2016-12-31

築地市場・豊洲移転の闇

 12月中に築地市場・豊洲移転に関する2つの学習会に参加した。12月10日は農農研主催で、築地市場の労組委員長でもある中澤誠さんが、働く立場からの問題を詳しく話してくれた。市場を造る東京都は、現場で働く人の意見をまったく聞かず、また設計の内容も全て伝えることなく進め、移転の直前となった2016年秋になって、急に水槽は深さ70cm以下にするようにとの連絡があり、これはおかしいと調べたら地下の空洞が見付かり、大騒ぎの発端になったとのこと。80年の歴史のある築地市場では、大人の寸法に合わせて1間(1.8m)単位で設計してあるが、豊洲は1.5mを単位にしているため、狭くて作業がしづらい。これに輪をかけるようにして保健所は間仕切りをするように話しているとのことで、働く人にとっては踏んだり蹴ったりである。

 17日は、私の所属する日本科学者会議の食糧問題研究委員会が主催し、学者の立場から三国英実先生に1時間半の報告をしてもらった。豊洲の話は、当時の所有者である東京ガスが、都の打診を断っていたにもかかわらず、当時の石原都知事が強引に進めたことから、まず移転ありきの結論を決めてからあらゆる課題が展開し、今日の大問題につながっている。にもかかわらず石原氏は覚えていないとしらを切っているから、本当に情けない男だ。厚顔無恥の代表的な1人である。また歴代の市場責任者の誰も、盛り土の件でいつ空同に決めたか不明とのこと。127人もの都議がいながら、こうしたチェックもできていないとは開いた口がしまらない。まさに第二次世界大戦から続く「無責任の体系」が、ここでも現れている。

2016-12-09

続く危険なTPP路線

本日、不充分な議論で国会をTPPが通過した。頭にきたので以下の文面を東京新聞の「ミラー」へ投稿しようとしたが、なぜかインタネットのフォーマットから受け付けてくれない。昨年の「平和の俳句」はスムーズに送付できたのに、いったいどうしたことだろうか。ともあれ1人でも多くの方に、この危険な動きを知っていただきたい。
     
TPPの鎧をTiSAに替え           ジャーナリスト 西村一郎
国会を通過したTPPは、内国民待遇の規定で自国の投資家に与えるよりも不利でない待遇を与え、投資家対国家紛争解決(ISD)条項で、損害を企業が相手国に賠償を求めることができ、ラチェット条項で元に戻すことができないなど、投資家の利益を最優先している。
これらが実施されると、日本国憲法13条で保障している市民の幸福追求権、25条の生活権、21条の知る権利、76条の司法主権の侵害される危険性が高い。それがトランプ新大統領の拒否で発効しないことは嬉しいが、安心しているわけにいかない。彼は、あくまでも米国の利益により貢献する条約を望んでいるだけで、多国籍の巨大企業や巨大銀行に、富をより集中させる路線にかわりはない。
実はTPPが今回は発効しなくても別の路線がすでに存在し、社会の平和や安定を願う人々は、けっして安心するわけにいかない。
20136月に交渉開始し、日本の他に米国、カナダ、EUなど50か国が、現在も秘密裏に協議している新サービス貿易協定(TiSA Trade in Service Agreement)に、危険なTPPの思想は脈々と流れている。TPP以上に徹底した秘密交渉を続け、国会やマスコミで話題になることがない。
 TPPと異なるのはその対象であり、通信、流通、教育、金融、医療、観光・旅行、運送などのサービスで、影響は大きい。
我が国には、戦後の民主化の中で育んできた医療や教育など、いくつもの公共サービス事業があり、人々の日々の暮らしを大きく支えている。そこにTPPと同じ論理によるTiSAが喰い込もうとしている。TPPTiSAの隠れ蓑でないかと私は危惧している。国民不在の動きは、福島をはじめとした原発や沖縄の辺野古・高江などでも著しい。主権在民の声を各地から発したい。

福島・東葛活動報告会に参加

 1127()の午後、千葉県の馬橋で「第8回福島・東葛活動報告会」があり参加した。タイトルは「東葛甲状腺問題の核心/チェルノブイリ・福島から学ぶ。本当の健康被害と今向き合う」で、約50人が参加した。スケジュールは下記である。
 1:30~福島東葛活動報告/橋本・関・香取・我妻
 2:30~「福島甲状腺被害の実態、私たちが考え、実践すべきこと」牛山元美医師(さがみ生協病院・311甲状腺がん家族の会世話人)
 ・福島被害者からの報告
 16:00~「東葛の実態を共有する」
 ・東葛放射能データについて
 ・増田松戸市議会議員/市民アンケートについて
 ・流山市への甲状腺検査実施要請嘆願について
 牛山医師は、たくさんの資料をパワーポイントで紹介しながら詳しく説明してくれた。福島の多くの医師たちのように、「放射能との関連ない」との結論ありきの話でなく、あくまで事実に沿って被災者の側に立ってていねいに対処する大切さを強調していて共感できた。名刺を交換させてもらうとき、「医師会などからの圧力はありませんか?」と聞くと、「小さな診療所だから相手にされていません」と笑っていた。凄い医師もいるもので嬉しくなった。一度訪ねることを相談させてもらい快諾してもらった。
 福島の郡山から来てくれたW夫妻の報告にも驚いた。高校の教師の男性は甲状腺癌で手術し、女性は甲状腺の病気であるバセドウ病に苦しんでいた。男性の通う学校には、同じ甲状腺癌で手術した生徒が何人もいるとのことであった。 原発事故の初期に振った高濃度の放射性ヨウ素の影響だろう。郡山でこのような状況であれば、原発に近いもっと高濃度の汚染地では、さらに被害は大きいのではないだろうか。
 終了後に和室へ移動し、20人ほどでビールなど飲みつつ交流した。wさんとも名刺交換させてもらい、いづれ郡山を訪ねてより詳しく話を聞かせてもらうことで別れた。最後まで交流に残った中年の女性に、1冊だけ持っていた「愛とヒューマンのコンサート」の本を見せると、すぐに購入してくれてありがたかった。

2016-12-01

ふる里を追われた人たち3 11月の福島訪問記

 23日の夜は、福島市内のある事務所に泊めさせてもらい、持参した折り畳み自転車で福島駅まで翌朝に出て、高速バスで南相馬市へと1時間40分かけて走った。途中で小雨が雪になり、飯舘村を通過するときは一面の銀世界になっていた。何回も訪ねた細川牧場や交流センターなどを、車窓からながめた。
 昼前に終点の原町駅前に着き、昼食をとった後で近くのアパートに暮らす飯舘村の被災者を訪ねた。震災直後に、村外への避難をするのは家族への負担がかかると悩み、102歳で自死された方のご遺族である。102歳まで長生きされて、それでも最期は自死せざるを得なかった悔しいお気持ちを想像すると、とてもいたたまれなくなる。自死された方の長男は、病気で震災の後に亡くなり、その嫁さんが遺族の代表となっている。
 「お爺さんと夫が今も私を見守ってくれています」
 亡くなった方と一緒に前を向いて歩いている凛とした姿が印象的であった。
 夕方には雨もあがり、折り畳み自転車でホテルに入った。途中で小さなスーパーにて夕食やつまみの品を購入した。安いホテルは、除染などの作業員らしき人がたくさんいた。予約のホテル案内にはインターネット可能とあったが、故障していて使えなかった。
 快晴になった25日は、近くの道の駅でまずインターネットを使用し、近くの古本屋で原発関連の本を3冊購入。その後、駅前の市立図書館へ行き、地元の被害状況や歴史などを調べた。震災コーナーにはたくさんの本が並び、私の「愛とヒューマンのコンサート」など4冊もあって嬉しかった。
 自転車を走らせて陸軍の飛行場跡を目指した。海軍の特攻隊は有名だが、ここは陸軍の特攻基地で20歳過ぎの若者が沖縄方面で散華している。地図を持っていたが記念碑が分からず、次の目的地の岩屋(がんおく)寺へと向かった。
 被災者に寄り添って故人だけでなくペットの供養もしている曹洞宗のお寺である。予約した2時に若い住職に会い、まず寺を案内してもらった。驚いたのは裏山に登ったときである。何と1500年前の前方後円墳であり、小さな横穴がいくつもある。1200年前に、ここに天台宗の律院ができ、さらにその山頂に600年前の相馬11代の菩提が埋葬されている。つまりこの地は、1500年まえの弥生時代からの歴史が綿々と流れている。
 震災後に「お墓へひなんします」との遺書を残して自死された93歳の女性は、ここの檀家である。住職にお願いしてご遺族の家を訪ねたが、残念ながら不在で会えなかった。
 前住職もおられて詳しく話してくれた。すでに檀家が1000家をこえ、さらに年に数十家も増えている。その理由を聞くと、訪問者には分け隔てなくお茶を出すこと。また現存する宮大工の最高の技術と木材を使い、30年かけて本堂を、その後10年かけ山門を新築したのは、一度しかない人生で自らが納得できるものを仕上げたかったとの言葉にはただ恐れ入った。こうした凄い人が必ずいるものだ。
 美味しい精進料理をいただき、寺を出たのは7時過ぎであたりは真っ暗。手回しの懐中電灯で夜道を照らして注意深く走り
、ホテルにもどってきたときは8時をまわっていた。大きな湯船で冷えた体を温めた。

2016-11-30

ふる里を追われた人たち2 11月の福島訪問記

 23日の午後は、昼食後に「愛とヒューマンのコンサート」の一行から分かれて、川俣町から松川駅に出て、そこからJRで二本松へと向かった。当地で開催となっている浪江町津島地区の「原発事故の完全賠償を求める会」を傍聴するためである。
 電車に乗ると、偶然にも同じ会場へ向かういわき市在住の広田弁護士が乗っていた。二本松までの15分ほどであったが、原発事故に関連する裁判の話などを聞かせてもらい、二本松駅からのタクシーに同乗させてもらった。
 すでに広い会場では、200人ほどの参加者が座って熱心に講演を聞いていた。休憩の後で総会となり、まずは共同代表の三瓶宝次町議が開会を宣言し、もう一人の共同代表である馬場績町議が挨拶をした。三瓶さんは自民党で、馬場さんは日本共産党である。運動の幅の広さ

