2018-08-30

これからの日本を考える

 8月28日の午後1時から5時半まで、都内で「激論!これまでの日本、そしてこれからの日本を考える」集会があり参加させてもらった。主催は一般社団法人日本フロンティアネットワークで、日本労働者協同組合と企業や団体が協力して新しい仕事おこしなどをしている。
 集いの前半は「民主主義の可能性を考える」として、作家の北原みのりさんが女性の目線で男社会を痛烈に批判した。
 後半では「今の日本と世界を考える」としてジャーナリストの斎藤貴夫さんから、政界だけでなくジャーナリズムの問題点など鋭く解説していた。たとえば来年秋に予定している消費税10%への値上げでは、食品と新聞が軽減対象となり、新聞がますます政権批判をしなくなるとのこと。魂を金で売り渡しているわけだ。
 鼎談の1人は広島市立基町高校の卒業生の富田葵天(そら)さんで、彼は昨年の平和・協同ジャーナリスト基金の授賞式に、「原爆の絵」の作者の一人として参加しており私も会っていた。「忘れられない~あの目」と題してある被爆者の証言をもとに、下敷きになった中年の女性が、通りかかった少年の足先をつかみ、助けをこう瞬間を描いていた。一番苦心したのは女性の目で、1年間で10回も書き直したとのこと。平和をテーマにしてその後も毎年のように作品を仕上げており、絵にかける情熱は凄い。
 6時からの懇談の場で富田さんの隣に座り、いろいろ意見交換させてもらった。ソウルでの原爆資料館や平和の集いの話もし、2年後の8月6日には韓国での原爆の絵の展示と講演についても相談し内諾を得た。取手市の東京芸大大学院の2回生で、藤代市に妹と一緒に住み、彼女は別の大学でやはり絵を専攻しているとのこと。母親が絵を描いており、画家一家でもある。呉市の実家にこれまでの作品があるとのことで、広島市でも次に訪ねたときに足をのばして観てみたいものだ。

2018-08-24

メメント・モリ

 ラテン語のメメント・モリは、「死の記憶」とか「死を想え」などと訳され、人は必ずだれでもいつかは死ぬので、必至になって自分らしく生きろという願いを込めている。このため仏教の念死にも通じる。
 昨日の23日の11時から、都内の斎場である親類の「お別れ会」があり参列した。私と同じ齢である義兄には、一人娘に2人の子どもがいて、鬼籍に入ったのはその下の子であった。脳腫瘍の手術を2年間に9回も繰り返し、10歳と11カ月でついに旅だった。
 クラスメイトとその親、地域のサッカーチーム、それに学校や保育園の先生など約200人が集まり、無宗教で各自が想い出を話す良いお別れ会だった。棺桶の中に花を入れるとき頬に触れると、氷のように冷たかった。
 2時間ほどのお別れ会の最後は、出棺する車を子どもたちの緑の風船で見送った。

 親族で火葬場に行き、少し待った後で骨壺に長い箸を使って小さくなった白い骨を納めた。頭がい骨に直径1cmほどの丸い穴があり、よく頑張ったと思うとその日何度目かの涙があふれ出た。10歳の子どもを亡くした両親や、仲良しだった2歳上の姉の心中を想うと、私には慰める言葉もなかった。
 先週、ネパールからある里子の母親が自殺したとの連絡があった。4月に訪ねた新しい里子の小柄な可愛い母親で、夫婦でお寺のトイレ掃除をしつつ幼い2人の女の子を育てていた。また来るから元気でと握手して別れたので、再会することを楽しみにしていただけに驚いた。いったい何があったのだろうか。
 辛い別れは、他にも私にはいくつかあった。その1つが小学3年のときの母であった。始まったばかりのビニールハウスによる農業で、今では禁止されている農薬を使い、いくつもの病気を併発し長く入院生活をしていた。いよいよダメとなった最後の頃に、父に「みかんが食べたい」と母は頼んだ。8月の終わりで当時はハウス栽培のみかんはなかった。青い小さなみかんを父は持っていったが、もちろん食べれたものではない。それからというもの私は、みかんを口にするたびに優しかった母を想い出す。朝晩は、書棚に飾ってある位牌に手をあわせている。
 死者は肉体的にたとえ消えても、心の中でいつまでも生きていく。メメント・モリをこれからも忘れずに歩んでいきたい。
 
