2018-12-14

伊江島の謝花悦子さんを訪ねて

 10日の辺野古から本部港に出て、11時発のフェリーで30分かけ伊江島に渡った。ときおり小雨が強い風とともに降ってくなる中で、沖縄本島と伊江島の間の先に東シナ海が広がっている。第二次世界大戦の末期に、鹿児島を飛び立った特攻機の多くがアメリカ軍の艦船に向け散華した場所である。
 伊江島港も改修され、新しい建物が出迎えてくれた。1948年8月のことである。この港から米軍の船で運び出そうとしていた爆弾がさく裂し、実に102人もが死んでいる。近くで泳いでいた子どもたちも巻き込まれたから痛ましい。
 第二次世界大戦時に伊江島には、約3000人の日本兵と同数の民間人で計6000人がいて、米軍は約5000人を殺したとしているからその悲惨さが想像できる。島中が根こそぎ焼き尽くされ、戦後は0からの出発であった。ところが今度は米軍基地に島の6割を銃剣とブルドーザーで奪われ、島民は生きることができず米軍基地反対の闘いに立ち上がる。そのリーダーが阿波根昌鴻(アハゴン ショウコウ 1901-2002)さんで、永年側で支えてきたのが足に重い障がいのあって歩行困難な謝花悦子さん(81歳)である。
 食べ物や日用品がないなかで伊江島生協を阿波根さんは立ち上げ、そこの店長を謝花さんがしていた。やがて生協は経営が厳しくなってやむなく閉めてしまうが、反戦平和資料館としてのヌチドゥタカラの家の自費開設など、2人の功績は大きなものがある。今でも国内はもとより海外からも見学者が続き、謝花さんはその対応に忙しい。
 私は20年ほど前に阿波根昌鴻さんの本を書きたいと島にしばらく滞在して取材を重ね、10万字ほどの原稿を書かせてもらったが残念ながら形にすることはできなかった。その後も何回か島を訪ねていたが、今回は伊江島生協のことを聞いてコープ・ソリューション紙の連載記事にすることが目的であった。庭には以前に持参した被曝ハマユウがしっかり根付き、春には白い花を毎年咲かせていると謝花さんも喜んでいた。
 謝花さんの大切にしているのは命・健康・平和の3つであり、1時間半ほど熱く語ってくれた。別れるときに、「私も齢なので次にいつお会いできるかわかりませんが、西村さんもお元気で」と謝花さんは言って、私の両手をしっかりと握ってくれた。柔らかい手であったが温かかった。
 港の近くにある阿波根昌鴻さんの亀甲墓を訪ねて手を合わせ、16時のフェリーで伊江島を離れた。戦中戦後の日本の
歴史が凝縮した伊江島には、人間らしく今も生きる人間が確かにいる。

 下の服は資料館の入口に展示してある子ども服で、戦争中に日本兵が泣き声をおさえるため母親の抱いている少年を殺したときのもの。

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