を感じた。来賓の挨拶では、弁護団を代表して広田さんが檀上に立ち、被災者と共に自らの人生

に恥じないために闘うと話していた。
 
 川俣町の町議で山木屋原告団の団長でもある菅野清一さんからは、同じく東電と闘う仲間として

の連帯のエールがあった。
 
 309世帯もが共同で訴訟団を作り、原発事故による被害の完全賠償と奪われた地域共同体を

回復するための施策と地域の再生を求めている。

 飯舘村では3000人をこえる被災者が、同じように訴えて動いている。1日も早くこうした被災者

の切なる願いが実現してほしいものだ。
 

2016-11-28

ふる里を追われた人たち1 11月の福島訪問記

 11月22日から26日まで福島へ入った。22日の早朝に福島沖を震源とする強い地震があり、前泊した埼玉から車で出発する直前で動揺した。もしも3・11のような被害が出ているのであれば、福島へ入るわけにもいかない。また住んでいる取手市の町内会の防災会会長を私はしているので、もし避難準備情報でも出ているのであればすぐに帰宅しなくてはならない。幸いなのことに福島も取手も大きな被害はないとのことで、予定通り福島へ入った。ただし、車内のラジオからは、津波の発生や福島第二原発の冷却水装置が止まったとのニュースが流れて心配が続いた。
 22、3日は「愛とヒューマンのコンサート」で、三味線の五錦雄吾さんと今野夫妻たちと共に、初日は飯舘村国見台と伊達東や浪江町笹谷、二日目は旧飯野小、川俣のデイケア施設などをまわった。
 震災から丸5年と8カ月が過ぎ、仮設住宅を支援で訪れる人はかなり減っている。また小さな国見台や旧飯野小の仮設住宅では、そもそもこうした音楽による支援があまりなくて喜んでくれた。
三味線は、津軽じょんがら節やよされ節もあれば、斎太郎節や会津磐梯山や炭坑節もあった。30年も民謡を歌っている女性が、体全体を心地良く揺らしながら素敵なのどを披露してくれ、皆で手拍子もした。
 雄吾さんの得意な都々逸では、「松茸や 焼いて食おうか 煮て食べましょか 生じゃお腹がふくれます」もあって、女性を含め大きな笑い声があがった。
 ふる里を追われた人たちが、今も仮設住宅で助け合って暮らしている。
 

2016-11-12

集会「もう原発は要らない~被害者の声を聞いて~」に参加して

 11月12日の午後1時半から5時まで、千葉市にある千葉弁護士会館においてタイトルの集会があり参加した。同弁護士会の公害環境委員会が主催し、原発被害救済千葉弁護団と千葉県放射性廃棄物を考える住民連絡会が協力団体で、約100名が集まり中身の濃い集いであった。
 記念講演は、「原発のない社会の実現のために」と題して、いわき市から来た広田次男弁護士であった。闘う弁護士として有名な広田さんは、3・11に18時間半もかけて帰宅した経験から、余生は震災や原発事故にだけ対応し、いつの日か孫に「あのときどう対応したの?」と聞かれたときに、自らの生き方に後ろめたさがないようにしたいと強調していて同感であった。10日前にいわき市の事務所を訪ね、2時間ほど原発事故関連自殺の訴訟について、詳しい話を広田さんから聞かせてもらった。信念に生きる熱い人である。
 原発被害者集団訴訟の現状では、原発被害救済千葉弁護団や訴訟原告の方たちの貴重な報告があった。
 「小櫃(おびつ)川の水を守る会」の佐々木さんによる「君津の水が危ない」との報告によれば、30万人の利用する水源地に広大な産業廃棄物の埋め立て地を造り、何とそこに放射性物質を持ち込んでいるとのこと。
 また「行政と議会に目を向ける市民の会」の小林さんによる「千葉県の指定廃棄物状況」では、県内の10市に保管している放射性物質の管理はまちまちだし、不明な保管場所すらあるそうだ。国による隠ぺい政策がここにも反映している。
 これだけの被害を出しておきながら、いまだに東電や国は責任を認めていない。こんな無責任なことは、決して
許されるはずがないと私は思う。  写真は原告や弁護団の皆さん。
 

2016-10-21

飯舘村ですすむ放射性除染廃棄物の焼却

 人口6200人の小さな飯舘村に、放射性物質を含んだ除染した廃棄物を焼却する施設が、小宮と蕨平(わらびだいら)の山の中に2つもある。もっとも名称は異なり、小宮はクリアセンターで、蕨平は減容化施設と称している。
 放射能に汚染された広大な地域では、今も除染作業が繰り広げられており、集めた廃棄物は1㎥の黒いフレコンバックに積め、各地に山積みしてある。飯舘村ではその数が230万個にもなり、かつての水田や畑などに3段から5段で高く積み上げてある。その廃棄物の約3割は枯葉や樹木などの可燃物であり、これを燃やして容積を減らしている。
 小宮の焼却炉の前に小高い丘があり、長靴をはいて登った。持参した線量計では、施設の正面で1μSv/h以下であったが、丘の上では2μSv/hをこえた。国は「ほぼ完全に除去する」バグフィルターを設置していると説明しているが、せいぜい7割前後と指摘する人もいる。どちらにせよ100%除去でないのだから、焼却炉から流れる煙に含まれる放射線物質がこの丘などに影響しているのだろう。丘の上の植物の葉が、いくつか白くなっていて気になった。丘の反対側には、山をいくつも削り、それまでに見たこともない広さにフレコンバックを積み上げてある。
 南相馬市に近い蕨平の施設はさらに巨大で、400億円をかけて造り、飯舘村だけでなく
周辺の市町の廃棄物まで燃やしている。再選された菅野村長が、「村民が避難してお世話になっているから」と広域の処理に協力して昨年末からスタートした。
 ここから出る煙にも、当然のことながら放射性物質が微量でも含まれているので、来春に避難解除となって帰村する人たちにも、風向きによっては降り注いでしまう。
 さらに驚くのは、ここには焼却炉の横に仮設資材化施設があり、焼却灰等を資材に再利用する高熱処理の実証実験が実施中である。全国の原発の敷地内では、今でも100Bq/kg以上は放射性廃棄物として管理しなければならないのに、除染廃棄物の基準値を80倍も緩和して8000Bq/kgに引き上げ、それ以下であればは建築や土木の資材として再利用する計画である。
 都合の悪いことを隠ぺいする現政権は、いずれこっそりと沖縄の辺野古あたりでで使うことも考えているのではないだろうかと、私はふと心配になった。
 事は飯舘村だけでなく、国民全体の大問題である。以下の写真はどれも2016年10月17日に撮影したものである。
小宮の焼却炉
ダメージを受けた葉
蕨平の焼却炉(右)と灰固形化物一時保管庫(左)




2016-10-18

飯舘村の村長選を終えて

 10月16日に投票となった飯舘村の村長選は、挑戦した元村議の佐藤八郎さんに600票ほどの差をつけて現職が当選した。国や村は年間20ミリ・シーベルトで問題がないとし、来年の4月に長泥区以外の居住規制を解除する。しかし、現地のモニタリングでは、毎時0.5から2.0マイクロ・シーベルトを示し、とても人間が帰って安心して健康に暮らすことができる環境ではない。このまま推移すれば、国際法や国内法でも1ミリ・シーベルトとしているのに、20ミリ・シーベルト受忍論が福島にならって日本中に適応されかねない。また昨年から飯舘村ではじめた除染ゴミの焼却は、出た灰を固形化して資材にし、いずれ全国の公共施設などで使う準備をしはじめている。こうした動きは飯舘村だけへの影響にとどまらず、日本人全体に大きく関わる。
 そこで6日の告示前の4日から私はボランティアで現地に入り、佐藤候補の応援を17日までしてきた。
 負けたとはいえ八郎さんは、1542票も獲得し、これは3年前の村議選の約3倍である。また支持者の中には、来年の村議選に立候補して、暴走する村長の姿勢を厳しく追及すると語ってくれた方が2人もいて嬉しかった。道理と社会正義に沿った取り組みは、いつかはきっと大きな輪になると私は信じている。

2016-09-27

吉永小百合さんの平和の詩朗読を聴いて

 9月24日の午後に、千葉県の四街道市文化センターにおいて、「平和と文化のつどい~伝えよう平和!未来に生きる子どもたちと~ 吉永小百合朗読会」があり足を運んだ。中学生のときに見た映画「キューポラのある街」は新鮮で、それいらい小百合さんの大ファンに私もなっていた。
 つどいの進行は、昨年の広島派遣の高校生がつとめ、オープニングは震災後に南相馬市の中学校で誕生した「群青」が、地元の合唱団約150名によって約1000人で満杯になった会場に流れた。
 昨年、長崎に派遣となった中学生の男女8人が、順番に感想を報告した。戦争の恐ろしさを漠然と認識していたが、被爆者から直接体験を聴き具体的に理解したので、これから自分の言葉で語りたいともあった。
 千葉県在住の女性の被爆者から、被曝当時に真っ黒になった死体を見たリアルな話などがあった。
 そして小百合さんの登場である。真っ白な上下で、花を飾ったテーブルの前に座って「四街道のみなさま、こんにちは。私も今日を楽しみにしていました」と優しく語りかけた。朗読する前に詩について簡単な紹介をしてくれた。
 「父をかえせ 母をかえせ」で有名な峠三吉の「序」からスタートし、ヒロシマ・ナガサキの詩で5編、「原発難民」(佐藤紫華子)などフクシマの詩で6編、詩の寺子屋より子どもの詩2編である。
 それぞれの始まる前に小百合さんは、目をつぶってしばらく祈り、音楽の調べに乗せて詩の世界を会場一杯に拡げてくれた。
 ある全盲の男性は、「小百合さんの凄さを感じました」と後で話していた。言葉や詩に命を吹き込むとは、まさしくこうしたことを言うのだろう。
 フィナーレの「ふるさと」では、地元の子どもたちと手をつないで小百合さんは再登場し、3番までを参加者とも一緒に歌った。
 最後にマイクを持った小百合さんは、「原爆がなくなるまで、一緒にがんばりましょう」と呼び掛けた。信念の座った素敵な方である。サユリストとしての自覚を一段と強めた。
 会場の最前列に私はいたので、小百合さんの顔や動作はよく見ることができた。記念に写真を撮りたかったが禁止されていたので、チラシの写真をここでは使わせてもらう。
 帰宅して60過ぎの妻の顔をジッと見ると、目元や口元にいくつもの小しわがある。ところが10歳近く上の小百合さんには、まるでなく若々しかった。その話をすると、「きれいな女優さんと比べないで!」と妻の怒ったこと。しばらく口をきいてくれなかった。
当日のチラシより

 