 

2018-08-21

8月の田んぼの学校

 8月18日(土)は朝5時に起きた。前日から千葉にある船橋農産物供給センターの飯島代表宅に泊めさせてもらい、深夜まで日本酒やビール・焼酎を飲みつつ話を聞いたりした。その深酒と、前日に手賀沼から印西まで1時間半ほど自転車で走ったことでの疲れが残り、少し体がだるかった。
 飯島さんが、30kgの玄米を近くの自動精米所で5kgの白米の袋詰めにし、それを船橋の団地に届けるのに同行した。その後は、センターの倉庫から野菜類を直販所に運ぶので少し手伝った。
 それがすむと飯島さんは、京成線臼井駅近くのレンタカー会社でマイクロバスを借り、駅前で待っている約15人の親子を乗せて運んだ。
 10時からの東都生協による田んぼの学校では、車での参加を含め約30人が集まった。畑と林の間の道を進んでいくと、落ち葉の上に黒いクワガタがいたので捕まえた。4歳ほどの女の子に見せると、「キャー!怖い」とのこと。噛みつくわけでもないから安心だが、本人が嫌っていてはやむを得ない。今度は小学の低学年ほどの男の子に渡すと、大喜びして母親にも見せていた。後で捕まえたトンボも、やはり女の子は怖がってダメだった。
 春に植えた稲はりっぱに育ち、大きくなった穂が垂れてきていた。参加者は、田んぼの周囲の畔や、里芋や大豆などの畑で草取りを午前中にして汗をかいた。
 拡げたビニールシートなどに皆が座って昼食をとっているときに、横の中年の男性に話を聞いた。銚子から片道1時間半かけて来たという男性は、以前に飯島さんが企画した田舎の学校で農作業が楽しくなり、ITの会社を早期に退職して、今は2.5反の水田で米作りをしていると楽しそうに話してくれた。会社勤めは収入も多かったが、生きている意味を感じることができずに悩んでいたが、農作業することで楽しい人生を送っているとのこと。2.5反の米では収入も知れたものだろうが、くったくのない笑顔が輝いていた。種から芽が出て、丁寧に育てるとりっぱな農作物を収穫することができる。自然の素晴らしさや、その一員としての自分を実感できる。農の魅力を再確認でき私も嬉しくなった。

 午後の水鉄砲作りなども終えて2時過ぎに解散したので、折り畳み自転車に乗って北総線の印西牧の原駅をめざし、30分ほど走った。その途中にあったのは、サバイバル・ゲームの施設で、迷彩服を着た男女がエアーガンを手にして楽しんでいる。そこは小さなテーマパークのような施設であったが、他に森林の中で撃ち合うなど4か所もあるとのこと。撃っている大豆ほどのプラスチック製の弾が、たまに施設外に飛んでくることもあるそうだ。田んぼの学校でほんのりとした気持ちになっていたが、急にどんよりとなった。
 

