、危険なヒマラヤ山脈を越えてきた人々が、助け合って集団で暮らしている。その数はネパール全体で2万人もいるとのこと。10年ほど前に訪ねたポカラの同キャンプもそうであったが、羊の毛から糸を紡ぎ、染色して織物を作って販売し生活費にあてている。落ち着いた色と素朴な柄のしっかりした織物で、孫娘が1つ欲しいとのことで買ってあげた。
 工房では、年配の女性たちが担当の作業を黙々とこなしていた。毛の塊から糸を紡ぎながら廻している糸車に巻いていた70歳の女性は、この作業を55年間も続けていると話していた。インドにいるダライ・ラマ14世のいる地をこれから目指すのかと聞くと、すでに会ってからこのネパールにまで引き返してきたとのことで驚いた。チベットに戻りたいだろうが、戻ればばどんな仕打ちを受けるか分からないので、このままネパールで過ごすのだろう。
 それにしても月収の平均が1万円ほどの貧しいネパールにおいて、さらに経済的に困っているチベット難民を受け入れて共存している。なかなかできることではないが、これが人間のあるべき助け合いだろう。