2016-09-21

飯舘村の暴走村政 9月村議会傍聴記

 9月7日からはじまった飯舘村の村議会が、最終日を迎えた16日に傍聴させてもらった。まだ0.36μSv/hと高い放射能汚染地である元の町役場へ7月1日より戻り、村議10名のうち出席した8名の前に、議長と副議長を中心にして村長や教育長など執行部15名が対峙していた。
 10時からスタートした主な議題は、平成27年度決算承認と平成28年度補正予算の審議であった。人口が6178人(1842世帯)のこの村で、以前は40億円から50億円の村の財政が、28年度の補正予算は倍以上の112億8757万円で可決した。復興の補助金を使い、豪華な公民館・道の駅・学校・保育園・スポーツ施設などの増改築が主な理由である。
 震災の前から村でも少子高齢化が進み、さらに道路際で1μSv/hも珍しくない高い放射能の汚染地に、どれだけの子どもを含めた村民が帰ってくるのか不明なのに、巨大な箱物だけができつつある。たとえば0歳から5歳までの保育園の規模である。小学校を1クラス30人学級にしているので、それに準じて保育園の1組を30人にしたと、村の担当者は説明していた。震災がなくても実現できる数でなく、私は開いた口がふさがらなかった。
 この7月から自宅での長期宿泊を村では可能とし、約150世帯の300人が届け出をしたが、実際に泊まっているのは高齢者中心の50世帯ほどとのこと。帰村したい気持ちはあっても、高い放射能は気になるし、隣近所に誰もいなければ不安で泊まるどころではないだろう。
 休憩をはさんで午後の2時前まで議論はあった。公民館に11億円、新しい道の駅に9億円、学校再開に34億円、スポーツ施設に23億円などの関連事業が可決となった。開設費は国の補助金で賄うからいいとしても、(実際は国民の税金だからこれも問題だが)、オープン後の電気代などのランニングコストや、老朽対策の維持費などは村財政で賄わなくてはならない。沖縄で米軍基地のある集落に、豪華な公民館などの公共施設ができ、その高額な維持費で自治体の財政が大きく悪化している。同じ愚を飯舘村でもしようとしている。村民の現状や要望に沿った村政でなく、復興の補助金を使えるだけ使ってしまうことが復興と勘違いしている思考停止が、村役場の幹部や保守系の村議にも顕著であった。
 こうした議論をやり取りしている間、村長はほとんど居眠りをしていてこれにも驚いた。ある議員に聞くと今日に限ったことはないそうで、「までい」(丁寧)な村政を口にしているのに、やっていることは真逆である。10月16日投票の村長選が、こうした暴走村政を変えるきっかけにぜひなってほしい。「積極的平和主義」と言いつつ、世界中で戦争のできるの準備を進める安倍首相と姿勢は同じである。
 写真は、役場や中学校近くの山の掘削風景で、平成30年3月までかかり、想像もできない117万㎥をも掘りだす計画である。ここでの山土は、除染のためはぎ取った田畑に入れている。小山がひとつ消えつつあ
る。
 

2016-09-07

神戸に野尻先生を訪ね

 京都での21総学の最終日に、早めに抜けて神戸へと私は向かった。生協総研の頃からお世話になっている野尻武敏さんに会うためである。今年92歳の野尻さんは、体調を悪くしてコープこうべの協同学苑の学苑長も退き、神戸市郊外で奥様と暮らしている。電話に出た奥様の話では、今年になってから耳が遠くなり、普通に会話ができなくなって困っているとのこと。電話での話も無理とのことで、野尻先生の紹介記事と手紙を書いて郵送させてもらった。
 1週間ほどして返信があり、いくつもの修正した原稿と同時に、近況に「こんな状況ですがよければおいでください」と添えてあった。すぐに修正し、新しい原稿と9月4日の昼に伺うと手紙を書いて出した。
 西神中央駅から徒歩15分ほどの、静かな住宅街に先生のお宅はあり、娘さんと奥様が出迎えてくれた。居間に案内され、いくらか腰のまがった先生と会った。奥様が、「良ければこれを使ってください」と持ってきたのは、底を抜いた紙コップであった。それでも使わずに、少し大きくゆっくりと話すと補聴器を付けた先生は普通に聞くことができ、安心して会話ができた。
 新潟県の名立機雷爆発事件に関連し、戦後の機雷処理を詳しく教えてもらった。アメリカ軍の新型機雷は、全て海底に落として磁気、音響、水圧に反応するもので、名立で岩に接触して爆発した古いタイプは、日本か中国か朝鮮のものではないかとのことであった。
 30分も話ができればと思っての訪問であったが、気が付くと3時間も過ぎていた。著書の『蝉しぐれ』にサインをお願いすると、「忠恕」と書いてくれた。恕は、孔子が一番大切にしていた思いやりである。
 これまでの長い人生の折々に短歌をよみ、それを集大成した本がこの10月に完成するから私にも送るとのこと。92歳とも思えない情熱には、ただただ驚く

 玄関先で記念写真を撮らしてもらい、握手して別れた。路地の角を曲がるまで、ずっと玄関の前に立って奥様や娘さんと手を振ってくれていた。私も何度も振り返り、お辞儀をしつつ大きく手を振った。路地をまがると、一気に涙が流れてきた。
 

2016-09-05

日本科学者会議21総学に参加2 安重根の息吹を感じて

 龍谷大にて安重根(1879~1910)の資料を見せてもらえる場があり、2日の一番の新幹線で出かけ参加した。伊藤博文を国家の敵としてハルピンの駅で射殺した安は、日本では暗殺者だが、韓国では祖国を守るための英雄である。
 捕えられた安は、旅順の監獄で自伝「安応七歴史」と「東洋平和論」を執筆し、その態度から日本人の看守などにも慕われた。
 処刑の前に約200点の揮毫をし、お礼の品として世話になった方に渡した。そのいくつかが日本に渡り、4点が龍谷大に寄贈された。
 その1つが「戒慎乎其所不賭」(其の賭ざる所を戒慎す)で、勢いのある筆で一気に書いてあった。他にも論語からの文を、紙にきちんと納めてある。記録によれば、処刑の5分前まで書いていたとのこと。それがどれも一字も乱れることなく、力強く跳ねている。そのときの写真もあり、動揺した気配はまったくなく、断指同盟で薬指の第4指を切り落とした左手を見せている。
 ソウルの安重根国立記念館でも何回か触れたが、あらためて軍人であり教育者である
安の熱い生き様を感じることができた。

日本科学者会議21総学に参加1  TPPと被災地の農を考える

 9月2日から4日まで、暑い京都の龍谷大学にて日本科学者会議21総学があり出かけた。メインタイトルは「科学と社会との緊張関係―現代社会が求める科学者の社会的責任ー」で、総論を受けて平和や環境や災害など30の分科会があった。私は3日の午後に開催のB-1分科会「食と農の政策科学 食と農水を考える」の責任者と同時に報告者も兼ね、他の3人の報告と一緒にそれぞれ30分間話した。
 報告のタイトルは「TPPと被災地の農を考える」で、TPPの概要に触れて、農や食だけでなく主権を侵して多国籍企業や銀行に富を集中させ、社会の構造を悪化させる危険性がたぶんにあると触れた。またマスコミにはいっさい登場しないが、2013年からサービス分野で世界の50か国が議論している新サービス貿易協定TiSAを紹介し、TPPが成立しなくても、完全に秘密裡に進行しているこの協定が成立すれば、日本の教育、医療、水道などに多国籍企業が参入すると警告した。
 報告の後半は被災地の農水の動きで、困難な中でも宮城県の小規模でもJAや生協や加工業者などが連携し、地域を大切にした商品開発のいくつかに触れた。放射能の汚染に苦しむ福島の飯舘村では、除染して山土を入れても雑草も育っていない風景などを写した。
 4人が報告し10分の休憩の後は、5時半まで参加者と有意義な意見交換をして終えた。

2016-08-25

気になる放射能汚染 8月下旬飯舘村訪問記

 8月17日からまた福島へ入った。上野から福島駅まで新幹線で走り、バスで飯野町を訪ねた。18日は、飯舘村から福島市へ避難して経営しているコーヒー店の亜久里(あぐり)を訪ね、店長から話をうかがった。夫婦で本も出しているから凄い。
 19日には飯舘村にある細川牧場を訪ね、8日に倒れて緊急入院した奥さんのお見舞いをした。2日前に退院して元気そうでホッとした。近くの石臼地域を散策していると、美しいアザミの花が咲いていて足を止めた。その中で他と異なり、花が群がって咲いている1本があった。そして蜜を吸っているミツバチの羽根が、見慣れたものといくらか違うので気になった。奇形のタンポポやバッタなどの存在は聞いていたが、その類なのだろうか。
 

 震災以降に細川牧場で次々と馬が死んでおり、そのことと何か関連があるのだろうか。ちなみに近くのモニタリングは、毎時0.43マイクロ・シーベルトを示し、年間にすると約4ミリ・シーベルトとなり、国際的な安全の目安である1ミリ・シーベルトの4倍である。
 実は私自身の体調でも気になることが残念ながら発生した。健康診断で何も問題なかった私だが、16日に診療所で心電図をとると不整脈が見つかり、昨日は総合病院で心臓のエコー検査と24時間のホルダー検査を実施した。加齢やお酒の飲み過ぎであればいいのだが、ベラルーシにて病理解剖の専門家バンダジェフスキー氏の指摘によれば、チェルノブイリの原発事故で放出したセシウム137は、特に心臓の筋肉に付着しやすく、心筋障害や不整脈など心臓疾患がおきやすいとのことである。その現実は、ドキュメント映画「チェルノブイリ・ハート(心臓病症候群)」に詳しい。同じ放射能は、飯舘村にも大量にあるし、私の住んでいるホットスポットの取手市にも多い。31日の検査の結果は、どうなるのだろうか。放射能汚染と100%関連があるとは言えないだろうが、100%無関係と誰も言えないのではないだろうか。検査結果がどうであれ飯舘村の取材は今後も続け、復興支援本の8冊目を必ず仕上げる。



2016-08-14

月命日に石巻での「愛とヒューマンのコンサート」

 8月11日の早朝に、上野駅からの東北新幹線で仙台に向かう。お盆休みで自由席の混雑を予想していたが、空き席がいくつもあり拍子抜けした。おかげで席に座り、いつものようにビールを飲みつつノートパソコンで原稿書き。
 1年ぶりとなるなつかしい石巻駅で降り、荷物をホテルに預けてコンサート会場のアイトピアホールへ入る。途中で津波を被ったピアノを再生して話題になった楽器店のサルコヤを訪ね、ご主人と立ち話をした。塩水に浸かったグランドピアノ約1万点の部品をリニアルし、見事に再生している。それもすでに6台目となっているから驚く。
 会場ではベッセラさんとアルパの池山由香さんが熱演してくれ、約80人が楽しんだ。ベッセラさんは楽譜で指先を切るというアクシデントがあったが、すぐにバンドエイドで止血し普通にいつものように連打したから凄い。私は休憩前に本の紹介をさせてもらい、生の音楽の素晴らしさを強調させてもらった。会場には大川小学校で2人の子どもを亡くし、その紹介を先の本でも触れさせてもらったお母さんが来ていて挨拶をさせてもらった。まだ妹さんの遺体は戻ってきていない。彼女は「今日は2人と聴きに来ました」と言って、手帳の表裏にある2人の笑顔の写真を見せてくれた。思わず私は涙があふれ、おじぎをするのが精一杯であった。
 教員の判断ミスで尊い74人もの子どもの命を亡くした大川小学校の裁判では、この秋に判決が出るとのこと。経過や責任をぜひ明らかにし、他の学校や原発事故など日本にはびこる集団無責任体質に、少しでも風穴を開け二度と同じ悲劇を繰り返さないでほしい。
コンサート会場

