2018-07-09

柳澤明朗さんを偲ぶ会に参列し

 7月8日も朝から暑かった。昼に電車を乗り継ぎ横浜の先にある金沢八景の横浜市立大に出かけた。「神奈川ぞうれっしゃ」のメンバーに加えさせてもらい、14時からはじまる偲ぶ会のため生協食堂の横で歌の練習をした。30年ほど前に大学生協東京事業連合で食堂の責任者をしていた頃に、何回か訪ねていたがまったく記憶になかった。認知症でもはじまっているのかと一瞬不安になったものだ。
 全国から集まった140人ほどが、狭い会場を熱気でつつんだ。オープニングは本人も大好きだった「この灯をとわに」の心にしみる合唱と、途中で87歳になる堀喜美代さんがカイロを手に「祖母・キクの独唱」を熱演してさらに花を添えてくれた。あとの懇談のとき掘さんの自伝的な本『大地に種(うた)を蒔く』にサインしてもらうと、「うたごえは平和の力」と書いてくれた。
 家族で創った20分ほどのスライドには、子どものときからの元気で明るい柳澤さんが登場して何回も会場を沸かした。交際の広かった方なので、在りし日の柳澤さんに触れたスピーチは何人も続き、やっと献杯となって冷たいビールを五臓六腑に染み込ませたのはもう16時が近かった。青春そのもの・顔中が口のような人・ぞうれっしゃおじさんなど、どれもがそうであった。
 12番目の最後のあいさつとしてマイクを握った私は、現代ルポルタージュ研究会で柳澤さんに永く顧問をしていただき、お礼として来年4月の1周忌には池袋で「柳澤明朗さんと共に歩む会(仮称)」をするため、同人誌の特集を準備していること、また私は本人から「共に未来を創ろう」という熱い言葉をもらい、この間は東日本大震災の被災地へ入って取材を続け、今は8冊目の単行本の準備をしていることなどに触れさせてもらった。
 予定の時間を大幅にこえた会は無事に終え、名古屋から参加していた「ぞうれっしゃがやってきた」の作詞者の清水則雄夫妻と、作曲した藤村さんのパートナーである菊子さんと、帰りの横浜駅で降りて4人で楽しく懇親させてもらった。名曲のできる裏話をいくつも聞くことができたし、大きな仕事の陰には素敵な女性の支えのあることなどがよく分かった。
 暑い1日だったが、おかげさまで楽しく有意義な時間を過ごすことができた。もっともこれで終わりでなく、本人も言っていた「超戦争少年」が、どのようにして平和の使者の1人である「ぞうれっしゃおじさん」になったのかの、柳澤さんの思想遍歴をルポで来春までにぜひまとめたい。

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