2018-05-16

5月の寺子屋

 5月13日(日)の16時から寺子屋があり、大雨の中をずぶ濡れになったが会場の亀有にある延命寺に出かけた。前半の1時間半は、参加者の一人である谷口さんによる「正しさに居つくをしない活動の地平を求めて」のテーマでの報告があった。障がい者問題に関わる実践と理論化を進める彼女が、私の1月と2月の報告を受けて感じたことを発表するとのことで興味深く聞かせてもらった。パワーポントのイラストを使いながら熱心に説明してくれたが、どうも抽象的すぎて私の頭での理解は今ひとつであった。それでも制度や政治への働きかけの現実的対応と、暮らしを創りつむぐ根本的対応の異なる2つの時空があり、この2つを行き来する実態があって、それらを通して障がい者の問題を自分事にしていこうとする迫り方には共感できた。
 10分の休憩の後は、哲学者内山節さんの時間である。今回はテキストとして、雑誌『かがり火』のこの5月号から、本人の書いた古典を読む第46回の「維摩経」のコピーがあった。経典に書いてある文章の細かい解釈でなく、全体の仏教の変遷の中での「維摩経」の特徴をかいつまんで話してくれるので分かりやすい。なお「維摩経」は、在家仏教者である維摩さんが、出家仏教者よりも真理を理解しているという面白い問答集でもある。
 コピーの1節に、「仏教は、ひとつの教義を守り抜くという信仰ではなく、時代の中で展開する仏教運動なのである。運動だから、常に新しい考え方が付与されてくる」とあり、特に大乗仏教の理解として勉強になった。
 ある仏教学者は、「仏教は言語哲学である」と説明している。まさに哲学であり、キリスト教やイスラム教などのように、絶対的な存在である神を本来の仏教は認めてなく、そのため「神と再びつながる」意味の宗教の枠に入れることが私は間違っていると思うのだが。
 ともあれ一度は「維摩経」の経典を読みたくて、図書館から借りてきてパラパラとめくったが、もちろん簡単に読めるものではない。じっくりと味わってみたい。


0 件のコメント:

コメントを投稿