サルコヤさんの再生ピアノ1号(クミコさん所有)を弾くベッセラさん



2016-08-09

「愛とヒューマンのコンサート」3

 5日の夜に白河文化ホールでのコンサートを終え、実行委員の方たちと遅い夕食をとった後で、午後10時20分頃に車で埼玉の坂戸への帰路につく。目的地まで180kmある東北道を、車は120kmから30kmの猛スピードで飛ばすので、助手席に座っていると怖いくらいであった。
 0時に無事今野宅に着き、シャワーを順に浴びて寝たのが1時過ぎであった。
 6日は大宮市北区プラザで午後2時からのコンサート。10時には出発し、会場に11時に入って準備である。
 移動だけでも大変だが、パリから来日しているピアニストのベッセラさんのプロとしてのこだわりや強さには驚くばかりであった。白河や大宮では本格的なグランドピアノがあり、それぞれ2時間ほど指ならしで本番の前に練習している。同じピアノではないかと素人は考えるが、指の感触をそれぞれのピアノに慣らすためにはこれだけの時間がいるとのことであった。
 細い腕のどこにそんなパワーがあるのかと思うほど、トルコ行進曲や才太郎節などを力強く連打する。そんな50歳のベッセラさんのある日の朝食は西瓜、昼はドレッシングなしの野菜サラダ、夜は刺身とコンニャクで、アルコールはワイン1杯といった内容で、パンや御飯や肉などはいっさい口にしない。よくこれで体力が続くと驚くが、本人に言わせると「サンサンと輝く太陽が私のエネルギー源」と、炎天下で両手を拡げたりする。
 8月2日に来日し22日に帰国するまで、演奏会のないのは3日だけである。
 「支援のためピアノを弾きに日本へ来たのであって、遊びに来たのではない」と、観光などにはまったく興味がない。世界的に有名なオペラ座のピアニストは、やはり凄い。
 この3月の書き上げた復興支援本の7冊目である『愛とヒューマンのコンサート』には、表紙にベッセラさんの娘さんたちを載せ、カラーのグラビアにはベッセラさんの2年前の演奏風景の写真を使わせてもらっている。サインして寄贈させてもらうと大変喜んでくれ、演奏後に写真を撮らさせてもらった。

2016-08-07

「愛とヒューマンのコンサート」2

 5日は南相馬でのコンサートを終えて昼食をとり、次は白河市にある文化ホールへと車で向かう。いくつかのルートはあるが、一番早く到着できるとのことで高速常磐道を使った。途中の何か所かに、放射線空間量を測定して表示しているモニタリング・ポストが置いてある。当初は0.1から0.2ほどであまり気に掛けなかったが、浪江あたりで急に4.10の数値になり驚いた。年間にすれば×24×365で35.9ミリ・シーベルトにもなり、チェルノブイりであれば強制退去の危険地域である。常磐道より海側を走る国道6号は、ここよりもっと放射線量が高く危険であるが、そちらも今は規制が解除されて通行は自由である。人々の安全よりも経済性を優先した政治の結果である。健康を考えると通行させてはいけない高速道である。
 7時からの白河では、地元の年金者組合の実行委員会が企画し、250人ほどが集まってくれ、松本さんとベッセラさんの音楽を楽しんだ。
 休憩の前に少し時間をもらい、「愛とヒューマンのコンサート」の本の宣伝を私は簡単にさせてもらった。コンサートは演奏家だけの力でなく、企画者や実行委員や聴衆の協力で成立ち、また一人ひとりの音楽文化へのこだわりをドラマとして本にしていることや、音楽が右脳を刺激して左脳とのバランスをとり、さらには生の音楽で人の耳に感知しない低周波や高周波の音波を、全身の37兆個の細胞レベルで受けて共振し、ほっこりした表情になることも触れた。
 おかげで30冊ほど買ってもらい、忙しくサインもさせてもらった。

「愛とヒューマンのコンサート」で福島へ 1

 8月4日の朝に東北新幹線へ乗り昼前に福島駅で降りて、演奏するベッセラさんや松本さんや今野夫妻たちと合流して食事をし、「愛とヒューマンのコンサート」の会場の大原病院に入る。音楽療法にも理解ある院長さんがセットしてくれた。フランスはパリオペラ座の名ピアニストであるベッセラさんは、ボランティアによる2年ぶりの来日である。
 夕方からは笹谷にある浪江の仮設住宅を訪ね、自治会長さんをはじめ顔なじみの人たちと再会し、演奏を聴いた後で楽しく交流をした。その晩は飯野町に移り、男女別に支援者宅で寝させてもらった。
 翌日は南相馬市の図書館での演奏で、飯舘村を通るときに細川牧場を訪問させてもらい、在宅していた奥さんと記念写真を撮らさせてもらった。まだまだ放射線量が高くてベッセラさんに、「黒いフレコンバックは何に見えますか?」と英語で聞くと、「あれは牧草を巻いているのでしょう」との返事だった。「普通はそう見るでしょうが、これは放射能廃棄物で、この小さな飯舘村に約200万個のあります」と伝えると、それはビックリしていた。
 南相馬では、障害者が中心のコンサート。保護者を含めて100人ほどが1時間の演奏を楽しみ、途中でピアノの周りをグルグル回る男のもいて素敵な場になった。

2016-07-31

相馬馬追祭に参加して 7月下旬飯舘村訪問記

 7月22日(金)の深夜に知人の軽自動車で国道6号や常磐線を北上し、途中で道に迷ったりしながらも、23日(土)の午前1時に飯舘村にある細川牧場へたどりついた。翌日からの相馬野馬追祭に、63頭もの馬を世話している。仕事中の主人が迎えてくれて、まずは日本酒で乾杯して雑談し2時には就寝した。
 23日は朝4時半に起き、祭りに使う馬を南相馬市内へ10トントラックで運ぶ様子を見させてもらった。神社での出陣式を見た後で、午後に牧場へ戻ってくると夜のバーベキューの準備で、軽を私が運転して奥さんの案内で炭や肉などを運んだりした。
 いよいよ24日(日)が相馬野馬追祭の本番である。朝5時に10トントラックに乗せてもらい、会場である祭場地へ7時頃には入る。あいにくの小雨で、テントの中にいても風によって雨が入ってくる。祭りの開始は11時。民謡や相馬流山踊りなどがあり、ビールを飲みつつ震えながら騎馬隊を待った。定刻より少し早く、背中に幟を立てた騎馬武者が続々と入場してきた。その数440だから壮観である。古式競馬は、1周1000mを6頭から9頭ほどで疾走し、それは見応えがあった。最後は花火で高く打ち上げた神旗争奪戦であった。冷たい雨の中で途中から鼻水が止まらなくなって困ったが、1000年も続く伝統文化を楽しむことができた。
 他方で気になることもあった。放射能の汚染で南相馬市も高いが、原子力対策本部は居住制限区域と避難指示解除準備区域を、年間20ミリシーベルト以下になるとして7月12日に解除し、祭の会場もその一部であった。国内法では一般人の基準は1ミリであり、なぜか福島の被災地ではその20倍となっている。さらにホームページでみると、祭場地の東は0.289マイクロ・シーベルトで、西は0.310マイクロ・シーベルトとなっている。これは年間にすると×24×365で、約2.5から2.7ミリ・シーベルトにもなる危険地帯である。伝統文化を継続することは大切なことだが、それはあくまで安全を前提にした話であり、原発の被害の実態は正確に共有することも重要である。
 

2016-07-22

絵金祭り

 7月18日は、高知県赤岡町の絵金祭りを訪ねた。絵金とは、江戸時代の末期に活躍した絵師金蔵の愛称である。若くして絵の才能を認められ、18歳から江戸で狩野派に学び、土佐藩家老の御用絵師となって活躍したが、模写した絵を誰かがかってに烙印して販売したため、贋作事件に巻き込まれて追放となった。
 以来10年も行方が分からなかった絵金だが、赤岡で今度は庶民のため祭りに飾る絵などを描くようになった。歌舞伎の場面などを、それは勢いのある筆と原色に近い鮮明な色で仕上げ、見る人を圧倒させる。
 以前は赤岡だけでなく高知の各地の祭りで見ることができ、実家のある春野の祭りでも展示してあった。人体から飛び散る血などがあまりにもリアルすぎて、子ども時代の私は怖かった。
 若くして出世街道から奈落の底に落とされた絵金は、さぞかし罠におとしいれた人を恨んだことだろうが、絵の目的をしっかりと見据えなおし、今日に続く自由奔放で素晴らしい作品をいくつも残しているから凄い。人生の目的は肩書や金などでなく、自らの信念の追及であることを示しており、これほど私にとって嬉しいことはない。過大に美化されすぎた坂本龍馬よりも、私は絵金に親しみを感じる。
祭りでは地元の酒蔵が、1合の枡酒を購入して飲み干すと、何杯でもおかわりのできる振る舞い酒があった。それも冷たい美酒を、浴衣姿の若い女性が笑顔でついでくれる。4杯飲むと、すっかり気分が良くなった。
 

2016-07-20

アンパンマンの作者やなせたかしさんの故郷を訪ね

 7月13日から墓参りを兼ね、4番目の孫たちを連れて土佐の高知に帰省した。2歳9か月になる孫を喜ばせようと、実家から弟の運転で片道1時間ほどかけアンパンマン・ミュージアムを訪ねた。発達障害のある孫は、まだ言葉を話すことができないが、大好きなアンパンマンやバイキンマンは指をさして喜んだ。
 作者のやなせたかしさん作曲のアンパンマン・マーチには、「なんのために生まれ なにをしに生きるのか こたえられないなんて そんなのはいやだ!」との一節がある。著書によれば晩年の自分に問いかけた文句とのことで、子どもだけでなく大人にとっても重みがある。67歳の私も、そう問われるとふと考えてしまう。
 ミュージアムから車で10分ほど離れた場所に、やなせさんの死後に新しく「朴(ほお)の木公園」ができていたので訪ねた。柳瀬一族の墓が裏山の中腹にあり、そこで眠っているそうだ。まな板に使う朴の木は、自らを痛めても包丁の刃こぼれはさせない。故郷の土はあたたかく、1本の朴の木になり、はにかみながら白い花を咲かせ、かぜに揺れていたいと遺書にしたためている。
 2013年に94歳で他界するまで、漫画家、絵本作家、詩人、編集者、舞台美術家、演出家、司会者、作詞家、シナリオライターなど、それは多彩な場で楽しく活動されてきた方である。公園から山の中腹に向かい合掌させてもらった。