2018-08-20

千葉の有機米生産者を訪ねて

 8月17日の昼に愛用の折り畳み自転車をさげて、取手駅から常磐線と成田線を使って千葉県の中ほどにある有機農家を訪ねた。船橋農産物供給センターで米生産部長の梅沢さん(72歳)から、農業のこだわりを聞き、あわせて田畑を見せてもらうためである。かつては広大な手賀沼の広がっていた場所に、江戸時代から昭和の戦後にと続く干拓事業でできた地域の1つでもある。奥さんと2人で、米以外にもトマト・甘長唐辛子・ピーマンなどを育てている。24歳から45歳まで町議をしていたときもあるが、それ以降は農業一筋で働いている。同じ唐辛子でも品種はいろいろとあって、収穫が少なくなると、翌年は別のものに替える。すると植える時期や栽培方法なども変化することがあり、いつも頭を使って工夫をしている。それだけ大変だけど、だから楽しいと笑っていた。
 近くの畑を案内してもらった。ビニールハウスの横で甘長唐辛子を栽培している畑は、周囲を2mほどの背丈の草であるソルゴーを生やして風除けにしていた。また畑の中央には、特殊な街灯をつけて夜間に害虫を駆除していた。作物を守るためいろいろと工夫をしていることがよく分かった。
 梅沢さんのこだわりというか楽しみの1つは、農作業から出てくる俳句創りである。センターで季刊に発行している「おいしい野菜通信」には、野良爺の名前でいつも素敵な俳句が載っていて私も読んでいた。最近だと以下である。
 ・泥靴と 畑に別れ 春の月
 ・線香の けぶり掻き分け 茗荷の子
 手帳にでも書いているかと聞くと、ひらめいたときに携帯電話へすぐ入力し、今は70首ほど保存していると見せてくれた。こんなにして農業を暮らしの中で楽しんでいる生産者がいると、私も嬉しくなる。

2018-08-09

ソウルを訪ねて2

 「韓国の原爆被爆者に会ってきた」というと、よく「えっ、朝鮮でも原爆が投下されたんですか?」と驚く人がいる。そうではなく日本の広島と長崎で被爆した朝鮮半島出身の方々が、戦後に帰国して暮らしている。その数は、韓国の被爆者の協会に表で以下のように示している。
     韓国人   原爆死亡者   帰国
広島   7万人   3.5万人     3万人
長崎   3万人   1.5万人     1.3万人
計   10万人   5万人     4.3万人
 やっとのことで帰国した人たちは、「日本で金儲けしてきた」とか「日本を手助けした」などと非難され、今でも経済的にも健康面でも苦労されている方は多いが、社会からの支援はほとんどなく苦しい生活を余儀なくされている。
 そうした中で高橋公純さんは、毎年8月6日にソウル市内で支援の集会を開き、原爆で亡くなった韓国人の慰霊を祀り、苦労されている被爆者の慰安の場を提供している。10時半からはじまった集会には、釜山などからを含め約200人が集まっていた。舞台に設けた祭壇の横にある平和の鐘を、地元の子どもの男女2人が叩いて開演した。韓国、日本、台湾の3人の女性が民族服でお茶を捧げ、公純さんや被爆者のソウル支部長などの挨拶が続く。私も檀上に立ち、「被曝ハマユウの祈り」と題して、原爆の熱線・放射線・衝撃波の被害、平和のシンボルとしての被曝ハマユウの経過、福島の原発事故で自殺者の続いている現状に触れ、原爆も原発も原理は同じことなどを話させてもらった。
 後半は、死者の霊を慰めるため白いチマチョゴリでの踊りや、韓国の国民的な歌でもある哀愁をおびた「アリラン」も流れた。
 3年ぶりに参加した心のこもった集会であった。


  

