2018-02-01

福島市での「愛とヒューマンのコンサート」

 27日の朝に南相馬を出発し、飯館村を経由して伊達市に入った。東電に損害賠償をしている裁判が、この31日に結審となる細川牧場に途中で寄りたかったが、牧場の入口に雪が積もっていたのであきらめた。
 11時からの1番目は、飯館村の避難者が暮らしている伊達の仮設住宅で、仮設では珍しい木造の建物が並び、100世帯ほどあるが今は20世帯ほどで閑散としていた。人気になった映画「飯舘村の母ちゃん」の主役をつとめた元気な2人もここで暮らし、15人ほどと集会場での演奏会に参加してくれていた。面識があったので挨拶し、この春から村に帰るのか聞くと、帰ってもすることがないからまだ決めていないと少し投げやりに話していた。顔見知りの会長の話では、仮設住宅の廃止が1年先延ばしになったので、この春にはまだ10世帯が転居先が決まらず残るとのこと。それでも自治会は解散するそうだから、仮設住宅としてどのような自治をしていくのだろうか。
 14時からの2番目は、ある女性グループの新年会のような場で、100人ほど集まってアルパの演奏を楽しんだ。
 17時からの3番目は、福島市内のある復興住宅の集会所で、ここは浪江出身の被災者が多く、ここの自治会長は近くにあった浪江の仮設住宅にずっと住んでいた。
6時に全ての日程を無事に終え、新しい会長宅で手作りの夕食を御馳走になった。具のたくさん入った温かい汁が、冷えた体の五臓六腑にしみわたり、2杯も御替りさせてもらった。夕方からまた雪が降り始め、早めに今野さんたち3人は車で帰路についたが、私は残って会長夫妻と美酒をしこたま飲みつつ、近況を聞いたりした。浪江にある奥さん経営の美容室と、ご主人経営の小料理屋は、もう帰ることもできないので解体し、福島市内に腰を据えることにしたと淡々と話していた。浪江町は部分的に規制解除となったが、まだまだ放射線は高く住民のほとんどは帰還していない。住むことが難しければ、ましてや商売もできるはずがない。
 9時頃にタクシーを呼んでもらい、会長宅を出るとき食卓では日本酒の1升ビン1本と4合瓶2本が空になっていた。近くの飯坂線の駅に着いたはいいが、電車がしばらく来なくて強い横殴りの雪の中にしばらく立っていると、すっかり酔いが醒めてしまった。
 割り切って復興住宅に移った人、仮設住宅で移転場所をまだ決めかねている人、どこにも行き場所がなくてまだ放射線量の高い故郷にもどった人など、それぞれでどんな新しい共同体をつくり、どう暮らしていくかの模索が続いている。

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