2016-07-09

20ミリ・シーベルト受忍論は基本的人権無視 7月上旬飯舘村訪問記

 7月2日から6日までまた福島を訪ねた。来年春の飯舘村帰村に向け、この7月1日からは村内の長期滞在が可能になっている。そうしたこともあり、飯舘村を訪ねるとあちこちで建物の修復や建て替えがすすんでいる。


 人が安全に暮らすことのできるレベルに放射能が低減していればいいのだが、残念ながらそうではない。健康を害する危険な状況はほとんど変わらないのに、基準を国がかってに大幅に緩和して、「安全だから帰ってもいいですよ」と帰村を促している。
 ここで使われているのが20ミリ・シーベルト受忍論である。今でも国際基準や日本の法律でも、国民の1年間にあびてもかわない範囲は1ミリ・シーベルトとしているが、20倍の20ミリ・シーベルトまでであれば安全であるとの説が福島では使われている。もっとひどいのは、100ミリ・シーベルトは野菜不足の健康被害リスクよりも低いとの暴論で、これはカラー刷りのパンフになって飯舘村だけでなく各地で行政から配布されている。
 もし年間20ミリ・シーベルト(1時間では20ミリ・シベルト÷365日÷24時間=2.28マイクロ・シーベルト)が安全だと断言できるのなら、1~2マイクロ・シーベルト前後でもばく大な税金を使っておこなっている除染の必要性がなくなる。
 原発事故の被害を少なくし東電の賠償額を減らして、原発の再稼働や輸出などをもくろむのでなく、国民の健康と命を最優先にする政治や科学が求められている。
 

2016-06-29

美術展「いま、被災地から」を観て

 6月26日に上野公演にある東京藝術大学を訪ね、同美術館で開催している「いま、被災地から -岩手・宮城・福島の美術と震災復興ー」を観させてもらった。
 ところで駅からの途中に黒田記念館があり、ちょうど開館していたので寄った。黒田清輝の代表作の「湖畔」や「知・感・情」を鑑賞したいと思ったが、残念ながらいつもは展示してなく、秋の限定とのこと。無料だから仕方がない。
 さて被災地の美術である。絵画や彫刻など100点が展示してあり、それは見応えがあった。高さ240cmあるブロンズの「岩頭の女」は、両足や片手がもぎ取られ、膝には穴があいて痛々しい。
 萬鐡五郎や関根正二や松本俊介など、教科書や画集で親しんだ作者の作品もあった。しかし、大半は聞いたこともない名前であったが、作者の熱意が強烈に伝わってくる作品がいくつもあって、しばし足を止めてながめた。大きなカンヴァスの「失業者」や「野良」などからは、人物の息遣いが聞こえてくるようだったし、桂の1本の木を使った等身大の「海の三部作 潮音 黒潮閑日 漁夫像」は潮の香りが漂ってくるようであった。
 著名でなくても凄い作品はいくつもある。下手をすると、名前でもって作品を評価する傾向が私にもたぶんにあるが、やはり1つひとつのもつ表現力や輝きで判断すべきだろう。
 以前にスペインでピカソの絵を観た時、初期の作品には何か感じたが、後期の作は世間で騒ぐほど感銘を受けなかった。
 表現する形は違って私の書いているルポルタージュでも、1つひとつの作品を大切にして残していきたい。

2016-06-28

映画「圧殺の海 第2章 辺野古」を観て

 6月25日に都内のポレポレ坐にて、映画「圧殺の海 第2章 辺野古」の上映がスタートし、トークショーもあるとのことで大学生協の同窓会の後で足を運んだ。
 107分のほぼ全編が、辺野古の基地反対運動による海とゲート前の、それは激しい闘争の場面で圧倒された。ナレーションもあまりなく、2014年11月の知事選で扇長さんが当選してから今年の3月までの現地の激しい攻防を、ドキュメントでつないでいる。辺野古の美しい海などを少し期待していたが、そうした場面はなくただ怒号が続いた。何回も辺野古を訪ね、以前に抗議のカヌーにも乗ったことがあり、その後の情報も注意していたので流れは理解できたが、辺野古の闘争をあまり知らない人にはどう伝わっただろうか。
 上映後の舞台で白髪の藤本幸久監督と、辺野古でのゲート前の責任者である山城博治さんのトークがあった。藤本さんは、かつて水俣での映像創りもし、その流れで今は沖縄に入っているとのこと。元気一杯の山城さんは、大きな手振りもしつつ、辺野古の現状や福島の原発問題などにも触れた。
 別の会場で500円会費の懇親会があり、そちらにも参加させてもらった。山城さんに、「沖縄の闘争で活躍した阿波根 昌鴻(あはごん しょうこう)との接点はありましたか?」と質問させてもらった。大先輩として尊敬し伊江島を今も訪ねているが、阿波根さんのように相手を諭すことができず、怒鳴り散らしていますとのことである。ただし、非暴力でかつ音楽など文化を大切にすることでは共通している。
 藤本さんに、水俣病を告発する強力な訴えの映像は見応えはあったが、同時に新潟の水俣病を描いた静かな「阿賀に生きる」も感銘を受けたけど、後者のような映像は考えなかったのかたずねた。監督それぞれの考えでどちらがいいとか言えず、自分は強烈な場面をつないでメッセージにしたかったとのこと。
 購入したパンフレットに、2人からサインをもらった。山城さんは「戦争反対!平和こそ命こそ宝 辺野古新基地建設必ず止めよう!」、藤本さんは、恩師の土本典昭監督の言葉「記録なくして事実なし」と書いてくれた。読み応えのある冊子である。

 

2016-06-27

内部被曝を無視して帰村の準備が 6月下旬の飯舘村訪問記

 6月18日から22日まで飯舘村の隣にある飯野町の知人宅に泊まり、飯舘村へも2回足を運んだ。
 22日の午前中は、飯野町にある飯舘村仮役場の閉所式があって傍聴させてもらった。5年前のこの日に、飯舘村役場がここに移ってきた。来年春の帰村をめざし、7月1日から元の場所で役場機能を果たすために、村民より一足早く帰る準備をするという。
 式典では村長や避難を受け入れた福島市長などの挨拶があり、後半はこの5年間を映像で映していた。震災当時の大混乱をくぐり抜け、よく5年間も苦労し、やっと来春の帰村ができるようになったと皆は喜んでいた。
 しかし、そこに帰村する村民や職員への健康上の配慮は一言も聞こえなかった。村の空間線量は、今も毎時1から2マイクロシーベルトである。この公表のデータは、除染を繰り返したコンクリート道路のモニタリングによる計測値であり、少し離れた雑草などでは2から3倍の数値になる。これらは年間に換算すると、公表値で約10から20ミリシーベルトとなり、さらに雑草地になると約20ミリから60ミリにもなり、国際や我が国の基準でもある1ミリに比べると異常な高さである。さらにチェルノブイリでの1ミリには、内部被曝を考慮するので、許容される空間線量はさらに低くなる。
 こうしたことを考えると、手放しで飯舘村への帰村の準備を喜ぶわけにはいかない。

2016-06-16

ふくろうこども食堂を訪ねて 

 2012年頃から各地で、家庭の事情などで食事の不充分な子ども向けの子ども食堂が誕生して話題になっている。育ち盛りの子どもの夕食が、カップラーメン1個とかバナナ1本だったり、もしくは欠食ということもある。
 そうした子どものために、無料か100円~300円ほどの低価格で作りたての食事をボランティアで提供している。場所は自宅もあれば、集会場や教会やお寺などさまざまだし、開催頻度も月1から週1などとまちまちである。要は主催する人たちの責任持てる小さな範囲で、メミューや食数も異なる。
 そうした1つが、都内の池袋にある労働者生産協同組合(労協)本部で開催している「ふくろうこども食堂」である。月1回のペースで3回目となる6月14日に、エプロンとバンダナをさげて訪ねた。
 3時から呼びかけ人に概要の話を聞き、4時から会場にある厨房で調理の手伝いをさせてもらった。メニューは、鳥の空揚げ、大根・あぶらげ・インゲンの煮物、ポテトサラダ、キャベツの千切り、卵のスープ、ご飯であった。いくつかの食材は寄付で賄い、肉などは募金や参加費などで集めた資金から購入している。ボランティアは労協の職員で、女性4人と男性が3人で、調理と会場設営などで動いていた。予定の利用人数は40人とのことで、レシピカードを見ながらの作業が1時間ほど続き、開店の5時になると子ども連れの親子などがやってきて食べ始めた。
 40席ほどあるホールでは、窓際におもちゃや絵本などを置いてあり、食事を終えた子どもの遊び場になっている。また労協の女性組合員の2人が、席での傾聴役として参加し、子育ての相談などにものり親の支援にもつながっていた。
 8時に食堂を閉め、約30人ほどの利用があった。ボランティアで関わっていた2人の労協職員から話を聞くと、「地域とのつながりを実感できる」とか、「子どもから感謝されて嬉しかった」など、デスクワークでは得られない達成感を喜んでいた。
 すでに労協では、北海道や沖縄などでも開催している。また同じ取り組みをスタートさせた地域生協や医療生協もあり、さらに拡がっていきそうで楽しみである。

2016-06-10

飯舘村に帰村していいのか -6月前半の飯舘村訪問記ー

 6月5日から9日まで飯舘村の隣にある飯野町に宿泊させてもらい、8日に飯舘村を1日かけてまわった。2017年3月末を目途に、帰還困難区域の長泥地域を除き、飯舘村の規制を解除するとの国からの発表が6日にあり、地元の新聞では1面で大きく報道していた。
 これで村長をはじめとして帰りたい人は大いに喜んでいるが、同時に帰りたくても放射能の汚染がいまだに高くて帰村を躊躇し、さらには行政への不信を強めている人も少なくない。
 放射能の空間線量を測定する機器を持って飯舘村を廻ると、いたるところで驚く数値が今回もあった。すでに除染したある民家の庭で、雨どいの下が写真のように17.4マイクロ・シーベルトもあって一瞬足がすくんだ。年間にすると×24×365で152ミリ・シーベルトにもなり、これは国際基準1ミリ・シーベルトの152倍であり、大人の37兆個の全細胞が152回も破壊されるほどの高汚染で、重い病気になる危険性が極めて高い。
 そこまでいかなくても、1や2マイクロは村内にざらであった。危険で通行止めになっている長泥地域との境にある通行止めの場所も訪ねた。舗装した道路は2マイクロで、すぐ傍の草むらは5マイクロ近かった。小さなボックスから40歳ほどのガードマンが出てきたので、ボックスの中の線量を聞くと、「1.5マイクロ・シーベルトだから安心です」と平気で言うから驚いた。年間にすると約13ミリ・シーベルトにもなり、国際基準の13倍である。注意すると、「基準の20ミリより少ないから安心です」と笑顔で応えてきたので、開いた口がふさがらなかった。
 どうみても残念ながら飯舘村は、来年の春に村民が安心して帰村できる地域ではない。「風評被害を助長する」などと非難されるだろうが、現実はデータにもとづき直視するしかない。何よりも被災した村民の健康と命を守り、同時に日本国憲法に明記した基本的人権や幸福追求権を大切にし、それは我が身や家族の為にもなるから決してあいまいにできない。