2018-08-08

ソウルを訪ねて1

 4月の早朝にリュックサックを背負って家を出て、成田空港10:50発で韓国の仁川空港13:20着で飛んだ。6日に開催となる被爆者支援の集会参加が目的であった。格安の航空会社を使ったため、機内食は簡単なパン1個とヨーグルトだけ。アルコールも有料なので夜まで我慢した。
 今回は迎えの車が来ていたので、仁川からソウル市内のお寺へ直行したので楽であった。数日前にソウルは40℃近い猛暑で、日本と同じく熱中症での死亡が社会問題になっていた。
 4時頃に住職の高橋公純さんと会い、しばし懇談させてもらった。そのとき私は、『大乗起信論を少し読んでいるが難しいですね」と話すと、驚いた顔をした公純さんは、関連する本を何冊か出してきた。法華経についても同じで、また何冊かテーブルに積み上げてくれた。その場で公純さんが強調したのは、経典を理解することも大切だが、それ以上に大切なのは実践する応用とのこと。また重要なことを教わった。日本で日蓮正宗の幹部として活躍していた公純さんは、教団と創価学会に挟まれて本来の仏教に生きることができないと、日本を出て韓国に帰化し、奥さんと子ども3人で、ソウル・釜山・台湾などの寺を運営し、貧しい人や原爆被爆者の支援などにも精力的にされている。
 3年前は広島の原爆ドーム前の川で採った原爆瓦と、千葉の被爆者の聞き取りした冊子
を運んで公純さんが私費で新設した原爆展示館に寄贈した。今回は広島市立基町高校の美術部の生徒たちが、2007年から2016年までに被爆者から聞き取りして描いた「原爆の図」116枚を紹介した冊子を持参して手渡した。この貴重な絵は、広島平和記念資料館の協力で実現し、同館のHPで公開されている。被爆した朝鮮の方の証言を描いた生々しい6枚も含まれており、公純さんは2020年にでもソウルで展示会をし、描いた生徒にも話しに来てもらえれば嬉しいとのことであった。冊子を提供してくれた美術部の先生に、お礼と一緒にその意向を伝えたいと考えている。
 写真は韓国原爆展示館で館長も兼ねる公純さんに手渡しているところ。横の男性は、韓国の原爆被爆者団体でソウル支部長さん。

2018-08-01

台風を追いかけて孫たちと帰省

 29日の昼前に羽田から高知行きの飛行機に、娘や孫たち8人で乗った。直前の案内では台風12号が広島付近にあり、着陸できないときは大阪の伊丹かもしくは羽田に引き返すこともあるので、それを了承したうえで搭乗するようとのこと。1人だけならどうにかなるが、障がいをもった幼子も含め8人もいる。どうするかかなり迷った。高知の弟に電話して聞くと、雨も風もないとのことで搭乗を決め検査場を急いだ。
 高知の空港へ無事に着陸したときは、本当にホッとした。弟と妹の車に分乗し、まずは96歳の母がいる施設へ。大きくなった孫たちに会って喜んだ母は、「南国土佐を後にして」を歌いながら踊ってくれた。
 「100歳のときにまた皆で集まってお祝いをするから」
 そう約束して別れた。ぜひ実現させたいものだ。
 スーパーで買い物をしていると、空が晴れてきたので実家近くの海に行き、娘や孫たちと泳いだ。特に発達障害のある4歳の孫は大喜びしたが、20分ほどでドシャブリの雨になりやむなく中断。
 2日目の朝も残念ながら大雨で、鍾乳洞の龍河洞へ全員で出かけ、石灰の長い洞窟を40分近く見学した。4歳の孫は少し歩いたが、すぐに怖がってしがみついてきた。やむなく私と娘が交替で抱っこやおんぶで進んだ。狭い場所もいくつかあり、孫の頭などに注意しながらゆっくりと歩いた。私が幼少のとき、リューマチのような病気で歩行ができなかった。村の旅行でこの龍河洞に来たとき、今は亡き父が私を背負ってくれてずっと廻ってくれた。滑る足場や階段でさぞかし大変だっただろうと、今さらながら父のありがたさを感じた。
 それにしても今回の台風12号は異常である。普通は西から東へ向かうが、今回は逆に関東から関西や九州へと進み、種子島では一回転した。また台風が過ぎた後は快晴に普通はなるが、2日間も雨交じりであった。これも地球温暖化の影響だろうか。各地の大雨による被害や、猛暑による熱中症の死亡者など、原因はよく分からないが自然界の変化が進みつつあることは事実のようだ。