2016-05-27

5月飯舘村訪問記2 震災後に次々と死ぬ仔馬

 偶然にも25日の朝に福島駅で、飯舘村にある細川牧場の細川徳栄さんに会った。午後から都内で裁判があり、これから出かけるとのことで、私は夕方に帰る予定を繰り上げて同行した。
 震災の後で飯舘村にいた牛は、全て村の外に出たが、なぜか馬は規制から外れ、細川牧場ではたくさんの馬を牧場で飼育していた。細川さんの話では、最高時は130頭もいて、どれも元気に牧場を走り回っていた。
 原発事故により、やむなく観光牧場や乗馬クラブに87頭を寄贈し、1頭200万円として餌代を含め2億1000万円を東電に請求しているが、わずか200万円の一時金が届いただけ。汚染された牧草を使うことができず、餌代だえでも月に100万は使っているとのことで、牧場の経営は大変なことになっている。そこで東電を相手に訴訟を続けている。
 ところが高い放射能の汚染が続き、生まれる仔馬は次々と死に、さらには親馬も急に歩くことができなくなって死んでいる。牧場の経営者にとって、世話をしている家畜は家族も同然である。そうした家族が次々に死んでいくものだから、細川さんの奥さんは心を病んで体調を崩している。
 最近ではこの4月22日に、写真のアメリカミニチィアホースでオスのレエンボが死亡した。生まれたのは今年の1月18日だから、わずか3か月の子どもである。獣医の診断書を見せてもらうと、病名の「不明」に続き、「検案するにチアノーゼが著しく苦悶病状あり、外傷、腹部膨満、天然腔からの出血等異常所見無く、心不全による死亡と診断する」とあった。
 こうした不審な死亡は震災以前にはなく、震災後にすでに40件にもおよんでいる。解剖し血液検査をしても、死んだ原因をなぜか特定できていない。以前にある大学から解剖に来て、いくつもの部位や血液などを持ち帰ったが、その結果はなぜか細川さんに届いてない。
 国際的な空間放射線は年間1mSvであり、1時間にすると24hと365日で割って0,11μSvになる。国の言っている0.23は、いくつもの仮定を前提の非科学的な数字である。飯舘村は、除染した場所は細川牧場を含めて0.5から数mSv/hも今でもあり、除染してない草むらや森林はその数倍高く、人や家畜の住む場所ではない。そうした危険な場所での馬の死亡だから、放射能の影響があると考えることが普通である。獣医の診断書がなければ残念ながら水掛け論になってしまうが、同じ動物である人間にも、何らかの形で影響が出ると考えることが常識であるし、少なくとも来春に規制解除して帰村を自由にすることは、村民の健康や命を守る上では大問題である。
 マスコミにも流れない現実が、飯舘村にはいくつもある。

 

2016-05-26

5月の飯舘村訪問記1

 5月21日から25日まで、飯舘村の隣にある飯野町の佐藤八郎さん宅に泊めさせてもらい、資料の整理をしつつ飯舘村や仮設住宅を訪ねるなどしてきた。
 22日は飯舘村の小宮地区に入り、「モニタリングじいさん」こと伊藤延由さんを訪ねた。元は村にあった農業研修所の管理人であったが、震災後は研修所近くの山菜などの放射能汚染を独自に調べ発信している。原発を止める集会などで報告もし、その113枚もの膨大な資料もいただいた。ちょうど協力している独協医科大の木村真三さんが調査で来ていて、名刺交換させてもらい夕方まで懇談させてもらった。木村さんは放射能汚染について、100mSv/yを安全だという御用学者はもちろん大問題だが、20mSv/yを黙認する「民主的」な医師や学者についても、誰のための研究かぶれていると批判的で、私も同感であった。その中には私と同じ日本科学者会議所属の著名な学者もいて、誠に残念な話である。少なくとも私は謙虚さを忘れず、誰のための研究や文筆であるか少しでもぶれないようにしたいものだ。
 24日は、飯舘村の避難者が住んでいる伊達東仮設住宅を訪ねた。管理人に挨拶をして最近の状況を聞かせてもらい、まずは何回も会っている安齋徹さんを訪ねた。カメラが趣味で膨大な写真を持ち、震災後の飯舘村の変化や仮設住宅などを見せてもらった。震災前は健康な体で農業を営んでいたが、震災後は体調を崩して今も医者通いをしている。
 映画「飯舘村の母ちゃんたち 土とともに」に出ていた菅野榮子さんと菅野芳子さんにも会って話を聞いた。映画では大変な困難を笑いで吹き飛ばすようなバイタリティある場面がいくつもあり、実際の2人も同じ前向きな姿勢で笑い声が絶えなかった。それでも仮設に来た当初の榮子さんは、生きる意欲をなくして湯たんぽを抱いて泣きながら寝込んでいたとか、バイクに乗るほど元気な祖父が震災後に埼玉へ避難してすぐに亡くなり、また祖母も後を追うように他界した苦労話を芳子さんからも聞いた。笑いの裏には、たくさんの苦労があることをここでも再認識した。伝統食の1つである手作りみそも食べさせてもらい、楽しい有意義な時間であった。
 
写真は飯舘村にあるモニタリングの1つ。周辺は除染を繰り返し、空間線量は山や草地に比べれば低くなっているが、それでも0.30μSv/hを表示し、国際基準である0.1μSv/hからすれば3倍の高濃度。他の場所では1や2μSv近くもいくつかあった。

 

2016-05-14

「文章表現」の講義をスタート

 「人助けして」との知人の依頼を断わりきれなくて、ある看護師養成学校で「文章表現」の講座を半年間することになった。週1回90分の15コマで、5月13日は初日であった。27人の学生は、女性26人の男性1人で、20歳から50歳までいる准看護師である。学卒から社会経験のある人の混在で、どの層に向かって説明すればいいのか迷ってしまう。
 初回はオリエンテーションとして、効果的な文章表現のためにも、まず自らが何を発信したいかが大切であり、そのため自分の頭できちんと考える必要性を説いた。その学校の教育目標に、「主体的に学び続ける姿勢を養う」とあり、それにも通じる。
 ところで明治政府が富国強兵政策で訳した教育との言葉は、元は英語のeducationやドイツ語の erziehungであるが、この意味は個人の内部から素晴らしい個性や力を引き出すことであり、上から教科書を伝え教え育てる「教育」ではなく、この講義も皆さんと一緒に楽しく進める「共育」でいきたいと強調した。
 今の日本に正看護師は約150万人いて、毎年5万人の新しい正看護師が誕生している。ところが毎年15万人もが退職している。定年もいるだろうがかなりの数であり、それだけ仕事や職場環境も大変なのだろう。それでも問題を社会や他人任せにするのでなく、個人でできることや仲間と一緒に改善していくことの大切さにも触れた。
 話しながら学生を見ていると、半分くらいは熱心にメモをとっているが、うつろな目をしている人も少なくなかった。以前にある大学で90分の特別授業を広い階段教室でしたときは、最初から寝ているとか、メールのやり取りをしている学生が何人もいてガッカリしたが、それに比べればまだいい方である。
 ともあれせっかくの機会なので、自らの文章力の点検や、考えていることを効果的に相手へ伝える方法などについて、残りの14コマで楽しんでみたい。

2016-05-10

映画「飯舘村の母ちゃんたち 土とともに」を観て

 5月8日に東中野駅前のポレポレ坐を訪ね、前日から封切となっているドキュメント映画「飯舘村の母ちゃんたち 土とともに」を鑑賞させてもらった。全村民避難となっている(実際は13人が村にずっと残って暮らしているが)飯舘村から、伊達市の仮設住宅に入り生活している菅野榮子さん(79歳)と菅野芳子さん(78歳)の物語である。
 農家出身の2人は、仮設住宅の近くの畑を借り、土に触れて大根やカブなどの農作物を育て、それを漬物などにして美味しく食べている。身内を亡くし、また自分の病気などがあっても、土とともに生きる2人の姿をていねいに描いている。声高に原発反対とか、放射線が危ないとこぶしを振り上げているわけでなく、淡々と2人の日々をカメラは追いかけている。
 猫の踊り狂う姿も描いた熊本の水俣病の映像は、悲惨な現実をリアルに出して衝撃的であった。同時に、自然の中で暮らす3人の仕事を通して、誰にも現状を問いかけた新潟水俣病のドキュメント映画「阿賀に生きる」も印象的であり、今回の作品は後者の流れである。
 菅野榮子さんは、映画の中で「百姓は芸術家だ」と表現し、上映後の監督との舞台スピーチでは、何回も「ヒコのため」と話していて印象的であった。「子どもや孫のため」とはよく話すが、そのさらに先のひ孫のことも視野に入れているから凄い。
 2人が暮らしている伊達東仮設住宅は、「愛とヒューマンのコンサート」で何度か訪ねており、木造の仮設や顔見知りの人なども映像に出て懐かしく観ることができた。
 ぜひまた仮設を訪ね、2人からも今後についての話を聞きたい。

2016-04-26

三宅島訪問記

 23日の夜10時半に竹芝から船に乗り、24日の朝4時50分に三宅島に降りた。そのまま寝過ごすと八丈島まで連れていかれてしまうところであった。ルポルタージュ研究会の仲間5名で、昨年暮れに亡くなった佐々木美代子さんの墓参りをすることが目的であった。海岸近くの共同墓地にある佐々木家のお墓に、持参した菊の花をそえ、即席坊主の私は「四弘誓願」の読経をさせてもらい、皆で美代子さんの冥福を祈って手をあわせた。
 度重なる噴火で溶岩が波打ち際まで流れ、近くの茂みからはウグイスの甲高い鳴き声が聞こえた。美代子さんの三宅通信で島の概況についておぼろげながら知っていたが、想像していた以上に雄大な自然があった。どこに行っても野鳥の鳴き声がし、また溶岩でできたメガネ岩や、海を眺めながらの温泉なども楽しむことができた。81歳になる夫の佐々木弘佳さんは、足がむくんで薬を飲んでいたが、今も海運丸に乗って元気に漁をし、阿古の船主会の会長もされている。前日に釣ったカツオをいただき、これは夕食としてタタキにさせてもらい、皆で美味しくいただいた。話もはずみビールで乾杯の後は、ワイン2本に続き泡盛の古酒(くーす)2本も空になり、それでも足りずに焼酎へと移った頃は、すでに深夜となっていた。中年の男2人は途中でダウンし、最後まで残っておしゃべりをしたのは、弘さんと女性2人に私の高齢者たちばかり。
 25日の午前中の散歩時に定置網で獲ったばかりの鯖とモロアジを5匹を1000円もせず購入し、昼飯用にとさっそくさばいて締めサバと刺身にして6人で食べた。コリコリとしてそれは美味しい魚で、2日にわたって海の幸を堪能した。
 私を含め男2人は1時30分の船に乗って帰途につき、後の3人は夕方の飛行機で調布へ。船ではしばらくデッキで2人してビールなどを飲みつつおしゃべりし、その後船室に戻って横になり、私は美代子さんの遺作『みやけの心』を読んだ。純粋無垢だった美代子さんが、三宅の自然や人との間で喜怒哀楽している姿がそれは印象的だった。
 溶岩に ウグイス鳴くや 三宅島 
     美代女歩けし 明日葉ともに

 阿古の里 噴火に負けぬ 民強し
     アロエと生きし 美代女の歩み

2016-04-20

飯舘村を訪ねて2

飯舘村の南にある蕨平(わらびだいら)の減容化施設を訪ねた。帰還困難区域である長泥に隣接し、空間放射線量は同じくらい高い。舗装した山道を登った先に、それは巨大なプラントが出現して驚く。1日240トンを処理できる仮設焼却炉と、10トン規模の仮設資材化施設などが隣接し、焼却灰を中間貯蔵施設や管理型処分場が整備されるまで一時保管する施設である。持ち込む廃棄物は、飯舘村内から出た除染ごみなど約14万トンと除染土壌の一部約500トンに加え、福島市と相馬市、南相馬市、伊達市、国見町、川俣町の周辺6市町から出る農林業系のごみと下水汚泥の合計7万トンも予定している。原発事故後に汚染された廃棄物を、他市町からも受け入れる施設ができるのは福島県内で初めてで、国の事業である。
国の説明では、放射能を99.9%除去するバグフィルターを付けているので安全だとのことだが、実際は7割程度との指摘もある。もし国のように除去しても、0.1%は濃縮した高濃度の放射能物質が、飯舘村を中心に降り注ぐ。行政が強調するように外部被曝としての影響は少ないかも知れないが、しきい値のない内部被曝からみれば、さらなる汚染の拡大という
とんでもないことである。

2016-04-19

飯舘村を訪ねて1

 4月14日から19日まで、福島市飯野町の知人宅に泊まりながら、震災後の膨大な資料の整理を手伝いつつ、2回飯舘村へマスクして入った。
 福島第一原発の事故で、大量の放射能が放出し、その一部が飯舘村に降り注いだ。しかし、東電や政府は情報を流さず、原発近くの双葉や浪江の被災者を受け入れた飯舘村民は、汚染された水やおにぎりを提供し、自らも多く被曝した。さらに村長が、村の機能存続を第一に考えて村民の避難が遅くなり、外部被曝だけでなく内部被曝もかなりの量となって、自らの健康を心配する人も少なくない。
 飯舘村に入ってまず目にするのは、放射性の除染物質を入れたおびただしい1tの黒いフレコンバックの山である。その数は150万個もあるとのこと。保管基準では3段積みとのことだが、場所によると5段がある。除染物には落ち葉や草木などもあり、袋の中で腐敗してメタンガスを発生させ、これは燃えやすいので煙突を付けて放出している。さらに樹脂の袋は天日や雨で劣化するし、中から芽や根が出て破れることがある。このため緑の厚いビニールシートを、山のようにかぶせている場所もある。
 ところで飯舘村は、面積の75%が森林であり、そこは除染をしていない。このため民家や田畑を除染しても、雨や風で細かい放射性物質が山から流れ、すぐに数値は高くなる。村の道路の側には、いくつも空間の放射能を測定して表示するモニタリングスポットが設置してあり、走りながら見ることができる。役場や民家のある平地は0.5から0.9μSv/h程度で、帰還困難区域の南部にある長泥(ながどろ)区の通行止めでは1.9μSv/hほどあって驚いた。年間にすれば10から20mSv近くなり、健康を害する高さで、チェルノブイりであれば5mSv以上に適用する強制退去の地域である。
 こうした飯舘村に、来年春には一部を除き帰村させようと村は準備している。日本国民は国際基準でもある年間1mSvを適用しているが、飯舘村をはじめとする福島の被災地では、なぜか20mSvが基準となっている。これでは「福島の被災者を国民と認めていない」と、地元の人たちが怒るのももっともである。

2016-04-10

2016年4月「愛とヒューマンのコンサート」

 4月6,7日にかけ、春「愛とヒューマンのコンサート」ー60分の歌の玉手箱ーとして、宮城県名取市の2か所と、福島県の飯舘村出身者のいる2つの仮設住宅で開催し、声楽家の大前恵子さんとギターの三上芳樹さんが、「春が来た」や「春の小川」や「みかんの花の咲く丘」などの素敵な音楽を届けた。
 福島駅で今野さんの車に乗せてもらった私は、それぞれの会場で短時間であったが、本「愛とヒューマンのコンサート」の紹介をさせてもらった。
 音楽には、今日のような生の音楽とCDのような再生音楽があり、耳に感じるのはどちらも同じ20Hz(ヘルツ)から20kHzです。しかし、生の音楽ではそれ以上の高音と以下の低音の音波が出て、それらが大人であれば37兆個もの細胞に伝わり、細胞内で共振作用をおこして活性化させます。
 また脳には、会話や書くことをつかさどる左脳と、感性や直観などにつながる右脳がありますが、現代人は文字や数字を追いかけ、左脳が発達している割には右脳の働きが不充分です。そこで音楽を聴くことによって右脳を活発化させ、脳のレベルでバランスをとって元気になることができます。
 さらにはミニコンサートでプロの音楽を聴くだけでなく、今度は最高の楽器である身体を持っている参加者の一人ひとりが、地域や家庭に戻り、たとえば子どもや孫に歌ってあげることでも、充分に相手を明るく元気付けることができます。「愛とヒューマンのコンサート」は、これで終わりでなく、そうした家庭での拡がりにもぜひつなげてください、と触れさせてもらった。

2016-03-29

「名立・平和を願う日」に参加して

 戦後4年がたった1949年の3月30日に、名立漁港に流れ着いた機雷が爆発し、見物で集まっていた児童を含め63人の命が吹き飛ばされた。GHQがすぐに破片などを処理し、どこの国の機雷か不明で、損害賠償もなくて被害者は泣き寝入りである。
 それを風化させず平和についての意識を高めようと、第3回「名立・平和を願う日」が地元の公民館で3月27日の午後あり、前日に宿泊させてもらった坂戸市の今野宅から車で向かった。
 高速道路はモクレンの花が咲き、トンネルをいくつも抜けると雪景色をいくつも見ることができた。
 100名ほどの参加者を前にして、小中学生による平和学習の発表や、4名の機雷爆発体験談があった。おぶっていた赤ちゃんに機雷の破片が刺さって死んだとか、即死した兄弟の顔半分や内臓がえぐられていたなどの話などは、武器の恐ろしさを十分に伝えてくれた。どれも戦争の犠牲者である。
 時間を少しいただき、昨年9月に名立を訪ねて坂本弁護士一家の追悼コンサートなどを、2泊3日で取材させてもらったお礼を伝えた。そのとき感じた名立のコミュニティの素晴らしさに触れ、かつて宮沢賢治が多面的な人間になることを自らも追い求めたように、①農業といった仕事、②詩や童話や演劇といった芸術性、③肥料の調合などの科学性、④仏教を大切にしたことに通じると話させてもらった。
 こうしたいくつもの価値観をもった人が、名立では仲間となって協力し、元気に活躍しているから凄い。当日の実行委員にも、住職や主婦など20人ほどが関わって運営していた。こうした地域が増えることによってこそ、本来の地域の活性化につながる。国の進める大きな建物を造ることなどは、ピント外れでしかない。
 写真は体験を発表する4人。

2016-03-21

「文章は人格なり、己を欺くなかれ」 高知県立文学館を訪ねて

 3月13日から17日まで、墓参りを兼ねて久しぶりに高知の実家へ1人で帰った。咲いている桜もあれば、ウグイスの鳴き声が裏山に流れ、南国土佐はすっかり春であった。満開の菜の花に顔を近づけると、鼻を突く強い香りに子どもの頃の事を想いだす。都会と異なるゆったりした時間が流れ、心身ともにリラックスすることができた。
 高知高専の親友に「ひろめ市場」で会って昼飯を食べつつ懇談し、その後近くでお城の下にある高知県立文学館を訪ねた。「宮沢賢治 ことばの宇宙展」を開催中で、いくつかの作品に写真を添えて賢治のファンタジーな世界を楽しむことができた。常設館には土佐の作家たちが並び、「わが日本 古より今日に至るまで哲学なし」と断じた中江兆民、大逆事件で殺された幸徳秋水、「文章は人格なり、己を欺くなかれ」と書いた大町桂月などが並んでいた。
 中でも物理学者の寺田虎彦は、スペースも多く見応えがあった。専門の科学だけでなく、随筆も優れているし、他にも絵やヴァイオリンやチェロまで親しんでいる。多面的な人間であり、ぜひ少しでも見習いたいものだ。
 ひとつ残念だったのは、「やなせたかし」さんがあまりここでは評価されていなく、作品はほとんどなかった。漫画家としてだけでなく、詩やエッセイなどでもすぐれた作品はいくついもあり、高知県出身の文学者として正当に評価すべきと私は思う。

2016-03-19

詩人の新井竹子さんに会って

 3月11日に坂戸市の今野宅に1泊させてもらい、翌日の10時から近くに住む詩人の新井竹子さん宅を訪ねた。発刊したばかりの「愛とヒューマンのコンサート」の書評を、いちはやく書いてくれた。以下はその一部であり、著者としてとても嬉しかった。
 「この本には、なんとたくさんのことが詰め込まれていることか。しかし、それは「民主主義とは何だ。これだ」に見事に統一されている。
 たくさんの人びとが登場するが、だれもだれもがこうありたいと思うような人間のあり方を見せてくれている。だから、読んだ人の心も清められる。この本がこの今の日本社会の中に誕生したというのは大きな励ましである。(略)」
 こんな素敵な書評を書いてくれるのは、いったいどんな方かと期待して訪ねた。期待以上の凄い女性だった。ろう学校に35年勤め、自宅を子どものための文庫として開放し、短歌や詩なども創作し、81歳の今もお元気である。
 以前に詩集「あいうえお」を読まさせてもらい、聾唖者に寄り添う者の目線で簡潔に描くいくつかの詩に驚いた。教科書に載っていることも納得できる。本人に聞くと詩の前に短歌があり、詩は短歌を連ねているとのこと。道理で切れのよい言葉が並んでいる。
 いくつかの著書をいただいた。「オアシスになれ!!学校ーろう学校教諭35年を終えて」は、1990年に出した115頁の冊子で、新井さんの思いがぎっしりと詰まっている。ろう学校をオアシスにしたいとの願いだが、それは同時に全ての学校にあてはまると話していた。
 短歌や詩に私ももっと触れたい。

2016-03-13

6年目に入る被災地(者)に思いを馳せる「愛とヒューマンのコンサート」

 東日本大震災から丸5年となる3月11日に、埼玉県北坂戸でタイトルのコンサートがあり、出来たての本「愛とヒューマンのコンサート」の販売も兼ねてでかけた。あいにくの寒い日であったが、昼と夜の部をふくめて250人ほどが集まってくれた。
 「愛とヒューマンのコンサート」ではおなじみにの、ピアノの金沢恵理子さんとソプラノの大前恵子さん、そして彩りを添えてくれたのは人形や獅子舞を演じてくれた井上奈々星さんであった。飯舘村からは、村議の佐藤八郎さん、村民の佐藤光子さんと安齋徹さんがわざわざ来場し、現地の様子や心境を話してくれた。特に安齋さんは、健康や黒い髪が自慢であったが、震災後のある日にシャンプーしていると髪が抜けて半分ほどが禿げてしまい、体調も悪くなったと話していた。他人にも似た症状はいくつもあり、「ただちに健康被害はありません」との説明はとんでもないウソだと訴えていて胸に響いた。
 私は5分の時間をもらい、本の概要や文字に込めた想いを舞台から話させてもらった。昼の部では震災の被害者が死者・行方不明で1万8456人いて、そのうち行方不明2561人のご遺族は、たとえ髪の毛1本でもと探し続け、さらには震災関連死が3407人で増加中で、その中でも自殺者は154人で特に福島は80人と増え続け、まだ震災は終わってない事に触れた。
 夜の部では土佐の高知生まれのいごっそうで、お金にはならず震災復興支援本で7冊目になるこの本も、取材費などは全て自費で持ち出しになるが、意味のあることだと考えて次の本は飯舘村を舞台にするため準備をはじめたことを語った。
 コンサートの休憩時間や終了後に、ロビーでサインをしつつ販売させてもらった。その日の「赤旗」紙に本の宣伝が出たこともあり、列ができるほどで忙しくサインをさせてもらった。中には自分の分だけでなく、友人や親に贈るからと複数買ってくれる人や、中には5冊や10冊と求めてくれ、さらには「がんばってください」と握手をしてくれた方も何人かいて感激した。60冊ほども売れ、さすが「愛とヒューマンのコンサート」の聴衆である。
 9時過ぎに無事コンサートは終え、今野宅に舞台を替え、演奏家や協力者など20人ほどで「ご苦労さん会」をしてくれた。美酒で乾杯しているとき、15冊も購入してくれた方が出て、急いでサインと手作りの印を押させてもらった。飯舘村の3人も参加し、それは楽しい宴であった。今野和子さんに「もうダメ!」と日本酒の1升ビンを取り上げられたのは午前2時頃で、それまでに2本が空になっていた。飲み過ぎには注意しているつもりだが、ついつい度をこえてしまう。
 

2016-03-07

シンポ「産業・なりわいづくりと農山村再生ー地方創生の課題ー」

 急に奥歯の1本が割れて、4分の1ほどが根本から取れてしまった。歯医者で治療してもらったが、むし歯でなく以前からヒビが入っており、それが何かの拍子でボキッと割れたとのこと。66歳ともなると思わぬ体の不具合が起こる。
 3月5日にJC総研によるシンポ「産業・なりわいづくりと農山村再生ー地方創生の課題ー」が明治大学であり参加した。その中で以下の3本の報告があり、興味をもって聞かせてもらった。
 ①高知県十和(とわ)おかみさん市の取り組み
 ②和歌山県「秋津野」未来への挑戦
 ③愛媛県JAおちいまばり「強い意思が地域を元気にする」
 おかみさん市の報告は、故郷の土佐弁でもあり懐かしく聞いた。四万十町十和地区の生産者が集まってできた、生産者の方々の株式会社で、野菜の直販やイベント販売を中心に、おもてなしのバイキングやツアーなどの企画、仕出し、加工品の開発販売、学校給食への食材提供、食育への
取り組み、ISO14001という安心安全野菜の取り組みなどと多彩である。
 これらを農家の女性たちだけで、株式会社を立ち上げて運営しているから凄い。報告してくれた社長の居長原信子さんと休憩時間に名刺交換させてもらい、「春野の出身です」と少し立ち話をさせてもらった。高知では、こだわりの強い男は「いごっそう」といい、女は「はちきん」と呼んでいる。元気なはちきんを見て、同じ土佐人として嬉しかった。
 「秋津野」や「JAおちいまばり」も、積極的な地域づくりに関わっていて報告も刺激的であった。それぞれ機会があれば訪ねてみたい。

2016-03-01

復興支援本の7冊目『愛とヒューマンのコンサート』がやっと完成

 私にとって復興支援本の7冊目となる『愛とヒューマンのコンサート』(合同出版 定価1400円)が、やっとのことで震災6年目となる3.11の前に完成させることができ、とりあえずホッとしている。
 取材を始めたのは昨年の3月7日からだから、ほぼ1年たっている。これまでの6冊は、生協やJAや漁協など、協同組合の取り組みが中心であったが、今回はその枠をこえて一般社会において、それも生の音楽をメインにした舞台を描かせてもらった。今回も取材費は全て自前で、年金暮らしにとってけっして楽ではなかったが、それ以上に素敵な人と各地で出会えてワクワクすることができた。
 この本に込めた想いは以下の2点である。
    被災地や慰霊地において苦難や悲しみを抱える人々に、生の音楽は前向きに生きる力を体内から湧き起こし、心の復興支援の輪をさらに拡げる。
   東日本大震災や坂本弁護士一家殺害事件を風化させることなく、支援や記憶の継続と同時に、格差社会の進行で愛とヒューマンが破壊されつつある各地において、歌声を含めた生の音楽を通して人と人のつながりを強めることが、地域づくりにも重要である。
さっそく読んでくれた詩人の新井竹子さん(81歳)からは、「この本は「民主主義とは何だ。これだ」を実践してみせている。みんながこの本を活用して、それぞれがとことんやりたいことを見つめてみよう」との過分な書評をいただいた。 
 3月11日には、北坂戸駅前のオルモホールで、「愛とヒューマンのコンサート」が昼夜2回開催となり、その場で本の紹介もさせてもらい、3月27日には坂本堤さんが埋められた新潟県名立で開く「名立・平和を願う日」の集会にも参加させてもらう。
 被災者を忘れないためにも、また同コンサートの支援のためにも、ぜひ1冊でも多く普及させたい。

2016-02-25

原発事故被害者の救済求め

 2月24日午後3時から参議院議員会館地下の会議室で、「原発事故被害者の救済を求める全国運動」の総会と、続く国会議員との討論会があり参加した。FoEJapanによる第三期全国運動キックオフ集会でもあり、避難の権利を求める全国避難者の会、原発事故被害者団体連絡会、放射能からこどもを守ろう関東ネット、さよなら原発1000万人アクションの鎌田慧さん、反貧困ネットの雨宮処凛さんなどと、それは多彩な顔ぶれでそれぞれの活動や課題などを出していて刺激になった。
 原発事故に責任のある行政や東電は、2017年3月に仮設住宅や見なし仮設への補助を打ち切り、2018年3月には保障金を切るとの方向性を出している。これでは子連れなどで故郷を離れざるをえない被災者は暮らしていくことができず、各地でいくつもの運動が立ち上がっている。それまで政治に直接関わったことのないごく普通のお母さんたちが、我が子のために仲間と一緒に立ち上がりつつある。被災者による新しい協同組合づくりの構想もあるようで、何かの応援もしたいものだ。
 集会は、①原発事故避難者の住宅支援の打ち切り撤回、②避難指示区域の早期解除方針の撤回と被害者への賠償の2018年3月打ち切り撤回、③福島県内外における健診の充実・拡大と医療費の減免を求め、第三期に入ることを確認した。
 5時過ぎからは、国会議員も含めた集会となり、社民党の福島みずほ、民主党の菅直人、維新の川田龍平、共産党の紙智子さんたちが参加し、議論はさらに熱くなった。原発事故は明らかに人災であるが、自然災害と同じ枠で補償をしているので限界があるとの指摘は考えさせられた。
 私の座っているテーブルの前に、鋭い目つきでメモや録音をしている年配の男性がいた。フォトジャーナリストとして著名な広河隆一さんである。世界中を駆け巡り、貧困や紛争などで弱者に寄り添った鋭い写真を撮り、写真月刊誌「DAYS JAPAN」などで発表しつつ、チェルノブイリ基金や福島の子どもの保養のための「沖縄・球美の里」の運営など、カメラマン以前に人間として行動している凄い人である。100名ほどの会場には、福島原発告訴団の武藤類子さんもいて、最後までじっと聞いていた。
 被災者に寄り添った復興支援本をこれからも書くつもりの私としても、こうした全体の動きもきちんと知り理解しなければならないと痛感した。

 

2016-02-23

日本の社会を根底から変えるTPP(環太平洋経済連携協定)

 22日にTPPフォーラム「日本の農業と食の安全、協同組合の行方」が衆議院第一議員会館であり、古巣の生協総研からの案内もあって参加した。内容はタイトルと少しずれていたが、サブにある「海外の専門家が指摘する影響と問題点」を2人から聞き、TPPの本質を知る上でたいへん役立った。
 これまでTPPは関税の撤廃であり、その関連で日本の農業がより疲弊するのではと私は心配していたが、農業問題は24ある作業部会の1つでしかない。メインは金融と投資にあって、一言で表現すればアメリカの一部の金持ちに役立つように、日本の社会制度を根本から変更することである。それは韓国でポイズン(毒)条項と表現している「投資家と国家間の紛争解決」(ISDS)条項において、投資家が期待した利益を投資先国の規制で得ることができなかったとき、投資先国を訴えることができることを見ても明らかである。その訴えを受けて決済するのは、アメリカの作った世界銀行の傘下にある国際投資紛争解決センターであり、投資家の利益を守ることを目的にしているから、TPP以前にもこの条項を入れた協定をアメリカと結び、これまでもカナダやエクアドルなどの政府が敗け、アメリカの投資家へ多額の賠償金を支払う判決をいくつも出しているから構造はわかる。
 このフォーラムは2時半から5時半までで、その後続いて「TPP交渉差止・違憲訴訟の会」による第3回口頭弁論の報告会となり、1時間ほど聞かせてもらった。この会は、TPPが①憲法25条の生存権、②憲法13条の幸福追求権、③憲法76条の司法主権、④憲法21条の知る権利に違反しているとして裁判を闘っている。
 こうしたTPPが締結になれば、日本の法律はもちろんのこと憲法までが大きく変質させられる。お金の役割りはもちろん認めるが、他人の犠牲によってさらに金儲けをする制度は、どう考えてもすべきでない。そんなにTPPが重大な問題をはらんでいると私は知らず、もっとTPPを注意しなければと痛感した。